田能久(たのきゅう)
五代目三遊亭圓生
阿波国徳島
在に
田能村という所がございます、ここに
久兵衛さんという百姓がありまして、誠に親孝行な方で、たった一人の
阿母さん、天にも地にも掛け替えがないというので、大層孝行を尽くしました。この人がまた素敵に芝居が
巧い。もっともその日に困るという貧乏人でもないが、さて金持ちでもありません。
諸方からお前さんが
座頭になって一つ芝居をやって貰いたいと頼まれますので出掛けると、またこれが大変な評判で商売人より
田能久の方がいいと言う。それで自然と村の百姓衆が、この久兵衛さんの弟子になりまして、ついには田能久一座というのが出来ました。サァこうなるとあっちの
鎮守様の
祭礼に来てくれ、こっちへ来てくれと、諸方から頼まれて芝居を打って歩きましたが、その中にどうも
在ばかりでは面白くない。どこか
大場所で
演りたいと言っている所へ、伊予の宇和島から頼みに来た。これ幸いとここに乗り込みまして初日を開けると評判が大層
好い。田能久一座は面白い、役者が揃っているし、とりわけ田能久は巧いといって、連日の大入りでございます。
或日の事、
国許の阿母さんの処から手紙が参りましたので、久兵衛さん早速
披いて見ると、お前が
家を出てからどうしているかと旅先を案じて、それが
原因で今は病に
罹り、嫁の世話を受けているが、どうかこれを見たらば、
直ぐに帰って来てくれとの文面でございます。
性来親孝行の男ですから、モウ何も手に付きません。そこで後の事は一座の者に
万々頼み、狂言
半ばではあるが、私は
阿母が病気だから帰ると言って、早速支度をいたし、自分が日頃大事にしている
鬘を三つばかり風呂敷に入れ、
絲経を着、
菅笠を
冠り、宇和島を出発いたしましたが、その途中
保気津峠に
十坂峠というのがございます。今しも久兵衛さんが保気津峠を越え、十坂峠に掛かろうすると秋の事、今まで青々として雲一つなかった空が、急に曇って来て、ポツリ/\雨が降って来ました。どうしようかと思案に暮れている所へ、百姓、
杣夫、
樵夫などが通り通り掛かって、
○「モシ、旅の人、お前さんこの峠を越すかね」
久「ハイ、少し急ぎますから、夜になりますが越しますつもりでございます」
○「そりゃァ
止したらよかんべえ。この峠を無事に夜越した者
無えだよ。なんでも悪いものが出るというこんだ。
止さっせえ」
久「御親切に有難うございます」
と言いながらも久兵衛さん、少しも早く
阿母さんに逢い、安心させようと思い、百姓や樵夫達が通り過ぎたのを見て、止められたのも
肯かずに峠に差し掛かり、ちょうど、十坂峠の中程まで参りますと、日はトップリと暮れ、雨はますます
烈しく降って参りました。すべり/\
爪先上がり、
漸うの事で十坂峠の頂上に達しますと、もはや
四辺は真っ暗で、
黒白も分かりません。雨は盆を
覆す様に降りしきり、道も分からず、途方に暮れておりました。すると左の方に黒く
家らしいものが見えますので、それへ近付いて見ると、これは昼間
杣夫樵夫の連中が仕事に来て
小憩みをする
掘立小屋でございますから、これに入って
暫く雨やみをする考え。しかし
身体が濡れているし、
殊に頂上で寒さが
烈しいから、何か無いかと
四辺を探すと、
木葉や
枯枝がありましたから、早速これを積み重ねて用意の
火口を取り出し、カチ/\とやって火を点け、一服しながら
身体を
暖めている。ところが
大分お腹が空いて来たので、
背負ていた包みからお
結飯を出して喰べ、お腹が
充くなって、
身体が
暖かになりましたのでコクリ/\居眠りが出て来ました。傍らを見ると幸い
筵がありますから、それを敷いて横になると昼の疲れが出て、グッスリ寝込んでしまいました。サーッと吹き来る風が肌に当たり、ゾッとして目を覚まして見ると、
焚火は消え真っ暗でございます。ヒョイと
枕許を見ると、年は
古稀をも過ぎましたか、白髪
白髯の老人が白衣を
纏い、
高足駄に杖を突いております。久兵衛さんこれに驚いた。なまじい何か言っては
危険だと思いましたから、眼を
明いたまま
鼾をグウ/\かいておりますと、
老「オイ/\旅人、寝たふりをしなさんな。眼を明いて鼾をかく奴があるかい、横着な野郎だ」
久「ヘエどうか御勘弁を願います。ここは
貴方の御小屋でございますか。私は旅の者でございますが、行き暮れまして、殊にこの大雨で、
難渋いたしまして、お断り申さず、ここを拝借いたしまして、誠に申し訳がございません」
老「ナニここは俺の小屋じゃァねえ。
何時入ったっていいが、お
前この
麓で百姓に何か言われたかい、この峠を
夜越をするは、
止せとか何とか……」
久「ヘエ、よく
貴方は御存じでございますな」
老「どうも、この頃は人間が邪魔をしていけねえ。しかし
今日は、久し振りで人間に出会った」
久「エッ」
老「人間の味を忘れ兼ねていたんだ」
久「ナヽなんです。あ、
貴方は
全体なんでございます」
老「俺か。何もそんなに怖れるものじゃァねえ、この十坂峠に古く住んでいる
蟒蛇だ」
久「キャッ」
老「オイ騒ぐな、サァ
潔く俺に呑まれろ。モウこうなったからには逃げようたって逃がしはしねえから、支度をしな」
久「ソヽそんな事を言ったって駄目ですよ。風呂か何かなら
裸体になって飛び込みもしましょうが、
貴所のお腹へ入るのは、ド、どうかお許し下さいまし」
老「ヤイ/\未練らしい事を言うない。貴様も男だろう。サァ覚悟をしろ」
久「マヽヽ待っておくんなさい、
蟒蛇様。
私は
貴方に呑まれるのは
厭いませんが、たった一人の母親が病気でおりますから、その親を見送るまでどうかお助けを願います。今暫くの間お見逃し下さいまし」
老「馬鹿にするな。
漸う人間にありついてよ、逃てがしてたまるものか」
久「ソヽそれではどうか
阿母に一目遇わして下さい。私は麓で止められたのも
肯かずに上がって来たのでございますから、呑まれるのも仕方はございませんが、どうか今暫く……」
老「グズ/\言うな。しかしお
前も止められたのに上がって来るとは随分強情な奴だな。何者だ」
久「ヘエ、私はァ、阿波の国の、トヽ徳島の在で」
老「
確り言え」
久「タヽヽヽ
田能久と申します」
老「なんだ、狸だと」
久「ヘエ」
老「人間じゃァねえのか。馬鹿にしやァがって。ウンそういえば
先刻変だと思った。眼を明いて
鼾をかいていたが、アヽ成程あれが狸寝入りなのだな。俺も人間だと思ったから、ヤレ嬉しやかつえていた人間に逢ったと思ったら、そうではなく狸なのか。狸を呑んじゃァ仲間の者に
外聞が悪いや、呑む物がなくなって、
獣を呑んだと笑われらァ。アヽ詰まらねエ/\、楽しみが
無になってしまった。だが狸公」
久「ヘエ」
老「お
前はよく何かに化けるというじゃァねえか。どうだえ一つ、俺に化けて見せてくれねえか」
と言われて久兵衛さん、困った事になったと思いましたが、
不図心付きましたのは
背負って参りました
鬘、
久「それでは一つお目にかけます」
と言って暗い所へ頭を突っ込んで鬘を被りまして、
蟒蛇の前へ顔を出しました。
老「ウーン、
巧えな、恐れ入った」
久「モウ一つ御覧に入れましょう」
老「モウ沢山だ、いい」
久「イエ一ツではお疑いがあるといけませんから」
老「オヤ女に化けたな。こりゃァ
狸公実に恐れ入ったな。俺なぞは、この
老爺に化けるのが精一杯なんだ。お
前はちょっとの
間に何度も化けるが、一つその
骨法を教えてくれ。どうだ二三日、俺の穴に逗留して行かねえか」
久「有難うございますが、
私は急ぎの用がございますから、また御厄介になりに来ます。
今日はこれでお
暇をいたします」
老「マァ待て狸公、急ぎなら泊らなくってもいいが、
躓く石も
縁の
端とやらだ。この先お互いに
仲好く
交際おうぜ」
久「ヘエ」
老「ついちゃァな。仲好く
交際うにゃァ互いに打ち明け話をしようじゃァねえか。どんなものでも一つは恐ろしいものがあるといふが、お
前なぞは何が恐ろしいな」
久「それはもう、いろ/\ございます」
老「いろ/\ある内でなんだ、犬なぞは
怖かァねえか。一番怖いものだぜ」
久「そうでございますな。一番怖いものと申しますと、まァ
金でございましょうな」
老「ナニ金が怖い。あの使う金が怖いのか。エッ、そりゃァまたどういう
理由だ」
久「あの金でございますがね、随分と命を取ったり、また取られたりする者が、
何程あるか判りません。マァあの位怖いものは世の中にあるまいと思います」
老「そうか、妙だな」
久「
蟒蛇様なぞは何が恐ろしいのでございましょうか」
老「俺はな、煙草の
脂が、一番怖いな」
久「ヘエー、あの煙草の脂が。変ですな、どうして怖いのです」
老「あいつが
身体に付くと、肉から骨まで染み込んでついには死んでしまうからな。それから次は
柿渋だ、あいつがまた
身体につくと
竦んでしまって思うように働けねえから、マァこの二つが怖いものだな」
久「そうですか」
老「だがな、こうふたりとも打ち明けた以上、決して人間にこんな事を言っちゃァならねえぞ。その代わり俺もお前が怖い金の事は人間に話さねえから、もしお前が脂と柿渋が俺の怖いものだなぞと人間に言えば、徳島の
住居へ行って貴様を喰い殺してしまうから、そう思ってろ」
久「イエ、決して
他言はいたしません」
老「しかしこのまま別れるのも残念だな。また何だ、そのうちに遊びに来ねえ。俺もお前の
処へ遊びに行くぜ」
久「どうかお尋ね下さいまし、それでは御免を……」
と言った時
彼の老人は
何処ともなく立ち去ってしまいました。ホッと一息吐いた久兵衛さん、やれ嬉しやと思い、一目散に駈け出しました。そのうちに雨も止み、東が白んで参りましたので、道も判るようになりましたが、ただ
夢我夢中で包みを
背負て峠を下りて参りますと、早や
夜は明けて
杣夫や
樵夫が山へ仕事に参るので、ゾロ/\
麓から上がって来ると、
蒼白になって駈けて来る人があるので、
○「モシ/\、モーシ」
久「へエー」
○「どうしなすった。マァ
蒼白になって、何か峠の上にいましたか。今時分どうして峠を下りて来なすった」
久「ハイ有難うございます。
私は少し急ぎの旅でございましたため、
昨日十坂峠の手前で人が止めましたのを
肯かずに上がって参りますと、頂上で雨があまり
甚く降って参りましたから、雨やみをしようと思い、小屋で
焚火をしてトロ/\としました
処へ、
蟒蛇が出て来まして、危うく呑まれるところでした」
○「ヘエー
蟒蛇が出たかね」
久「十坂峠に古く住んでいるそうで、
老人の姿に化けましてな」
○「ハァ、それは危なかったなァ」
久「何者だと申しますから、私は阿波の徳島在の
田能久でございます、と申しました処が、
蟒蛇が狸と間違いまして、人間なら呑んでしまうのだが、狸だから呑まない。その代わり化けろと申しますので、お恥かしゅうございますが、私は芝居が道楽で、ちょうど
鬘を持ち合わせがありましたから、それで早速化けて見せましたので、疑いが晴れて
漸う下って参りましたのでございます」
○「それは
僥倖だ。お前さん田能久さんか。そうか、大層な評判だよ。それに親孝行だというから、それでお前さん、神様がお助け下すったのだ」
久「これは恐れ入ります。それで
蟒蛇が申しますには、お前の怖いものは何だと言うから、私が金ですと言いました処、
蟒蛇の一番怖いものは煙草の
脂に柿渋だそうでございますよ。柿渋が
身体にかかると
竦んで働けないそうで、また脂は骨まで染みて、終いには死んでしまうと申しましたよ」
と久兵衛さん、ここで残らず
昨夜の事を話してしまい、それから急いで田能村に帰って参りました。こちらは
杣夫に
樵夫の連中、
○「どうだ、聞いたか。今、田能久さんが言うには、この山に
蟒蛇がいるというじゃァねえか。そんな物にいられた日にゃァ、
俺等が仕事に行って、もしもの事があってはなんねえ。
殊に旅人がどんなに困るか知んねえから、一つ皆なで
蟒蛇退治をしようじゃァねえか」
△「よかろう」
○「それには今も田能久さんが話した通り、煙草の
脂や
柿渋で殺してしまおう」
△「よかろう」
とここで村の若い者が大勢集まって煙草の脂に柿渋を集め、これを樽に入れて四五人で担いで、あとの者は各々
得物やまたは
柄杓を持ち、ワーワーッと言って十坂峠を登って参りました。
蟒蛇は何が始まったかと思いまして、穴から首を出した処が、村の者が見付けて、
○「ソラあすこに
蟒蛇がいた。柿渋を掛けろ、柄杓で脂を
打っ掛けろ」
と大勢
鬨の声を揚げて、脂に柿渋を掛けられた。サァ驚いたのは
蟒蛇、身を悶え苦しみましたが、いよいよ
敵わなくなって来たので、法を使って雨風を一時に起した。これには
流石の村の若い連中も驚いてあっちっこっちと、一つ処に固まってしまう。雨が止むとまた村の者が攻める。サァこうなると、
蟒蛇と村の人との根気比べでございます。ところがなかなか村の人は
根が強いので、
蟒蛇もとうとう永々住み馴れた穴を逃げなければならない。いよいよここを脱走したので喜んだのは土地の人でございます。
蟒蛇は怒るまい事か、あの狸が話したに違いない。どうするか見ろと、徳島を指して参りました。
こちらは久兵衛さん、家へ帰って来ると
阿母さんの病気もそれ程大した事でないので、ただ
倅の出先を案じて
病らったのでございますから、帰って来たので大分
快くなり、
母「どうか久兵衛や、お前が家にいないと何となく心配になっていけないから、どうか旅立ちは
止しておくれ」
久「ハイ、モウこれからは
阿母さんのお
傍におりますから、どうか御安心を願います」
と、久兵衛さんその日は疲れも出ましたから、寝床に入ると、表の戸を
破るばかりに叩くものがありますので、
久「誰だろう、今時分来るのは」
○「開けろ、開けないか。開けないと
破壊してしまうぞ」
久「お持ちなさいよ、どうも聞き馴れない声だな」
○「早くしろ」
久「どうも変だ。オイお前な、
阿母さんのお目の覚めねえ様にしてな、何か変わった事があれば大きな声をするから、阿母さんを連れて裏から逃げてくれ」
と母親の事を女房に頼みまして、怖々ながら土間へ下りて、戸をスーッと開けて見ると、十坂峠で出会った
白衣老人。
吃驚してふるえ出した。老人は頭が
破れて顔に血が流れ、恨めしそうな顔をして、久兵衛を
凝視ております。
久「エヽ、これはよくお出でなさいました」
老「ヤイ狸、よくは来ねえ。このお
喋舌野郎が。あれ程俺が言って置いたのに、
汝は
麓へ行って村の野郎に
喋舌ったな」
久「イエ、ソヽそんな事はございません」
老「無え事はねえ。貴様が
喋舌らねえで、誰が俺の一番怖いものを知っている。よくも
喋舌ったな、どうするか見ろ」
久「どうか
蟒蛇様、御勘弁を願います。私が
喋舌ったのではございません」
老「グズ/\言うな。俺の怖いものを言ったから、俺も貴様の怖いものをやるからそう思え」
とかの
蟒蛇が片手に抱えるおりました、大きな箱をドカリと土間へ
投り込んで、
何処ともなく姿を消しました。久兵衛さんは怖いものをやると言われたので、ブル/\ふるえておりましたが、何であろうと、
密と箱の傍に寄って、怖々ながらに
蓋を取って、また
吃驚、
久「ウアーッ」
そのはずで、箱の中は山吹色が一杯。勘定して見るとちょうど千両あったそうでございます。