メディアと情報について


野坂政司
『ILCS Letter 』No. 9(北大言語文化部、1999、3月)



 「メディア」という言葉を含む本や雑誌が読者に喚起するイメージはどのような幅を持っているのであろうか。

 「ニュー・メディア」とか「マルチ・メディア」という言葉は、「メディア」の対象を限定しているために、その言葉が意味するものについてある程度は共通の理解を得られていると一般的に思われているのかもしれない。しかし、決してそんなものではないということは、西垣通氏が岩波新書の『マルチメディア』でその定義を試みていることからも明らかである。

 言語文化部の活動を対外的に紹介するILCSレターに、この号の編集担当者である杉浦先生から、メディアについて書くように、と注文を受けて、この稿を書き始めたのであるが、ここでは、技術的なものでもなく、経済効果に直結するものでもなく、言語文化の研究においてメディアがどのように機能するのかということについて私見を述べてみたい。

 学内にハイネスが整備され、私は研究室からインターネットでの情報検索が容易にできる環境に恵まれているが、自宅からも同じように情報検索ができるようにしてあるので、日常的に、多彩なデータを検索しては、必要に応じてさまざまなWebサイトから欲しい情報を入手している。そのように日頃からインターネットを利用している経験から痛感するのは、現在のネットワークにおいて、入手できる情報(文献データ、音声データ、映像データ)には明確に限界があるということである。こう書くと、それは私の検索の仕方が悪いだけであって、実はインターネットからはどんな情報でも入手できるのだと忠告してくれる人が現れるかもしれない。

 具体的に述べてみよう。私はアメリカ合衆国の1950年代に登場したビート・ジェネレーションという詩人・作家たちについて研究しているが、彼らを描いた映画や、彼らに関連する映画を主題として取り上げている本(文化研究という範疇に入る研究書)を現在読んでいる。この本で扱われている映画には実験的な作品や自主制作の作品が多く、私はそのうちの一部しか見ていない。

 そこで、その分野の映画の情報を入手するためにインターネットで検索してみたのである。インターネットの利便性が高度に発揮されて、合衆国のカリフォルニア大バークレー校(以下、UCバークレーと略記)のメディア資料センターのサイトに実に詳細なビート・ジェネレーション関連の映画に関するページがあることがわかった。そのページに掲載されているこのメディア資料センター収蔵の映像フィルム・リストやその解説などは、収集範囲の広さや解説の具体性に関して極めて徹底していて、非常に有効なものである。また、その内容に関して検索や問い合わせがインターネットを通じて可能であることも有り難いことである。

 さて、私が問題にしたいのはその先にある。UCバークレーの学生・教職員はそのセンターで収蔵されている映像フィルムを閲覧できるのであるが、部外者は原則的にはサービスを受ける対象にはなっておらず、利用許可を申し込んで認められた場合に初めて閲覧できる。それもネットを通じてではなく、大学内のセンターの中で閲覧できるのである。

 大学は知の発信所すなわち知の蓄積を公開する機関であるに違いないが、その知が希少価値を持てば持つほどに、知的財産としての管理運営、そしてそれに逆説的に付随する情報の囲い込みが発生してくる。これは、情報技術の開発では解決される問題ではなく、情報の時代においてこれまでにない重要性を帯びて浮上してきた、個人の、そして組織・機関の、知的所有権を巡る社会的な大きな問題なのである。このような情報環境において、一方では公開情報の流通が支障無く推進されるような技術革新がさらに推進されていくであろうけれども、その傾向から離れたところで、アクセス形態を地域的に限定する種類の「閉じられた」情報も残存し続けることであろう。

 そのようなもう一つの例に触れておきたい。やはり、合衆国のサンフランシスコ州立大にポエトリー・センターがあり、毎週1回、詩人を招いて詩の朗読会を開催している。その朗読は、ビデオに録画されて、同大学のアメリカン・ポエトリー・アーカイブに保管されており、その映像資料は教育目的で利用されるときには他大学にも貸し出しを認めている。長年の間に蓄積された詩の朗読という文学パフォーマンスの映像情報は、現在ではこの種の基礎資料として非常に価値の高いものとなっている。

 1987年から1年間、客員研究員として私がサンフランシスコ州立大に滞在した時点で、その資料は特異な分野に関するもっとも充実した収集としてすでに認められていた。このポエトリー・センターの活動やアメリカン・ポエトリー・アーカイブに収蔵されているビデオ資料に関しても今はインターネットで概要は知ることができる。しかし、UCバークレーの場合と同じく、ここでも、肝心の映像データはインターネットではアクセスできないのである。

 私はここでインターネットでアクセスできない限界があることを嘆いているのではない。文化研究にとって高度な資料的意義を持つ映像データ、音声データが、大学の知的財産としてしっかりと保管されていることの重要性を指摘したいのである。各々の大学によって蓄積される情報の対象・分野が特化していることによって生じる相互の差異を有効に活かしつつ、既存のデータが、新しいメディアと連結されている知的環境を整備してきた研究者たちの努力と、それを大学組織のなかの部局として位置づけてきた関係者たちの認識に学ぶものがあると思うのである。


野坂政司@北海道大学Webサイト
野坂政司ホームページ