鼻利源兵衛(はなききげんべえ)

四代目柳家小さん

 天明てんめいの頃の狂歌に「貧乏をしても下谷したやの長者町上野の鐘のうなるのを聞く」只今は結構な所になりましたが、元は貧乏人が多かった物と見えます。此処ここに八百屋の源兵衛という者がありましたが、これは誠に奇人で、近所に困っている人でもありますと、商売物の残りだの、小遣いを貸してやるという奇特きとくな人でございます。ある夏の事で、平日ふだんの通り青物市場で買い出しをして、本所ほんじょ割下水わりげすい錦糸堀きんしほり亀沢町かめさわちょう辺りの旗本や御家人に大分華客とくいがあるから其処そこをズーッと廻って、大概売り切れたが、まだ南瓜とうなすが三ツばかりに、茄子なすが五ツ六ツ売り残っている。天秤てんびんを肩に当てて、汗をダラ/\流しながら、両国の橋の上へ掛かって来た。
源「アヽい心持ちだ。汗が引っ込んでしまうようだ。それにしても向こうの茶屋の二階で、芸者をげて面白そうに騒いでいる奴があるが、此方等こちとらは朝から晩まで天秤棒を担いで、しがねえ稼業をしているが、あれも人の子これも人の子だ。昔、鋳掛屋いかけやの松五郎という男はやはりこの両国橋を通り掛かって、全盛遊びをしている奴を見てしゃくに障り、荷物を川へほうり込んで、大盗賊おおどろほうになったという話があるが、人間一生の内、盗賊どろぼうをして天下の罪人ざいにんになってもつまらねえ、と言って八百屋をめてしまって何にもしなけりゃァ食う事が出来ねえ。ダガこの担いでいる天秤棒が悪い。この天秤を持っている内はどうしたって大きな事は出来ねえ。この天秤を投り込んでしまやァ、またいい分別も付くだろう。オウ天秤、お前には随分厄介になったけれども、いよいよ今日きょうでお別れだよ。南瓜とうなすざるぐるみ投り込んでしまえ…。アヽいい心持ちだ、これで爽々せいせいした…」
女房「オヤ帰んなさい、さぞ暑かったろうね。うちにいても随分暑いんだから、重い荷を担いで御華客おとくいを廻っていたら…荷はどうしたの」
源「マァいいや、あがってから話をする」
女「行水を使うかい」
源「どうでもいいやちょっと此処ここへ来い。改めていうのも可笑おかしいが、おみつおめえは俺の女房だな」
みつ「何だってそんな事を言うんだね。改めて言うまでの事もないじゃァないか」
源「これから俺の言う事は何に依らず、ハイハイと言って向こう三年の間、聞いている事が出来るか。それとも何だかんだと口叱言くちこごとを言うようなら、たった今離縁をするから出て行ってくれ」
みつ「何だねえお前さん改まってさ。七八年もこうしていて夫婦喧嘩の仲裁に入る事はあってもうち争論いさかいをした事などは一度もなく、御近所でも羨ましがっている位じゃァないか。それだのに突然だしぬけに離縁をするの、出て行けのとは、どういう訳だね。話をしなけりゃァ分からないじゃァないか」
源「ソレそれがいけねえんだ。どういう訳でもこういう訳でも構わねえんだ、俺に思う事があるんだから、ただ黙って三年の間、俺のする事を見ていりゃァいいんだ」
みつ「それァモウ私も両親に早く分かれてしまい、伯母おばさんの世話になって、それからお前さんの所へこうやって縁があってかたづいて来たけれども、元々女の事だから、読み書きなどもろくには出来ないけれども、ただモウ御亭主の言う事を何によらずそむかずに働くのが女の道だと教えられているから、盗賊どろぼうは出来ないけれども、そのほかの事ならお前さんの言う通りにするよ」
源「よし、その言葉を聞きゃァ確かだ。そんなら言うが実は八百屋をめちまったんだ」
みつ「エッそれで今度は何を初めるんだい」
源「それが余計なこったよ。何を初めようたって俺の考えだ。うちにある物はスッカリ叩き売っちまう。こんな裏長屋なんぞに住んでた日にゃァそれだけの運しきゃァ取る事が出来ねえ。お前伯母さんの所へ行って金を五両借りて来い。今まで盆だって暮だってびた一文借りた事のねえ俺だ。もし貸さねえと言ったら無理に借りて来るなよ。何にするんだか分かませんが、ただ借りて来いと言うから来ましたと、こう言ってな。なんにも余計な事を言うなよ」
みつ「アヽいいよ…お前さん行って来たよ」
源「どうした」
みつ「伯母さんが言うのにね、真正ほんとうに面白い人だ。あの人の事だから、何か仔細があるんだろう」と言って、なんにも聞かずに出してくれたよ」
 家中の物を売り払って、十ニ三両の金を整え、これから弁当箱を腰にぶら下げ、草鞋わらじ穿きで毎日江戸中廻って歩いている。
源「今、けえったよ。どうもうちはねえもんだな。浅草に一軒大きな家があったが、貸すめえと思うんだがな」
みつ「どんなうちだい」
源「観音様の御堂だがちっと大き過ぎるようだ」
 ちょうど三日目の事で、日本橋通り一丁目の白木屋の筋向こう、奥行十三げん袖土蔵そでぐら付きで、奥から店まで百八十五畳、敷けるという大きなうちが開いていた。これは手頃の家だと隣へ行って
源「エヽ少々伺いますが、このお隣の家主いえぬし何方どちらです」
○「そうですね。私はよく知りませんが、式部小路しきぶこうじの荒物屋の平助へいすけさんという人が、この辺の差配をしていますから、其処そこへ行ってお聞きなすったら分かりましょう」
源「有難う存じます」
 それから聞きながらやって来た。
源「少々伺います」
△「ハイ」
源「荒物屋の平助さんというのはお前さんですかい」
平「左様で」
源「白木屋のうちをお借りしてえんだが」
平「アヽ左様で、どういう御商売で」
源「マァソノ天下の金を集めるんで」
平「へエー」
源「番頭から若い衆小僧に至るまで、諸方ほうぼうから金をドン/\持って来て店へガラ/\開けます。それを俵へ詰めまして、何処どこの御屋敷へ何百貫目、何処どこの御屋敷へ何十貫目といったような商売をしております」
平「へエー、大層な御商売でございますな。それではお貸し申しましょう」
源「これはホンの少々ですが樽代に取っといておくんなさい」
平「モシ/\お前さん、戯談じょうだんをしゃァいけない。これァ十両じゃァないか、樽代なんてえ物は貰っても貰わなくってもいいもので、ホンの一朱か二朱に相場のまっているものだ。十両なんて莫大な金を貰う訳がないから、これはお返し申す」
源「お前さん存外小さな了簡りょうけんだね、私なんざァ十両位焼き芋を食っちまう」
平「戯談じょうだん言っちゃァいけません。なにしろ越してお出でなさい」
源「お願い申しましたよ…。オイおみつ、今日はいいうちが見付かったぞ。白木屋の前の大きな家なんだ。サァ/\引越しだ。荷物も何にもねえから、世話はねえや。俺と一緒に来な…ここだここだ、どうだ大きな家だろう」
みつ「大変に大きなうちだね、ここの家のうらかい」
源「裏じゃァねえ、ここだ」
みつ「お前さん、こんな馬鹿々々しい大きな家を借りてしまってどうする気なんだい」
源「なんだって口を出すんだ。黙っていろと言うのに」
みつ「ダッテあんまり馬鹿々々しいじゃァないか。間口七間に奥行十三間、こんな大きな家へたった二人で入ったって仕様がないじゃァないか」
源「何でもいい、黙っていろ。男のする事に間違えはねえんだ。なにしろ暖簾のれんを掛けなくっちゃァいけねえ」
 と言うので柳原やなぎはらへ参りまして、古着屋から暖簾を買って来ました。しかし間口七間なんて大きな暖簾の出物でものはありませんから、屋号の違うのを三つ買って来て、それを早速店へ掛けました。一軒のうちで屋号が三つある。近江屋、三河屋、松坂屋というのだ。これは面白いと本人は喜んでいるが、近所の人は驚いた。源兵衛さんすましたもので、手札てふだこしらえて、近所を廻り初めた。
源「ヘエ御免下さいまし。私は此度こんど近所へ転宅致して参りました近江屋三河屋松坂屋の源兵衛というものでございます。どうか何分なにぶんお心安く願います」
○「御互い様で、どうぞ御懇意に願います。ついてお宅は何の御商売でございます」
源「私どもは世間の金を集めるのが商売で追々にお分かりになります」
○「アヽ左様で」
 何を初めるのかと思って、皆な驚いている。なにしろ畳が一畳も敷いてない。仕方がないから二畳だけ買って来て、大きな声で呶鳴どなっいる。オイ/\五兵衛や、畳屋はまだ来ないかい。困るね、金ばかり先へ取ってしまって、仕様がないなァ。催促にやっておくれ。それから善兵衛どん、大工はどうしたい。まだ来ません、困ったね。オイ/\長吉、何故なぜそう小判を踏んで歩くのだ。ナニ、歩く所がない。歩く所がないったって、一ぱいに散らかして置くからだ。ひとッ所へ山のように積み上げろ…。コレ/\ほうきで小判を掃き寄せる奴があるか…と毎日大きな声をして呶鳴どなっております。スルとある日の事、向こうの白木屋へ立派なお武家の御客様が来まして
武「さて御主人、此方このほうの名前は申されんが、とにかく当白木屋は呉服店として有名なものであるから少々品物の鑑定を頼みたくまかり越した」
 若い衆が一番番頭へ取り次ぐ。こちらへと言うので、丁寧に上へ案内を致します。
番「エヽ何か御用で」
武「イヤほかではないが、少々頼みたい事がある。と申すのは、この箱の中に入っているきれは何と申すきれであるか、御先祖より代々伝わっている物であるが、この度姫君御輿おこし入れについて御守り袋が出来るのであるが、なにぶんにも名前が分からん。出入りの呉服屋などにも見せたが、分からんと申す。当家は老舗しにせの事であるし、多くの品物を取り扱うよしであるから、定めしあい分かるであろうと思って、今日こんにち鑑定を頼みに参った。相分かれば相当の礼は致す。また屋敷へ出入りを申し付けるがどうじゃ」
番「畏まりました」
 とこれから桐の二重箱から取り出したきれを、一番番頭、二番番頭、三番番頭、四番番頭、五番番頭、十番番頭、百番番頭に至るまで代わる/″\見たけれども分かりません。ソコデ支配人が
支「ただ今の所ではちょっと分かり兼ねますが、とにかく三日の間、御猶予を願いとう存じます。とくと取り調べまして御挨拶を致します」
武「アヽ左様か。しかし大切なる品であるから、預かり書を書いて貰いたい」
番「畏まりました」
 預かり書を渡して武士さむらいを帰してから、また大勢が寄って代わる/″\見たが、どうも何というきれだか分かりません。そこでよんどころなくこれを軒先へぶら下げまして、この名を教えて下方には、御礼としてきん百両差し上げるというふだを下げました。物見高い江戸の真ん、たちまち黒山のよやうな人立ちになりました。けれども商売人が見て分からないものを、素人に分かるものではない。源兵衛それを見ていたが、アヽ鼻の先に百両の金がぶら下がっているようなものだが惜しい事だと思って見ると、俄かに一陣の風が吹いて来て、たちまちきれを巻き上げた。源兵衛さんオヤ/\と思って見ている内に、店蔵と奥蔵との間へ落ちて来て、折れ釘の所へ引っ掛かった。サァこうなると大変で、白木屋のうちでは大騒ぎ、たちまち大戸おおどを下してしまい、易者が来て易を立てる。神官が来て、トウカミエミタメを唱える。主人支配人を始め、家中青い顔をして心配しております。
源「エヽ御免下さいまし」
○「何か御用でございますか。少々取り込みがございまして」
源「イヤそのお取り込みの事について上がりましたか、手前はこの筋向こうへ越して参りました、近江屋三河屋松坂屋の源兵衛という者でございます。番頭さんにお目に掛かりとうございます」
○「左様でございますか、どうぞ此方こちらへ」
 上へ案内をする、そこへ番頭が立ち出で
番「なんぞ御用でございますか」
源「今日こんにちこちら様で御屋敷からお預かりになりました大切なるきれを御紛失をなすったという事を承り御気の毒に存じます。私はまだ五六日前に引越して参りましたばかりで、馴染みも薄うございますが、向こう前で御心配の事をよそに見ている事も出来ません。つきまして滅多にこれまでもちいた事はございませんが、私は先祖から伝わりました秘法で、何でもぎ出す事が出来ます。一丁四方位はぐ分かる。ちょっと気を入れて嗅ぐと三丁位嗅げる。よくよく念をかれて嗅けば十里四方は嗅げる。それ故向こう前の交誼よしみに、ちょっと嗅いで進ぜようと存して参りました」
番「それは御親切に有難う存じますが、なにぶんにもにおいのするものではございませんから」
源「イヤ匂いのしない物でも嗅ぎ出します」
番「左様でございますか。それではどうかお願い申します」
源「お任せ下さるなら、どうか神官かんぬしや何かはお帰しを願います。蒼蝿うるさくっていけませんから、残らずお帰しを願います」
 それから番頭さんが、一人二人雪洞ぼんぼりを持って前後について来る。
源「どうも何で、台所が匂いますな」
○「アヽ左様で」
源「アヽこれは台所の方から土蔵の方へ匂います…。イヤこれは土蔵の方ではない。庭の方へ御案内を願います…。成程、段々匂いがして参りました。確かにこの土蔵の折れ釘に掛かっております。プン/\匂います」
 そこで梯子はしごを掛けて昇って見ると、まさしく有った。これは有るはずだ。前にチャンと見て置いたのだから。そんな事は知らないから、白木屋のうちの者はホッと息を吐いて大喜び。
源「また何かなくなり物がありましたらチョイと嗅いで上げますから」
 と大言たいげんを吐いて帰って来た。翌日になると、
村「御免下さいまし。私は白木屋の番頭でございますが、昨日は有難う存じました。誠にこれは軽少けいしょうでございますが、御礼の印まででございます。何かと存じましたが、どういう物がお口にかないますか知れませんので、甚だ失礼でございますが、二百金ございます。どうぞお納め下さいまし」
源「イヤこれはどうも何だと思ったらそんな御心配をなすっていただいちゃァ困りますな。オイオイお敷物を上げなよ」
みつ「敷物なんかないよ」
源「炭俵を持って来なよ。それからお茶を持って来な」
みつ「お茶なんかないよ」
源「じゃァ水を持って来なよ」
番「イエどうぞお構いなく」
源「どうも困りましたなァ。近江屋三河屋松坂屋の源兵衛、金を持ち扱っている所なんで、こんな御心配をなすって下さっちゃァ困りましたな。しかしせっかくお出しになったもの、お返し申すのも失礼。とにかくこれはお預かりして置きますよ。どうぞお帰りになったらよろしく…どうだ。二百両儲かったろう。なんでも店は大きく出さなけりゃァいけない」
 二十日ばかり経ちますと、白木屋の番頭がやって来て、
番「少々お願いがあって出ました。ほかじゃァありませんが、京都の本店ほんだなのお出入り先の近衛このえ関白家でお預かりになっている定家卿ていかきょう色紙しきしが紛失をして、幾ら取り調べても出ない。そこでどうか貴所あなたに京都までお出でを願って、色紙の行衛ゆくえを嗅ぎ出していただきとうございますが、如何いかがで」
源「エッ、イヤどうもこれは困りましたな。なにしろ遠方の事でございますから、手前どもも無人ぶにんでそれに大金がございますから」
番「イエ、その御心配には及びません。万一の事がございます時には、手前どもでお引き受け致しますし、御留守中の事は何に依らず手前どもでお世話を致しますから、どうかお出でを願いとう存じます」
 源兵衛考えた。京都へ行って名所古蹟めいしょこせきを見物して、どうしても匂いがしませんと言って帰って来ればよからうと。
源「それでは出掛けましょう」
 と言うので、道中の費用一切は白木屋で賄うので、道中とどこおりなく、京都へちゃくして、先ず関白殿下にお目通りも済みまして、これから京都中を嗅いで歩こうという騒ぎ。東山から北山へ掛けて金閣寺、若王寺じゃくおうじ永観堂えいかんどう南禅寺なんぜんじ清水きよみず祇園ぎおん、大谷、大仏、三十三間堂と残る方なく嗅いで歩いたが、どうしても分かりません。
源「一ツ祇園新地島原辺りへ行って匂いを嗅ぎましょう」
 と言うので、祇園や島原へ行って大愉快だいゆかいをして見たが、白粉おしろいの匂いばかりで、サッパリ色紙の匂いがしない。源兵衛モウ見る所がなくなった、帰ろうかと思ったが、話の種に御所の中を一ツ見たいものだと考えたから、
源「どうも御所の中に匂いが致します。御所内を嗅いで見とうございます」
 それから御所の中を嗅がせるという事になったが、これはどうも関白殿下一人の思し召しにもいきませんから、百官ひゃっかんの人々に御相談をなすったところ、なにしろ御所内に匂いがすると言うならば、打ち捨て置く訳にもならない。と言って平民を御所内へ入る事に出来ないから、一時源兵衛に御位みくらいをおつかわしになったら宜しゅうございましょう。イヤそれがよかろうと言うので、早速源兵衛をお呼び出しに相成りまして、左近尉さこんのじょう近江屋三河屋松坂屋のかみ鼻利はなきき源兵衛と任官仰せ付けられ、しゃくという物を持って烏帽子をかぶり大口という物を穿いて、黒塗りの木履を穿き、供を連れて彼方此方あっちこっち嗅いで廻っているうちにお庭へ出た。なにしろ暑い盛りで、馴れない物を着ているから蒸し殺されるようだが、大勢付従くっついていられるからどうする事も出来ない。少し来るとお泉水せんすいそばへ出た。ここは水を越して来る微風そよかぜが吹くので大分涼しい。
源「アヽコレ/\お前方まえがたに付いて来られるとどうも汗の匂いが鼻をいて、肝腎かんじんの色紙の匂いを消されるから、大きに不都合だ。それに大分このお庭内に色紙の匂いが致すから、暫らくここにおって嗅ぎ出す考えだ。其方そのほうどもはいづれへなりと参って休息致し、暫らく致してから迎いに参れ」
△「畏まリました」
 供を追い払ってしまい
源「アヽい心持ちだ。人間の運というものは何処どこにあるか分からねえものだ。八百屋の源兵衛が、こんな結構な着物を着て、御公卿おくげ様になろうとは思わなかった。この事をかかあに話したらさぞ驚くだろう」
 と独り言を言いながら、ブラ/\歩いて来る内に、大きな木の空洞ほらあなになっている所へ蹴躓けつまずくと、ポーンと音がした。これは面白いと思ってコツン/\っておりますと大きな木の空洞ほらあなの中からノソ/\這い出して来た男がある。
○「どうぞ御免下さいまし」
 源兵衛肝を潰したが、わざと沈着おちついて、
源「なんだ貴様は」
○「ヘエ、恐れながら命ばかりはお助け下さいまし。決して化け物ではございません。姿は斯様かように怪しゅうございましても、人間に相違ごいませんので」
源「大変な奴だな、其方そのほうは何者だ。はっきり口をきけ」
○「はっきり口をきこうと思いますが、腹がっておりまして、口をきく事が出来ません。何を包みましょう、私は二月ふたつき以前に、名前は申し上げられませんが、よんどころない方から、定家卿ていかきょうの色紙を盗んでくれろと頼まれまして、ツイ金に目がくらみ、近衛関白殿下お預かりの色紙を盗み出しましたが、なにぶんにも詮義せんぎが厳しくって逃げ出す事が出来ません、それ故この空洞の中に隠れておりまして、夜になると抜け出しては、いろいろ食い物を盗んで来てそれを食べ、囲みの取れるのを待っておりましたが、なかなか取れる様子がなく、困った事と思っていると、今度江戸から鼻利源兵衛というえらい人が乗り込んで来て、この御所内へもお出でになるという事。見付け出されては大変と生きた心地はありませんでしたが、案の如く貴所あなた此処ここへお出でになり、コツン/\と空洞の外をお蹴りになるのは、まさしく私のいる事と御察しになったものと思いましたから、これへ出て参りまして白状を致しました。どうかその代わり御慈悲で命ばかりはお助けなすって戴きとう存じます」
源「ウムそうか。それでは全く其方が宝物を盗んだのに相違ないな。イヤそうだろう。どうもこの空洞ほらあなの中で匂いがすると思った。とにかく其方が悪い事をしたと後悔をして、白状を致したからは、特になさけを以って一命を助け遣わす」
○「へエ」
源「ともあれ、モウ二三日この空洞の中へ入っておれ。宝物さえ出れば自然囲みも解けるだろうから」
○「有難う存じます。それではこれが定家卿の色紙でございます。お受け取り下さいまし」
源「よし/\、サァ/\早く空洞へ入っていろ」
 源兵衛大きな声を揚げて、
「有りましたぞ、出ましたぞ」
 と呶鳴どなったから、ソレ出たと言うので、大勢役人がこれへ来て見ると、まさしく定家卿の色紙に違いない。そこで関白殿の御手許へ差し上げる。近衛公この上なくお喜びになりまして、
関「イヤ実に其方はえらいものじゃ、何なりと褒美をつかわすから望め」
 という有難仰せ、
源「どうも有難う存じます。それではお金を沢山、戴きたいもので」
関「其方は賎しい奴じゃな。金が望みなら幾らでも遣わすが、そのほかには望みがないか」
源「それではい女を百人ばかり戴きたいもので」
関「それもよろしい」
源「それからモウ一ツお願いがございます。吉野山という所は景色のい所でございます。彼処あちらへ一ツ結構な家を拵えて戴きとうございます」
関「しからば左様致して取らせる」
 と言うので、早速吉野山へ立派な御殿を出来こしらえまして、これを吉野山の鼻利御殿という。そこへ源兵衛は江戸から女房を呼び寄せて住む事になりました。サァこの事がたちまち京洛中きょうらくちゅう洛外の大評判になりまして、寄ると触るとこの話ばかり。
甲「ナァ金兵衛はんや。今度吉野山へ立派な御殿が出来るそうじゃ。なんでも近江守おうみのかみ藤原の鼻利源兵衛ちう方の御殿だそうじゃが、えらいもんじゃな。十里以内なら何でも嗅ぎ出すという事じゃが、一度でいいからその鼻が見たいもんじゃな」
乙「貴所あなたそないにはな≠ェ見たいか。はな≠ェ見たけりゃ吉野へござれ」





底本:名作落語全集・第二巻/頓智頓才篇
   騒人社書局・1929年発行

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