第1話@ 恋塚寺

       京都市伏見区下鳥羽に異色の寺院「恋塚寺」があります。
       平治の頃、都を震撼させた袈裟御前の悲劇ゆかりの寺です。正式名称は「利剣山 恋塚寺」。



                    恋塚寺
       
   
   1 恋 塚 

      恋塚寺の一隅にあります恋塚は非業の死を遂げた「袈裟御前」の菩提をとむらうために建てられたものです。 

          恋塚   

            
   2 遠藤武者盛遠

  摂津渡辺党に属する北面の武士のひとりです。
  後年の文覚(もんがく)上人です。

  平安から鎌倉、武家の支配が始まろうとする変革の時代に大変強い存在感を示した人物のひとりです。
  言い換えれば、鎌倉時代の誕生、武家の歴史的台頭にユニークな役割でかかわる存在です。
  たとえば、伊豆に流された源頼朝に平家打倒に立ち上がることを勧めた話。この時、頼朝の父、源義朝のしゃれこうべを持参したというように、大変ユニークな行動に彩られています。
  エピソードの大半が文覚上人としてのものですが、恋塚寺をめぐる物語の発端は、文覚上人がまだ北面の武士のひとりであった時代にあり、文覚上人誕生の契機になります。
       

   
          
    

  上写真は、恋塚寺至近の鴨川堤と近年川底で発見された大石です。川底の大石と17世紀のニ条城築造の関連が指摘され、このあたりが旧鳥羽港の所在地でもあり、交通運輸のポイントであったことを物語ります。「宇治拾遺物語」にも賀茂川の下流に船をつけ、そこからは荷を「車」で運んだという話があります。「賀茂川の下流」とは「下鳥羽」と考えられています。
  盛遠の属する渡辺党は、摂津渡辺を拠点に水運を支配する武士団でした。恋塚寺の立地(水運の要地)がこの地(鳥羽)と渡辺党との強い関係を示している、と私には思われます。

  さて、都を震撼させた事件は、盛遠が渡辺渡(同じく渡辺党所属)の妻袈裟御前を好きになってしまったことから始まります。諦めきれない盛遠は、袈裟御前に想いを訴え、ある日渡辺渡を討ち果たそうとしますが、盛遠が討ち取ることになったのは袈裟御前でした。
  盛遠の横恋慕は衝撃の結末を迎えることになりました。
      
  出家した盛遠と時代の動きをこれから追っていくことになります。
 


     
      
                                                       2005年4月22日
        
      
     ● お知らせ

        「利剣山 恋塚寺」 京都市伏見区下鳥羽城ノ越132 
        現在、本堂、庫裏などの再建工事中です。完成が待たれます。
             
     ● ちょっと休憩  

      

     @ 渡辺党を手がかりに義経の時代の歴史散策に出かけます。恋塚寺は変革期に異色で深く関ると私たち
      は考えました。第1話を平治物語にする予定でしたが、これからの展開を考えて恋塚寺からのスタートに変
      更しました。

       渡辺党にはふたつの系統があり、ひとつは源頼光四天王のひとり渡辺のように渡辺姓と一字の名を
      持つ一族であり、袈裟御前の夫渡辺も渡辺一族です。もうひとつが盛遠のように遠藤姓の一族でした。
      源平争乱にさまざまな形でこれら渡辺党の面々がかかわります。

       北面の武士・・・院の御所の北面に警護の武士の詰め所が置かれ、そこに詰める武士を北面の武士とい
       いました。

     A 鴨川に沿ってはしる道が大坂(鳥羽)街道です。幕末の鳥羽伏見の戦いでは、旧幕府軍が上鳥羽の戦い
      で破れ敗走した道です。<幕末維新ミュージアム・京街道を往くをご参照ください>
       
         

     
     @ 袈裟御前の果断の決意。武者の世をつくりだそうとする時代の反映でしょうか。自らを律する峻烈な生き方
       に感銘を覚えます。事件の詳細はご自分でお調べください。
        恋塚寺には袈裟御前、渡辺渡、文覚上人の木像。袈裟御前ゆかりの手鏡、長刀などが伝わるといいます。
     
     A 恋塚寺から北の地点にもうひとつ恋塚寺が所在。ふたつの恋塚寺の存在は興味深いですね。
       


    ● 交 通
     
      京阪線淀駅下車桂川左岸に沿って歩45分 丹波橋駅歩25分
      バス便あり<調べ中>