鼻きき長兵衛(はなききちょうべえ)
八代目桂文治
よく探偵の
方で
嗅ぎ出すという事を申しますが、これは不思議に鼻のきく
長兵衛という男のお噂でございます。春も弥生となりますと、誠に陽気が
宜しくなります。従って人の心も浮き立って参ります。花は笑い出し、鳥は唄い出し、人は踊り出すというのが春の気候。それでこういう時に
御宅にばかり
在っしゃると、頭が重くなって誠に心持ちが悪うございます。花は上野か飛鳥山と言ったのは昔の事で、
今日ではちょっとお花見に行くと言っても、
熊谷だとか、小金井だとか言ってお出掛けになります。中にはまた京都へ行って嵐山の桜を見て来ようなどという御連中がございます。どうしてもこの春先は遠出をしたくなるもので。
○「どうですえ。皆なこうして集まったんだ。久しぶりで
今日は
緩くり一杯どこかで飲もうじゃありませんか」
×「結構ですね。この頃
些とも酒を
飲らないんで」
○「ヘエー、それじゃァお
止めですか」
×「ナーニ止めたという訳じゃァありませんが、
飲まないんで」
○「ダッテ
可笑しいじゃァありませんか、どういう訳で」
×「御存じの通り、この町内に
鼻利の長兵衛という者があります。赤い鼻の男で」
○「アー成程」
×「楽しみに一杯飲んでいる所へ、
彼奴に来られると、
美味い酒が
不味くなってしまいます」
○「どういう訳で」
×「どういう訳と言って、ちょっと酒を飲まして、
一言ニ言饒舌ている内は、
野幇間だけの
技倆は確かにありますが、
直きに
野鄙な事を言い出して困ります。結構な
御酒でございますな。この御酒は一合幾ら位致しますとこんな事を言い出します。せめて一升とでも言えばまだしも、一合幾らだなどと聞かれると、
折角の美味い酒が不味くなってしまいます」
〇「成程、それは困りますな」
×「
貴郎方もチョイ/\出逢う事がありましょう。この前御客があって、
対手をして飲んでいると、
彼奴が飛び込んで来まして、遠慮もなく酒を飲み初めましたが、ふと
器に目を付けて、これはどうも結構な器でございますとマァ
褒めたもんだ。それから私も、感心な男だ。よく器に目が着いたと思っていると、やがての事に、この位の品じゃァ安くはありますまい。お幾ら位でお求めになりましたと例によって
値を聞くんです。私も御客の前で
値の事などを言われて赤面しまして、マァどうでもいいよと
瞞着してしまおうとしたが、なかなか承知をしません。マァ幾らです/\と二度も三度も聞くんです。仕方がないから幾ら/\だと言うと、どうも高価のもので恐れ入りました。
御宅などは幾らだってこういう物がお求めになられますが私なんぞは生涯こういう結構な物を手に入れる事は出来ません。
此方なんざァ幾らだってお求めなされるんだから、これは私が
戴いて参りますと、とうとう持って行かれてしまった」
○「アヽ成程、あの男ならその位の事はやりかねませんよ」
×「やり兼ねませんじゃない。自分だけならいいが、御客様へ対して甚だ失礼に当たる。この前
田舎から御客が来た時に、座敷で
飲んでいるから奴に嗅ぎ付けられるんだ、
土蔵の二階へ
昇って、窓を締めて置いたら分かるまいと言うので、酒の仕度をして
土蔵の二階へ昇りました」
○「
土蔵の二階は考えたね」
×「ところが窓を皆な締めてしまう訳にいかないから、一ヶ所だけ開けて置いたんです。ところが
何時の間にか嗅ぎ付けましてやって来ました。けれどもこの時には私の
内儀さんが役者を一枚上げましたよ。ちょっと只今出まして留守でございます、と言ったんで、
流石の長兵衛も留守と言われては
昇る事も出来ないから、コソ/\と帰って行った。先ずよからうと安心をしていると、
土蔵の窓へチューチュー水を掛かける者があるんだ。どこかの子供が
悪戯をするのかと思ったから、誰だッ、悪いいたずらをして…と窓からヒョイと首を出すと、ヤァ
彼処にいた/\と言うんだ。見るとあの長兵衛の奴やどこで借りて来たのか。水道の
護謨の長い奴を共同水道の蛇口へ付けて
土蔵の窓を目掛けてチュウ/\やってるんだ。とうとう見付かってしまって、物の見事に、
彼奴にしてやられました。
如何にも
彼奴に酒を飲まれるのが残念ですから我慢をしてこの頃は
些とも飲みません」
○「アヽそうですか。そんな事なら幾らも
外に計略があるじゃァありませんか。
土蔵の二階などへ
昇って飲むから
直ぐに見付かる。どうしても奴の分からないような所へ入って飲めば大丈夫で」
×「けれどもそんな所がありましょうか」
〇「
穴蔵へ入ればいいでしょう」
×「穴蔵、成程、穴蔵じゃあ判る気遣いはないが、下に水がありましょう」
○「水があったって尻を
端折ればなんでもない」
×「お膳はどうします」
○「肩から
釣を掛けていい
塩梅に前へ下げます」
×「徳利はどこへ置きます」
○「
魚籠へ入れて浮かせて置ます」
×「暗くなっていけますまい」
○「ぶら提灯を
襟へ差して置きます」
×「アッハッハ、余り宜いい格好じゃァありませんね。そんな真似をして飲んでもやッぱり旨くはない。酒なんてえものは、
安座でも掻いて飲むから旨いんで、仕方がないから一つ遠出をしようじゃありませんか、どうです辰さん」
辰「遠出もようござんしょう」
×「どこへ行きましょう」
辰「王子まで足を延ばしたら、幾ら長兵衛の鼻だって匂やァしますまい」
六「成程王子は面白いな。いい所へ気が付きました。留さん、一つ王子へ行ってウンと飲もうじゃァありませんか」
留「結構ですな」
六「ようございますか」
留「賛成します」
辰「それじゃァ、一つ王子へ行って一日
緩くり遊んで来ましょう。ダガ芸者と言った所で調子の合わない三味線を引き抱えて、私なんにも弾けませんわ。私の知ってるのはラッパ節と行進曲よなんてえ芸者は余り感心しませんねえ」
留「大きに/\」
辰「ちょっとこう水調子か何かで、トーンと
打付けて
乙な
咽喉を聞かせてくれるような人はありませんかね」
六「左様さ。どうでしょう、一つ横町の
清元の師匠を頼んだら、ちょうど昨日が二期の
浚いだったので今日は休みで遊んでるから、清元の師匠を連れて行きましょう」
辰「アヽ師匠が行ってくれれば結構だが、行ってくれましょうか」
六「話をしたら行きましょうとも」
辰「それじゃァお前さんが一番懇意だからお前さんから話をして戴きたいものだ」
六「それじゃァ私がちょっと行って頼んで来ましょう。
先方は女の事で、頭を
撫でつけるとか化粧をするとか、いろいろ支度がありましょう。これから行って支度をさせて置きますから、お前さん方はその
心算で。二人で
後から
緩くりやって来て下さい」
辰「畏まりました。じゃァどうかお頼み申しますよ…エッー、あの人は遊びが好きですね。朝っから日の暮れるまでなんもしないで、遊ぶ事ばかり考えてる。
好い御身分ですな…モシ/\
貴郎、
彼所へ来た人を知ってますか」
留「どの人です」
辰「あれ/\あの人です」
留「アヽあの人なら知っております」
辰「知ってますか」
留「知ってるどころじゃァない。この町内で
鼻利の長兵衛と、
嬶孝行の甚兵衛を知らない者はありません」
辰「嬶孝行はよかったね。まったく鼻利の長兵衛と嬶孝行の甚兵衛はこの町内の名物ですよ。あんな嬶孝行な人はありませんな。この間私が表へ立って話をしていると、前を乙な
年増が通ったんだ。それから私が、オイ/\甚兵衛さん、乙な年増が通るじゃァないかと言うと甚兵衛がじっと、その女を見ていたっけが、
貴郎にはあの女が
好く見えますかと、こう言いやがるんだ。誰が見たってちょっと乙な女じゃァねえかと言うと、アヽ人の目というものは
訝しなものだ。私どもの家内にはとても比べ物になりませんとこういうんだ。世の中に自分の女房ぐらい、
美い女はないと思っているんだから、無事でいいね。どうですえ、あの人を
幇間代わりに王子へ連れて行こうじゃありませんか」
留「ヘエー、なにか芸がありましょうか」
辰「イヽエ、別に芸と言ってもありませんが、お酒を飲みます」
留「成程、お酒を
飲むと馬鹿に騒ぎでもするんで」
辰「イヽエ、お酒を飲んで、酔っぱらうと寝てしまいます」
留「そりゃァつまりませんね。お酒を飲んで寝てしまう、只それだけですか」
辰「イヤそのお酒を飲んでいる間が面白い。
内儀さんの
惚気を言います」
留「酒を飲まして女房の惚気を聞かせられた日にゃァやり切れないじゃァありませんか」
辰「イヤそれが只の惚気じゃァありません。あの人のは女房の
身体を案じながらお酒を飲んで、
愚図々々いってる所に、なんとも言えない味があるんで、マァ私に任して置いて下さい。もし六さんが苦情でも言うようなら、甚兵衛の分だけ、私が勘定を持ちますよ…。オイ甚兵衛さん、甚兵衛さん」
甚「オヤ
今日は、どうも
好いお天気になりました。
大分お温かになりまして結構でございます」
辰「どちらへ」
甚「ちょっとお使いに参ります」
辰「
何誰のお使いに」
甚「
内儀さんのお使いに」
辰「どこの
内儀さんのお使いで」
甚「私の
内儀さんでございます」
辰「アヽお前さんの
内儀さん。なんのお使いにお出でなさる」
甚「ヘエ、ちょっと今
湯文字を買いに参ります」
辰「ヘエー湯文字を…お聞きなすったかえ。
内儀さんの湯文字を買いに行くんだそうで、湯文字というのは
褌でしょうね」
甚「左様でございます」
辰「アハヽヽ」
甚「お笑いなすっちゃいけません。
貴郎方人の言う事を馬鹿にしてはいけません」
辰「イエ馬鹿にする訳じゃァないが、お前さん湯文字を買いに行くというのは嘘でしょう」
甚「なに嘘などは決して申しません。確かでございます。嘘だと思うなら広げて御覧入れましょうか」
辰「
巫山戯ちゃァいけない。往来の真ん中でそんなものなどを広げられちゃァ
堪らない」
甚「イエ新しいので」
辰「たとえ新しくっても、褌と名が付たものは御免だ。お前さんも
内儀さん孝行で、誠に結構だが、何事も物には
程という事がある。亭主が内儀さんの湯文字を買いに行ったなどと言うと、人が後ろ指を差して笑いますよ。そんな事はマァ内儀さんにさせた方がようござんしょう」
甚「有難う存じます。
貴郎方が御注意下さるまでもございません。私もよく気が付いております。また私の家内とても人間が利口でございますから…」
辰「ヘエー」
甚「
貴郎方などとは比べ物でございません」
辰「お前さん方は比べ物になりませんは驚いたな」
甚「なにも家内は私に働かしてブラ/\している訳じゃァありません。
平常はよく働いてくれます。今も
家を出る時に
真正に亭主を使いにやっちゃァ済まないけれども、今月ばかりはこういう訳だから、気の毒だけれども買って来て下さいとこう頼みますんで」
辰「今月ばかりと言って、今月どうかしましたか」
甚「ヘエ、臨月でございます」
辰「アヽお
腹が大きいのか、それはお
目出度いね」
甚「ヘッヘッッヘお目出度うございます」
辰「子供衆が出来たんだ」
甚「ヘエ、子供衆が出来ました」
辰「さぞ嬉しいでしょうね」
甚「ヘエ嬉しゅうございます。私の子供でございます」
辰「
巫山戯ちゃァいけない。お前さんの子供だからお目出度いと言うんだ。自分の
内儀さんか
他の男の子供を
拵えたのを嬉しがってりゃァよほど馬鹿だ」
甚「そうですかね」
辰「アレッ、そうですかってなァ驚いたな…じゃァ甚兵衛さん臨月じゃァ近々生れるんだね」
甚「ヘエ、なんでも当月の
末だそうで」
辰「アヽ末か、それじゃァまだ間がある」
甚「ヘエ
間があります。事によると月を越すかも知れないと言っております」
辰「それじゃァまだ安心だ。どうだい甚兵衛さん、
今日久し振りで王子へ行こうというんでね、今、六ちゃんは横町の師匠を誘いに行ったんだがね。一人でも余計な
方が面白いんだ。どうですえお前さん、一緒に行ってくれませんか。王子へ遊びに行きませんか」
甚「王子へ、行きます。御供をします。けれども今は
内儀さんのお使いに行って来た途中なのですから、一度
家へ帰って家内の許しを受けて参ります 家内が行ってもよいと言いましたら
直ぐに参ります」
辰「そりゃァ出たっきりじゃァ
内儀さんが心配するだろうからいけないけれども、一旦断りに帰りゃァ、何も内儀さんの許しを受けるも受けないもないじゃァないか。お前さんは亭主なんだから」
甚「イエそうでございません。この
身体は私の身体でいて私の身体ではございません、家内の身体でございます」
辰「
巫山戯ちゃァいけない。往来の真ん中で手放しで
惚気ていちゃァ仕様がない。とにかくそれじゃァ家へ帰って、
内儀さんが行ってもいいと言ったら直ぐにお出でなさい。マァ/\内儀さん孝行で結構だ」
甚「ヘエ有難う存じます」
辰「なにも礼を言わなくってもいい」
甚「けれども
貴郎の前ですがね。私達夫婦は
貴郎方のように
媒酌人があって夫婦になった仲じゃァありません」
辰「ヘエー
媒酌人があって夫婦になったんじゃァありませんか」
甚「ヘエ、私がまだ
大道で今川焼を焼いて売っております時分」
辰「大変な話になりましたな。それじゃァお前さんは今川焼を焼いてたんで、そうですか」
甚「ハエ、
屋台店を出しまして、雨が降ろうが風が吹こうが、一日も休まずに一生懸命焼いておりました」
辰「ヘエー」
甚「
彼是半年ばかり続きました。スルとその屋台店を出している所の前が、大きな
御商人で、そこに今の家内が奉公をしておりました」
辰「成程」
甚「スルと家内が、お使いにでも出る度に私が今川焼を焼いていますのを、
涎でも垂れそうな顔をしまして、じっと見ております」
辰「
巫山戯ちゃァいけないよ。大変な話になっちまったな」
甚「マァお聞き下さいまし。ある時家内の申しますには、ねえ甚兵衛さん、私は
家の
内儀さんと申し暮らしておるのでございますが、雨が降っても風が吹いても、一日も休まないで、稼いでいる。実に甚兵衛さんは感心な人だ。私も亭主を持つなら、どうかあァいう人を御亭主に持ちたいものだと、始終内儀さんと
褒めちぎっているんでございます。ねえ甚兵衛さん、女の口からこういう事を申し上げたら、
厚皮しい女と思し召すか知れませんが、私のような者でも生涯女房にしてやろうと言って下されば、こんな嬉しい事はないんですけれどもねえと、こういうんで、それら私がこんな者を
和女のやうな人が想って下さる訳がない。大方
揶揄んでしょうと念を押すと、女の口からこんな事を言うのはよく/\でございます。第一私は
貴郎の顔や姿に惚れたのではございません。
貴郎の胸に惚たんですよ、とこう言われた時には私は思わず知らず、有難うと言いました」
辰「有難うと言うのは
可笑しいね」
甚「とにかく仲のいい友達もありますから、その友達と相談をした上で御返事を致しますとこう言ってその日は別れて、
家へ帰って来てから友達と相談をして見ると、物も出来るし、
容色も
善し、マァお前の所へ、この先あの位の女が来ようとは思わねえ。実にお前には過ぎたものだ。先方が惚れているなら、この上ない結構な話だから、貰った方がよかろうと申しますから、その事を
先方へ話しますと、大層喜びまして、いよいよ
吉日を選んで、私の所へ家内が乗り込んで参りました。私はモウ嬉しくって/\、こんな嬉しい事はないと家内を
上座に直しまして、私は
遥か
下座に
退り、三拝九拝を致しました」
辰「どうですえ。エヽ、三拝九拝は驚きましたな。それからどうしました」
甚「翌朝になりますとモウ私の眠っている内に起きまして、スッカリお化粧までしてしまいました。私の起きるのを待って一緒に御飯を食べる 火鉢の向こうへ座りまして家内が、ねえ甚兵衛さん。今日からはオッケ晴れてお前さんと夫婦になり私はこんな嬉しい事はありません。けれども私は、両親には早く別れ、
身寄親戚もない身の上、どうか行く末長く見捨てずに
可愛いがって下さいまし、頼りに思うはこの広い世の中にお前さん、たった一人だから、片時もお前さんの顔を見ずにはいられない。モウこれから成るたけ
余外へ出ないやよにして下さい。もしよく/\出なければならない事があるなら、私をその
家の
門口まで連れて行って下さい。そしてお前さんが早く用を済ませて表へ出る。また二人で手に手を取って帰って来る事にしましょう。お湯に行くにも一緒に行きましょう。まさか一つ風呂へ入る訳にはいかないけれども、お前さんが羽目板一つ隣にいると思えば気丈夫だから。それから歌でも唄って聞かしてくれゝばお前さんがいるのが分かって、なお心持ちがいいという頼みだから仕方がない。いつもお湯へ行った時には
逆せないように水を含んで、手拭いを頭へ
載っけてお湯へ入り、
平常から私は余り唄を唄った事はありませんが約束だから仕方がない。頭からボッボト煙を出し、顔は真っ赤になって、まるで蒸し立てのお芋見たような様子で、お手々をつーないで」
辰「オイ/\甚兵衛さんいい加減におし、
外見ねえや。あんまりお前さんが変な声を出すものだから、なんだと思って黒山のような
人立だ。立っちゃァいけない/\、ただ話をしてるんだ、
彼方へ行った行った…、それじゃァ甚兵衛さん、とにかくお前さん家へ帰って、
内儀さんが承知をしたら
直ぐに出てお出で、もし行けなかったら来なくってもいいよ。少し待っていて来なけれやァ出掛けてしまうから、その代わり行くようだったら直ぐに来て下さいよ。じゃァ頼みますよ…どうですえ、ちょっと
惚気であの位のもので、あの男の惚気は罪がありませんよ…。ヘエ御免なさいまし、どうも御待ち遠様」
六「御待ち遠様じゃァない。どうしたんだい待ち
草喰てしまった。あんまり長過ぎるから、どこかで飲み初めたかと思った」
辰「ナーニ、そうじゃァない。今途中で甚兵衛に遇って、相変わらず例の
惚気を聞かされたんだ。ところであの男を一ツ王子へ連れて行こうと思うんだ」
六「あの
嬶孝行の甚兵衛かい。行くかしら、なかなかあの
内儀さんが出さないようだ…」
甚「どうも皆さんお待ち遠様」
辰「オウ甚兵衛さん、どうしました。
内儀さんが承知をしましたか」
甚「
宅へ帰りまして、家内に相談を致しました所が、
折角皆さんが、そういって下さるものなら一緒に行った方がいいでしょう。皆な悪口の連中だから、また断ったりなんかして、後で悪口を言われるといけないから、行った方がようございましょうと、許してくれましたから、早速出て参りました」
辰「悪口は驚いたな」
甚「イエ正直に申しますので」
辰「正直過ぎて困る。これはそうと大層立派な
扮装をして来ましたね」
甚「ヘエ、家内がこれを着てお出でなさいと言って出してくれました。これはお正月の着物でございます。それから家内から
伝言がございました」
辰「ヘエー、なんだって」
甚「帰る時には忘れないで、お土産を二人前
戴いて来るように」
辰「お土産の催促は恐れ入ったね。じゃあお前さん気の毒だがね、これはお師匠さんの三味線だ。これを
担いで行って下さい。
打付けたり落したりすると、調子が狂うから、気を付けて持って行って下さいよ」
甚「ヘイ畏りました」
辰「さて乗り物はどういう事にしましょう」
六「自動車はどうで」
辰「自動車はあまり
贅沢でしょう」
留「電車がようございますよ、電車が」
辰「じゃァ電車として、ソロソロ出掛けましょう」
女「いらっしゃいまし、アラマァ
真正にお久し振りでございましたね。モウお見限りかと思っておりましたよ。今日は皆さんお揃いで、有難う存じます」
辰「今日はね、
緩くり日の暮れまで遊んで行こうと思って」
女「有難う存じます。どうぞ
此方へ…」
辰「アヽこの座敷はいいね。
緩くり遊ぶには持って来いだ。サァ甚兵衛さん
此方へお出で、その三味線を
床の
間に置いて下さいよ。時にお茶なんどはどうでもいい。
直ぐにお酒を持って来て貰うとして、それから今途中で見て来たが、木の芽田楽が食べたいんだが、お
宅じゃァ出来せまんか…ナニ出来ますか、そいつを是非お頼み申したい。それからねえ、断って置きませしょか。あれさ、
長の字」
六「そうですねえ、マァ大丈夫だろうとは思うけれども、念のために断って置くのもよいでしょう」
辰「それじゃァ
姐さんお断りして置きますがね。事によると鼻の頭の赤い男が、私達を訪ねて来るかも知れませんが、そうしたら、いないと言って断って下さい。お頼み申します。お酒は成るたけ早くようがすか」
長兵衛「世の中は不景気だな。酒一つ飲む奴がねえんだな。けれども一人位酒を飲む奴がありそうなものじゃァねえか。なんぼ節約だって一人位…オヤッ匂うぞ/\、酒の匂いがするぞ、ハテな、
何方の方面だろう…ウン/\、上野の方面だな。けれども上野よりズッと遠いぞ。距離の
工合だと、日暮里より遠い。田端、王子位の所だな。そうだく王子に違いない。誰か王子へ行っているのかな。フン/\、アッ清元の師匠の匂いがするぞ。どうしても女の方が匂いが高いから、
直ぐに知れる。アッ辰さんがいるな。オヤッ、六さんがいるぞ。それから留さんか。よく遊ぶ連中だ。
〆た/\、オヤ/\妙な匂いがするぞ。まだ誰かいると見える。誰の匂いだろう…。アッ、
嬶孝行の甚兵衛が行っていやあがる。変な奴を連れて行ったものだな。アヽさてはなんだな、畜生め/\、近所で飲むと俺が押し掛けるというんで、王子まで出掛けやがったんだな。
口惜しいな、王子まで出掛けるには電車賃が掛かるが…サァ電車賃と酒の代と、
何方が
割かしら、こりゃァ行ってウンと飲みゃァ、その方が
徳だ。第一人を出し抜いたのが
口惜しいから、押して行って一ツ驚かしてやろう。…そうしよう」
辰「甚兵衛さん
確りおしよ。飲むのは構わないが、お前さん酒が悪いんだよ。顔色が悪い、青くなって来た。少しその外の方を向かって横になる方がいい。廊下の方を頭にして、風に吹かれていると、
直きに心持ちが
好くなる」
甚「イエ大丈夫でございます。有難う存じます。ナニ今日は安心をして飲んだものでございますから、モオ誠に
好い心持ちでございます」
辰「
好い心持ちならよいが、なんだか大分顔色が悪いからね」
甚「ナニ大丈夫でございます」
師匠「マァ甚兵衛さん、
折角皆さん心配をしてあァ
仰るものだから、言う事を聞いて横におなりなさいよ」
甚「そうですか、それじゃァ御免下さいまし…」
辰「どうだい横になるが早いか、
直ぐに寝ちまったじゃァないか」
女中「御免下さいまし」
辰「ハイ、なんで姐さん」
女「アノ只今鼻の頭の赤い方がお出でになりました」
辰「エヽッ、来ましたか。ソレ言わないこっちゃァない。だから断って置いたんだ。帰してくれましたか」
女「只今
此方へお出でになりますと言って、
便所へ入っております」
辰「ナニこっちへ来るって、
便所へ…ダカラ姐さん
先刻頼んで
置いたじゃァないか。鼻の頭の赤い男が来たら断っておくれって」
女「それでございますから、一度お断り申したのでございますけれども、この中に甚兵衛さんという方がお出でになりますか」
辰「アヽ甚兵衛というのはここに寝ている人だ」
女「その甚兵衛さんというお方の
内儀さんが、今月が臨月なんだそうで」
辰「アヽそうだ」
女「甚兵衛さんがお留守になったものですから、
内儀さんが井戸端へ水を汲みにお出でなって、水を汲んで手桶を提げたまま
辷って転んだ途端に
赤児が産まれて、それを見ると内儀さんが血が上がって
死なったんで、長屋中大騒ぎになって、甚兵衛さんは
何所へ行ったろうと、皆なが心配をしている所へ、鼻の頭の赤い人がちょうど通り掛かって、それでは俺が嗅ぎ当ててやろうと言って、甚兵衛さんがここにお
在なさる事を嗅ぎ当てて、わざわざ知らせにお出でなすったんだそうでございます」
辰「エヽッ、そいつは大変だ。甚兵衛の
嬶が井戸端で、
辷って転んだ、途端に子供を産んで血が上がって死んだんだそうだ。とにかく長兵衛を呼んで、
委しい事を聞かなけりゃァいけない。いいからそれじゃァその男をここへ呼んで下さい、どうしましょう」
六「どうしましょうったって、私達は知りません。お前さん一人で引き受けて連れて来たんじゃァありませんか。お前さん一人でどうにかしたらいいでしょう」
辰「そりゃァそれに違いないけれども、どうもこりゃァ困ったなァ。アノそこにある
盃洗の水をちょっと、こっちへ貸して下さい。誰か
清心丹か
宝丹を持ってませんかね。起こして話をすると、この人は直ぐに目を廻しますから、先へ気付けの用意をしておかなけりゃァいけない。マゴ/\するとこの人の命もないよ。じゃァソロ/\取り掛かりましょうかね。オーイ甚兵衛サーン、甚兵衛サーン、オーイ」
甚「アッ、アッアーッ、どうも御馳走様、モウ沢山で」
辰「アレまだ飲む気でいる。お酒じゃァないよ、甚兵衛さん目が覚めたのかい」
甚「ヘエ、有難う存じます」
辰「どうだい、
確りおしよ」
甚「有難う存じます。先刻はなんとも言えない
厭な心持ちでしたが、大分
好い心持ちになりました。モウ大丈夫で」
辰「
確りおしよ、いいかい。アヽいい塩梅だ。醒めて
欠伸が出るようなら大丈夫だ。さて甚兵衛さん、お前さんに少し話があるんだ」
甚「ヘエ」
辰「
外ではないが、お前さんが
此方へ来てしまった後で、
止せばいいのに
内儀さんが、軽率に水を汲みに行ったんだ。ところがどうした事かと
辷って転んで、その途端に
赤児が生まれる、内儀さんは血が上がって死んだというので、長屋中は大騒ぎだと言って、今長兵衛が知らせに来た」
甚「あ、エヽ、内儀さんが血が上がって死にましたか、ヤレ/\それは気の毒な、誰の内儀さんで」
辰「誰のじゃァない、お前さんの
内儀さんだ」
甚「エヽッ、わゝゝ私の、アヽおゝゝ
内儀さんが、水を汲みに行って、私がいりゃァ水なんぞを汲ませにやりゃァ致しません。家内に死なれては、私はモウ生き甲斐がございません。ウーン…」
辰「ホーラ目を
眩した、サァ早くこの
盃洗の水を顔へ吹っ掛けておくれ…アッ、冗談じゃァない、私の顔じゃァない。甚兵衛の顔だよ、
姐さん/\。済まないが、大きな
洋盃へ水を持って来ておくれ…アッ俺が呑んじまった。オーイ甚兵衛サン、甚兵衛サーン、アヽ気が付いたか、オイ
確りしなくっちゃァいけないよ」
勘「ヘエ、ヘエ有難う存じます。
内儀さんは
真正に死にましたか」
辰「
真正に死んだそうだよ。今長兵衛がわざわざ知らせに来たんだ」
勘「
真正に
内儀さんが死にましたか、ウワーッ」
辰「泣き出しちゃァいけない。しかし甚兵衛さん、その
歎きは
道理だけれど、これも前世の約束だ。因縁だと思って諦めるより
外に仕様がない」
甚「イヽエ諦められません」
辰「イヤそれはそう
直ぐには諦められまいが、マァ世の中は広いから、幾らも
美い女があるから、また私達が心配をして、モット
美い
内儀さんを世話をして上げるから」
甚「
巫山戯るない、冗談言うない。畜生、あれより
美い女が世の中にニ人とあるものかい」
辰「そんなつまらない事を言うものじゃァない。女なんてえものは世の中にどの位いるか分からない位だ。
美い女は、幾らもあるから、死んだ者は仕方がない。思い切って…」
甚「厭だい/\、お前さん達は
内儀さんの
敵だ。お前さん達が寄って
集って私の内儀さんを殺してしまったんだ」
辰「オイ/\甚兵衛さん、冗談言っちゃァいけない。なんで私達がお前さんの
内儀さんを殺したんだい」
甚「殺したに違いない。私を今日こんな所に引っ張って来たから、それで留守に
内儀さんが水などを汲みに出掛けて死んじまったんで、私がいりゃァ水なんぞは汲ませやァしません、お米を
磨ぐんだって御飯を炊くんだって皆な私がしてやるんで…それをお前さん達が私を引っ張って来たから、留守にそんな間違いが出来たんで、お前さん方は
敵に違いない」
辰「冗談言っちゃァいけない。金を使って
馳走をした
揚句、
敵呼ばわりをされて
堪るものか。モウ死んだものは仕方がないから、諦めが肝要だ…。オウ長兵衛、来たか、
此方へ入れ此方へ、大きに御苦労だった」
長「皆さん
今日は、汗を掻いてやって来たんだ。息切れがしていかねえから、
直ぐに一杯飲ましてくれ」
辰「一杯飲ましてやっておくれ」
長「有難え、有難え、堪らねえな、
五臓六腑へ
泌み渡るようだ。サァモウ一杯
注いでくれよ、なみなみと注いでおくれ」
辰「オイ/\長兵衛、飲むのは後で
緩くり飲ましてやるから、先へ甚兵衛の話を聞かしてくれ。その様子を聞かして直ぐに帰さなけりゃァならないから」
長「甚兵衛さん…甚兵衛さんはそこにいるじゃァありませんか」
辰「甚兵衛はここにいるからよ、
内儀さんの話をしてれと言うんだ」
長「
内儀さんは
家で
裁縫でもしていましょうよ」
辰「アレッ、どうも変だな。ダッテ今お前の話に、甚兵衛の留守に、
内儀さんが井戸端で
辷って転んで、
赤児を産んで、それがために血が上がって死んだって…」
長「アヽ成程、こいつは旨く
嵌ったな。
洒落てやがる」
辰「なんだい旨く
嵌ったとは」
長「実はこういう訳なんで、今日
家に転がっていたが、どうもこの頃は不景気で、
些とも酒の匂いがしねえ。しかし一人や二人飲む者もありそうなものだと思って、鼻をおやからして、一生懸命嗅いでいると匂いでね、
此方の方面へ皆なが来ている事が分かったから、わざわざ電車賃を使って出掛けて来ると、モウ女中にまで通じてあって、そういふ御方はいないと言うんだ。けれども皆ながここにいる事が、プンプン匂ってるんだ。それから甚兵衛さんのいる事が分かっているから、口から
出任せにあんな事を言ったんで、モウニ度と同じように
饒舌る事は出来ないね」
辰「なんだ嘘かい」
長「嘘だとも」
辰「畜生め、酷い真似をしやがる、どうです。マァ甚兵衛さん、実は嘘だそうだ」
甚「承りました。これでヤット安心致しました。どうも長兵衛さん、いろいろお世話様になりまして…」
辰「アレッ、アレッ、馬鹿々々しいじゃァないか。
内儀さんが死んだと嘘を
吐かれて、それがためにこんな騒ぎになったのに、いろいろお世話になりましたなんて、礼を言うなァ
訝しいじゃァないか。それはそうとして、ここまで三里位あるだろう。よく匂ったものだ。一体お前さんの鼻はどの位匂うね」
長「そうだね、先ず十里四方なら大丈夫、匂う」
辰「エヽッ十里、それじゃァ王子辺りへ来た所で何にもならない。じゃァマァ仕方がない、
折角お前が来たものだから今日は
緩くり飲ましてやる」
長「有難い。じゃァ早速一杯注いで貰おう…ヤァ田楽があるな、こいつを一つ」
辰「オヽちょっとお待ち。その田楽を
無暗に食っちゃァいけない。食いようがある。ウンの字廻しのウンと一ツ言ったら一本食べるんだ。ウン/\と言ったら二本食べるんだ。こういう約束をしたんだ」
長「
可笑しな事をするんだね」
辰「
可笑しな事って、そう言う約束なんだよ。ねえ留さんそうでしょう」
留「どうでございますか、私は存じません」
辰「いけないこの人は、六さんそうですね」
六「アヽそうですよ。一ツやって御覧」
辰「それじゃァ私が先へやらして貰います。きんかんばんのまんきんたん、というのはどうで」
六「
金看板の
万金丹はよかったね。じゃァ六本持ってお出で、今度は留さんやって御覧なさい」
留「じゃァ私もやりましょうか。エーと…みかんきんかん酒のかん」
辰「旨いねなかなか、どうも恐れ入った。サァ甚兵衛さんお前おやりよ」
甚「なんでございますか」
辰「今のようにウン廻しというんだ。やって御覧」
甚「ヘエ有難う存じます。
内儀さんが死んだと聞きたんで…」
辰「オイ/\まだ
内儀さんの事を言ってるのかい」
甚「ナニ、モウこれがその内へ入っております。
内儀さんが死んだと聞いたんで…宜しゅうございますか。内儀さん≠ェで一ツ、死ん≠セとでニツ、聞いたん≠ナこれで三ツになります」
辰「成程三ツになった。それから」
甚「驚いたん≠ナございます。これで四ツ、
癒ったと
聞いたん≠ナ、あんしんしたんでございます」
辰「そんなに考え/\言っちゃァいけない、
際限がない。お師匠さん、お前さん一ツやって御覧なさい」
師「出来ない事よ。私不器用だから」
六「ナニ訳はないんだ。やって御覧」
師「それじゃァ私、商売物で、
喜撰の
合の手をやるわ」
六「そりゃァまた面白かろう。やって御覧」
師「チン/\チーンチ…」
辰「そりゃァいけない/\。それじゃァ堪らない。お師匠さん、なかなか商売人だ、こりゃァ驚いた。六さんどうで」
六「私はいいから、長兵衛お前にやらしてやろう」
長「有難え。ようようお鉢が廻って来たな。このねえ、なんですよ、火事なんてえものはね、妙なもので、三月に初まった火事は大きくなるんだそうで、四月に初まったのは、
直きに消えるそうですよ。それからまた三月頃は昼火事が多いそうでね。マァ先へジャン/\とニツばんだ。それから直きに、ジャン/\/\、ジャン/\/\」
辰「オイそれが数の内かい」
長「そうですよジャン/\/\」
辰「オイ誰か
算盤を貸しておくれ」
長「ジャン/\/\、ジャン/\/\、ジャン/\/\」
辰「待てってことよ。黙ってればいい気になって、一体
何時までやってるんだ」
長「田楽が焼けて来るまで」