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(最新更新日: 2006.3.23)

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今日のショットグラスを更新しました。(2006.3.23)




↓ゲーム「俺の屍を越えてゆけ」のページです↓
店主様、ご出陣っ!


今日のショットグラス


 時々見に来るお客さま向けに、最近(?)の分をこのままトップページに載せておくことにしました。下へスクロールしてみて下さい。


(2006.3.23)  〜 家族 〜

 二つの映画の事を思う。「ヴェラ・ドレイク」「海を飛ぶ夢」。
 どちらも生と死を見つめさせられる映画だ。それぞれ堕胎と尊厳死が扱われる。どちらもキリスト教のタブーであるが、そこから一歩引いた視点で自由に考えることのできる日本人としてもかなり「引く」テーマではある。
 それぞれ見終わった後、テーマについては立ちすくむ自分がいる。簡単には答えの出ない問いを突きつけられ、問いと共に生きてゆくような気にさせられる。確かに、生と死とは一体のもので、決して遠い抽象的なものでなく、進んで受け入れたくはないがごくごく身近にある厄介事の一つのようなものだ。それと共存しながら美味しい物を食べたり人生を楽しんだりするのはもう出来ないような気に一瞬させられる。

 けれどどちらの映画にも共通した救いがある。家族の在り方だ。
 どちらも家族のつつましくも暖かな生活が主人公を支えている。支えてはいるが完全な理解、同一の価値観ではあり得ず、互いの事を案じているのに傷付けたり袂を分かつ事になったりするもどかしさがある。そのやり切れない哀しいようないとおしさこそが、家族なのかと思う。そんな中、若い世代の存在は救いとなる。「ヴェラ..」では娘とその婚約者、「海を..」では甥が、主人公の直面したまさにその現場に居て自身の人生に取り込み、そして次の世代へと受け継ぐ。彼らは、日本の現代社会ではハッとするほど「ちゃんと」している。親や年長者をきちんと手伝い、反発はあっても自分がこの家族の一員だと理解して行動している。それが「いろいろあったけれどこの家族なら大丈夫だ」との思いを強くしてくれる。

 映画には、さまざまな要素が詰まっていて、色々な事を教えてくれる。





(2006.3.3)  〜 地面の下で 〜

 雨が降り地面をうるおし、植物が芽吹く季節「雨水」の頃になった。やがて冬眠から醒めた虫たちが這い出して来る「啓蟄」へと移ってゆく。
 店主の「一年」はなぜか10月に始まる。意図してそうしたわけでなく、いつの間にか毎年を過ごすうちそうなってしまった。
 やりたい事、なりたい自分、のイメージがどんどん湧いて来て、それらを形にすべく考え段取りして年を越し、3月頃にちょうど次の年度への形ができてくる。

 木々の芽や花と同じように。
 今開いた梅の花、もうすぐ咲くべくふくらんでいる桜の花芽、それらは皆、秋に葉を落とす頃出来たものだ。それが冬を越し、今、大きく外へはじけようとしている。桜の、あのほんのりとした薄紅色の染料は花やつぼみでなく樹皮から取るのだそうだ。桜の木全体に花の色素が満ちているのだと、読んだことがある。

 ・・・本当に大切な事は、見えない所で準備されている。
 そんな気がする。





(2005.8.17)  〜 夏は.. 〜

 
2月にニュー・マシン(Mac mini)を買った話をしたが、ようやく夏休みになってプリンタから印刷できるようにした。仕事場を複数掛け持ちで仕事しているので、その日に行った所でプリントアウトすれば間に合っていたので、家のプリンタは眠ったままだったのだ。

 なんだか大変だった。
 2月に最初にOSィを起動した時、なにやらパスワードを設定したのだが、新しいドライバソフトをインストールするにはそれが要ると云う。自動ログインしているのでそんな物すっかり忘れてしまっている。心当たりのパスワードを片端から入れるが何がどう違うのか、受け付けてくれない。
 結局、家で一人しか使っていないマシンに複数の「アカウント」を発行し、管理者権限を新しいアカウントへ移行という、なんとも馬鹿馬鹿しい茶番の結果、パスワードは変更できた。頭にきたのでもう忘れないよう、今度のパスワードはモニターにマジックで書いておいた(ウソ)。

 次は「OS9の壁」だ。
買った時にプリンタに付いてきたドライバソフトはOS9時のものだったので、とりあえずそのままいこう、と、OSィ上で「classic」というOS9を走らせるモードを実行した。これが間違いで、「プリンタが認識しないっ!!」と2時間近く悪戦苦闘した後、プリンタメーカーのサイトへ行ってOSィ用ドライバをダウンロードすれば良いのだと、ハタと気がついた。まったく鈍いことである。
 ここ最近は、託卵鳥のように行った先の環境で作業し、成果物を"生みっぱなし"に置いている。パソコンとハードウェアをトータルで設定して使う事など、やらなくなって久しいのだ。
 これは少しリハビリしなくては、と思う夏であった。





(2005.4.19)  〜 祝・グインサーガ100巻 〜

 第一巻から読んできた、栗本薫著「グインサーガ」が100巻を迎えた。
 出れば買ってすぐ読んで、次が出ればまた読んで、それで26年経ったのだそうだ。それは日常の一つであり、これからも(100巻で完結にはならずまだまだ続く)そうだろう。
 登場人物たちも、それぞれに人生を生きてきて、死んだ者あり生まれた者あり。それも自然にある事のように思えて、とうてい小説の絵空事だとばかり思えない。好きなキャラ、見ていてもどかしいキャラ。かつての自分、今の自分。人と人とが生き、関わり合っていく不思議を、私はこの長編小説の中に読んできたように思う。

 私にとっては、競馬もそれに似ている。
 クラシックレースを毎年見ていくうちにやがて、その仔らが走るようになる。馬たちが変わっても、今年もまた新しいドラマがある。それも日常の一つ。

 春になると私は桜花賞を見て皐月賞を見て、グインの新刊を読み、満開の桜を憑かれたように見て回り、たとえそこが家のベランダであってもお茶やら酒やら弁当やらを持ち出しては明るい日差しと暖かな空気を思い切り深呼吸して、一人でやに下がっていることだろう。どの春でもそうだ。
 そうである事を、「幸せ」と云う。

 そして自分も、誰かしらの「日常」の、ささやかな何か送り手となれるなら、また幸せなのだ。





(2005.3.29)  〜 さくら、さくら 〜

 ここで桜の話をするのも何度目になることだろう。
 10年ほど前に、見られる回数は有限だと気づいてからは毎年、できるだけ多く桜を見るようにしてきた。
 季節の巡るたびに見たい花、見たい自然はそれぞれある。時間はゆっくりとだが止まることなく移り、手のひらからこぼれて行ってしまうようなもどかしさを感じながらそれらを横目で眺めつつ通勤電車に乗り、人工照明の下で一日を終える日も少なくない。

 一日の大半を一心に草を食むことで費やす馬は、果たして花を楽しんでいるだろうか?

 思い悩む日には、空を飛ぶ小鳥を思う。先の事など思う事なく、今の一瞬を生きていようと思う。一方、日々の糧のためだけに生きるのではない、楽しむ事こそ人間、とも思い、楽しみを見つける事を生き甲斐とする。桜は、その象徴だ。

 新しい朝に。新しい春に。
より多く、微笑む心を持てるよう。より多く、舞う花びらの美しさを味わえるよう。





(2005.2.8)  〜 また、リスタート。 〜

 HDを飛ばした。
 昨年12月から丸2ヶ月間自宅環境からネットにつなげなかった。当然、ここの更新も滞っていた。

 また、である。しかし4年ぶりだからこんなものかな、と思う。
 で、今回も4年ぶりに新しいマシンを購入。Mac mini。今までG3だったのだから本体も周辺機器も格段に進歩している。それなのにかつてなく安い。そしてOSXである。今の今までOS9を使っていたので新鮮だ。
 だがやっぱり、さらにまた使いづらくなった。新OSバージョンの度にそう言いつつカスタマイズしているのだが、ビギナーがデフォルトで使ったとしたら満足して使ってもらえるのだろうか。付いてきた「テキストエディット」で標準テキスト(.txt)形式の保存ができない。いや、よく調べればできるのかもしれないが、面倒になったのでいつも使い慣れたテキストエディタをダウンロードして使い始めた。こういった「純正だけでは使えないMac」の伝統は改めてもらいたいものだが..。

   まだまだ、OS9が現場では現役、という感もある。でもまぁ、先へ進もう。そう、人生のように。と言ったらキザかな(笑)。
 ともあれ、またひと区切り。気持ちも新たにやっていきます。ここへ来てくださる皆様、どうかまたよろしくお願いいたします。





(2004.11.10)  〜 イスカールの女 〜

 今朝、何気なく「クロワッサン」を手に取った(2004年11月10日号)。毎号は買わないけれど、テーマによっては時折買う雑誌の一つだ。
 「これは、見事な生き方。」というテーマの中で、今まで気付かなかったが須賀敦子についての文があった。なるほど、人や物事にアンテナが向いている時は、関連情報が「寄ってくる」ものだな、と思った。

 執筆活動の短かった須賀敦子の本は多くはないのだけれど、まだ読んでいない本は何冊もある。サクサクとストーリーに乗って読み進む類の本とは違い、ゆっくりと琴線に触れてくるのを確かめ、考えながら、の読書だ。
 その中の一冊、「遠い朝の本たち」に、「イスカールの女」という短編がある。
 「優しい、守るべき妻」として「所有」する事が愛する事だと思っている夫。一方、思想を音楽を詩を語り明かし、青春の「同志」であった友。反政府活動に身を投じ死んでいった、その、友こそが自分を「人間として」愛していたのだと、主人公は悟る。舞台は第二次世界大戦中だ。
 「人間として」生きる道が、西洋では修道院、日本では出家、とにかく「女を捨てる」事でしか実現しなかった、そんな「昔」が、ごく最近まであった。
 しかし、と、21世紀の日本でこれを読む自分は思う。
 そんな選択を迫られずともずっと容易に女性が人間として生きて行けるこの世の中で、そういう生き方の人は増えたのだろうか。

 そして。
「守るべき妻」を所有し愛する「夫」というのは、精神的に独立し大人の「男」である。そんな男が現代の日本でどれだけいるだろうか。
「母親の代りに守ってくれる妻」を求めているのがおおよその実態だ。

 この二つを思う時、ため息をつき「須賀さん、..」と、「クロワッサン」に載った戦前生まれの遺影に語りかけたくなる。「イスカール..」の世界はちっとも変わっていないのよ、と。  





(2004.10.3)  〜 雨の中のキンモクセイのように 〜

 日曜の朝。雨がかなり強く降っている。
今日は時折窓の外を見ながら、終日読書。子供らはこういう親に慣らされてしまっていて、おとなしくアニメ番組の録画を楽しんでくれている。
 とはいえ、子供らの欲求が全然無い訳ではないし、家事雑用は最低限でも結構ある。一人きりのようにはいかない。

 それでも読めて良かった。
 今日読めたのは須賀敦子「ヴェネツィアの朝」を半分ほど。この作家を薦めて下さった知人に感謝、である。
 須賀敦子、という人を、どうしてこれまで知らずに来たのか、改めてこの作家の活動期間を見てみると、なるほど、90年代は一般に云われるだけでなく私にとって個人的にも「空白の10年間」だった。
 これまでも活字で様々な人の生き方・考え方を読み、あぁこれで良かったんだ、と安心する経験が多くあったが、今度もその思いが強かった。
ここでの登場人物は「うっかり人生が過ぎてしまわない」ように、定職を辞し、他国に身を置いて本を読み、考える時間を持つ。もうすぐ40になろうかという「いい大人」が、である。
 この現代の日本で、フツーに生きているフツーの人々にはとうてい理解されない事だと思う。
 だが、私は大いに共感する。
日常を捨て去らないまでも、一人、自分と対峙する時間は必要なのである。

 冷たい空気を感じにベランダへ出ると、雨音をかき分けるようにしてキンモクセイの匂いが届いてきた。
 雨の中のキンモクセイのように。
雨だからと咲くことをためらったりなどせず、ただ、時期を迎えたから、キンモクセイに生まれたから、咲き、香る。
 そんな生き方がしたい、と思った。





(2004.9.9)  〜 読書の秋 〜

 すっかり秋めいてきた。
残暑は確かに厳しいが、風の匂い、日差しの角度、日の短さ、どれを取っても秋に他ならない。

 夏は読書、そして秋も、読書の秋..と思っていた矢先、駅ビルの本屋と同じフロアにあった喫茶店が閉店してしまって、ちょっと不便している。
 秋の読書には美味しいコーヒーが欠かせないのである。
もうこの街で、本格的なコーヒーをいれてくれて、しかも分煙している喫茶店は珈琲館だけになってしまった。
スタバ、タリーズ、カフェ・ド・クリエ、イタトマ、サンマルク・カフェ、..街にチェーン店系のカフェは数あれど、いつしかそれらのコーヒーでは物足りなくなってしまっている。年を取ると味覚は冴える、と云うが、それも困ったものだ。
 たとえマクドナルドのコーヒーであっても、ホッと一休み、という時なら充分なのだが、本を読む目的で一時間なりと腰を据えて、という時に飲みたい「ちゃんとしたコーヒー」が欲しいのだ。

 仕方がない、あとは電車に乗って代官山、猿楽珈琲さんまで出かけるか。
猿楽さんは完璧な読書環境である。禁煙、大声での会話禁止、ほの暗い照明、低く流れるジャズ。柱時計だけが30分ごとに静寂を破る。..あぁ、なんか、すぐ行きたくなった。
 それとももう少し涼しくなったなら、紅葉のちらほら始まった公園へ、チーズとパンとワイン、あるいはポットに詰めた熱いミルクティーとスコーンを用意して。
 こうなるともう、ちょっとした旅である。

 映画だって、家のテレビの画面で、日常のガチャガチャした環境の中、見たんだか見ないんだかわからないうちに終わってしまうのでは、感動のしようもない。
本も同じだ。情報を仕入れるだけでよい本は、どこででも、片手間でも読めるが、じっくりとその世界に浸りたいと思った時、あるいは「ひとときを楽しむ」全体の一部としての本があり、美味しい珈琲があり、..と思った時、「どこで読むか」は重要な要素になる。

 さて、この秋は何回、そういう読書の時間が持てるだろう。





(2004.6.2)  〜 若ハト 〜

 猫に餌やっちゃったなぁ。
..思わずそうつぶやいた。

 昨日の夕方、陸橋の真ん中で食事中のカラスを追い払う形になった。後にハトの死骸が残るのを見たくないなぁ、と思いながら近づいて行くと、カラスが飛び立った後にひょっこり起き上がる生きたハトがいた。
 橋げたの上ではカラスが、私が行ったらすぐ食事を再開しようと待ちかまえている。追い払っても遠くへは行かず、見守っている。
 飛ぼうとしないハトを、仕方ない、このままにはできないので家に連れ帰った。

 こうしてうちのベランダで、ハトは一泊した。
今朝早く、近くの公園に放しに行った。
放されたハトは、きょとんとした様子だった。
ビスケットを砕いたのを持ってきていたのだが、いつの間にか群がって来た他のハトに全部食べられてしまった。
 改めて他のハトと見比べてみると、クチバシのコブが無く、羽根の間からひょろひょろとまだ産毛らしき細い毛が突き出している。ハトは、ようやく巣立ったかそれともまだ巣にいたのかもしれない、若鳥だったのだ。
 1メートル位の高さのフェンスにやっと羽ばたいて上がる様子に、大丈夫かな、飛べないとしたら連れて帰るかと、もう少し見ていることにした。
 ハトはぼぅっとした感じで、ただフェンスの上にいる。他のハト達が連なって歩いて来た。どうするのかと見ていたら、そのまま、他のハトに、どきなさいよ、という感じでフェンスの上から落とされてしまった。すぐ下の地面にうずくまる。

 その時だ。
一体ぜんたい、どこでこの様子を見ていたのか。
猫が、一直線に走って来た。他のハト達が一斉に飛び立つ。

 えっ、と思う間もなく、若ハトは猫に横くわえにされていた。
猫はカラスと違って人間を脅威と感じていないようだ。手を叩いて脅そうが後を追おうが全く効果がなく、猫はハトをくわえたままものすごいスピードで植え込みに駆け去った。

 ...昨日カラスの餌になるのを邪魔して、今日猫にやってしまっただけなのか。
 がっくりとして、空の鳥かごを提げて、私は家に戻った。家の中では皆まだ寝ている。

 空になった鳥かごを洗いながら、あのハトのような様子を、私はよく知っているな、と、ふと思った。
 あの、きょとんとした、無防備な様子。他のハトが歩いて来ても動こうとせず、かといって威嚇するでもなく、ただぶつかられたら落とされてしまうだけの、あの、何も考えていない様子。

...今どきの若い人たちにそっくりなのだった。  





(2004.4.15)  〜 イノセンス 〜

 公開中のアニメ映画
「イノセンス」を見る機会を得た。

 参った。すごい。
日本の、という事は世界の、アニメの水準はここまで来たか、という感じだ。
ずっと、そう、小説では80年代サイバーパンクの頃からの、心の中にあった風景が、やっと「本当に」映像化されてきた。
 技術もさることながら内容は、あの「天使のたまご」「映画版 うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」の押井守ワールドの集大成であり、お約束の「多元世界の無限ループ」もちゃーんとある。原作は「攻殻機動隊」の
..と書いてきてうへっやっぱりアニメおたくかな、と思いつつ、ここらで引き気味の皆さんにも、いかな表現形態をとろうとも良いものは良いのだと申し上げておきたい。そしてSFだのアニメだのは決して絵空事ではない、と言いたい。

 「ブレードランナー」の原作者フィリップ・K・ディックが描き続けてきた「現実とは何か」というテーマがここに継承されている。
電脳世界と現実、自分が見ているのがどちらなのか、区別できなくなる近未来。

 携帯画面に見入っている時、その人は大袈裟にいえば現実世界にはいないのだと言えよう。
駅の階段を降りていて、何の前触れもなく、携帯を見るやその場で止まってしまう人のいる現実。人と話しているのに、携帯の方を優先してしまう人がいる現実。
 その方がアニメの描く世界よりもよほど異常ではないだろうか。





(2004.3.18)  〜 懐かしロック3題 〜

 ここのところ懐かしい音楽をよく耳にする。 クィーンのアレが流れてきた最初の頃は、うぉぉぉぉ懐かしいっっ!!!とそこらを転げ回りたくなるほどだったのだが(爆)、それもようやく慣れてきた。
 そこで、フレディ、なんで死んじゃったんだよぅ、と涙しつつ、ベスト盤を聞きまくる。
個人的には「キラークィーン」のブライアンのギターソロがいちばんの泣き所だったりする。でもクィーンは全部泣けるんだけどさ。

 そこへ来て、ドリカムのアレである(笑)。
いや、ドリさんは別に懐かしくもなんともないのだが、ソレのコード進行といい雰囲気といい、レッドツェッぺリンの「天国への階段」に酷似しているので懐かしいのである。
 なんかもう、これも耳タコになってきたのでだいぶん耐性が出来たので良いが、実は最初にリリース前にラジオでオンエアされたのを聞いて、私は、山手線の中で密かに泣いてしまった。良かったよなぁ、コレをエンディングに使った番組を作っていたあの頃って。オープニングが「ハイウェィ・スター」でさ。

 あと一つ。
それはご想像におまかせします。というより「あの頃」のロックの洗礼を受けて育った世代の方、あるいはそうでない方、それぞれの「マイ・ベスト・懐メロ」をあてはめて下さいね。





(2003.12.4)  〜 顔 〜

 とても珍しい体験をした。
マスクをして出かける事になった。

 しばらくして、なんだか楽だな、と思っている事に気付いた。
マスクをしているのを了解済みの人に話しかけられて、目で笑ってうなずいて見せるだけで良いので、楽だったのだ。
 きちんと話をする時には結局マスクをずらして、口もとを見せ、顔全体の表情を見せないと、どうも話がしづらい。
だが、それほど表情を必要としない時、それでもなんとなく「敵意が無い事」を周囲に向かってアピールし続けるには、やっぱり「笑顔を作るエネルギー」が要るものだと、改めて認識した。

 ..仏頂面でよくまぁ人の話が聞けたものだと、時々オジサン族に思うのだが、大した意味もなく笑顔で居続けるのは疲れるので出来ないのかも。ま、その前に笑顔を作るべきだとの認識すらないだろうが。

 そういう意味ではイスラム女性の「ブルカ」も、不自由な反面、ラクだったりするのかもしれない。
公共の場であっても自分だけのくつろいだ表情をしていられたり、人の視線を気にせずにいられたら、と思う事が、誰にも一度はあることだろう。
 もっとも、自分で選択して被ったり取ったり出来るわけではない、ブルカの文化を肯定したいとは思わないけれど。

 やっぱり、表情は常に人の視線を意識してこそ、磨かれるのだ。
今日はもう、マスクを取って出かけよう。





(2003.10.1)  〜 盛秋 〜

 朝、いつものように外へ出ると、あたりはいい匂い。
桃の熟したような、甘いこの匂い、なんだっけ、と一瞬遅れてから思い至った。
 キンモクセイが、咲いたのだ。

 昨日は全然匂わなかったのに、一夜にして一斉に咲いたのか、それとも風の向きで気付かなかったのか。でも日曜日にさんざんこのあたりは歩いたけれどちっとも気付かなかったのだから、昨日今日のうちにやっぱり急に咲いたのだろう。

 秋分の日から一週間が経って、今日から10月。
キンモクセイの匂いを運んできた強い風に雲も飛ばされ、見上げれば見事に青一色の秋晴れだ。

 冬には毎日のように富士山を見る陸橋の上で、この夏を過ぎて初めての富士山を見た。
まさか見えるとは期待していなかっただけに、そのくっきりとした稜線は美しかった。夏を越して残雪の一筋も残さなかった、黒い山肌のざらつきまで、手に取るように見える。
 これが「黒富士」と云われる富士山か。

 胸いっぱいに、秋の空気を吸い込む。
あの秋も、あの年も、またあの年も。
秋には思い出がいっぱいだ。なぜか人生の転換となる大きなイベントはみな、このキンモクセイの匂いの中だった気がする。
 今年は、どんな秋になるのだろうか。





(2003.9.24)  〜 秋 〜

 秋が好きなのだと、毎年忘れていては気が付きます。
夏が一番好きだと言っておきながら、秋になってみると夏を惜しむ間もなく押し寄せてくる、秋の素晴らしさ。

 最初に、遠くまで景色が澄んで見えるのに気付き、初めて顔を上げ、空の高さを仰ぎ見ます。
強烈な日差しと暑さにうつ向き気味だった姿勢が、すっと開放されます。

 そんな時聴く音楽は、AORです。「ハート・オブ・マイン」のボビー・コードウェルやクリストファー・クロスの澄んだ歌声が、どこまでも歩を軽くしてくれます。
 夜は、今年はなんといっても初来日公演を終えたばかりのジョアン・ジルベルト。秋の夜長はボサ・ノバか、ピアノ・トリオです。と言っても最近はラジオ任せですが。

 食べ物は、がぜん「うまいもの」中心になってきます。サンマ、マツタケ、キノコ類、栗、そしてシャケ。今年も、実りを迎えた山から海から、これでもか、といわんばかりに美味しいものが店頭に並び、カキ(牡蛎)の季節が射程距離内になると、もう、熱燗の恋しい季節。
 ワインも冷酒も美味しく、まさに味覚の秋。
夏に風呂上がりにチューハイの缶をプシュッと(これもたまらなかったですが)、と言う身もフタもない呑み方に比べ、じっくりと味わえます。
...とはいえ、結局呑む口実を作ってはうまいうまい、と酒を呑むのが呑みすけのサガなのでしょうが(笑)。

 しかしまぁ、それもこれも、健康あってこそ。
夏を乗り切ってくれた身体に感謝しつつ、乾杯。





(2003.8.19)  〜 言葉遣い 〜

 最近、ちょっと不便だな、と感じる事がある。
人と話す時、言葉遣いをどうしようかと迷うのだ。

「〜ですね」と「〜だよね」の差は大きい。その中間って無いのかな、と思う。

 初対面でいきなりタメ口、というのはなんだか抵抗があって、誰でも最初は「です・ます」で話し始めるのだが、そのうちもうちょっとくだけて話したいと思うようになるのだが、...タメ口への移行が、難しい。

 「タメでいこう。」とかけ声をかけるのが一番かな。
その一言がかけづらい人とはまだ、こなれていないと判断して。

 ...皆さんは、どうしていますか?





(2003.7.22)  〜 夏休みがやって来た 〜

 「もしもし、...今?、東京。」
隣りに立っているお兄ちゃんが携帯で話している。
聞くともなしに聞こえてくるその内容に、えっ?と思った。
(おいおぃ、次は渋谷だってば。)
話している言葉は、どこかのなまりがある。
「今から渋谷行くから、それじゃ」
ドアが開くと、お兄ちゃんは降りて行った。

 朝のラッシュもピークを過ぎた山手線の中。
先週までと、連休明けの今日とでは、微妙に客層が変わったようだ。
...そうか、夏休みが来たんだ。
(いいなぁ。)
夏だからといっても変わらず通勤し、普通の平日を過ごす身としては少々羨ましい、そしてちょっとうざったい、夏休みがやって来た。





(2003.7.18)  〜 小さな自由時間 〜

 予定しなかった時にぽっかりと小一時間ほどの時間が空きました。
あなたなら、何をしますか?

 小一時間というなら、手近な喫茶店で読書、が一番手頃でしょうか。
 体力がある日なら、通勤途中の、普段降りる事のない駅でふらっと降り、初めて見る街の商店街をぶらぶら歩き、買い物をし、それから喫茶店で...おや、これでは一時間では済みませんね。

 家に一人きりでいられるなら、ラジオをつけて、飲み物を傍らに置いて、とりあえずネットをつないで...メールチェックと、このコーナーの更新なんかをしていたら一時間なんてあっと云う間です。

 それから、ノートの新しいページを開いて、この先一ヶ月ほどの予定表を改めて書き出し、半日で遊べるコースを考えたりする事もあります。
 半日の休み、となるとぐっと選択の幅が拡がり、ちょっと足を伸ばして鎌倉、とか「湯けむりの里」(スーパー銭湯です)へ一人で出かけてラジオを聞きエビアン水をちびりちびり飲みながら露天風呂を出たり入ったりとか、缶ビールを買って隅田川クルーズの水上バスに乗るとか...。
 思うだけでなかなか実現しないのですが。

 それでも、いつ突然自由時間が転がり込んで来ても、茫然としないよう、情報収集はいつもしています。
そのほとんどが実現しないまま古くなっていく情報なのですが、ああしようこうしよう、と、考えている時間も楽しいものです。

 小一時間の自由時間は、そういう、まだ来ぬ「大きな自由時間」の計画にワクワクする時間なのかもしれません。  





(2003.7.7)  〜 明月院のあじさい 〜

 あじさい寺の異名を持つ、明月院では、今年は今日7月7日に院内のあじさいを剪定してしまいます。あちこちに、まだ充分美しい花の残るこの時期に、全ての花を刈ってしまうのは、次の年の花芽のためだそうです。
昨日までの最後の土日には、多くの人々がここを訪れたことでしょう。

 昨日から入谷の朝顔市が始まり、8日にそれが終わると今度は浅草寺のほうずき市。
あじさいの季節もそろそろ終わりです。

 6月中に、あじさいの写真をアップしたかったのですが、梅雨開け前には間に合いました。「明月院ブルー」と呼ばれる明月院の姫あじさいと、その周辺で撮ったあじさいの写真を、どうぞご覧下さいませ。

               
【あじさいの写真はこちらから】



(2003.7.6)  〜 ジョアン・ジルベルト今秋来日! 〜

 ボサノバの父、ジョアン・ジルベルトが、この秋、初めての来日公演をします。
アントニオ・カルロス・ジョビンの、あの「イパネマの娘」が世界的大ヒットとなった、アルバム「ゲッツ・ジルベルト」のジョアン・ジルベルトです。英語で2コーラス目を歌った元妻のアストラッド・ジルベルトの方が、なんだかすっかり有名になってしまいましたが、もともとこの曲のボーカルは夫であったジョアンの方なのです。

 ここで何度か書いている通りボサノバが好きな店主にとって、ジョアンは最高に好きなアーティストです。
今回の来日公演はしかも、J-Wave主催なのでリスナーの先行予約受付けもあり、すわ、と思ったのですが、涙を呑んで見送り、です。
 ライブで見られなくてもオンエアを聞けばいいし、もしかしたら映像も見られるかもしれないし。

 とにかく、今から楽しみです。



(2003.6.23)  〜 雨、降れ降れ 〜

 雨の日の外出は憂鬱。
靴に雨がしみてきて、靴下が濡れたりしたらもう、気持ち悪くて最悪である。
 ちょっとの雨ならば、普段履いているスニーカーに防水スプレーしてあるので平気...だったはずなのだが、スニーカーというのは履いて足になじんでしばらくすると、ゴム底と側面との間に隙間があいてくる。どうしてもつま先から水がしみてくるようになってしまう。
 かといって、大人になって「長靴」というのは恥ずかしい。それも、いかにも「ながぐつ!」としたものしかなくて、いくら雨がしみないといっても、あれは勘弁、なのである。

 理想の雨靴、というのはだから、最初からゴムで一体成形してあり、かつ「長靴でない」普通の靴、なのだが、そういう靴がまた、皆無なのである(どうしてなんでしょう?)。
 それでもそんな理想の雨靴を、探しに探して来た数年であった。

 数年前から靴店でよく見かける「レインブーツ」なるものは、ゴアテックス素材で蒸れずに水をはじく..筈なのだが、ちょっと強い雨の中を歩いたら、やっぱり水がしみて来た。
 ガーデニング用の、木靴のような、たいてい緑色をした靴は、水こそしみないが、街で履くフットワークにはついてゆけない。
 やっと去年見つけた「Working wear」という雑貨屋さんのゴム靴は、かなりいい線までいったのだが、残念、フィット感がいまいちで、靴下を履くと滑るし、素足で履くと靴擦れになってしまった。...結構高かったのにな。

 今年もダメもとで、なんとなく雑貨屋めぐりをしていた。梅雨も半ばにさしかかり、やっぱり今年もダメかな、新しいスニーカーを買って防水スプレーするか、と思っていた矢先。
 ...あった。あったんです!
半透明のビニールというかゴムというか、そんな感じの柔らかい素材で、底と側面が型で一体成形された、しかもオシャレな、そして、2,900円というリーズナブルな値段の、レインシューズが!

 というわけで、まるで初めて長靴と傘を買ってもらった子供のように、「明日、雨降るといいな、じゃんじゃん降るといいなぁ。」と、思うのだった。
 身勝手で、ごめんなさい。



(2003.6.22)  〜 夏至 〜

 今日は、夏至(げし)。
一年で一番、昼が長い日です。
夏至を過ぎてもしばらくは、日の入りは遅くなり続け、その代り日の出が遅くなって、一日のトータルでは短くなって来ます。

 毎年、夏至を折り返し点としてこれからが本格的な夏だと思います。
悲しいかな、8月の声を聞くとすぐに立秋がやってくるのですが、それまでを楽しもう、と思いつつなかなか有意義な夏を過ごせずにいるのが近年の現状です。 ...というより、小学校の頃からずっとそうかもしれませんね。

 夏が、好きです。
梅雨時のうっとうしさ、暑さ、それらを差っ引いてもまだ、お釣りが来るくらいに。
雨の日の緑の美しさ、楽しかった夏休みの数々の思い出を呼び覚ます、セミの声、学校のそばを通ると聞こえるプールの歓声、夜の縁日、蚊取り線香の匂い。

 夏は、大好きな季節です。
だから、ようこそ。
今日から始まる、本物の夏。 .



(2003.6.9)  〜 夏、本当に来たる 〜

 季節はどんどん進んでいます。
花と、木々や草の葉たちが、一番よくそれを体現しています。

 もう、ちょっとの間に主役は移り変わって、枚挙にいとまがありません。
バラが見事に咲き誇っていた垣根は、緑一色に変わっています。
ドクダミが咲き始めると、もう初夏、なんて書こうと思っていたら、アジサイがすっくりと花をもたげ、本当の主役を宣言し始めています。
ヒルガオのピンクの花とハート型の葉も、この主役に投げかけられた花綱のようです。

 気分的には梅雨明けからが夏、なのですが、そうも言ってられません。
この週末から蚊取り線香を焚き始めました。
 本格的な夏支度に精を出しましょうか。  



(2003.6.5)  〜 ゴーメンガースト 〜

 更新がとどこおっていますが書きたい事は毎日、幾つも思っています。

 マーヴィン・ピーク著の三部作で「ゴーメンガースト」という話があります。
第1部が「タイタス・グローン」、第2部が「ゴーメンガースト」、遺稿となった第3部は「タイタス・アローン」という題です。
創元推理文庫の、カテゴリーは恐怖小説なのですが、ちょっと大きな本屋さん、又は図書館なら結構定番で置いています。

 七十七代も続くグローン伯爵を継ぐ、少年タイタスと、魅力的(?)かつ超個性的なキャラクターの人々、そして千年を優に超すグローン家の歴史そのもの、そびえ立つ建造物、ゴーメンガースト。

 今朝方、夢をみました。
何層も下ってゆく階段、時に寝そべって進まなくては通れないほど低い天井...見学・試飲の出来るビール工場があると聞いて(こんな所に!)降りては来たものの、地下何階に降りてもその先は、何の仕事をしているのか解らない事務所のドアや商店が並んでいるのです。ふとのぞくと、いつから営業しているのかわからないほど古びた赤ちょうちんの下がった飲み屋の、カウンターに入り浸るお客と目が合ったりします。乾物を売る店、靴修理の看板、美容院、八百屋、布団屋、婦人洋品屋、有線の音楽が流れ...どの街にもあるちょっとした異次元、大規模なところでは自由が丘デパートや中野ブロードウェイ、それに札幌のたぬき小路、と言うと解ってもらえるでしょうか。

 ...何だこれは、ベニヤとコンクリ造りの、ちゃちなコーメンガーストだな。
そう思って目が醒めました。
馬鹿馬鹿しい夢、と思いながら、どこか郷愁のようなものを感じてなぜかほんの少しだけ涙が出ました。

 誰の心にも、ゴーメンガーストは、あるのでしょう。
日常の、儀式めいた些末事と、自分が生まれるよりずっと前からそこにある生活と。
誰もがそこからの脱出をはかり、そしてまた戻る事を切望して放浪しているのです。
タイタスのように。



(2003.5.12)  〜 夏来たる 〜

 立夏が過ぎてそろそろ一週間たとうとしている。
5月6日から夏、といわれても早過ぎる、と思っていたのだが、季節は春を脱ぎ捨て、どんどん夏に変わってゆく。

 すでに春のピンク色は桜、ゼラニウム、つつじ、バラ、と咲き移り、もう水色、藍色といった涼やかな花色が待ち遠しい。
着る服も、きりっとした藍色と白の木綿がふさわしいように思う。お気に入りのバラのモチーフも、背景が綺麗な水色をした夏の柄の小物を持ちたくなる。

 浴衣の帯をまた一つ、つい買ってしまった。
えんじ色や黄色の帯ばかりだったのが、今度は銀ねずと紺のリバーシブルの兵児帯、柄は金魚。

 本当の夏、早く来ないかな。



(2003.5.8)  〜 太陽 〜

 とりどりの花々も季節を感じさせるが、思わぬところで季節が変わった事を感じハッとする事がある。

 毎日通る道、毎日通る時刻。
西に向かうそのルートを何気なく歩いているのだったが、ある晴天の夕刻、急に西日がまぶしくて目も開けていられなくなった。
...そう、夏にはいつも日傘を前にうんとさしかけて通らないと、まぶしいわ暑いわで往生するのだった。すっかり忘れていた。

 天気や土日を挟んだせいで、全く急にある日、まぶしくなったように感じるが、太陽の角度はじわじわと移り変わっていたのだ。

 人や環境の変化も同じで、ある日急にがらりと変わったように見えても、そうではないのかもしれない。
 そんな事を思った。



(2003.4.22)  〜 桜の花茶 〜

 八重桜の重たげに垂れ下がる花房の上には必ず、葉っぱがある。
花だけがびっしりと枝を覆うソメイヨシノと、そこが違う。
 オールドローズに似た、何重にも重なる花びらの濃いピンク色と、オリーブグリーンの葉の色。
八重桜の若い葉は、塩漬けの桜の葉と同じ色だ。まるで桜餅の配色なのが面白い。

 その八重桜の花のお茶を、手に入れた。
親戚の結婚式でもない限り、なかなかお目にかかれないのが、この桜の花茶だ。
お湯を注ぐと、水中花のように拡がる花びら。
豊かな、桜の香りがたつ。
ただの塩湯なのに、その香りのせいか、一口すするとホッとする味。

 コーヒーは好きだけれど、何杯も飲むと飲み疲れる。
ピーチティーなど、市販のペットボトルの紅茶は、少量ながら砂糖が入っているので、飲んでいると変に満腹になってしまって困る。
緑茶のように気軽で刺激の少ない飲み物を他に探していたが、これはうってつけだ。

 その八重桜も散りつつある。
あちこちでツツジが咲き始めた。
街路樹のアメリカハナミズキも咲いている。
ユキヤナギの白、ヤマブキの黄。
まだまだ咲いている、花ダイコンの薄紫。
アジサイが新芽を伸ばし葉を出し始めた。緑のつぼみを抱いた花芽は、まだ。

 春は全ての色彩を展開しながら、どんどん移り変わってゆく。



(2003.4.20)  〜 センスオブワンダー 〜

 「沈黙の春」を著したレイチェル・カーソンの、遺稿となった本である。
SFでも、SF魂、とでも訳せばいいだろうか、未知の世界への驚異の気持ち、好奇心を忘れない純粋な気持ちと言うのか、この「センスオブワンダー」という言葉を使う。
 SF作家でありキーボーディストの難波弘之さんのバンド名はもちろん、こちらのSF用語からとっている。

 それはさておき、この本で言うところのセンスオブワンダーは、自然の移り変わりに対して新鮮な驚き、畏敬の念を忘れない事を言う。
 春が来て桜が咲く?当たり前じゃない、虫がいる?わぁ気持ち悪い〜、としか思えない人はちょっとだけ考え直した方が良いかもしれない。

 ソメイヨシノが散って一雨降った週末明け、もうすぐだな、と思っていた八重桜が一斉に満開になっていた。
 その次の週末を過ごして、もう、木々はまた変貌しているに違いない。

 雨が多くなり、照れば夏日にもなり、人は傘を忘れて濡れたり冷房を入れたりだの、せいぜいそんなものだが、草木は文字通り変貌を続けている。
道端の雑草の、目に染みる鮮やかな緑を、多様な花々を、見よう。
 なぜなら、...そう。
人間もまた、自然の一部、生き物の一種なのだから。



(2003.3.31)  〜 とりとめもなく・桜 2 〜

 桜は、不思議な花だ。

 桜に何の想いがあるというのだろう。桜の根元には死体が埋まっているからか。
桜のトンネルの向こうに時空の歪み、というSFではお約束の設定だからか。

 桜の咲く下を、花びらの散りしきる中を、どこまでも歩きたい。
桜のトンネルを出た時、そこは見た事もない風景。
そして、その先にたたずんで待っている人。きっとそれはもう一人の自分。
 そんな気がして仕方がない。

 一年のうちたったの一週間程しかない、桜の見頃。
天候や仕事やその他もろもろの条件で、そのうちたった1日か2日くらいしか、きちんと見る事が出来ない。

 家のそばの公園の、しだれ桜は早くて、花に混じってもう葉先が伸び始めてしまった。
それでもやっと見に行けた日曜日、花見もしたし、さぁ帰ろう、と立ち上がろうとした時、しゃがんだ肩をそっと叩かれたように思って顔を上げると。
花びらが、はらはらと散りかかって来ていた。

 ...さよなら、さよなら、また来年ね。
花びらは、いつもそう言っているように見える。
もう行くのかぃ、桜ってやつは、と、ふっとさびしくなる。

 桜は、本当に不思議な花だ。



(2003.3.29)  〜 とりとめもなく・桜 〜

 桜が、こんなにあちこちで一斉に咲くのではなくて、今週はここ、次週はあっち、という風になってくれたら良いのに、とつくづく思う。

 フェヤーモントホテルが閉館してしまい、今年は「千鳥が淵の桜が咲き始めました」というあの、小さな広告を紙面に見る事も出来なくなってしまった。
 でも、千鳥が淵は変わらずに桜に埋め尽くされる事だろう。
 風の無いうららかな日に、一人で文庫本と温かな飲み物の入った水筒を持ち、ボートを借りて水の真ん中に漕ぎ出して、1時間でもずっと桜の中に居てみたい。

 新宿御苑の桜は、敷物とワインとチーズとパンを持って。
途中の追分団子本店で、好きな味の団子も幾本か買ってゆく。
どこまでも広い空の下、桜の根元の芝生で昼寝。熟睡してカラスに荷物を物色されないよう、注意。

 アークヒルズの裏手は桜坂。ひょろひょろの若木が植えられてから、10年が経ったらしい。kihachiのカフェはいつも長蛇の列。ここは近くのプロントで買ったコーヒーを持って、空中庭園に行くべし。霊南坂教会の屋根を見上げながら六本木方面に歩くのもいいが、途中で246を離れて赤坂見附方面へ。相当遠いのだが、虎屋まで足を伸ばし和菓子で一息、というのが理想。

 今年一番行きたいのは、桜、といえばありふれているけれど市ヶ谷だ。
2年程前に出来た店のランチを食べてみたいと思いながら、今日まで行けずにいる。
学生の多い花見の騒ぎの中を、あとは四谷まで歩く。それとも靖国神社を目指すか、はたまた飯田橋へ歩いてカナル・カフェでお茶、というのも魅力。迷うところだ。

 どうかどうか今年は、一つくらいは本当に行けますように(爆)。



(2003.3.16)  〜 春分も近い 〜

 日が長くなってきた。
夕方いつまでも明るいし、朝も、ずいぶん早くから電灯が要らなくなる。

 暑さ寒さも彼岸まで。
寒い日も、どことなく空気が柔らかい。
梅はもう満開。水仙、沈丁花が見頃。光は強く、月も真上を振り仰ぐ高さで空を渡ってゆく。

 また一つ、季節が駒を進める。
3月、4月。別れの後に新しい出会い。新しい年度が始まる。
重ねてゆく、記憶の春。

 桜。
桜のトンネル。水に映る桜。対岸の桜霞。
もうすぐ、また。
桜に、会いにゆく。



(2003.1.21)  〜 スターバックスは全店禁煙! 〜

 スターバックスコーヒーが全店禁煙だと知ったのはつい最近のことだった。
いつもの行動範囲の中で通り道にスターバックスが無かったので、ちっとも知らなかった。

 入ってみると、居心地がいい。
なんでこんなにのびのびするのかと思うと、やっぱり、全店禁煙だからなのだ。

 一般の喫茶店では、せっかく落ち着いた席を確保しても、後から来た隣りの客の煙が流れて来る危険がある。
他の人の事など気にしたくないのに、あの「カチッ」というライターの音を聞くと思わず(ひえっ。)と心の中で首をすくめ、そっと横目で様子をうかがってしまう。

 甘味処であんみつを食べていたって油断できない。
某ドトールも某プロントも(ちっとも某になってないな)、さらにファーストフード店あっても、分煙ったって同じフロアで席を分けてるだけで全然意味がない上に、禁煙席自体少ないし、全フロア禁煙の階があってもたいがい地下か2階以上、と相場が決まっている。トレーを持って延々と地下深く降りて行くのは、いかにも追いやられているようで気が滅入る。

 今までは、見晴らしの良い2階を丸々禁煙フロアにしてくれているサンマルクによく入っていたのだが、実は、階段を昇って行く時に、狭い1階で階段下に追いやられるように窮屈そうにテーブルを並べ、全員これまたあてつけのように(そうじゃないとは思うが、そう見えるのだ)もくもくと絶えず煙をくゆらせている人々の間をぬって行くのはちょっと腰が引ける思いだったのだ。

 ...一杯のおいしいコーヒーを飲むために、結構苦労していたのである。

 禁煙にしたってなに、お客はたくさん入っている。
これが「スターバックス」というトレンドの強味か。
 ともあれ、これからはすっかりスターバックス党になりそうだ。



(20003.1.15)  〜 仏滅も捨てたもんじゃない 〜

 少し前から旧暦を意識して生活しています。旧暦のカレンダーだと必ず同じ日に同じ月の形なので、面白いです。

 で、旧暦と一緒に載っているのでつい、「大安」とか「仏滅」といった六曜も見るようになりました。これは実は旧暦と関係なく6日で一周するだけ(例外の日もあり)の単純なモノなのですが、結構当たるような気もちょっとだけします。
 でも、仏滅の日にはなぜか結構いい事があったりします。
少なくとも、さんざんだった、という思いはなかったように思います。

 「今日は結局こんなもんだ」と最初から気を引き締めてかかっているから、ダメージを受けないのかもしれません。
しょせんは気の持ちよう、という事なのでしょう。そう思いながら取り入れてみると、毎日にメリハリがついて面白いものです。



(2002.11.16)  〜 テールランプ 〜

 毎朝、出会う人・モノ・風景が、あります。

 陸橋の上から見る富士山。
3匹のダックスフントの散歩、2匹は茶、1匹は黒。
それから、あるお家の前に停めてある、白い軽自動車の後ろ姿。

 本来は赤である停止灯のアクリルカバーが、ピンク色。それだけで白い車体がなんともキュート。...どんな人が乗ってるのかな。
 朝、通勤で乗って行かれるらしく、すでに出発した後だと、あ、もうお出かけですね、気をつけて、なんて思ったり。

 ちょっとした楽しみです。



(2002.10.19)  〜 「未明」に起きている 〜

 未だ(まだ)明るくならないうち、という時間に起きる。
秋分の日を過ぎると、なかなか明るくならなくなってきた。
新聞が来る音を、あぁ来たか、と聞く。

 昨日から起きていて今から寝るのでは、ない。
もう寝て起きて、一日を開始する最初の時刻が、夜明け前。

 ‥‥なにせ、寝るのも早いからなぁ(笑)。
一日25時間で生活して昼夜逆転させているんじゃあるまいし、でもかつて体験した事のない時間帯に起きて新鮮...いやそうじゃない、以前はそれに近い早寝早起きをしていたんだ。
 誰もが、ね。

 子らはてんでな方向を向いて、よく寝ている。




(02.10.19)  〜 等身大の世界 〜

 このコーナーは「店主は元気で存命中」なのをみなさんにお知らせする役割もあり(笑)、とにかくマメにアップしていくのが第一だと思ってきた。 
だが、それにしても人様にお見せするにはつまらなさ過ぎる、どうでもいいような話しか思いつかなかった。毎日の出来事から問題提起して話をふくらませてゆく、その「こだわり」が薄れてしまったのかもしれない。
 細かい事はいろいろありますが、まぁ、いいんじゃないですか。・・・というスタンスでは文章にまで昇華してくる物事は少なくなる。

 困っていた。

 ちょっとした旅行に行った。そこでリュック一つの一人旅をじっくりと噛み締めるように楽しんでいる方にお会いした。
一昨年に私も、私は最初の出産前、安定期での身重の一人旅だったが、やっぱり一人ならではのゆっくりしたペースで旅を味わっていた。
何かを共感してもらえたら、と思い、ぶしつけながらホームページアドレスをお渡しした。
 「見に来てください」と言ったのに、日付が古いままではなぁ、と思った。

 そう思って書き始めたら、また案外ネタはあるのだと気付いた。
ちょっとした事で、書くエネルギーは充電されるのだった。



(2002.7.25)  〜 ネットの限界 〜

 いつからなのか定かではないが、メールの送信が出来なくなっていたらしい。
そういえば、アドレス交換をした知り合いにメールを送ってみたら送信先のアドレスが見つからない旨のメッセージが出て「?」と思った事があったのだが、その時は先方のアドレスが携帯のもので、確か着信拒否だか暗号化だかでセキュリティがかかっているのでそのせいかな、と、そのままにしていた。

 FTPでのページ更新は出来るし、BBSへの書き込みも出来るし、何よりメール受信は出来ていたので一向に気付かなかった。
つまり最近は広告メールを読むばかりで、他にメールのやりとりをしていなかったわけだ。

 確かに、仕事ではともかく、一般の人たちの間では全員の環境をかんがみるとメールで済ますわけにはいかず、結局は電話や郵便だったりする。IT化に関しては二極化が進んでいて、その落差はますます大きくなる。
 そして、仕事でも最終的には顔を合わせて、そうでなくても肉声で話せる電話で、という事は変わりないのであった。

 送信トラブル自体は、簡単に直った。



(2002.6.18)  〜 オレシカとの再会 〜

 日曜日の夜、久し振りに地元のゲームソフト屋へ行った。
プレステの(プレステ2じゃなくて!)棚は当然だんだん縮小されてはいたが、驚いたのはゲームソフト自体のコーナーが小さくなっていた事だ。
 サターンの棚は無くなっていて、ドリキャスが少しとゲームキューブ等の新・次世代機(?)が一つの棚を分けあっていて、さすがにプレステ2は棚一つを占有していたが...なんだか、やけにうらぶれた印象を持った。
 ゲーム自体が、衰退してきているのだろうか。
たまたまその店が、DVDやフィギュアに力を入れる方針に変わって、ゲームソフトは量を置かなくなっただけなのかもしれないが。
でも、FF(ファイナルファンタジー)の最新作が、横置きにされずに薄い背のタイトルだけ見せて立ててあるのは、なんとなく時代の趨勢を感じる気がした。

 それまで、定番のタイトルには、それらを買うワケでもなくざっと目を通していたのだが、そういう、いつ行ってもあるタイトルがすっかり無くなっていてさびしかった。
 が、そんな中、あった、ありましたよ。
「俺の屍を越えてゆけ」が。
うれしくなって、その、本で云えば背表紙に、指を走らせる。
久し振りに降り立った街が再開発ですっかり様変わりした中、変わらぬたたずまいで残っていた旧知の店を見つけたような、そんな感じだった。

 久し振りに、最初からやってみようかな。
そんな、気がした。



(2002.5.5)  〜 ボサ・ノバが聞ける幸せ 〜

 日曜日の夕方5時半、皆さんは何をしていますか?...

 J-Wave(FMラジオ)は5:30PMからボサ・ノバの番組を毎週やっている。
先々週の日曜日のその頃は、病院で出産を終えて家族も帰り、これから1週間過ごす自分の病室のベッドで一人、やれやれ、と一息ついていた。
イヤホンでラジオをつけた時、飛び込んで来たのは「ジェット機のサンバ」。
 心地良いリズムに浸って体を伸ばしていると、大事を無事に乗り越え、こうしていられる幸せがひしひしと感じられた。

 いつもは家族がいるとテレビがついている。ラジオを台所の流しで聞く事も出来るのだが、この時間、テレビでは「笑点」をやっている。これが結構強力なライバルだ(爆)。
それに、この時間は明日の準備やらお風呂やら夕飯の準備やらで、のんびり聞いてもいられない。

 日曜日の夕方5時半にボサ・ノバが聞けるのは、滅多にない幸せなのだった。



(2002.4.20)  〜 ぬおぉぉぉぉぉ!! 〜

 ・・・という、まさにそんな感じ。
ここを開いてアクセスカウンターを見て、思わずそう呻いてしまった。

 8888番、自分で取ってしまいました。
久々のゾロ目番だったのでトップでプレゼント告知でもしようと思っていたのに..。

 しかしなかなか1万アクセスを越えない、マイナーサイトだなぁ、ウチ。





これまでのショットグラス


野うさぎ茶房サイトマップ
当サイトは読み物・エッセイが中心です。喫茶店に来て好きな飲み物をとるように、お好みの一編でひとときをおくつろぎ下さい。あてどなく立ち寄ったお客様は、ひとまずメインメニューへ。

今日の
ショットグラス
いらっしゃいませ、まず軽いエッセイでおもてなしいたします。毎日のあれこれを、トップページに書いています。
野兎茶房謹製
薬草酒
店主なりに考えてきた生き方への提案は、時に口に苦いかもしれません。
 
訳詞・エッセイ
(メインメニューへ)
一杯のカクテルを楽しむように、メインメニューにちりばめられたイラストアイコンやスタンダードジャズの曲名を気ままにクリックしてみて下さい。
長編SF・
ファンタジー小説
オリジナルの小説です。じっくりと御賞味下さい。
 
日曜日に
浪漫(ロマン)
競馬のページです。興味ないや、という方も太陽の下、広々とした青い芝生でのんびりしに、いかがですか。
店主様、
ご出陣っ!
プレイステーションのゲーム「俺の屍を越えてゆけ」をもとにした小説です。
いずれは設定の説明等も加えてゲームを知らない方にも楽しんでいただけるようにしたいです。
 
子供のいる
風景
子供を持つ、子供と生きてゆく、ということを一緒に考えていただけたら幸いです。
ゲストブック(リニューアルしました)
初めていらしたならぜひ、書き込みを。常連のお客様も近況をお知らせ下さいね。
ちなみに旧ゲストブックはこちら(書き込みできません)

 
すきとおった
ほんとうのたべもの
もう一度、このHPを立ち上げた時の気持ちに戻って書きました。

上記でご案内していないページが、メインメニューのあちこちにあったりします。のんびり散策して見つけるてみるのもいかがですか。



すきとおったほんとうのたべもの


 私たちは、宮沢賢治の云うところの「すきとほったほんたうのたべもの」を食べて生きています。
 それがほんの少しで足りる人もいて、そういうものがあると気付かず暮らしているかもしれません。あるいは、それをよく探し求める事が生きていく上で重要なことになっている人たちもいます。
 人と話すこと、人が書いた文章を読むこと。それらを通して触れるのはその人の想い、その人の生きてきた道のりです。それに触れ、思いを共有し自分に照らし合わせる時、はじめて、私たちの心に「ほんとうのたべもの」が栄養になりしみわたるのです。
 また、「作り話」だからと小説を読まず、読む文章を報道やドキュメンタリーだけに限っている人がいます。もったいない、と思います。 生きている本物の人の脳から心から出て来たものなのですから。本当に行動することと、文章で書いて表現することとの間には、そんなに差はないのです。

(2004.11.10)  〜 序に代えて 〜

 全く久し振りに家の近くの図書館に行った。
イベント展示が「宮沢賢治の世界」になっていた。生誕100年だった1996年にずいぶんいろんな本が出たりした、それらも含め様々な蔵書が集められていた。
 1996年は8年前。花巻の生誕100年に行きたくても果たせなかった。奇しくもこのサイトを立ちあげたのも同じ年、賢治の命日も近い9月のこと。あれからもう8年経ったのか、と思う。
 あの頃、何をしていたのかと思うと、ずいぶん遠くへ来た感がある。
 それでも、私は「すきとおったほんとうのたべもの」をたくさん食べ、また探し求めては本屋に行き図書館に通い、空を見上げデジカメを構え、そうして、こんな駄文をアップしている。賢治の云う「ただ幾人かの完全な同感者から『あれはさうですね。』といふやうなことを、ぽつんと云はれる位がまづのぞみといふところです。」という、そのままに。(参考資料:「宮沢賢治キーワード図鑑(平凡社)」)

 私にとって「春と修羅」の意味するところは、日常の、まさに毎日を生きてゆくための雑事、つまり食う寝る住む日銭を稼ぐ子供の面倒を見る、それらを果たし、それから「日常の情報」をただ得るための新聞をはじめとする報道を見聞きする、そこまでが「修羅」で、やっと、そうでない「読書」として新聞のコラムにはじまり小説を読み様々な、興味のある分野の文であったり絵画だったり音楽だったりそれらの複合体だったりネットだったり、といったもの、それらに向き合う時間が、ようやく「春」なのである。
 さらにそれだけでは足りない。自分の中にしっかりとそれらを吸収し消化し、新たな「自分」として表現し得てはじめて、私にとっての「生きてゆくこと」は完結するのだ。
 人生おちおち過ごしていられない。それが、今思う感覚である。  


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