兵どもの夢の跡
守口城ミステリー
みちこ&敬 守口門真歴史ミステリー探索 ファイル15
「夏草やつわものどもの夢の跡(芭蕉)、夏草のイメージが鮮烈。好きな俳句のひとつなの」
「奥州平泉・・・・奥州藤原氏の栄枯盛衰。この言葉はいろんなところで使われているね。日本人の感性にぴったりするのかもしれない」
「人間の営みのはかなさ・・・ということなの。それにしても守口門真に平泉があるの」
「城を対象と考えて良いかもしれない。少し粗いけど、兵が存在した所に違いないし、守るべきなにものかは何らかの夢の存在を物語るものね」
「なるほど」
「文献に記載があって、戦いの記録もいくつかある。でも所在不明」
「なるほど。謎があるのね」
「城の名は守口城、森口城という表記もあるけど・・・14世紀から16世紀まで文献に登場する。16世紀の記述は織田信長と本願寺側との攻防に関連している。この戦いでは摂津河内など各地が戦いの舞台になっていて、守口にも織田側の砦が築かれている」
「ふうん」
「本願寺包囲網の一環だよね。戦いが終わったとき、守口城も役割を終えたというわけさ」
「ところで、どこにあったか検討はついているの」
「土居の守居神社あたりが候補地。“土居”、そして“西の丸”という地名の存在が根拠とされているんだ」
「なるほど」
「でも。地名に依拠した研究という点では同じなんだけど、近年になって守口宿を中心にした比較的広範囲を考える説が登場している」
「ふうん」
「しかし、地籍図などを利用した推定で、発掘調査などで裏づけられたものではないから、城がどこまでどのように広がっていたのかわからない」
「決め手があるわけじゃないんだ」
「うん。確かに数世紀にわたって存在したという記録があるわけだけど、守口城の実際の位置や範囲は時代によって変化していたと考えたほうが良いかもしれない。築造時の自然条件や築造目的などは同じじゃないた゜ろうからね。たとえば、淀川の流路や自然堤防などの変化は当然あるだろうし、城の存在を示す地名がいつの時代
を反映したものなのか判然としないだろうからね。地名のみで城の範囲を検証するには無理がある」
「なるほど」
「ところで、古代の倭国大乱の時代の高地性集落や中世の環濠集落など戦乱の時代ほど城や類似の築造物が目立つわけだけど、城の存在は、この地の政治的重要性を示しているよね。この城に依拠した人々が描いた夢はどんなものだったのだろうか・・・」
ちょっと休憩
@冒頭写真の難宗寺の景観。まるで城郭のようです。難宗寺の櫓が守口城の名残ではないか、という考えもあるようですが、大坂夏の陣に際して兵火にかかってい
ますから、守口城の遺構ということはないでしょう。また、明智光秀によって築かれた最後の守口城は目的からして恒久的な櫓を持つというものではなく、この城の遺構という点からも守口城の名残という可能性は乏しいように思われます。
A守口城の所在ということになると、固定した位置をついつい考えてしまいます。でも、淀川が生きて変化しているように、城も変化していたと考えるほうが、むしろ妥当です。所在、とりわけその範囲は流動的であったと考えたらどうでしょうか。このように考えると、地名に依拠した城の所在検証は決めてを欠いているのかもしれません。土居説、守口宿説のどちらかでなく、それぞれ妥当である可能性があります。