日本包茎研究所訪問者の投稿


包茎手術撲滅連盟会員さんの投稿-01


包茎手術撲滅連盟会員さん 2000年02月08日

 もっと被害者の声が聞きたいです。また、手術後の体験者のペニスや心理的変化について知りたいです。

 実は、これがもっとも説得力のある包茎手術に対する抑止力になるのではないでしょうか?医師は、 包茎後の患者のことはあまり知らない、と思います。彼らは、追跡調査を全くしていないのです。 いわば、「やりっぱなし」です。

 これは、他の外科手術とは違うところです。 僕が受けた医者は、直接話しもせず、医者の顔さえ見ていないのです。 患者に専門に対応する事務員がいるだけです。 これは、医療行為(包茎の手術は、医療とは言えない、と考えていますが。 これは、整形手術と同じです。)として非常に無責任なやり方だと思います。

 彼らは、手術後、患者がどのような状態でまたどのような感情を抱いているのか、 全く知らないと思います。

 患者とのその後の対話はなく、また患者同志も全くコンタクトがないのですから。 取ろうにも、病院は教えてくれません。

 患者一人一人の術後の経過のデータの集積は、 今後の包茎手術を考える上でもっとも有効な包茎手術を無効にする武器になり、 また医学的な資料にもなるものではないでしょうか。それを集める方法はないでしょうか?


 集めたいのですが、、、中々素人には難しく、 継続して投稿下さっている方の投稿を1箇所に集めるくらいが関の山です。。。

(2000/02/18)


包茎手術撲滅連盟会員さん 2000年02月08日

 このホームページは、本当にいいです。 できればもっと早くこういうホームページが開設されていたらと残念です。 自分の場合、もう手遅れですから。

 しかし、この問題を放置しておいてはいけません。 この人類からあるいは少なくともこの日本から包茎に対する手術などという アンダーグラウンドなサブカルチャーは一刻も早く撲滅しなくてはだめです。 これは、昔で言ったら入れ墨みたいなものでしょう。 人類の過去においては、そのような不自然な風習が社会をおおっていた時代もありました。 また、今でも世界の他の地域では他の文化から見れば奇異な風習が残っている地方もあります。

 そういう奇異な風習は、確かにその地方ではそれほど不自然な姿ではないのかもしれませんが、 一般性のある姿とは言えません。とりわけ人間の肉体に変形を加えるような風習は・・・。入れ墨とか鼻輪とか。

 おそらく包茎の手術もそのような類の人間の生理に反した不自然な風習です。 これは、ある文化において宗教と絡んで発達したいわゆる「割礼」が名残としてあるのでしょう。 しかし、我が国では、そういう宗教的な背景とは無関係に、あろうことか、 地下世界にでも棲息しているかのごとき汚らしい恥ずかしい金が 最大の関心事の非モラルな医学的身体センスの欠落した人の弱みにつけ込む 血にまみれた悪徳医師免許取得者に利用されているのです。

 先ほど「割礼」と言いましたが、おそらくそれは宗教的あるいは社会的な理由に基づく 性欲の抑制が主たる目的ではなかったでしょうか。 このホームページでも訴えられている「性感の鈍麻」とは無関係ではないでしょう。 性感を鈍くしていたずらに社会にすけべな人間がはびこらないようにしようとか。 子供を多くつくり過ぎないようにしようとか。 性に耽って仕事もしないような堕落した人間をいないようにしようとか。 過去において、まだ小さい時期に女の子のクリトリスを切除してしまう部族もあった、 と読んだことがあります。 これなんか典型的に性欲の抑制が社会的な要請としてある地域に存在したことを物語るものでしよう。

 包茎をすすめる公告を掲載しているスケベ 雑誌が読者の劣情をあおりたて もっと読者を増やそうと目論んでいるのと皮肉にも逆の結果になっているのです。 そういう出版社の責任者にはよくよく考えてもらいたいものです。 まったく、このことで得をしているのはその医学的資質とは不相応な莫大な利益を得る医学界の 落ちこぼれの包茎医者だけなのですから。 ささやかな広告収入と大きな良心の負債を背負わなくてはならない雑誌社と 大きな経済的な損失と大きな魂と愛の傷を背負う患者が残されるだけなのです。 日本は、このことで大きく社会的な厚生を損なっていると言えるでしょう。


 「性欲の抑制」と言うのは新たな理由付けです。 しかし、そう勘ぐられても仕方のない状況です。

 関係ありませんが、クリトリスの切除には、 「女は男のペニスを膣で感じるのが正統だ。」という男性本位の考え方が 根底にあると女性学者が言っていたように記憶しています。 その意味では当たっているのかも、、、

(2000/02/19)


包茎手術撲滅連盟会員さん 2000年05月22日

 一体、人類の過半数が備えている肉体的特徴なるものを良くないもの、 恥ずかしいものと考える、 と言うことはどういうことでしょう? 100人に1人、1000人に1人、 と言うような希なケースでしか出現しない肉体上の特徴というのであれば、 その悩みも理解できます。 しかし、人類の約2分の1がそうである、と言われる包茎を厭い、 肩身の狭い思いをするというのはどういうことなのでしょう?

 むしろ、包茎は人類の標準であり、 これこそが真のペニスのありようなのではないでしょうか? これこそが、人間のメジャーな姿であり、 標準的な健康的な姿なのではないでしょうか? それが、何故、「包茎治療」などと病気でもないのに「治療」などと言う表現で、 ペニスに刃物を入れ、針と糸で縫うなどと言う不自然で人工的な加工を、 毎日毎日多くの雑誌を通してことがるごとに迫られなくてはならないのでしょうか? こんなことは、医療行為と言えるものなのでしょうか?

 江戸時代の日本の男達は、包茎の手術を経験した者などどれ程いたでしょうか? あるいは、桃山時代、室町時代、鎌倉時代、もっと遡って平安時代、 あるいは弥生、縄文時代。 日本の歴史の中で包茎手術などという奇妙な行為をした男達など本当に存在したのでしょうか?

 おそらく、そのような日本男子は、数少なかったでしょう。 その理由は明らかです。 その時代には、「割礼」などという風習は日本になく、 包茎医者などと言う存在もなかったからであり、 包茎は病気だ、男として情けない姿だ、 などと宣伝する雑誌等のメディアも発達していなかったからです。

 おそらく、包茎手術が行われ始めたのは西欧化が進んだ明治以降でしょう。 とりわけ戦後ではないでしょうか?要するにたかだか50年、 せいぜい100年です。しかるに、人類何万年の肉体の積み重ねが今、 この50年程の間に、少しばかり医学をかじった一部の奇怪なる包茎医者に「病気」だ、 と断罪され、公の媒体を使って日夜、あらゆる隙間を縫って、 「ペニス本来の姿ではない」と無意識層にまで日本国中に価値形成されている。

 包茎は、病気なのか?病気であれば、治療は必要です。 しかし、病気であるはずがない。 もしそうならば、人類の半分は、 先祖から子孫に繋ぐこの生物としての最も重要な一大機能を担う器官が 生まれながらに欠陥品の病気だと言うことになってしまう。 包茎は、別に痛くも苦しくもない。 むしろ、包茎は、これだけの人類の長い歴史の間、 その安全性と信頼性の検証実験に耐え抜いて来た結果としてとして姿だと考える方が妥当です。

 病気でもないのに大規模かつ継続的に公の媒体を利用し、 「治療」などと言う嘘八百のでたらめな、不適切な表現を用い、 虚言を弄し、不特定多数の閲覧に供し、、、 「分かったろ。お前は病気だ。男として犯人前だ。 俺の所に来い。高い金を払うなら、切ってやる」などと世の中を惑わしているとしたら、 これは、もう立派な犯罪ではないのか? 痩せ薬だ、と言って少女に麻薬を売る売人や天から授かり親からもらった背中に ”入れ墨”を入れ、世の中にひんしゅくをかわせるような行為と同種の (それで一体何を子や孫や曾孫達・・・に伝えたいのだ!)、 善良な市民感情を逆撫でする、公序良俗に反する行為ではないのか? それを社会的に人一倍高いモラルの要求される、 いくら末席とは言え、汚している、医師、もどきがその資格においてやっている。

 包茎手術の問題の本質は、決して包茎と言う身体状態そのものにあるのではない。 手術希望者の心理や感情の問題なのだ。 この日本にあっては、包茎は病気だ、不潔だ、恥ずかしいことだ、 格好の悪いことだ、何か後ろめたい、コンプレックスだ、 彼女に嫌われる、彼女を満足させられないのではないか、 彼女が子宮ガンになるのではないか、男として半人前だ、 皮を取れば明日からめくるめく日が来るのではないか、 性格が変わるのではないか、何か悪いことだ、治療が必要だ、 と思われていることがこの問題の原因の本質なのだ。

 そして、この感情を生み出し、拡大増幅している最大かつ第一級の張本人が、 誰でもない包茎業界そのものである。その不当な利得であらゆる媒体を使い、 他の病院とは比較にならない程の膨大な公告宣伝費を使い、はた迷惑な、 包茎を貶める公告を展開し、客を惑わせ、今や一大包茎産業を形成するに至っている。

 雑誌メディアに寄生し、その媒体を利用して包茎を「病気だ、不潔だ、不完全な肉体だ」と撒き散らし、人を悩みと不安に陥れ、コンプレックスを植え付ける。そして、そうやって稼いだ不当利得をメディアに再投下し続け、更に多くの人々を不安に駆り立て、客を誘う。  何のことはない、医者のモラルも尊厳もかなぐり捨て、 「患者を増やすために患者を作り出す」 と言う医師ならば国民皆が決してやって欲しくないと念じている 医療従事者としての”禁じ手”の商法にどっぷりと浸かり込んでいるのだ。 人をいたずらに悩みと不安に陥れ、その悩みを食い物にして生活の資にし、 家財を蓄え、私兵を養い、自分だけ暴利を貪り尽くしている。 夜道を一人歩きしている通行人を、闇夜に乗じてバットで後頭部から殴り倒し、 そこには「救急病院」とネオンサインをちらつかせ、 患者を次から次へと連れ込んでいる。これが、この産業の生成増殖の基本構造だ。

 世間を騒がすいかがわしい新興宗教の”不安商法”と全く変わりない。 「足裏診断法」や「霊感商法」等とその商売のやり方において 構造や内容がどう変わるのか? ただの詐欺師か、医師免許を持った詐欺師がやっているかだけの違いです。

 我々は気づかなくてはならない。 包茎である天然のペニスは、それこそ神が造りたもうた何万年、 何十万年もかけ、幾多の試練に耐え抜いた精巧な完成品です。 しかし、未だ発展途上の医学を金科玉条に、 成績不良の包茎医者が手に掛けたペニスは人間総体としてのバランスを崩しかねない、 内的組織の破壊されたどこに穴があるのか分からない危険な代物です。 本物のモナリザの目を若気の至りで「ダサイ」と言って 流行の少女漫画の目に描き換えるよりも更に愚かな行為です。

 しかも、なまじっか現代医学なんか利用しているから、 2000年以上の人体実験を経て一応、 安全性とある種の効用(主として宗教的観点から見て望ましいのであろう効用)は 確認されているのだろう”割礼(主にユダヤ教とイスラム教の世界で盛んに行われているらしい)” 以上のことをやっている。 (結局、それを越えた部分は今も”人体実験中”です。 しか、それは、やりっぱなし、で追跡調査も何もない。 個人的には、青年期を過ぎて手術をした人の手術前、 手術後の心理面の変化を医学的、心理学的に調べるべきだ、と思います。 特に、知・意・情のうち”情”への影響。

 宗教だからそれでも悪くないじゃないか、と言う人もいるかもしれませんが、 手術を受ける側がそう思って手術を望んでいるかが問題です。 日本人として、1人の人間として、本当にそれを受け入れる覚悟でやっているのか。 思っていないのに、結果そのような方向に導かれてしまったとしたら当人には、 詐欺としか思えないでしょう。 しかも、それは、本当のところ個人には責任はなく、 マスコミに寄生した包茎産業に人為的に誘導された結果なのです。 そんなものさえなければ、人々は包茎そのものを意識すらしなかったでしょう。

 包茎手術をすれば、 今まで自分の中に当たり前に存在しているものはそのままの状態で存在し続け、 新たに別の自分には無かったものがそれに加わる、と考えてしまいがちです。 しかし、そんなおいしい話はないのです。 基本的に外科手術というものは、本来人間の持つ能力を最低除去した分だけ減少させる行為です。 決して人間本来の能力をそのままにして魔法のようにプラスだけを与えるものではないのです。

 そして、そのプラス面マイナス面がどういうものであるのかさえも これまで医学的心理学的に綿密に検証されてきたとは言えない分野のです。 死なない、小便は出る、性行為が可能、 と言う大雑把な基本機能の保持だけをもって安全性が保証されていると 言うことで外科手術などという”途方もない行為”が野放図に行われているのです。 それを包茎医者は、プラス面だけを強調し、それにより失われるものを決してお首にも出しません。 そんなことをすれば、お客さんが減ることは間違いがないからであり、 そのことは自分達の収入が即減ることを意味するからです。

 やらずもが名の手術をし、それが何のためになっているのかと言えば、 結局、自分達の私腹をこらしているだけ。”医学の濫用”もいいところだ。 商売になると言う理由で、医学をおもちゃにし、人の体をおもちゃにしている。 しかも刃物を振りかざしてそれをやっている。 還らざる川の人身売買の渡し船になんか乗ってはならない。

 また、その穢れた手と心で握られた錆びた凶器は、 切られる方の患者の魂をも穢れさせ、荒ませます。 何故、こんな奴らのために社会の厚生が一方的に損なわれなくてはならないのか? こういう、医師免許を持ってはいるが医師にはあらざる連中から構成されている 医療もどき業界が、この包茎産業だ。医療の名の下に合法を装ってはいるが、 その実体は、医学をおもちゃにし、金儲けの手段にしている包丁を振りかざした強盗詐欺師の巣窟だ。

 我々に今必要なのは、包茎に対する正当な評価です。 包茎の当たり前の評価です。 包茎は、決して、病気ではなく、 人類として標準的な健康な形態であると皆が当たり前に思う世の中です。 銭湯やサウナで堂々と出して歩いても誰も違和感も侮りも抱かない社会です。 これまで何十年にもわたり包茎業界によってメディアを通して 一方的に組織的に形成されてきた包茎に対する悪しき価値観を 人々の心の中から払拭し、是正することです。

 ”男性美の極致”と言われる、 ミケランジェロ作「ダビデ像」だって立派な包茎でした。 今から2500年以上も前に作られた最高傑作と言われるギリシャの兵士の彫刻も包茎です。 以前テレビで見たインドの大きな仏像も包茎でした。 考えて見れば、性を偏向する一部の偏執狂的なカルト宗教(オウム真理教のような)や 地方の土俗的民間の祭事を除き、 人は、剥けた亀頭の大きい一物をもつ仏様をありがたく拝む気になるものでしょうか? そういう人もいるかもしれませんが、そうでない人も多くいると思います。

 それに男性器に対して神が与えた最も重要な感覚は、 5感の中では「触覚」ではないでしょうか? いろいろな感覚が関与しているのでしょうが、触覚が一番大きいと思います。

 若い人が悩むと言われる、敏感過ぎる早漏とは、 生殖器の感度が人より優れている証なのです。 確かに若い時には、失望させてしまうこともあるでしょう。 しかし、それは、年をとってもその感覚がより生き生きと活動し続ける ”可能性の存在”と言うことであります。 以前読んだ医学書には、西欧人が包茎の手術を選ばなかったのは、 ”感覚の温存”にあるのではないか、と書いてありました。 これは、キリストの弟子パウロの選択にも影響を与えていたのかもしれません。 包茎手術は、視覚のみを一方的に偏重、優先して他の全ての感覚を犠牲にしたものです。 不当に包茎を貶める公告に毒されてきた現代日本人には、こういう観点からの見方が必要に思います。

 結局、”万物の創造主”と”包茎医者”のどちらを信じるか、 と言うことです。比べてみたくもないのですが。


 私がコメントするまでもないでしょう。

 学校の成績としばしば経済力で得た資格をたてに、事実を捻じ曲げる人々。 そして、影響力を売り物にし、 捻じ曲げた事実を増幅させる片棒を担いでいる人々。 現在行っている犯罪的行為をそろそろ止めて頂きたいと思います。

(2000/05/28)



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