第5話   船 揃 え

                          
                      朝日神明社は「逆櫓社(さかろのやしろ)」の別名を持っています。
                      現在は移転していますが、かってはこの地(大阪市中央区神崎町)に所在。      




     1 源氏水軍の編成と渡辺党
      

          
渡辺津
       

 
  一の谷の戦い後、平氏は四国屋島に内裏を設け拠点とし、また長門彦島を拠点にした平知盛指揮の別働隊が編成され、平氏は引き続き瀬戸内海制海権を掌握していました。
  範頼指揮下の源氏軍は山陽道を西へ向かい平知盛軍と対峙していましたが、のびきった兵站線を痛撃されるなど、大きなダメージを受けていました。

  この局面を打開するために、頼朝は再び義経を起用します。義経の再登場は、源氏軍による瀬戸内海制海権確立という戦略的課題を担わされていたようです。

  瀬戸内海の支配を欠いて、平家軍との対決、あるいは西国支配の展開はありえない、のではないかという問題が戦略的課題としてクローズアップされるのは必然でしたでしょう。戦いの推移も水軍の問題を提起していますが、頼朝の郎等として渡辺党の遠藤家国(そして文覚上人)がこの課題におけるブレーン的役割を果たした可能性も十分考えられるでしょう。

  源氏水軍の編成という戦略的課題は、かくして義経にたくされ、屋島進攻の義経軍の本陣が渡辺津に設けられていたことが示すように、摂津渡辺党に深く依拠して進められたものと推測されます。屋島進攻の水軍は、渡辺津で組織編成(船揃え)され、進発しています。
 



    2 運命の序曲

        
    


 
          謡曲テキスト

    

 
  一の谷において、軍としての平家は無残な敗退でした。これを背景にして、平忠度、そして敦盛のエピソードが感動をもって語りつがれる(謡曲のように)ようになります。

  しかし、一の谷の戦いのポイントは、平家の軍としての無残な敗退のあり方にありました。
  水軍の機動力、つまり陸戦との連携のあり方を見失っているために、船が退避の手段として意識され、背水の陣という言葉の意味では水軍が強力であるからこそ、逆にマイナスの役割を果たしたようです。
 強力な水軍の保持とおそらく精神的依拠が逆説的に働いた局面と言い換えることができるでしょう。

  一の谷の戦いのもうひとつのポイントは、義経に平家のこの弱点がはっきり見えたことでしょう。
  平家軍崩壊のきっかけをつくり、戦いの主導権を掌握しえた義経だからこそ、 優位がマイナスに転化するという戦いの皮肉ともいえる、平家敗退の本質を把握しえたといるかもしれません。

  義経のこの洞察はその後の義経の行動にはっきり投影されています。このような意味で、平家軍にとって一の谷の敗退は運命の序曲ともいえる深刻なものでしたが、その後の推移をみると、平家の人々には見えていないようです。

  この序曲は、義経にとっても、近未来の暗転を告げるものでした。一の谷の完勝により義経の政治的位置が大きく変わり、周知のように頼朝との関係を悪化させ、関係改善の見通しを欠いた状態で、軍監梶原景時との深刻な確執を引き起こし、関係悪化の道をひたすら進むことになってしまいます。

  一の谷こそ、平家と義経の深刻な未来を告げる運命の序曲でした。
 



  3  逆櫓論争に投影する一の谷平家敗退  

    

        
               
逆櫓社(朝日神明社)跡              近世の逆櫓社


  
3−@ 逆櫓論争とは


 逆櫓論争とはいったいなんであったのか。悪役梶原景時が劇的に登場する有名なエピソードです。
 
 ○ まず、時と場を考えてみましょう。

  ◇ 時・・・・・ 水軍の編成がなり、屋島出陣をひかえた軍議の場。

   「渡邊・神崎両所にて、この日ごろそろえける舟ども、ともづなすでにとかんとす。」 
                                        (平家物語巻第11 逆櫓)

  ◇ 場・・・・・ 渡辺党の拠点渡辺津。

   『渡邊には大名小名よりあひて、「そもそもふないくさの様はいまだ調練せず。いかがあるべき」と評定す。』                                      (平家物語巻第11 逆櫓)

   ◇ 背景・・・ 山陽道で窮地にある範頼軍。平家軍の再建が進展。
 
 ○ 論争の経過
 
  逆櫓・・・梶原景時が提案したもので、兵船の艫舳に櫓を取り付け、進むだけでなく、退きやすくもしようという操船能力向上の技術的工夫。戦い方の工夫という戦術レベルの提案。
  義経は、戦いにおける心理的視点から、逆櫓の存在がマイナスに働きかねないことを指摘して、逆櫓の取り付けを批判。

  「いくさといふものはひとひきもひかじとおもふだにも、あはひあしければひくはつねの習ひなり。」 
                                       
(平家物語巻第11 逆櫓)

  「いくさでは、少しも退くまいと思っていても、形勢が不利になれば退くのが人情。」
  つまり、逆櫓のように逃げ足が整っていたら、すぐ逃げたくなりかねないというのが義経の論点。

      
○ 問題点

  《1》 景時の提案は、軍船改装提案であり、改装工事に時間を要するなど、スケジュールの変更を迫るもので、局面を考慮しないという点では不適切なものといえるでしょう。なぜならば、戦局全体から見れば、次のことが急務の課題でした。

  @ 平家に時間を与えない(建て直しを急ぎ、一部では積極的攻勢に出ているなど回復が進展)
  A 第二戦線を形成して範頼軍を一刻もはやくサポートする(窮地にある) 

  《2》梶原景時の提案は水軍の戦略的運用の視点を欠いた単なる戦い方についての工夫

  しかし、論争は、大将のあり方、武者としての戦いの心構えの問題など踏み込むべきでない次元にまで進み、険悪な状況を呈してしまいます。確執が劇的深化段階に入った証しになり、悪役梶原景時登場場面になってしまいます。このような段階では、軍議の席とはいえ、他のものが論争に加わることは不可能でしたでしょう。
 



     3−A 逆櫓論争に投影する一の谷平家敗退


  優位のマイナスへの転化

  「背水の陣」はこの逆です。
  義経の目には、奇襲攻撃を受けて崩壊し、先を争って沖の軍船に逃げる平家の武者たちの戦いぶりが目に焼きついたことでしょう。強力な水軍の存在が、ピンチに置かれた局面で、徹底抗戦よりも沖の水軍を頼ることになったといえるでしょう。
  
  梶原景時の逆櫓提案に対して、ただひたすら攻めて勝つことを義経の本懐と表明する義経の心には平家の武者のこの戦い振りが投影されていた、と私には思われます。

  マイナスへの転化の背景

  一の谷において平家水軍は積極的に運用されなかったようです。水軍は強力な機動力としての運用が可能です。平知盛が範頼軍の兵站線に水軍を活用して攻勢をかけたようにです。一の谷においては、陸戦の結果を受身に待つだけの運用でした。
 優れた水軍の保持運用は、平家にとって、源氏に対する局部的優位でした。これを全体に反映させるという選択は、この場合、忘れられてしまいました。積極的運用を欠いた優位は、いとも簡単にマイナスに転化したようです。

  積極的に運用してこそ、水軍の力を引き出すことができるということ、優位はマイナスの背景になりかねない、という教訓は、逆櫓という戦術的次元の工夫にこだわる梶原景時に対して、戦う武者の心理的弱点を指摘する義経の言葉に示されているようです。



   4 屋島の戦い       


    

 強行された嵐の船出

  逆櫓論争後、義経は荒天の中、屋島に向けて水軍を進攻させます。進攻することができたのは極少数でした。しかし、格段に速く四国に到着という、水軍の機動力を典型的に示した運用でした。

  この結果、義経軍の上陸は、奇襲攻撃となり、平家軍は、再び海上に逃れます。
  このあたり、平家軍は、一の谷から何も学ばなかった、ということを証明することになってしまいます。
  この時は、海上に逃れた後、源氏軍が少ないのに気がついて、やおら戦いを挑むというお粗末です。那須与一のエピソードなどは、この局面におけるものです。反攻に出たものの、いったん態勢を崩して海上に逃げた後では、戦意が盛り上がるわけがありません。
  退くまいと思っていても、不利な状態と逃げる条件があれば、人間はさっさと退いてしまうものだ、という義経の指摘を、平氏軍が鮮やかに実証してみせたというところです。

  平氏は、結局、遠征中の軍勢を遺棄して、長門彦島の平知盛軍を頼って四国を放棄してしまいます。しかし、この放棄は、四国の放棄ではなく、瀬戸内海制海権の放棄、つまり平氏の持つ唯一の戦略的優勢を失うことでした。 このあたり、義経のよみの通り、と私には思われます。屋島の戦いの結果は、梶原景時との論争に対する解答でもありました。また、義経は、水軍の編成によって、平氏軍の持つ制戸内海制海権を奪い、源氏の総合的優位という戦略的目標を完遂することになるのです。この歴史的転換に果たした渡辺党の役割は小さくないようです。
 




   5 そして、壇ノ浦


                 
   


  屋島において、平家は、局地的敗北にとどまらない致命的打撃を受けることになります。
  瀬戸内海の制海権の確保という優位は、運用次第で大きな可能性を有する戦略的優位でもありました。先に述べましたが、屋島の敗北はこの優位の瓦解にほかなりませんでした。逆櫓などという戦術的レベルの問題とは次元の異なる勝利の果実を義経は見事に手に入れたということになります。そして、これが、一の谷における勝利と深く結びついていますように、義経の軍略的才能を見事に示しています。
 余談ですが、頼朝の恐れたものは、おそらくこの次元の義経の力でしたでしょう。 
 
  屋島で敗退した平家軍は、依拠するべき大地を失い、海上で、最後の戦いにのぞまざるをえなくなりました。結果は周知の通りです。




   6 局面の暗転


  平氏滅亡の幕がおりた瞬間、舞台は暗転して、頼朝との確執が再び舞台に登場します。
  一の谷を運命の序曲とするならば、渡辺津及び屋島はクライマックス、そして壇ノ浦は第一場のフィナーレです。

  暗転した第二場、京都に舞台を移します。
  次回、「静かに 静かに 心の底に 刻み込め」 では、渡辺党のある武者の生き様に焦点をあて舞台の進展を見守ることにしましょう。


                                                   2006年1月5日公開
                     


      義経と渡辺党のかかわりを源氏水軍創設とのかかわりから考えてみました。

 
  源氏水軍草創期物語の主役は、源義経と渡辺党と私たちには思われます。初出陣、屋島の戦いは平氏の制海能力を瓦解させることで、源平争乱の転換点をつくりだしました。


  課題 大阪市福島区に逆櫓松が存在。近日取材予定。(時間不足でした)
 
 


      交通

    1 朝日神明社跡  中央区神崎町 南大江公園内

      京阪線、地下鉄線 天満橋駅歩10分