第6話
  静かに 静かに 心の底に 刻み込め

                      

                    
                                     官者殿社
  京都市下京区四条寺町東入ル南側


       1 堀川夜討ち
                     


                  「六条堀川館」ゆかりの左女牛井跡

                 


  八坂神社の末社。小さな社(やしろ)には冠者殿社の別名があります。土佐坊昌俊(堀川館夜討ちの指揮官)関連の社でもあります。
  毎年、10月20日は「誓文払いの日」で商人の参詣でにぎわうそうです。「熊野詣でのために上洛した」と義経に誓いをたてた舌が渇かないうちに裏切るという昌俊が、死に臨んで「忠義のために偽りの誓いをしたものを救わん」と願掛けしたということから、駆け引きなどでやむをえず嘘をつくはめになった商人の罪を払うというように展開したようです。

  頼朝の指示を受けた土佐坊指揮の60余騎による堀川夜討ちは昌俊処刑の結果で終わり、義経と頼朝の確執は決定的段階に入りました。

      「堀川夜討ち」図部分 絵本源平盛衰記(明治19年)


  義経と叔父の行家は、頼朝追討の宣旨を受けましたが、都落ちを余儀なくされ、摂津大物浦から海路西国(九州)に向けて出立することになります。

 




       2 渡辺緩の選択

          
      


九郎判官義経、右大将の勘気の間、都を落て西国の方へ行ける時、渡辺の緩源次馬尤番のもとによりて、事のよしをいひければ、つがふ、あはれみて見おくりけり。
 (古今著聞集) 
  

                  

  
  義経に従った武者のひとりに渡辺緩がいました。

  緩は途中、摂津渡辺の渡辺番の館に立ち寄り、別れを告げています。語るべきこともない・・・静かな別れの場面を私は想像しています。

  緩の選択の意味するところは互いに自明のことでした・・・旅立つものの静かな誇りが遠ざかる背に見えていたことでしょう。 
 
  義経の船団は嵐に遭遇し、西国での再起は破綻し、緩の運命も定かではありませんでした。しかし、緩の選択は、番の心の底に、静かに、静かに、刻み込まれていました。

 


                
      3  渡辺番を支えたもの・・・ 


 「後に其事きこえて、番、関東へめされて、梶原にあづけられにけり。十二年までおかれたりけるに、番、毎日に本鳥を取て、今日やきられんずらむとぞ待ちける。」
                                       (古今著聞集)


                         


  渡辺番が頼朝の命で後に捕縛された理由は、渡辺緩が義経に従い西国に出立するのを何もせず見送ったことにありました。

  番は、鎌倉の追求に堂々対峙し、その姿勢を貫きとおしたようです。したがって、頼朝の奥州藤原氏征討に従って手柄をたてたという理由で赦免されるまで、拘束は長期にわたりました。

  この間、頼朝の側近、天野遠景が縁戚(番の妹と婚姻)になり、番の赦免のために一肌脱ごうとしましたが、番はそのような動きを拒否したようです。頼朝の執念に、自己と緩の誇りを対峙させ退かないという番の覚悟を語っていると私には思われます。
 
  「おのこの身は、いついかになるべしとても、人わろかるべき事はなし」とて、物ともせざりけり。
    
 



※ 頼朝の執念・・・源義高(義仲嫡子)殺害、甲斐源氏「一条忠頼」殺害、源義経、源行家、さらに源範頼殺害と頼朝が源氏一族を滅ぼしていく過程には鬼気迫るものがあります。
 
  1184年4月26日源義高殺害、6月16日甲斐源氏一条忠頼殺害というように、計画性を推察させる動きです。天野遠景は頼朝の側近として小山田有重とともに一条忠頼殺害を担当していました。渡辺番もこのあたりの事情は当然承知していたでしょう。また、梶原景時に預けられるという状況も逆櫓論争の経過を彷彿させるもので、義経と渡辺党の関係に対する疑念が背景にある問題なのかもしれません。
 



      4  渡辺番の戦歴
   
           


  番は父とともに平氏につかえ、やがて義経の旗下に入った経歴を持ちます(新修大阪市史第2巻)

  平氏滅亡に際しては、建礼門院などの救出にかかわり、やがて義経の危機と緩との別れ、さらに自らの捕縛というように、人の世の変転をつぶさに体験することになりました。   


        
      西国に落ちのびようとする義経一行を妨害する平氏の怨霊(絵本源平盛衰記)


  古今著聞集「渡辺番所縁による赦免を拒否の事」では、番を「無双の手ききにて侍りけり」と記し、武勇優れた武者としてのエピソードを書きとどめています。奥州攻めにおける活躍により、赦免をかちとりますが、奥州攻めは源頼朝による支配体制の確立における画期となるもので、攻撃に加わることで番に限らず多くの者が許されているように、赦免は政治的色彩の濃厚な措置でした。
  
  捕縛が政治であるならば、赦免もまた政治でした。しかし、奥州攻め参加による赦免は、武功を建前にしたもので武者の誇りが許容するものでした。

  所縁による赦免を政治的取引の一種と見るならば、番の拒否は、武者の誇りをかけた頼朝の政治に対する戦いという性格を有していたのかもしれません。

                                       2006・2・17
                      

         渡辺番の生き方が鮮烈ですね。私の好きな義経関連エピソードです。
            「絵本源平盛衰記」知人からいただいたものです。記してお礼申し上げます。

 交通 
  ○冠者殿社  阪急線四条河原町駅 京阪線四条駅 歩
  ○渡辺津    京阪線・地下鉄線 天満橋駅歩