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戦争中、みんな歯をくいしばって生きてきた。日支戦争のころ、戦地の
とら正さんに慰問文を出した返事の中に「突撃を前に野ぐその身軽かな」とうたが書いてあった。
一度除隊になり、すぐまた出征された。男の子2人女の子
1人と年老いた両親と妻が残された。
晩秋のどしゃ降りの雨の日、白い布に包まれた木箱に納まった
遺骨が、おっかさの首に下げられて帰って来た。
鎮守様の奥の格子に真黒な髪の毛の束が下がっていた
のを見たことがあった。主人の無事を祈願して奉納した、このおっかさの髪の毛だったそうだ。
とら正さんは、本当に優秀な青年で、3児の父であり、一家の大黒柱だったのに、突撃を前に、
どんなことを想っていたのだろうか。 戦争は憎い・・と思う
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昭和17年の暮れの頃、主人は第二補充兵だったので、いつ招集
されるかわからない。赤紙がきたら、その時持たせる武運を祈り込んだ千人針の腹巻を作るため、
私も悲愴な思いで人通りの多い大阪駅の前に立った。
その頃はもう布も配給で線布が無く、ステーブル
ファイバー(スフ)という生地で、しまりのない白生地だった。幸いこの千人針は使うことなく、後に
枕カバーにしたけど、朝ホッペタに結び玉の跡が並んでおかしかった。ねんねこのめいせんの生地にも
ビロードの衿にもスフが入っていた。
昭和7・8年頃、清津の酒倉の先代のおっ母さまが、私が
取りあげっ子だからと東京土産にけんちゅうの真赤な鹿の子の帯揚げをいただいた。大切に使ったけど
物がなくなったため惜しみながらもねんねこのひもにしてしまった。あの時の自分の周りのの人たちも
みんな不安で悲愴な表情が、今も目に焼き付いている。
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初孫、特に長男が生まれた時は親戚を招いて盛大に祝う。
その時は
取り上げ婆さん(生まれる時にお産の手伝いをした人)が一番のお客様。
取りあげっ子
(生まれた子)は命の恩人として一生お付き合いをする。取り上げ婆さんもまた、自分の子供
と同じように可愛がったもんだ。
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重いものは何でも馬と人の背中で運ばねばならなかった。
晩方、山へ迎えに行く子守りの背中で赤ん坊は泣く。
「かっか、泣いてしょうがねお」
「腹減ったんせれ 早くけえろうぜ、あんにゃも稲そってくれるてんでそう ほら
ごっことようべ」
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布施明が歌っている「真綿色したシクラメンほど・・・」と、
とてもいい気分で唄っている。宅の子に尋ねてみると「色は想像するが、何に使ったか知らない」
と言う。
私は冬身に付ける一番暖かいもの物として想い出す。子供の時風邪をひいて「喉が痛い・
咳が出る」と言うと、真綿を首巻にしてもらい暖かかった。蚕を飼っても大量に出来るものでは
ないから貴重な物だったけど、戦争中、北支満州方面に行っている兵隊の息子達に防寒と防弾に
なると言ってチョッキに作って送った。本当に弾が通らなかったかどうか聞いたことはなかったが・・・
皇后陛下から上等兵以上の兵隊に桐箱に入れられて送られたという真綿を見たことがあったような
気がする。私の母は真綿むきが上手で、チョッキも随分よそのを作ってあげていた。手をふやかして
せっせと真綿むきをしていた。
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男の子達は魚捕りが上手だったけど、私ら女の子はうまくなかった。
それでもメダカ・カチコウを捕って楽しんだ。
メダカの大群を追う。2人で手ぬぐいの両端を持ち
片方を川底につけて川上に向かってすくう。
メダカならいくらでも捕れた。小さなカチコウがツクツク、ツクツク
と透き通った小砂利の上を泳ぐ姿はかわいい。
いつも同じころ通る新家のツアエがソイカゴに鍬を入れ
手に鎌を持ち、素足にわらじを履いて土橋の上に上がり、歯茎を出してニコニコ笑いながら「ネラでっけ
へっぴ(蛇)がそっちへ行ったぞ」とおどかす。
1年に1・2回村中が出てザッコ干しをして、子供たち
みんなで楽しむ、あれは良かったなー