淀川紀行A  渡 辺     伝説の舞台を訪ねて

                            
                  
                                                  


  (1) 難波の岬渡の神


        『戊午年の春二月十一日、皇師東に逐む。じくろ相接し、まさに難波の岬に到らむとす。奔潮を有すること甚だ急なるに
       会う。名付けて浪速国
(なみはやのくに)となす。』(日本書紀)

        神武天皇の東征軍が大阪湾に至り、まさに上陸しようとする段階で、難波岬の大潮流に阻まれたという記述です。同じ
       ような場面が「古事記」に出てきます。新羅国の王子天日矛(アメノヒボコ)が逃げた妻を追って難波にやってきたところ、
       “渡の神”に妨害されて通ることができなかったという伝承です。
        「難波岬の大潮流の地点」と「渡の神がさえぎった地点」は同じ地理的要衝と考えられます。つまり、上町台地の北端、
       当時の半島の突端(岬)にあたります。交通の要衝であることが下図(梶山・市原原図)からもうかがえるでしょう。
       
                   印 大潮流、渡の神の存在地点       

        この要衝の管理掌握(港湾管理)の重要性もご理解いただけるでしょう。古事記の語る「渡の神」は対岸への渡しを含
       むこの要衝の管理を掌握した集団とその神の存在を示しているようです。
        現在の天満橋から天神橋にかけてのあたりが「渡辺」と称されていました。そして「渡辺党」という渡辺綱を始祖とする
       武士団の存在がよく知られています。この渡辺がこの問題の答と思われます。


            渡辺綱・駒つなぎの樟(くす) (都島区善源寺町1)
    
渡辺綱「駒つなぎの樟(淀川近くの都島区善源寺町所在)」は、源頼光の荘園である善源寺荘の管理を委託されていた渡
       辺綱がここに来るたびに馬をつないだ樟という伝承ですが、この地と渡辺綱のかかわりを考えると至極当然というこ
       とになるでしょう。
     
       
    (2) 摂津源氏

    
@ 源(多田)満仲、頼光父子

        
源満仲、頼光は父子二代にわたって摂関家につかえ深い信頼を得ていました。摂津国多田荘(多田銀山がある)を根
         拠地とし、父子二代にわたって摂津守に任じられてきました。
          源頼光の家来に四天王と称された渡辺綱、坂田公時、卜部季武、碓井貞光がいます。
          坂田公時はいうまでもなく足柄山の金太郎さんです。
          渡辺綱は嵯峨源氏“嵯峨天皇の流れくむ”の始祖で、摂津源氏の中心になって活躍します。御伽草子における活
         躍にも華々しいものがあります。
                   
        A 御伽草子

      
御伽草子における頼光主従の最も有名な活躍物語は、大江山の鬼(酒呑童子)退治でしよう。
          御伽草子「酒呑童子」は『むかしわが朝のことなるに、(中略) 世の中に不思議の事の出で来たり』という調子で始
         まります。
          物語は、美しい女性や財宝が奪われる事件の続発と阿部晴明により大江山の鬼の仕業ということが明らかにされ、
         源頼光と藤原保昌のふたりが朝命により鬼退治に出かけて活躍するというものです。
          また、渡辺綱の鬼退治伝承では、京都の羅生門で朝命により鬼の片腕を切ったところ、摂津の渡辺から親類の女
         性が訪ねてきて腕を取り戻して天空に逃げ去ったというものです。摂津の渡辺というところが面白いですね。
           このように京橋から都島界隈は、御伽草子の伝承とのかかわりが深い地域であり、摂津源氏の活躍舞台のひと
         つでもあります。
           
        
     (3) 鵺ぬえ 
          
         鵺塚(大阪港紋章)

          「鵺退治」は源頼光から数えて五代目の源頼政の活躍物語です。
          頼政が、朝廷を悩ましていたを退治後、川に流したところ、摂津源氏ゆかりのこの地に漂着したという伝承は、単
         なる偶然とは思えません。ひょっとしたら、源頼光、渡辺綱、源頼政と続く摂津源氏の武勇を語りつぐためのものなの
         かもしれません。
          あまたの武勇伝の主役である渡辺綱「駒つなぎの樟」の近くに源頼政の武勇伝承といえる「鵺塚」があり、そこから
         淀川をほんの少し下ると歴史ロマンを秘めた「渡辺」です。
          このあたりは、はるか平安の昔の武勇伝が語り継がれてきた、伝承とロマンの舞台です。
          また、淀川とのかかわりが強い歴史舞台でもあります。


          ※ 参考@   

            1153年(近衛天皇の仁平年間)、午前二時頃黒雲が御所(清涼殿)をおおい、天皇がうなされるという事態が続き
            朝廷をなやましていました。そこで弓の名人源頼政に怪異を退治するよう勅命が下り、頼政は参内して待機しま
           す。やがて黒雲がわき出でて御殿をおおい始めました。頼政が鋭く観察すると、雲の中に動くものがあり、弓で射
           ると、なにものかが悲鳴をあげて庭に落ちてきました。郎等の猪早太がかけよりとどめをさしましたが、頭はサル、
           体はタヌキ、尾はヘビ、手足はトラの奇怪なものが死んでいました。これがヌエです。ヌエの死骸はから舟に乗せ
           て流されることになりました。
            頼政は、近衛天皇から剣を賜り、武勇を賞讃されました。

            ◆ 宇治平等院の最勝院に頼政の墓があります。 
            ◆ 鵺を主役にした大阪港の紋章の存在も面白い。
            
          ※ 参考A 摂津源氏系図  源頼光・・・頼国・・・頼綱・・・仲政・・・頼政
                                


     (4) ロマンを秘めた伝説舞台
       
                                                     
          難波岬、渡の神、そして渡辺党の根拠地、武勇伝承地、京橋から都島にかけての地域は、歴史ロマンを秘めた面白
         い地域です。
          昔からこどもたちを楽しませてきました御伽草子の有力な舞台でもあります。
          渡辺津は、その後も交通の要衝としての役割を維持し、幕末維新に際しても幾多のロマンを生み出しています。
          京街道は、この伝説舞台を通りぬけて京に向かいます。
            


         
   

         ちょっと休憩

           @  ロマンチック分岐点「京橋」に近い都島区の淀川関連歴史を訪ねました。
               阿部晴明や藤原道長、源頼光、そして渡辺綱、まさに平安ロマンの舞台という感じですね。 
               そして、源頼光と四天王、源頼政、摂津源氏の武勇伝の舞台でもあります。

           A  渡辺津では、古代「防人」のことにもふれたかったのですが、平安に焦点をしぼりました。防人につい
              てはプロローグ「夕陽丘」をご覧ください。 

           B  日本書紀を横書きしてしまいました。ご了解ください。

           C  近年まで大阪市中央区に渡辺町が存在しました。  

          
          交通・観察のポイント

         ● 渡辺津  
              京阪線、地下鉄線 天満橋駅すぐ
         ● 渡辺綱 駒つなぎの樟 都島区善源寺町1
              地下鉄線 都島駅歩4分
         ● 鵺塚 大阪市都島区都島本通3
              地下鉄線都島駅歩2分

         ※ 「渡辺津」から淀川を上流にさかのぼり、「渡辺綱駒つなぎの楠」、「鵺塚」、そして「京街道ロマンチック分
           岐点」、「京橋駅」というコースも適当な散策コースでしょう。藤田美術館 造幣博物館 コヤノ美術館 藤田
           邸跡公園など散策スポットも楽しい。