主「
権「ハイ、何だね」
妻「可笑いねこの人は、お前久蔵という名じゃァないか」
権「親か
妻「馬鹿々々しいね。モウ百編も呼んだんだよ」
権「百遍なんか嘘だ。久蔵や/\と二度呼んで、
妻「そんなに知ってるなら、早く返事をするがいいじゃァないか」
権「
妻「マァお入り、そこを締めて、立っている奴があるものかね。お
権「へエ
妻「この頃はヒョコスカと一人でお出掛けになる。それについてお前に頼みがあるんだけれども、お前、私のいう事を
権「ヘエ、これ困っただな。よくねえ事だからね。けれども無理ねえさ。旦那様ァ留守だし、私ちょっと垢抜けてるだからね。だけんどマァ心得違えしねえが方がようがすぞ」
妻「何だい変な事をいうじゃァないか。私がお前に頼みというなァ
権「私イ知らねえでがす。あの両国ちう処でがすがえらく賑やかの処で
妻「何だい野郎とは、旦那じゃないか。お妾か何に旦那様だろう」
権「
妻「そんな事を言ってお前隠しているんだね。言って迷惑にならないからお言いね。いうとお前の好きな物を買って上げる。お前一番好きな物は何だね」
権「
妻「アゝお前はお酒は嫌いで饅頭が好きなんだね。妙なものが好きだね。じゃァそれを買って上げよう。お前の好きな程買って上げるから、
権「ヘエ、そんならそう言います。この先の横丁に…」
妻「エッ、この先の横丁に、
権「ナーニ、饅頭屋よ」
妻「饅頭屋を聞いてるんじゃァないよ」
権「家をさえ言えば買ってやるというから、言ったんでがす」
妻「
権「これはどうも気の毒だね。こんな物を貰わなくっても
妻「
権「有難うがす。私これを貰ったからいう訳じゃァねえけんど、私やァ
妻「そんな事は出来ない、どうか頼みますよ」
権「受け合いました」
権助も鼻薬を貰いましたから、手ぐすね引いて待っております。その内に旦那がお帰りになる。翌日またお出掛けになります。
妻「アノ今日はどこまでお出でになります」
主「今日はちょっと本所の方まで行こうと思う」
妻「左様でございますか、お供は」
主「そうさね、もし何なら定吉を連れて行こう」
妻「定吉は
主「あれは往かない」
妻「でも
主「だが
妻「エゝお邪魔ならお
主「邪魔という訳じゃァない。そうお前のように言われちゃァ困るな。それじゃァようございます。連れて行きましょう。呼んでも直ぐ返事をしない奴だから、
権「ハイ」
妻「不思議な事があるものだ。今日は大変返事がよかった。供だから支度をしな」
権「ヘエ、そうだんべえと思って、モウ支度が出来てるんだから、行くならかん出すべえ」
主「何だい、かん出すべえという事があるものか。あれだから困る。…じゃァ行って来ます」
妻「ハイ行ってらっしゃいまし。きよや、旦那様のお出掛けだよ」
きよ「畏まりました」
旦「権助履物を出して置きな」
権「モウ出てますよ」
旦「不思議な事があるものだ。履物を出して待ってやがる…オイ/\店から出るんじゃァないよ」
権「だから
旦「何だえこの
権「俺のよ」
旦「お前の履物、私のは出してあるか」
権「
旦「馬鹿。だから俺の履物を出して置けというのだ。どうも実に呆れ返ってしまうじゃァないか。それだから
妻「権助や、そんな事をしちゃァなりませんよ。よく気を付けてお供をするんだよ…きよやお前旦那様の履物をお出し。では行っていらっしゃいまし、権助や、よくお供をして旦那様を頼むよ」
権「ようがす。心得てます、…サァ行くべえ…旦那どん、家にいるというと気持ちが悪うございますが、表歩く方が何だか知らねえが気が
旦「あまり大きな声をして話をするな。往来で
権「旦那どん、今日はどこへ行きますね」
旦「今日は本所の方に
権「駄目だ」
旦「何故」
権「何故だって
旦「いいから帰んなよ」
権「駄目だよ、今日はどうでも先まで行くだ」
旦「そんなに供をしたければ、俺は今日東京中歩く
権「駄目だよ。どうも途中で、帰って参りましたと
権「そうか、大層な勢いだな。権助貴様何か、
権「そんな事はねえ」
旦「嘘を
権「そんな事を言って、お前様
旦「疑ぐる訳じゃァねえ。手前今日家の奴に鼻薬の少しも貰って、俺の
権「ヘエー、
旦「アゝチャンと出ている。幾ら隠しても駄目だ」
権「それァ
旦「そうだろう。俺にはチャンと顔で分かるんだ」
権「
旦「そんな物は返さないでもいい。そこで俺のいう事を聞けば、家の奴が五十銭くれたのだから俺は一円やる」
権「ハァ、
旦「ウム」
権「
旦「ここで別れるから、家へ帰って旨くいうんだ。よいか、間違えずに覚えていろ。旦那のお供で両国まで行きました。すると
権「家へ来る」
旦「そうよ、お前幾らかあの人に貰った事があるだろう」
権「ある/\、
旦「ウム」
権「あの人の事を年玉野郎と覚えている」
旦「何だ年玉野郎とは。あの田中さんに逢って、今日は何でも
権「ハァ、偉い難しいなァ。文句が長えから忘れては手に負いねえ。なんだって、両国へ行くと向こうから年玉野郎が来て、そうじゃァなかった、田中様が来たと、その人と一緒に何とか言ったっけ…、そう/\港屋という家から船へ乗っかって網を打ったと、そこで何とか言ったっけ奥の植木鉢屋…」
旦「植木鉢屋じゃァない、植半だ」
権「アゝ植半か、そこ引っ繰り返るような騒ぎをしてそれから遊びに行って、吉原の茶屋は何とか言ったっけね。覚え難い家だね」
旦「山口巴というのだ」
権「山口巴、そこへ旦那は行ったから
旦「そうだ。じゃァここで別れるから旨くおやりよ」
権「ようがす、どうも偉い事になってしまった。じゃァ左様なら…先ず
これから権助が日暮しをして、ある魚屋へ参りまして、
権「御免なさい」
○「何だえ」
権「魚を下せえ」
○「何だね魚というのは、何が欲しいんだね」
権「何でも構わねえ。網で捕れた魚を貰いてえもんだ」
○「ここにある魚は皆な網で捕れたよ」
権「そうか、これァ何てえものだ」
○「そりゃァ
権「網で捕れたかね」
○「網で捕ったんだ」
権「じゃァこれを貰うべえ。そっちにあるのは何だんべえな」
○「これか、こりゃァ甘塩の干物だ」
権「成程そうか。網で捕れたかね」
○「そうだ、皆な網で捕れるんだ」
権「じゃァそれを貰うっべえ。そっちに偉く
○「これか、オゝもこりゃァ
権「ハァこれが目差というものか、網で捕れたかね」
○「元は網で捕れたのよ」
権「そんならこれを貰うべえ、幾らだ」
○「皆なで六十銭」
権「ハァそんなら四十銭儲かった」
○「なんだ」
権「ナニこっちの事で、その
権助それを持って帰って参りました。
権「只今」
奥「オゝお帰りかえ。サァこっちへお入り」
権「只今帰りました」
妻「大層遅かったが、今日は旦那様の
権「ハイ、今日は只今まで旦那どんと一緒に歩きました」
妻「旦那はどこへお出でだえ」
権「あれから供ぶって、両国まで
妻「何が来たえ」
権「何って、ソレ、何とか言ったっけな、忘れてしまった。
年玉の、ソレ知らねえかえ」
妻「私は知らないよ」
権「アゝそう/\、田中さんという人」
妻「アゝ田中さん、それでどうしたの、その人が」
権「旦那に遇って、何でもハァ一緒と行けというので、旦那どんも嫌だけれども一緒に行くという事になって、何とか言ったっけね、ソレ港屋という家から船を拵えてそれへ乗って網を打つえべえというので、そりゃァどうも偉い事をやって網打ったの、それから上手の
妻「何だえ植木鉢の引っ繰り返ったというのは」
権「ハァ間違ったかな…そう/\植半だ。そこで引っ繰り返るような騒ぎ
妻「植半へ、定めし芸者やなにか上がっただろう」
権「そうとも/\、どれからハァ吉原へ行くような事になった。私はそこから帰る事になったが、茶屋は吉原の何とか言ったっけ、山口屋
妻「そんな家があるものかね」
権「間違った。そう/\山口巴という家へ行ったと、お前さんにそう言ってくろッと、そうして網打った魚をば少しばかり持って行けというので、持って
妻「そうかえ、そりゃァどうも御苦労だったね。そう行く先さえへ判っていればいい。そのお魚というのは」
権「今台所へ籠へ入れて持って参りました」
妻「そりゃァマァ御親切に、田中さんが下すった網で捕れたというお魚を一つ拝見しよう…きよ権助の持って来たお魚というのを持って来ておくれ。私は見たいから…」
きよ「ハイ、どうも
妻「ちょっとお見せ…権助」
権「ハイ」
妻「こりゃァ何だえ」
権「これがソノ網で捕れただ、この魚が、そりゃァとてもお前さんに見せたかっただね。名ァ知ってるか、これが
妻「お前何を馬鹿な事を言ってるんだよ。一体このお魚は両国辺りで捕れるお魚じゃァないよ。こりゃァ皆な海のお魚だよ」
権「それが捕れただから、
妻「お前それじゃァ、どうしても言わないんだね」
権「アゝ
妻「どうしたい」
権「腹が痛くって
妻「そうかい、それじゃァこれをお
権「ヘエ有難うごぜえます」
妻「けれどもね、腹も痛くなるだろうさ。お前見たような人間はないよ。田舎者は正直だというが
権「エゝッ、待って下せえまし。それじゃァ何かね、あれを呑んで嘘を吐くと血を吐いて死にますか…アゝ痛え/\、今度は
妻「なんだい」
権「旦那様が人相見だてえ事知らねえもんだから受け合っちまっただが、俺が顔に出ているだってから、隠しても仕方がねえと思って、五十銭貰ってお前さんから頼まれた事を皆な
妻「なぜそんな事を言っちまうんだね。それからどうしたい」
権「
妻「そんな事はどうでもいいが、それからどうしたのさ」
権「それから別れただ」
妻「それじゃァ旦那のお
権「そうでがすよ。けれども旦那様帰って来たって喧嘩しちゃァ駄目でがすよ」
妻「いいよ、有難う」
権「有難うって、私大丈夫かね、嘘モウ言わねえだが大丈夫かね」
妻「大丈夫だよ」
権「なんだか心持ちが悪いだが死ぬような事ねえかね」
妻「お前今
権「アッ、道理で能書きを