王子の狐(おうじのきつね)
八代目桂文治
以前はお稲荷様のお祭りには、
何れのお子供衆も、稲荷まんねん講などゝ云って小遣いを貰って歩いたもので、今日は時勢に従ってそういう
賤しい事をする子供衆はございませんが、しかし、稲荷様を祭る家では太鼓を叩き、お神楽を致し、
稲荷鰭を
造えたり、
赤飯をふかしたりして、子供衆に御馳走を致します。狐はこのお稲荷様のお使い姫とかいって、稲荷の信仰者は大層これを
尊とみます。けれども狐は
陰獣で
能く人を
誑かすと申しまして、同じ化けても狐の方は
悧巧に化けますが、狸の方は化け方がドジでございます。
或る田舎で大勢村の者が寄って
博奕をしておりました。
スルト狸が
何処から参りましたか、その辺をうろ/\歩いていると、何か人声がするから節穴から
覗いて見ると、
車座になって、
○「どうだい
汝えかく勝ったようだな」
△「ナニ
俺ァそんなに勝たねえぞ」
○「イヤ勝ったぞ」
△「
何の勝つものか」
と争って居る。ハテナ
大分集ってるが、アヽ
博奕をして居やがる。悪い
奴等だ。よし、俺が一つ化けてって、
此奴等の金を皆な
打奪ってやろう。誰か村の者に化けて入ろう。けれども大勢居るからもしその中に本人が居ると
往かねえ。今に誰か出て来るだろうからそうしたらその人に化けて入ろうと、
戸外に狸先生待って居りますと、中で一人、
△「
何れまた明晩」
○「じゃァお前帰るかえ」
△「オ、俺ァ帰る」
○「
其処をピッシャリ締めてってくれよ」
△「オ、よし」
ピッシャリ戸を締めて出掛けた者があるから.狸は
〆たと
突然ヌッと中へ入り、一人
明いた蒲団の
処へドッカリ座って、
△「今帰ったけれども、また一つやりたくなったから帰って来た」
ヒョイと見ると狸が座っている。一同驚いて、この狸めと七八人
力ある奴にふん
捉まって、ポカポカ
殴られてとうとう死んでしまった。あまり慌てゝ中へ飛ひ込んだんで、化けるのを忘れて入った。
疎忽かしい奴があるもので、
其処へゆくと狐は
悧巧だから化けるのが
上手でございます。その
悧巧な狐を人間が化かしたという話があります。狐に化かされた話は幾らもあるが、狐を化かしたという話はあまりございません。
或る方が王子の稲荷様へ参詣をいたし、ブラ/\
邦方此方を歩いておりますと、只今のようにまだ王子も開けません時分で、
稲叢の所にヒョックリ
尻尾が見える。どうも犬の尻尾のようでない。ハテナと
密と近寄ってよくよく見ると狐に
相違ない。フヽ狐め、昼寝をしてやがると、
止せばいいのに
悪戯な人で、石を拾って見当を付けてポンと投げると、狐はいい心持に寝て居る所を石を
打附けられたから驚いて、飛び起きて見ると人間が居るから、そのまま
稲叢の
蔭へ入ってしまった。ハテナ何をするかと思って、
此方から見て居ると、蔭へ
匿れて狐が
頻りに頭へ草を載っけています。オヤ/\妙な事をすると思うと、ポーンと狐が一つ引っ繰り返ると
忽ち二十六七の
半元服のポッチャリした色白の婦人に化けた。アハ、これは面白いな、俺も今まで
随分絵や何かでは見ているが、狐が人間に化けるのを
目前見たのは初めてだ。色の白い
美い女に化けやがった。イヤこんな事をいっている内に
危険だぞ、これは俺が女が
嗜きだというんで、女に化けやがったんだな…オヤ
何処かへ見えなくなつちまった。グズ/\している内に化かされるぞ、よし、一ツ
此方で化かしてやろうと、眉毛へ唾を附けてスタ/\二三丁やって来ると、
簀子張りの茶店に婆さんが居眠りをしているから、
○「お婆さん」
婆「ハイ」
○「アノ
外ぢじゃァないが、少しお聞き申したい事がある」
婆「ハイ」
○「
今方此処を二十六七になる色白のポッチャリした
婦人が通りゃァしなかったかえ」
婆「イエお見掛け申しませんね」
○「ハテナ…ナニ実はね、私と一緒にお
参詣に来てね、
其所此処と見ている内にはぐれちまったんだがね…この道を来る
外に
何処へも行く気遣いないと思うが…」
女「モシ
貴郎、モシ…」
振り返って見ますると
何時の
間にかお出でなすった。
○「オー
危険々々」
眉毛へ唾を附けて、
○「オヽどうした」
狐「アラマア探していましたよ」
○「そうかえ、私も散々捜して、どうしても知れなけりゃァ王子の
頭の所へ寄って、若い者でも頼もうと思っていたんだ。今もこのお婆さんにこういう
婦人が通りゃァしなかったかと聞いていた処だ。マア
宜かった、丁度モウ時分だから
何処かで
御飯を食べて行こう」
狐「そうですねえ」
〇「
何処にしよう、扇屋にしようか、海老屋にしようか」
狐「何処でも
宜うございます」
○「じゃァ扇屋で
御飯を食べよう。けれども
彼所では油揚げは食わせめえな」
狐「
嫌ですねえ、油揚げなんぞ
妾ゃァ好きませんよ」
○「アッ、油揚げは好かねえ。
只の狐じゃァねえな…マァ何でも
宜い一緒に行こう」
女「いらっしゃいまし。どうぞ御二階へ…」
○「お前さん御酒は飲めるかね」
狐「ハイ少しは頂きます」
○「アヽそう…
姐さんお酒を持て来ておくれ。お肴は
見繕って、どうか早く持って来ておくんなさい…少しは飲めるというのが幸いだ。酔っ払わしてやろう…サァ一つ…」
盃を差されて狐も飲める口と見え、ガブ/\飲んだんで、
宜い心持ちに酔ってしまった。
狐「どうも大変に酔ったんですよ」
○「そうかい、
大分宜い色になった。マァ
悠くりとして行こう。まだ日が高いから」
狐「そうですねえ」
○「私も
宜い心持ちになった」
狐「どうも私は大変に酔っちまったんですよ」
○「そうかえ。大分
宜い心持ちさうだ。モウ
往けないかい。ナニ頭が痛い、アヽ少し飲み過ぎたと見える(ポン/\ポン)アノ
姐さん、お気の毒ですがね、
一寸枕を一ツ貸して下さいな。ナニ少し頭が痛いというから…マアいいから
其処へ少し横になってお
在で」
狐「何だか
体裁が悪いようで」
○「いいってことさ、少し寝ていると直きに酔いが
醒めるよ」
狐「デハ少し御免なさいまし」
とそれへ横になったと思うと、そのまま
宜い心持ちそうにスヤ/\寝てしまった様子。寝息を
窺ってて
密と下へ降りて来て玉子焼きを三人前お
土産に
誂えて置いた、それを持って、
彼の男は先へ帰ってしまいました。
此方は二階に寝ていた狐、ヒヤリとしたので目が覚め、酔いも
醒めて、アヽ
宜い心持ちになったとヒョイと見ると
彼の人が居りません。ビックリして手を叩いて女中を呼んだから、
女「ハイ、お呼びなさいましたか」
狐「アノ
姐さん、お気の毒様ですがね、お湯でもお茶でも一ぱい下さいませんか」
女「ハイ、
畏こまりました…
是へ持って参りました」
狐「アヽ有り難う存じます…アヽ
宜い心持ちになりました。アノつかん事をお聞き申しますが、連れの人は
何処かへ参りましたか」
女「ハイ、先程お帰りになりましてございます」
狐「オヤ帰りましたかい」
女「ハイお帰りになりました」
狐「そうですか、マァ酷いじゃァないかね。
妾を
寝こかしにしてさ…アノ妙な事をお聞き申しますが御勘定をして参りましたか」
女「イエ御勘定は
和女からと
仰って…」
狐「エーッ」
云われた時には
流石の狐も、驚いたと見えまして、今まで
奇麗な
貌観の
年増であったのが、
忽ち耳を出すと、後ろへ結んでいた帯が大きな
尻ッ
尾となってヒョックリ
振ら
下ったから、ビックリした女中が
真蒼になり転がるように
階子段を降りて参りまして、
女「
吉さん、
勝さん大変だよ/\」
吉「何だ、どうしたんだ。大きな声を出してビックリするじゃァねえか」
女「大変だよ、二階へ行ってごらん、大変だよ」
吉「何が大変なんだ」
女「
先刻の二人の御客ね、一人男の方は帰ったろう」
吉「ウム」
女「二階に女の方は寝ていたんだが、あれは狐だよ」
吉「冗談いっちゃァ
往けねえ。そんな奴があるものか」
女「じゃァ行ってごらんな。
内儀さんの方が寝ていた所が目を覚まして、お茶でもお湯でもいいから、一杯くれろと云うからお茶を持ってったら、連れの人はどうしたと聞くから玉子焼きのお土産を持ってお帰るりになりました、御勘定はというから、御勘定は
和女からというとビックリしたと見えてブル/\と身震いをすると、今まで
好い
年増だったのが耳を出して、締めていた帯が
尻尾になってしまったんだよ」
吉「嘘を吐きねえ、
巫山戯ちゃァ
往かねえ」
女「ダカラ早く行ってごらんよ。狐がチャンと座ってるから…」
怪しみながら若い者が
昇って来てみると驚きました、成程女中のいう通り、
尻ッ
尾が後ろへ出て手を胸に当てがい考いている様子だから。
吉「ヤァ勝さん萬さん
一寸来ねえ。
真正に狐だ」
勝「ナニ
真正か、そいつァ驚いたな。王子に稼業をしていて、狐などに食い逃げをされて堪るものか。ソノ狐を
打ち殺してやろう」
若い者が七八人鉢巻をして、天秤棒
心張棒などを持って
密と二階へ
昇って来た。狐は自分が
本体を
顕しているとは気が附かない。
頻りに考えている所へ、突然大勢昇って来てこの「狐め」と
打ち込まれた。不意を
食ったから堪りません。座敷の中を逃げ廻ったが棒を持って追い廻され、いよいよ叶わなくなると、狐の方には逃げる法があると見えて、一発鼻を貫ぬくような奴をパッと放った
鼬の
最期屁ということはよく申しますが、狐の苦しっ
屁と来たら、どうもその目口へ染み込んで
吉「アッ、プッ、これは堪らねえ。誰だいこの中で…ナニ狐だ。驚いたねえどうも、オヤ狐は逃げちまった、驚いたねえ狐めえ、苦しッ屁をして逃げちまやァがった。
飛んでもねえことをした。オヽ親方お帰んなさいまし」
主「何だ/\、鉢巻などをして、
各々に天秤棒や心張棒を持って、何の真似だ」
吉「何の真似ったって食い逃げでございます」
主「食い逃げだって手荒いことをしちゃァならねえ。御客様へ対して…」
吉「それが親方狐なんで」
主「ナニ狐」
吉「ヘエ狐が
二疋来やァがって、
夫婦狐で、
牡狐の方が先へ帰ってしまって、
牝狐の方が
跡に残って
呑みぎて寝ていやがった。女中が行ってて勘定というと、その狐がビックリして耳と
尻尾を出しやァがったんで、大勢で
打ち殺そうとした中に苦しっ
屁をして逃げちまいました」
主「それは大変なことをしてくれた」
吉「何で」
主「何だってお前達も考えてみねえ。
永代こうして王子に稼業をしているのは何だと思っている、みんな王子の稲荷様のお
蔭だ」
吉「ヘエ」
主「ヘエじゃァねえ、王子の稲荷様のお狐様がわざわざ来て下すったんだ、せっかく扇屋へ御夫婦で来て下すったのを
打ち殺すなどゝは呆れるじゃァねえか」
吉「成程、王子の稲荷様がお出で下すったんで、そりゃァ大変なことをしました」
主「
飛んでもねえことをしたじゃァねえか。今夜は大変だ、お前達は取り着かれるぞ」
吉「ヘエ」
主「ヘエじゃァねえ、病気にても取ッ着かれたら仕様がねえ」
吉「困っったなァ。どうしたら
宜うございましょう」
主「尋常じゃァ
往かねえ、お
詑びに行かなけりゃァ
往かねえ」
と扇屋の
家は大騒ぎでございまして、大勢揃ってお稲荷様へお詑びに行くという始末。
此方は例の男は三人前の玉子焼きを持って
宜い心持ちに
微酔機嫌で、
○「
今日は」
△「ヤア
何処へお出でなすった、大層
宜い御機嫌で」
○「イヤ
今日は王子の稲荷様へ御参詣をして、ブラ/\
邦方此方歩いて来ましたが、どうも浅草や何かと違って、またアノ辺は
宜い心持ちで…」
△「お一人じゃァありますまい」
○「エー連れがありました」
△「お連れは御婦人で」
○「エヽナニ狐でございます」
△「ヱー」
○「狐でございます」
△「狐、アヽ吉原の花魁を…」
○「イエ
真物の狐」
△「ヘエー、それはどういう訳で」
〇「実はこういう
次第なんで、狐が
畔道で昼寝をしていたから、石を
打附けると、
稲叢の
蔭へ入って女に化けたんで、狐の化けたのを絵では見るが、
実物を初めて見ました。それから
此方で化かされない内に
反対に化かしてやろうと思って、王子の扇屋へ引張り込んで酒に酔わして寝かして置いて玉子焼きを三人前
土産に持って勘定を押し付けて逃げて来ちまった」
△「酷いことをなさるねえどうも、人間が狐に化かされた話は
度々聞きますが、人間が狐を化かすというのは初めて聞きました。どうも驚きましたねえ、しかしそれは
貴所飛んだことをなすつた」
○「ナーニ」
△「ナーニじゃァない、狐は稲荷様のお使い姫です。お
参詣に行って狐を
欺したり何かしたらお稲荷様のお怒りに触れますぜ。第一その狐が
跡でどんな目にあったか知れません」
○「
成程」
△「成程じゃァありませんぜ、狐を酔わして茶屋へ置いて来るというなァ酷い話だ、もしもその狐が
撲殺されでもしたら、お前さんはともかくも、子供衆や
内儀さんがどんなに祟られるか知れませんよ」
○「成程そう云えばそうだねえ」
幾ら
悪戯な人でも気が付いて見ると神経が起って、悪いことをしたと思ったから、明日の朝お
詫びに行くこうと、その晩は家へ帰って
内儀さんにも話さず、
翌朝早く起きて
家を飛び出し
種々の
土産物を整えて王子へやって参りましたが、
何処の何町何番地の誰という訳ではない。どの穴の狐だか分からない、サァ困った。
諸方の穴へ行て様子を窺って見るが知れない。段々来ると稲荷様の
傍の所に小さな鳥居があって、奥深い穴があるから、その穴へ耳を附けて見ると、
唸り声が聞えます。
○「アヽ
此処だ、御免なさい、御免下さい…何だか
可笑いな、エ、少々伺います……アッ、小さな狐が出て来た。フヽこれはどうも面白いな。フヽ
昨日見た狐の子供だ…へヽモシ
貴所息子ちゃんですか、
嬢ちゃんですか、へヽおぼっちゃんで…どうも、御毛並みが
好うございますな。エヽ
一寸伺いますが、
貴所の
阿母さんで
在っしゃいましょうか。実は私は
昨日、ソノ、
阿母さんを化かしました人間なのでございますが、どうも誠に済まないことを致しました。
一寸フラ/\とあァいう気が出ましたんで、以後は決して
悪戯をいたしません。どうぞ御勘弁を願います。エヽ、これは詰まらんものでございますが、ホンの御詫びがてら.どうか
貴所から
宜しく
阿母さんに仰って下さいまし。へヽお
可愛らしい御顔ですね。お毛並みの
好いこと…、アヽ
銜えて奥へ引っ込んでっちまった…」
狐「アヽ痛い/\。白や表へ出るんじゃァないよ。
阿母さんは
昨日表へ出てネ。人間に酷い目に遇ったのだからお前も表へ出ちゃァ
往けないよ。お前なぞは子供だから、どんな目に遇うか知れない。この
節の人間は油断が出来ないよ。表へ出るんじゃァないよ。何だえ/\」
小供「アノネ、
昨日阿母さんが化かされた人間が来たよ」
狐「エー来たえ、マア呆れた奴だ」
小供「何だか大変に
詫ってるよ。出て行ったら、坊ちゃんですか嬢ちゃんですか。お
可愛らしい
宜いお毛並みだってそういってたよ」
狐「ソラ/″\しい奴だねえ、嫌な奴だ。出るじゃァありませんよ」
小供「ウン大変に
詫ってるよ。それでね。アノ
阿母さんに宜しくそういってくれろ。誠に済みませんでした。これはホンのお
詫びがてらだといって、何だかこんな物をくれたよ、開けてみよう、ヤア
牡丹餅が入ってらァ、食べよう」
狐「食べるじゃァない、
大方馬の
糞かも知れない」