以下は、元・習志野市長である吉野孝氏が、三遊亭圓生師が亡くなった時に記した追悼文です。
著書・「甦る断想」より
■圓生の生涯を閉ずる日に……■
この日も出囃子にあわせて高座にあがった圓生は、うっすらいつもの、やわらかな表情と変りなく……。きょうは珍らしく身体の調子が少うし悪るうございまして、粗喪があると申しわけございませんので短いおはなしでおいとまを……と切りだした。これは六代目圓生七十九才の誕生日に当る九月三日、習志野で開かれた圓生後援会発会の高座のことで、数刻後には目の前の名人圓生が不帰の客になろうとは誰一人知る由もない幕開きであった。短い高座ではあったがそんな苦痛の翳も見せず、芸に生きぬいた明治の慈顔とキラリと光る目を巧みに活かして「桜鯛」を一席うかがい軽いさげをきめ、後援会百人の名士は笑いとほほえみの中に拍手を送っていた。
恐らく落語を愛するひとりひとりが最も身近に、名人圓生を聴ける幸せを堪能したに違いない。
圓生が高座をおり、舞台裏に入ろうとした瞬間あの長身痩躯がグラリと傾き一門の人々に抱えられたが、このことは誰一人気がつかなかったようだ。そして控室に退る途中余りのことに席から飛び出したわたしは、“師匠大丈夫か!”と声をかけるや、苦痛に耐えながら……一世一代の醜態をお見せして終いました。どうぞお許しください……と深々と頭をさげ立去る姿に、一瞬もしやという不安と戦慄が背筋を冷たく走ったが、やはりこれが悲しい忘れ得ぬ名人最後のことばとなって終った。この事態の急変により、直ちに市内の病院へ移送し、そして千葉医大より稲垣教授が駆けつけ、四人の医師の懸命の治療も空しく、夜九時三十五分、はな夫人、圓楽師匠をはじめ多数の一門に見守られながら帰らぬ人となった。まさに“巨星墜つ”病院の一室で関係者と共に余りのことに滂沱の涙をとどめうべくもなかった。容態急変のなかで師匠ののこした「一世一代の醜態」とは、はなしの半ばで心筋梗塞の息苦しさからくる声のふるえであり、これを死の直前まで嘆き、皆さんに申訳ないと訴えていた情景は、名人の芸に生きるすさまじいまでの根性に、今更ながら肺腑をえぐられる思いである。
午後七時過ぎ、はな夫人、続いて圓楽師匠がかけつけた。師匠臨終の枕許でのはな夫人は立派だった。「師匠にはこの年までお世話になりました。せめて最後ですから師匠をだいて帰ります」と師匠の愛車に深夜遺体をだいて帰る姿には見送る人も号泣し、この人あってこそ圓生の芸は少しのおとろえなくつややかにうつくしく、いよいよいぶし銀のように渋くあくまで洗練に洗練しぬいた芸を保ち続けてきたのだと思わせた。今日までの難行苦行であったあの戦火の時代をくぐり、その生身を損われることもなく、血肉をその芸に通わせて古典落語一すじに生きてきたそのことにわたし達は深く感動させられる
人のこころを動かし、浄め、生きていく喜びを人に与える芸などというものが、人間一代の生涯くらいのことでできるわけがない。恐らく六代目圓生も生まれかわりのひとりであり、だからこそそれが強烈な魅力となっているのだろう。
社会面を賑わす斯界のできごとがどう結着しようとも、大衆はその人の芸に打たれ、その真情に感服し、魅了されていくものだということを忘れてはなるまい。芸のよしあしなど毛頭判らぬわたしだが、大分昔のこと、芸に打たれわけもわからぬままに泣いた記憶が蘇ってくる。戦時中、三越名人会に富崎春昇の繁太郎節弾き語りを案内されたことがある。幕が上り切って舞台には目の不自由な春昇がやさしいおもざしに三味線を構えた姿は、生まれながらの姿かと思わせる安定感があった。たちまちに会場にはサット厳しい空気が流れ、私自身目頭の潤むことを押えられなかった。この人は地唄の名人として、きっと生きかわり、死にかわり、もっと巧いもっといい芸を来世も聞かせてくれるに違いないと思わせる感動であったのだろう。もし芸のためならばいのちを削り身をすりきらせて少しも悔のない執念をもった芸の人を、と尋ねられるならば、わたしは即座に圓生と富崎春昇をあげるだろう。
わたしの書斎には、この秋彼岸まで
御意見が肩へめりこむ暑さかな 圓生
という色紙だったが、今は、
江戸の華 首提灯へ冬の風 圓生
という句が淋しく掲げられている。
今年に入ってから師匠とは二度雑談を交わすなかで、川柳ばなしが一番楽しかったのか、文楽、志ん生、柳枝、小さん、馬生他の顔ぶれで川柳の会をつくり、終ると四谷の蔦の家で飲んで踊った師匠達の仕ぐさ等を披露し、高座の噺とは違った味で、男圓生の面白さであった。また、わたしの好む小咄や、師匠の「梅岩礼三郎」についても、楽屋で江戸情緒、江戸市井の哀歓を洒脱な口調で解説をしてくれたことも今は昔の語り草でしかない。
わたし達習志野圓生後援会は、芸に生きぬいた故人の冥福を心から祈り、その遺徳を偲ぶため、十二月三日各界の方々を招き、終焉の地習志野文化ホールで、六代目圓生追悼会を催すことを決めている。
習志野には、谷中の全生庵にある圓朝の墓のように、これが東京かと思われるようなしづかな佗びや、明治を回想させる古びはないが、人一倍洒落者の圓生師匠のことだから、近代化されたここ習志野に、師匠の句を刻み記念碑をのこしても叱られることはあるまい。そしてわたしは、この碑の周りには毎年スズムシを放って師匠に秋の声を聞いてもらおうと考えている。
(落語界・掲載)