落語ブラリ散歩

立川談志の墓参りにゆく

ブログ掲載 2014/11/23


 一昨日11月21日は立川談志の命日でした。談志が亡くなったのは2011年のこと。亡くなった当初その死は家族とごく一部の弟子しか知らなかったはずでしたが、情報はどこからか漏れたようです。噂を聞きつけたマスコミが弟子や関係者にあれこれ取材したものの、なかなか裏が取れません。正式に死去が発表されたのは2日後の23日。この日は祝日だということもあってか他に大きなニュースは無く、NHKの夜7時、9時のニュース、テレ朝報道ステーションなど、夕方から夜にかけてのテレビのニュースは軒並み談志死去がトップ扱いで大きく報じられました。まだ東日本大震災や福島原発事故のニュースの続報が次々と流れていた時期、一人の芸人の死がこれほど大きく報じられたのは私としては意外であり、また「噺家」の死をメディアがこれほど大々的に扱ってくれたことは、不謹慎ながら落語ファンとしてちょっと誇らしくもありました。
 ちなみに、先日亡くなった高倉健さんの場合、死去が発表された当日に安倍総理が衆議院解散を決定したというニュースと重なってしまい、どこのテレビ局でも2番目以下の扱いでした。なによりも目立つことが好きで、なにかと自分が一番である事にこだわった談志。自分の死に世間が大騒ぎしてくれて、本人の望む通り「ザッツ・ア・プレンティー」な死を迎えられたのではないでしょうか。

 談志の落語はジャスに例えるなら「フリージャス」ではないでしょうか。突拍子もないフレーズが入ったり、突然にリズムが崩れたり、不自然に強弱を付けたりと、ともかく既存のものを壊す。それを熱烈に受け入れる談志ファンは多数いたものの、それを快く思わなかったアンチもまた多かった。実をいいますと、私も談志の落語の「崩し方」はちょっと自分の好みとは違うなぁと思うのです。談志の生の高座は独演会などで十数回みましたが「談志ファン」というよりも「落語ファン」として見ておきたいとの思いからでした。

 さて、落語家ゆかりの場所へ足を運ぶのにすっかり凝ってしまった私。今回は談志の墓参りに行こうと考えます。本人は生前、死後の散骨を希望していたとのことですが、一方であの有名な「立川雲黒斎家元勝手居士」という戒名を自身で付けたりする。結局、遺骨の一部は海に散骨され、また墓も立てることになります。墓などという狭苦しいものは談志好みではなかったかも知れませんが、家族や弟子、そしてファンが訪ねる慰霊のモニュメントはやはりあって良かったのでしょう。当初とあるお弟子さんの話では、あの戒名ゆえ、引き受けてくれるお寺さんがなかなか見つからないとのことでしたが、ネットで調べるといつの間にか、文京区の「浄心寺」という浄土宗の寺に墓は建てられた事が分かりました。正確にいうと浄心寺の経営する「本郷さくら霊園」という所に墓はありまして、ここは宗教不問の民間霊園であり、故に件の戒名も許されたものだと思われます。
 ということで命日からは一日遅れましたが、昨日墓参りに行ってきた次第です。地下鉄南北線「東大前」で下車、北へ徒歩5分ほどの所に浄心寺はありました。この辺は現在は向丘二丁目、かつては駒込蓬莱町と呼ばれていた所で、寺院の多い「駒込」の南端にあたります。談志の拠点の一つで彼自身も愛した根津の町にも近く、ここなら談志も文句は言わなかったのではないでしょうか。談志の眠る「本郷さくら霊園」は浄心寺の右側にあり、浄心寺の墓地とは柵で隔てられています。

浄心寺・本郷さくら霊園(1)

 霊園案内事務所の建物をくぐると、右側やや離れた場所に黒く輝くひときわ目立つ墓石があります。「もしや」と思って足を運ぶとやはりこれが談志の墓でした。

立川談志の墓(1)

 他の墓石と較べてもかなり大きめの黒御影石。まだピカピカとあって一際映えます。昨日が命日だったということもあって、隣の墓にはみ出すほどの量のお花が供えられています。墓石正面に刻まれた「立川談志」という文字、これは談志本人の手蹟ですね。墓の土台の紋は家紋ではなく、談志一門の定紋である「丸に左三階松」。墓石の左側には「立川雲黒斎家元勝手居士」という例の戒名が刻まれています。

立川談志の墓・戒名(1)

 5分ほど拝んだり写真を撮ったりしげしげ眺めたりし、墓前を離れます。先ほど通った案内事務所の前を通ると、壁に以下のような額が掲げてあるのに気付きました。

浄心寺・住職のお言葉(1)

 「片棒」の落ちに対するツッコミなのか。この言葉を考えた方が落語の「片棒」を知っているならば面白いな、そんなことを考えながら霊園を離れ駅へと向かいます。


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