第4話 源頼政の挙兵 頼政の旗A



                       
                                時代の激流
   


      1 進む統治疲労

 
  平治の乱以後、平氏の権力は拡大するばかりでした。 しかし、その裏で、専横ともいうべき動きが目立つように統治疲労が進んでいました。つまり、内的弱体化が進行していました。
  たとえば、平宗盛による源仲綱(源頼政の長男)に対する理不尽な振る舞い、これが源頼政の挙兵の原因になったという指摘もなされていますが、これは平氏の強さの表れでなく、むしろ弱さの表れというべき局面です。かりに、これが頼政挙兵の契機になったとするならば、理不尽な侮辱を受けたことに対する報復というべきものではなく、むしろ平氏の弱さにたいする認識と情勢判断に結びついていると考えるべきでしょう。平治の乱においても極めてシビアな判断を行った頼政と渡辺党ですから・・・


                  


  肥大化する権力と進行する内的疲弊。見事な台頭の裏で退潮の影がしだいに強さを増していました。見事な紅葉が、じきに葉を落とす序曲のように・・・ 

 

      

  源仲綱に加えられた侮辱とは

  源仲綱の愛馬「木の下」を平宗盛が欲しがり、仲綱が素直に従わなかったことを恨みに思った宗盛は、腹いせに馬の名前を「仲綱」とかえ焼印を押すなどの嫌がらせを行いました。



     2 頼政の決断



  治承3年8月、平重盛死去。平氏の専横は加速し、後白河法皇の鳥羽殿(鳥羽離宮)幽閉。高倉天皇の退位、安徳天皇の即位などに進みます。

  このような局面で平氏打倒の決断がなされます。
  源頼政は平氏打倒の決意を胸に後白河法皇の皇子以仁王を三条高倉に訪ねます。平氏打倒のための決起を促す「令旨(りょうじ)」の発令を願うためでした。数日後、以仁王が平氏打倒を決断し、さっそく、諸国の源氏に令旨を届ける役割をになった源行家が旅立ちます。
   
  しかし、この動きは、平氏に察知され、決起軍側は兵力を集める時間が十分でなく、寡兵をもって平氏軍と対峙せざるをえませんでした。決戦の舞台になったのが宇治でした。

  両軍は、宇治川を挟んで対峙。矢あわせ、そして宇治橋における戦いなどを経て、やがて平氏の大軍は宇治川渡河に成功し、源氏軍がたてこもる宇治平等院に攻め寄せます。


              源氏平氏

  ※ 源氏側が橋板を一部取り除き橋を渡ることができないようにしたために、橋合戦は独特なものになります。平家物語には、いくつかのエピソードが記されています。




     3 渡辺競(きおう)




  頼政の郎党渡辺党の「競」は弓の名手として武名高い武者でした。頼政軍の京都退出に遅れましたが、平宗盛の所有する名馬「なんりょう」を奪って決起軍に駆けつけます。
  「なんりょう」は源仲綱に進呈されましたが、仲綱はこれに「昔なんりょう 今平宗盛入道」の焼印を押して宗盛の元に送り返します。宗盛の怒りはすさまじく、平家物語には、『三井寺に寄せたらんには、いかにもして、まず競めをいけどりにせよ。鋸(のこぎり)で首きらん』といって怒り狂ったようすが記されています。「木の下」に対する返礼であることはいうまでもないでしょう。

  源(渡辺)競奮戦の後、平等院において自害。

  源仲綱、平等院釣殿において自害。

      




    4 渡辺(とのう)



      


  すさまじい白兵戦の中で、源頼政も膝に矢を射られ負傷。
  仲綱自刃の釣殿に隣接した場を最後の地として定め、郎党「渡辺唱」に「首をうつ」ように命じました。しかし、渡辺唱は、生きている主をうつことはできない、という。優しいこころにうたれた頼政が、歌を詠み、太刀を腹に突き立て自害、唱は首を打ち落とし宇治川に沈めたというエピソードが記されています。頼政主従の絆が伺われます。

  三位入道は、渡辺長七唱を召して、「わが首うて」と宣ひければ、主のいけくびうたんことのかなしさに、涙をはらはらとながいて、「仕ッともおぼえ候はず。御自害候ひて、其後こそ給はり候はめ」と申しければ、「まことにも」とて西にむかひ十念となへ、最後の詞ぞあはれなる。
 
  < 埋木のはな咲くこともなかりしに  身のなるはてぞかなしかりける > 』


       頼政自刃の地「扇の芝」


  決戦の前に頼政が奈良興福寺に向けて落ち延びさせた以仁王も、山城木津で平家軍に捕捉され、不運な最後を遂げることになります。
 

         源頼政の墓(平等院最勝院前庭)




    5 頼政の旗
  


      


  源頼政と以仁王の軍は、宇治で敗退しましたが、頼政と以仁王の掲げた平氏打倒の旗は、各地の源氏を励まし、各地で源氏軍の決起が続きます。

  源頼朝東国で挙兵、 木曾義仲北国で挙兵。

    

  宇治における戦いと頼政の掲げた旗は、新しい歴史的局面を切り開き、激動の時代に活躍する人々を歴史舞台に登上させることになります。源義経もそのひとりでした。




    6 文覚の活躍
       


      


  伊豆国蛭ヶ小島。源頼朝の配流地。
  この地の近くに、後白河法皇によって流されていたのが、文覚上人でした。いわずとしれた渡辺党の遠藤武者盛遠です。
  挙兵の決断をしかねる頼朝に、文覚上人はふたつのことを提示します。ひとつは、頼朝の父、源義朝のしゃれこうべ、もうひとつは、平家追討の院宣でした。また、甥の遠藤家国を頼朝の郎党として手配しています。

  挙兵した頼朝の軍に関東各地の武者が到来し、一大勢力になっていきます。
  頼朝軍は平家軍と富士川で対峙し、戦わずに勝利するという経過は周知の通りです。やがて、奥州から源義経も参じ、源範頼とともに西国に向けて出陣することになりますが、摂津渡辺橋の出会いと京都五条橋の出会いが交錯、壇ノ浦にいたる激動の局面が始まります。この局面と渡辺党のかかわりは決して浅くなく、また、幅のあるものになっています。

  しかし、宇治川は、その前に木曾義仲軍と鎌倉軍との戦いの場となります。宇治川先陣争いの碑はその際のエピソードを語っています。詳しくは平家物語をご覧ください。

       

 

                                      2005年12月13日
  
      
  とうとうNHK大河ドラマが終わりました。マイペースで参りますので、ゆっくりお付き合いください。