片袖(かたそで)
三代目三遊亭圓馬
この「片袖」の原作題名は「平野大念仏寺幽霊の片袖」というもので、創作は天保年代の初期である。ちょうどその当時平野在の大念仏寺(大阪市住吉区)に起こった墓
発きの怪盗が天満与力の手で召し捕られて獄門の刑に処せられたのと、
上本町、一説に
上汐町の酒問屋の小町娘おいと(評判の娘で一枚絵になって売られた位の女)が恋人の片袖を抱き締めて死んだ
巷説とを結びけて大体のストーリーとし、その上に当時道頓堀角の芝居で六十五日の大入で打ち続けた狂言「
仮名手本忠臣蔵」六段目の
切の
浄瑠璃文句を取り入れて拵え上げたものである。原作ではシテ、ワキともに大阪方言であるが、本書には演者の仕勝手からシテを江戸ッ
児にし、ワキを大阪
者として目先きを変えてある。なお時代も明治時代に直して演ぜられている。(花月亭九里丸記)
雑魚の
魚交わりとか申しまして一席申し上げます。聴いて頂くのでなく、本だからマァ、見て頂く方で…。それから私は永らく大阪におりますので、大阪の言葉と東京の言葉とを和洋折衷、いや東西折衷の
演方が面白かろうと思いまして一席お
喋舌致します。東京の言葉は速記に致しましても楽ですが、大阪は言葉がまことに書きにくゝ、また読み難いものです。エーまた、
喋舌ります方も
喋舌り難い、それは
音の上げ下げで訛りが出て来ますのです。
「
今日は」
「おうー、お
這入り」
「えゝ
塩梅にお天気でよろしあんな」
「どこかへ遊びにでも出掛けたのか」
「いゝえ、いま
横町の
理髪店肝へ行ってましてん」
「オウ
定さんのとこか」
「そうだんねん、
仰山な町内の人が
集ってはって、世間話をしてましてん。その中で
貴方知ってはるか知らんが、西区の警察へ出てはる人で八木様という人を知ってなはるか」
「ウム、八木刑事か、一度顔を見た事がある」
「
左様か、八木さんがなあ、
貴方何してはるのやろ、
職業何ヤ判らんし、ぶら/\遊んではるが、一体あの人何
職業や?誰も知りまへん。そいで八木様が、
喜公お前行って聴いて来いやい。よろしあすというて聴きに来ましたんや。
貴方何
職業だすねん」
「俺の
職業が聴きたいのか、よっし、聴かしてやろう、…
表戸締めて来い、…おっと、掛け金かけて。…裏口も締めて来な、…おう、まだ乗ちゃいけねえ、その台所にある
出刃を持って来な」
「
怪体な
職業やな、
裏口も
表戸も締めて、出刃庖丁を持って来い」
「さあ、そこへ
坐れ。今俺の
職業を聞かしてやるが、大きな声を出したり、ちっとでも動くとこの出刃がでおめえの横っ腹へズブ/\と
這入るんだぞ」
「フフ…、もうよろしあす、もう聴きまへんわ」
「いゝや、
仕度をしたんだ、いうなと言っても言うずにおかねエ…
喜公、…
俺盗人だッ」
「フへッ!(
慄える)あゝ
怖わ。さよか、さゝ、さようか、
可笑しい
工合やとおもたんや、こゝこゝに財布の中に十、十八、
銭と市電の
片、片道券の残りがおます、それより
他に、な…何にもおまへん」
「ウハヽヽヽ、
莫迦な事を言え、おめえの
如な者の
金銭を
盗るような
盗人じゃねーや」
「
金銭盗る
盗人と違いますか、
金銭与る方の盗人だすか」
「
金銭を
与ったらが
盗人にならねえや。
他人の物は
盗るが生きた者の
懐中は狙わねえんだ」
「ほと、どゝゝどんな事をしやはりまんねん」
「墓返しが俺の
職業だ」
「墓返し?てなんだんねん」
「まあ判らなきァ、いゝや。そこで、てめえに聴くことがあるが、四日程前、立派な
葬いを送って行ったなあ」
「へえ/\、ありゃ
貴方、
上本町の
山内清兵衛という大きな酒問屋はんの葬礼だすねん」
「ウム、上本町の
男山のか」
「
左様だす」
「誰か死んだのか」
「あすこの
別嬪な娘はんだすねん」
「幾つだ」
「十、十、十八…かとおもてます」
「
何病で死んだんだ」
「それがな、
蛙がな」
「なにッ」
「蛙が…庭へ出て来よったんで、そいつが…娘やんの
頭部の上をばっーと飛び越えよったんや、そいで死にはったんや」
「ウム、それじゃ蛙が
魅入れたのか」
「何や知らんけど、あゝ一生懸命に
裁縫をさせたらいかん、おんびきが肩越したというてな」
「おんびき?そりゃ違う、
痙癖が肩を越したんだろう」
「
左様だす/\」
「嫁にでも遣るのだったか」
「
左様だんねん、何を嫁入り先が立派な
家。
彼処にかて何万という資産だんねん、
箪笥かてな八本とかを五本に縮めとかいうてはりなんねんへ
長持が三本、ぎっちり着物が一ぱい詰めてまっせ。そやけどな、
婚礼の
夜に着る袖模様の
衣裳が手が廻らぬので縫えまへんねん、それでお
母様と二人で縫うてはったら肩を越しよったんだ」
「ウム、で
何処の寺へ葬ったんだ」
「天王寺の一心寺」
「土葬か」
「焼かんと
埋めはりました」
「死骸の中へ
金銭でも入れて埋めたようだったが、おめえ知らねえのか」
「へえ、入れはる所私、見てました、
剃髪にするとな
可愛そうなさかい、髪は
高髷(高島田のこと)に
結うて、櫛も
笄も
本鼈甲の上等な物をきっちり皆付けてはりました。で指輪も三本、一つが何やらモンドとかいうてピカピカ光る石の
這入った物で、一つは白い奴でフラチナ、それからもう一つは
黄金の
無垢、無垢というても犬と違いまっせ。それから六連銭が当たり前やけれども
小遣銭に困るといかぬというて三百円、金貨で財布へ入れてはりました」
「
莫迦な真似をしやがるな。
左様か、よしッ、今夜は墓返しだ。てめえ一緒に手伝え」
「どんな事をしますねん」
「死骸を掘り出して衣類はもとより
頭部に差しているものから、指輪、三百円の
金銭まで、そっくり
盗りに行くんだ」
「ハヽーン、ほと幽霊の追い剥ぎだすな」
「おかしな
名称を付けるない、…さあ
喜公、…寝ろ」
「
眠ぶたい事おまへんワ」
「いゝから寝ちまいねえよ」
「まだ日も暮れぬのに、なんで今から寝まんねん」
「夜仕事をしなくちゃならない、だかう昼間のうち体を休めておけというんだ」
「はゝん
盗人の昼寝か」
「
沈黙って寝ろ」
愚か者は枕につきましたが、悪人の
三隅亘は
家の
周囲を、もし刑事が張ってやしないかと、八方に気を付けて、
夕餉の
支度をして、
己れもそのまま、ごろりッと横になりましたが、…チン/\/\(時計の音)時刻はよしッ、とのっそりと起き上がると、
七輪に火をおこして鍋を掛けてジワ/\と煮えて来た頃、
「やい、起きろ/\、ヲイッ!起きろ」
「あつッ!
怖わ、…怖わ/\」
「莫迦ッ!大きな声を出すないッ」
「あゝ怖かった、夢かいな、あゝ怖わ」
「どんな夢を見たんだ」
「
貴方と二人で一心寺へ行きましたんだす。そいで娘やんの着物を、ぬゝ脱がそうとしたんだす、そ、そ、そしたらなァ、…、あほーい顔をナ、…こう上げて、細ーい声で、
衣裳脱ぐのんいやーや」
「おかしな夢見るない」
「もう見てしもたんだす」
「顔を洗え、…洗ったか、よしッ、飯を食え」
「へえ、大きに頂きまっさ、ウワヽヽ、御馳走だんな。
鶏肉やが、あゝ
美味い」
「まあ
喋舌ずに静かに食え」
「いやもう遠慮せんと腹一杯に食べまっせ、あゝ美味い/\」
「酒を飲むか」
「いゝえ、、
御飯をよばれまっせ。
私この
鶏肉のすき焼で
御飯を食べて見たい/\と
一昨年からおもてましたんや」
「じゃ飯を食いねえ」
「大きに、…、フワァヽヽ、えゝ米やな、白いピカ/\光った、猿の
牙見たいな」
「ばらすな」
「ばウ…ばら…ばらなんだんねん」
「ばらすなと言うんだ」
「なんの事だんねん」
「仲間うちではナ、今てめえの言った
獣を嫌んだ。だから言うなと言うんだ」
「けだもん? なにもそんな事言えしまへんぜ、えゝ米や白うて艶があって猿、あっ
左様か、これをいうたらいきまへんねんな」
「言ったら殴るぞ」
「へえ、…、大きに御馳走はんだす、豆腐、えゝ味が付いてるなあ、
葱も、よう焚けて、
肉も柔こうおますな、焼き豆腐、あつッ、…、お、
熱ッ、(フー、フー)、なあ先生、焼き豆腐とかけて、
虚夢僧、吹かな食えぬ」
「
喋舌るなッ!黙って食え」
二人は十分に腹を拵えまして、
「さあ、そろ/\出掛けよう、縁の下を覗いて見ろ、
鍬がある」
「へえ、縁の下か、縁の下には鍬ゆうが(縁の下には
九太夫の洒落)」
「洒落は
巧いなあ」
「縁の下には鍬ゆうが、お猿は二階で」
「こらッ!(ポカッ、
喜公の頭を殴る)」
「あっ!痛ッ、…あゝ、そや/\」
「表へ出ろ」
「ヘェ、先生、何してなはんねん」
「静かにしろ。今
掛金を掛けて錠を下している所だ」
「何でだすねん」
「無用心じゃないか」
「フウン、
盗人が二人出るのに」
「黙っていろ」
「あーあ、
寒む、ぴゅうっと冷たい風が来やがるねん。
大寒ぶ、
小寒ぶ、ざーるの、いや違う、…猫の
甚平(袖なしの方言)借って
来う」
「おかしな物を借りろない。少し黙って歩け」
「黙ってると怖わすがな」
「…、おい
喜公、こゝが一心寺と違うか」
「あゝ、こゝや/\。そうだす/\」
「どこからか
這入る所はないか」
「
扉を叩いて
表門を開けて貰いまひょうか」
「
莫迦ッ!表向き
這入れるかい。こっちへ来い」
グルッと
茶臼山の方へ廻りますと、塀を乗り出して松の枝が一本、にゅうっと往来の方へ出ている。
三隅亘は
懐中から古い
麻縄を出して、
麻縄の端には分銅が付けてあります。二つ、三つ振りまわして呼吸を計って松の緑へ、…ぶうーん、…くるッ、くるッ、くるッ、三つ程分銅が絡み付いた。…力を一杯に入れて。つうー、つうー、つうーと塀の上へ。
「先生、先生、あゝ
怖やの、
私一人置いておいて(この
重言は大阪特有の言葉)どこへ行きなはったんや、…どこへ行たんやろ、…オーイ三隅さあーン」
「しいッ!、…しいッ!、ここだ、…ここだ、…オイ
喜公」
「あゝ
早!もうそんな
所へ上がって」
「大きな声を出すな。その
鍬をこの綱の先へ
結わえ付けろ…いゝか」
綱を
手繰ると、つ、つ、つ、と手許へ。
「
巧いなあ、成程こりゃ
貴方の智恵と違いまんな。動物園で猿が物を貰う時のように」
「またか、ばらすな」
「あっ、しもた、…
私、先生、私どないしまひょう」
「その塀の脇にある大きな石の上へ乗れ、…せのびをしろ、‥‥いゝか/\」
喜公の
襟頭に手がかゝると、ズル/\/\と塀の上。
「こゝどこだすねん」
「一心寺の塀の上だ、待ってろよ」
今度は
麻縄を
内部の枝へ付け替えて、スル/\と音もなく地上へ。
「さあ、…
喜公、降りて来い」
「へえ、あ
怖ッわ、…あっ、しもた!」
ずる/\/\ずっどん。
「(大きな声で)あー痛た、痛い/\」
「
莫迦ッ!静かにしろい」
「先生!
貴方私に、莫迦/\/\と言いなはんな。あゝ痛た、そないに
豪そうに言うたかて、馴れん事やがな。馴れた人かて
演り損ないが何ぼでもあるわん。
上手の手から水が洩る、弘法も筆の誤まり、猿も木から」
(ポカッ!)
「あっ痛い」
「
莫迦ッ」
「なんで、そないに莫迦々々言われますのや。莫迦ならこそ、
貴方と一緒に、
夜夜中こんな所へ来てますねん、賢い者がこんな真似をするかいな。貴方が莫迦や」
「
止ッ!
止ッ!」
「なんじゃい。
止っ!と、猫とちがうわい。人が怪我をしてんのに、痛いかとも言うてくれずに莫迦/\と貴方が悪いか。
私が悪いか。こゝの
坊さんに起きてもろて一遍聴いて貰いまひょう」
「そんな事が出来がるかいおい、
喜公、墓はどこだ」
「昼と
違て、暗いさかい
判れへん。提灯持って来たらよろしおましたなあ」
「泥棒が提灯を持って来る野郎があるか」
「それでも、
盗人の提灯持ちをした」
「なにを言いやがるんだ」
「あゝ、先生こゝだす/\」
「よし、
鍬持って来い」
ようやく二人で探り当てゝ
新仏の墓を掘り起こし、死骸に着いている物の
殆んど全部を持って帰りました。その翌朝、
「
喜公、さあこゝへ来い」
「お早ようさん、
昨晩はどうも、ヘェ…、なあ、先生、早う起きなはってんな。大分そこいらも片付けてあるらしい」
「
愚図々々言わずにそこへ座れ。…なんだ、…遠慮するな、もそっと
側へ来い。心配せずにここへ来い。…
喜公、
慄えてるな」
「ヘェーい」
「現金が三百円。本当は七三。俺が七分取って、おめえが三分取るのが当たり前だが、そんな
吝な事は言わない百五十円、それから指輪三本売ったのが二百円だ、こいつはお前に百円、さあ両方で二百五十円取って置け。一遍に使うなよ、手前は
莫迦だから一遍に使うと
直ぐ捕まるんだぞ。ちび/\使え」
「ヘェ、大きに。チビ/\使います、日に三銭ずつ」
「どうでも勝手にしろ、お
母を大事にしてやんな」
「先生、
怪体な事を言いなはるな。どこぞへ行きなはるのか」
「その通りだ。八木刑事が俺に目を付けるようでは長く大阪には足をとめてはいられねへ。高飛びをするんだ。…
喜公、お
前に断っておくがこの着物だ。
別染らしい、紋が付いでいるから、売るにも売られねえ。それでこの片袖だけ俺が貰って行くぜ」
「ヘェ」
片袖をもぎ取って、残りの衣類は
寸々に。…どう始末を付けたか
後白浪とその日限り。この土地を
逐電致しました。
お話が変わりまして
山内清兵衛の
宅では娘が死んで三年、僅かなれども貧民に米一升金二円ずつ
施行を致しております。店先はもう一杯の人の山。その混雑
中にのっそりと立ちましたのが、鼠色の衣類、鼠色の帯、鼠色の
脚絆、
甲掛、
手甲、猫の
側へはちょっと寄れない。
負櫃背後に
草鞋履き六部姿で
顕れましたのが、余人にあらずして三年前の三隅
亘でありました。
「御免下され」
「ヘェおいでやす」
「
男山、山内清兵衛殿とは御当家かの」
「そうでおます」
「御主人御在宅かな」
「奥におります」
「修行者じゃ、御主人にお目にかゝりたいとお取次ぎを願う」
「ヘェ、ちょっとお待ちやしとくれやす」
番頭は奥へ参りまして、主人の前へ、
「旦那はん」
「なんじゃ」
「旦那はんに遇いたいというて六部さんが表へ来てはりますねん。どないしましょう」
「ヲヽ
左様か、娘の命日、お仏壇へ
御火を上げて修行者殿に拝んで貰いなされ。その
間に
離座敷を片付けてあすこでお目にかゝるとしよう」
「畏まりました。…お待たせ申しました。サァどうぞこちらへ」
案内された仏間、立派なお仏壇。数々のお供え物、立ち昇る線香の匂いも
弥陀の浄土から吹き寄す薫風かとも思われ、
蝋燭に
点る火の光、
冥路を
点らす慈悲の
篝火かと…こゝで約三十分程もいと丁寧に念仏を唱え、経を
誦じておりましたが、それを済ますと、主人夫妻の案内で
離座敷へ通り
正座に着きますと
「ヘェ始めまして、私はお
訊ねに預かりました山内清兵衛。何か御用でございますか」
「ちと
秘密でお話が致したいのじゃが。
其方にお
在になるのは」
「私の
女房で御座います。店の者誰一人来る気遣いは御座いませぬ」
「あゝ左様か。しからばお話致す。お聴き下され。
斯様な訳じゃ。…諸国を修行致すこの身の上、時は今年の
卯月の上旬、雪まだとけやらぬ越中のいとゞ険しき
立山へ、
八つ
乳の
草鞋を履き
〆めて、
絶所難所の嫌いなく、登山なしたるその
砌、訪れたるは幽霊谷、人の気配は更になく、
梢に
囀る鳥の声、これとて浮世の物とも思えず、昼なお寂しさ
物凄さ。
鬼気真に人に迫るとか、
此所数多の亡者
顕れて、故郷を恋しと慕う者、
娑婆の俗人呪う者、…いやお話しするさえ身の毛もよだつばかりにて、修行の身なれば
夜陰とても
厭わずに、魔の
淵と申す大地の
畔にて、念仏を唱えておりましたる所。魔性の者と見違うばかり、髪は
高髷に
結い上げ、派手な
色目の
裾模様、目も醒めるような振り袖に、
夜目にも光る三つの指輪。
齢は二八と思しきが、片袖をば目に当てて、さめ/″\と泣き入る姿、こは、いぶかしの女よと、お前は
何処の者で仔細はと、尋ねる声の下からは、大阪上本町の酒問屋
男山山内清兵衛の一人娘、いとゝ申す者で御座います。十八歳を
一期とし、冥土の風に誘われて、
彼世へ旅立ちました者、なれど
両親の嘆き深くして極楽浄土へ行くにも行けず、
何卒一時も早く父清兵衛にお遇い下され、紀州高野山へ
祠堂金として三百円、お納めくれますように伝言頼むとの仰せ。かつ
両親への証拠にと
己が着ている着物の片袖をもぎ取り、我が手に渡せしと思いしが、
南呵の夢。…
目醒めて
吾に帰った時握りおったはこの片袖、なんと御夫婦、お見覚えが御座ろかな」
と差し出しましたるは、
可愛や娘お糸が
死装束の…片袖。手に取り上げて清兵衛が、
「アッー、これじゃ/\これは確かに、おい
婆どん、こなた、こゝこなた、この片袖に
記憶があるか」
「
記憶があるかとはあんまりじゃ/\。寝た
間も忘れた事のない可愛い娘のこの片袖 娘が死んだ時に一心寺へ葬る時に
後に心の残らぬようにと着せてやった(泣く)裾模様の片袖やないか」
「確かにそうじゃのう。
俺男ではっきりと模様は
記憶えてはいぬが、着物の紋は家の紋、…おゝそうじゃこの
裏地は娘が好きで
拵えてくれと無理いうて俺に買わしよった
裏地じゃ、…そんならまだ娘は浮かんではいぬのじゃなあ(泣く)」
「
貴郎が、あんまり泣きなさるから(泣く)」
「なんかすぞい(何を言うか、を下品に言う大阪の方言)おゝお前の方が余計に泣いたやないか」
老夫婦はその片袖にひしと
縋り付いて、よゝとばかりに泣き崩れました。横目に見た三隅亘は
「お娘
御の伝言も終わりました。これにてお
暇申します」
「あゝ、もし御修行者様には
何方へおいでゞ御座います」
「
御堂の縁、農家の軒、
宿を定めぬ雲水の身の上。
何れへと定かには申されませぬか、これより
紀の
路高野に参り、それより西国第三番の
札所粉河寺に詣で和歌山より
紀三井寺に行く所存」
「あの、高野へお出でで御座いますか。ちょうど幸い、一時間も早う届けてやりたい
祠堂金、
貴僧のお手から高野山へお納めなされて下さりませ」
「その儀、御辞退申そう。
他のものとは違い、
金銭は間違いの起こり易きもの」
「なんの/\、娘が見込んでお願い申せし修業者様、御迷惑でもこの役目、仏のためにしてやって下さいませ」
「仏のためとあるならば、
拙僧確かに高野へお納め致そう」
「何分宜しゅうお願い致します」
「ナィ、そこから三百円持っておいで。へい、では三百円」
「確かに受け取り申した」
「あっ、ちょっとお待ちなされて下さりませ。ここに五十円のお金が御座います。これは
貴僧様にではございませぬが、お
参詣の途中、
難渋な人がありましたら少しずつでも分けてやって下さいませ」
「おゝこれはまた御奇特な事を、…承知いたしました」
婆「あのう、こゝに五十円ございますが。今度
門跡様にお参りしたら一遍のお経でも上げて頂こうと貯めて置きましたこのお金、
親爺どんの金と一緒に恵んで上げて下さりませ」
「重ね/″\のお
志、確かにお預り致します。…御主人、
何処やらで
三味の
音が致しますな」
「はい
隣家が
浄瑠璃の稽古屋でござります」
「なに浄瑠璃の稽古屋、それはまた結構な、三味線の
音でも聴いていられゝばまた気が晴れるか知れませぬ。あまりくよ/\遊ばしては、お体に
障ります。この
後はお娘
御の事を思い出されぬようになさるがよろしい」
と金包みを両方の手に持ち、
「こちらに(右手)五十円、こちらに(左手)五十円。合わして百円百ヶ
日。追善供養(これより浄瑠璃の
節となる)
跡ねんごろに
弔われよ。さらば/\おさらばと見送る涙見返る涙なみだの浪の立ちかえる」
と浄瑠璃を口ずさみながら、
暖簾を
潜って
融々と草鞋へ片足掛けると、暖簾の脇からにゅーと首を出して、
「先生」
ひょいっと見ると三年前に墓返しを手伝わした愚か者の
喜公。――、びくっとしたが、
「
莫迦じゃないか」
「フウン、
巧い事かたる≠ネァ」