どうしてだろう、どうして今までこの本は読まないで来たのだろう。

〜 「ハードラック・ウーマン」栗本薫著 (講談社文庫) 〜



空を、飛んだ事はありますか?
ナウシカのオープニングは覚えていますか?

あの、足の下になにもない、岸を離れる瞬間、身体が風に支えられふわっと浮く、足下に小さく広がる集落、下に流れる雲、青い空。
飛ぶ、..空を飛ぶ、両手拡げて、上へ、上へ。
遥か視界の果てに見える丸い地平線、人は、飛べるのだ、機械を使わなくても翼を持たなくても。
It's Old Blackmagic、黒魔術の呪文の代りにピアノの早いパッセージを、スネアのロールを、ややこしいフレーズは要らない、ロングトーンの果てに合致点が待つ、全員が目指す一つの大きな波。

翼を神は人に与えなかった。
なぜなら人は飛ぶことができるから。



...いやぁきましたよ、これ。
そういえばチケット制のライブハウスに久し振りに、それも客(くーきゃ)で入るなんて事がありましてね、十数年来忘れていたロックのあの雰囲気が身辺に帰って来てたところだったんですが、でもたまたま読む気になっただけのこの古い(初出は87年)話がやはりロックだったなんて意識もしてませんでした..しかし読みすすめるうち、来ましたよ、これはロックなんだ、って。
アタシもあの世代の申し子ですから、ハードロックの洗礼は受けてますよ、通勤の乗り換え駅の構内の売店であの「ハードラック・ウーマン」のイントロを聞くと思わず立ち止まってたりしますから。
そうして、著者のフィールドがロックであるにせよ、4つ(ジャズ)だってきっとクラシックだって、いや、音楽でなくてさえ、これは言われなくたって、そうなんです。

栗本薫というのは言い尽くされた言葉ですが、天才、それも異分野同士を翻訳し共有できる天才です。
音でしか表現できなかったものを言葉で書ける、すごいものだと思います。
この「ハードラック・ウーマン」の後半、主人公石森信が旭川の街で心に叫ぶ思い、一度飛ぶ事を覚えた人間は二度とまっとうな生活などできない、というくだり...だけれど誰もがそう思いつつ平凡の毛皮をまとって地面を這う..それがきっと読む人それぞれのしかし必ず、琴線に触れるのだと思います。

まっとうでなんかいられない..世の中の人間は二種類あるんです。飛ぶことを知ってしまった人間とそうでない人間と。
もう高校生なんだから、大学生なんだから、○○歳なんだから、いい歳をして、..と言われ続けて、周囲の人々がまっとうなその時々のスタイルに苦もなく変わっていくのに取り残され、それでも、俺は違う、と思い続ける、どうしてだと言われてもそんなことわかるわけがない、自分は自分、こうして生まれついたのだとしか言えない、どこで何がどうなったものやら。
そして、重要なのは、一度飛べたのならそれは一生続く、ということなんです。浪漫なんです、浪漫の刻印を額に捺された人間は、一生、まっとうなんかにもどれやしない、って事です。

プロレスを浪漫にした世紀の天才、猪木のことをふと思いました。あの人もまた、あの「闘魂」の灯を一生消すことは有り得ないでしょう。

そう...浪漫を見てもそれを浪漫と感じない人と、感じてしまう人、その溝が埋まることは決してないでしょう。
時代が移っても時が経っても..それは人が人として進化した最初の時からきっと、連綿と受け継がれ続いていくものなのでしょう、お祖父さんの時代にも、遥か私のひ孫たちの世代でも。




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