将棋の殿様(しょうぎのとのさま)
三代目三遊亭小圓朝
当今では華族様の
御公達が
大道で
鮓や
天麩羅の立ち食いをなさるというくらい、世の中が変わって参りましたから大した間違いはございませんが、昔の御大名には随分
可笑しなお話がございました。もちろん生まれ立ちから多くの御家来に
侍かれ、何の御苦労もなく、ボーッとして、お育ちになったから、
下情の事をご存じなかった。ある殿様がお物見から市中の様子を見て
在しったが、
殿「アヽコレ/\
藤太夫、町人というものはさてさて
憐れなものであるな」
藤「何ぞお目にお留まりになりましたか」
殿「見ろ、職人共が
煙草を
喫んでおる」
藤「職人でも煙草を
喫みます」
殿「
喫むのは
宜いが一ぷくの煙草を二人で
喫んでおる」
火を貸しているのを御覧になったのでございます。今から考えると
莫迦々々しい
様でございますが、これらは御大名の心意気で、
其処にまた味わいがあります。つまり世間見ずだから随分無理な事を言う、それを仰せ
御道理と少しも反抗の出来ないのが
君臣の礼としてありました。ある時御親戚へお客にお出での節、御馳走にお
蕎麦が出ました。何も蕎麦が
美味いから差し上げようというのではございません。職人を
庭前へ入れまして、蕎麦を打つ
処を御覧に入れるのが一つのご馳走でございます。殿様のことで、蕎麦というものは木にでも
生っている物か、
心天のようにニュウと突き出すもののように思し召して
在っしゃる。それを蕎麦粉から打ちまして
麺棒で
展して
庖丁を入れて、
釜で上げて前へ出したから驚きました。
成程蕎麦というものはこんな事をして造るものかと、感心をして、あれは
何というものだ、
木鉢でございますとか、これは
麺棒と申しますとか、
種々皆
側で申し上げて、蕎麦の製法を
概かた覚えになり、お屋敷へお帰りになると、
其処が大名でどうか御自分で蕎麦を
製えてみたくってなりません。
殿「コレ
金弥々々」
金「ハヽッ」
殿「どうじゃ。皆の者は蕎麦は好きか」
金「ハッ、
暫く……近藤、吉田、どうだえ、御前がお尋ねだ。
皆な蕎麦が好きかと
仰るが、
貴公はどうだ」
近「大好物」
金「お手前は」
吉「結構」
金「皆好きだな……エヽ、恐れながら申し上げます。皆、大好物にございます」
殿「好きか。しからば一同へ蕎麦を振る舞い
遣わす」
金「ハヽッ、有り難い事で。どうだえ。お蕎麦のお振る舞いだ。更科か
蘭麺か、定めし結構の蕎麦屋へ御注文になる事であろう」
殿「コレ/\自身打って
遣わすぞ」
金「ヘエー、御前が御蕎麦を……」
殿「ウム、
製する事は
疾くより存じておる。控えておれ……蕎麦粉を持って参れ」
鶴の一声、かねて
内々御申しつけになっていたものと見えて、
直ぐにお坊主衆が蕎麦粉を
叺で担ぎ込んで参りました。
殿「
木鉢を持て」
大きな木鉢が参ります。
殿「水が要る、沢山に水を入れて持って参れ」
荷担いもって御殿へ水を持ち込んで来ました。
やがて御前はお羽織をお脱ぎ遊ばし、
襷十字に
綾どり、蕎麦粉を木鉢の中へ入れ、水を入れましてでっちます。これは見ていると訳がなさそうですが、やってみるとなかなか
巧くいきません。まして分量が分からず、水が多過ぎて、また水を入れるという始末で、
継ッ子が出来放題、大きな塊と小さな塊を山のように積み上げました。
殿「どうじゃ」
金「恐れ入りました」
殿「
草臥れたな。さて、これからどう致したっけの、オヽそうじゃ/\、これへ板を持て」
金「エヽ伺いまするが、板と申しますると、どういう板でございます」
殿「分からん奴じゃな。手前達は蕎麦を
製るのを見た事はないか、この蕎麦の塊を
展す板じゃ。何かあるじゃろう、アヽコレ/\
杉戸を
外してこれへ直せ」
金「ハテ、お杉戸を外しまするか、それは
些とお手荒いかと心得ますが、
楯板ではお間に合いますまいか」
殿「何でも
宜い、早ういたせ」
ソコで軍用に使う楯板を持って来た。
殿「前へ直せ、アヽそれで宜しい。まずこの上へ載せて、それからじゃ。アヽそうだこれをコロ/\やるのじゃな。棒を持て棒を」
金「ハヽッ恐れながら棒と申しまするとどういう……」
殿「この蕎麦を、コロ/\やる棒じゃ。何でも
宜いから早く持て、
六尺棒を持て……」
麺棒という事を忘れました。六尺棒という仰せだから、早速足軽部屋から真っ黒に汚れている、六尺棒を取り寄せる。
殿「オー
宜し/\」
これでゴロ/\
展す。それから庖丁を入れる。庖丁だって本当に入りません。お庭に大釜があって、これに湯が沸いている。その中へ蕎麦を入れて、茹で上がるとズーッとお吸い物膳が出る。
器はもちろん立派でございます。
○「恐れ入ったな。どうも御器用な事で、御前が蕎麦をお打ちになるというのは」
△「イヤどうも驚きました。これが本当の
御膳蕎麦だろう」
○「大きに左様……イヤこれは蕎麦が固まっている、蕎麦粉ばかりで
継ぎがないようでござるな」
△「これこそ真の
生蕎麦でござろう。どうも、拙者蕎麦好きと言っては類のない位、頂戴致そう。恐れながら、申し上げます、御手作りのお蕎麦有り難く頂戴いたします」
殿「オヽ遠慮いたさず、充分に食べろ」
○「有り難う存じます、頂きます」
箸を上げて挟もうとすると、蕎麦が固まっていて、箸に掛かりません。
○「これは困ったな。どうも……」
隣を見ると、蕎麦の中へグイと箸を突っ込んで千切っているから、
○「成程、こう千切って
液汁を付けるのかな……」
口へ入れると手垢の付いた六尺棒で
拵えたお蕎麦でございますから、イヤに塩気がある。中には
生茹での
処があって、粉が出る。ヒョイと向こうを見ると殿様がピタリと見張って
在っしゃるから吐き出す訳にもゆかない。蕎麦のために
失策ってはなりませんから、一生懸命に食べ終わりました、
○「有り難く頂戴
仕りました」
殿「アヽ遠慮いたさず、充分に食せ。コレ代わりを持て」
○「イエモウ沢山頂戴仕りました」
殿「沢山という事はない。一ぱいでは
可かん。遠慮をするな」
○「なかなか
以ちまして御遠慮は仕りません」
殿「イヤ大好物であると申しながら、一ぱいという事はない、代わりを食べろ」
○「ヘエどうも恐れ入りました、しからば頂戴仕ります。エヽ恐れ入りましたがお
液汁のお代わりをどうか願います」
お
汁は
御膳所で出来ますので、誠に結構でございますから、
汁の勢いで食べるので、アヽ奉公は辛いもの、どうしてもこの蕎麦を食べなければならんのかと腹の中で愚痴を
溢しながら、口の
処まで持って来るとウンザリする。
漸うの事で今一ぱい食べ終わったと思うと御前が見張って
在しって、
殿「コレ/\あれにモウ無いようじゃ。代わりを持て代わりを持て」
坊「ヘエお代わりでございます」
○「エヽ
貴郎そう
無暗と明けては
可けません。手前充分満腹致しました。これを一つ頂けば大概沢山で、後からそうお明けなさるというのは何たら情けない事で……」
これが殿様のお耳に入ると、
殿「コレ/\情けないとは何だ。折角予が自ら造って振る舞い遣わすものを、情けないとは無礼千万、左様
我儘を申して食さんにおいては、手打ちにいたすぞ」
ご家来ハッと気が付いて、
○「成程、手打ち蕎麦とはこれか……」
つまり
御登城の
外には別に御用がないから、御退屈のまゝ
種々遊び事を御考えになります。
殿「コリャ/\、家来共一同
揃ったか」
○「御機嫌宜しゅう」
殿「イヤどうも毎日、
汝等から
種々話は聞いておるが、別段面白い事もない。どうじゃ、予が子供の頃将棋を差した事があるが、汝等将棋を差せるか」
○「ヘエ、差せると申す程でもございませんが、ホンの駒を動かす事なら
弁えております」
殿「アヽそうか、しからば盤を持て」
早速結構な将棋盤がそれへ出る。
○「しからば手前が
御対手を
仕ります」
殿「アヽ
汝は幾らかやれそうだな。サア/\
対手をしろ」
○「なかなかお
対手などという訳には参りません。お稽古を願います」
殿「
宜し/\、サア
此方へ参れ……早く
列べろ」
○「エヽ手前の方は
列びました」
殿「イヤ
其方は
列んだろうが、
此方がまだ
列ばん」
○「アヽ左様で」
相手の方まで
列べさせられて御家来が、
○「エヽ
御上へ伺います」
殿「何じゃ」
○「
下様ではこの将棋を差します前に、先手後手を
定めまするために、金が歩かという事を致します。恐れながら
斯様に一人駒を握っておりまして金か歩かと尋ねまする、
甲が金なら金と申します。
其処で恐れながらこれを投げてみまして、金が出れば甲が先手、歩がでれば乙の先手とこういう事に相成ります」
殿「ホヽウ先に出るのと、後に出るのと
何れが利益だ」
○「それはもちろん先へ出ました方が利益でございます」
殿「左様か、しからば予は先手を取る」
○「アヽお先へ遊ばしますか」
殿「予が先へ出る。この歩を突くのが
宜いという事を記憶しておるがな。この
角という物はイザ敵地へ乗り込んで成ってしまうと、縦横に歩けるから働きを致すものだが、我が陣地にあっては誠に役に立たん奴だ。それ故
身体を自由にしてやるために、
角道から出るのが将棋の方だという事を聞いたがどうじゃな」
○「御意にございます。碁には碁の
定石のあります如く、将棋にもまたその法のあるもの、角道から出ますのは将棋の法に
適っておるように承わりおります。なかなか
御名手かと存じます」
殿「ウム、左様か」
○「手前は、少々工夫を変えまして、
此方から出ます事に致します」
殿「左様か、しからば予はこう出る」
○「ヘエ……どうもなかなかお
上はお手順が
極まって
在らっしゃるので、大きに苦しみます。しからば
此方の金が上がります事に
仕ります。ヘエ」
殿「ウム成程、
其方はなかなか
能くやるな」
○「恐れ入ります」
殿「コレ/\そう
其方のように一々お辞儀をするな」
○「ヘエ恐れ入ります」
殿「また頭を下げる。何もそう恐れ入る事はない。予を敵と思え。予がこう突いて出る、サア早くやれ/\」
○「ハヽッ、
何時の間に
君には
斯く御上達遊ばしましたか、なかなかお出来でございますな」
殿「イヤ
褒めるな。敵に向かって
追従を申す奴があるか……アヽコレ/\その歩を取ってはいかん」
○「ヘエッ」
殿「その歩を取ってはいかんよ」
○「エヽ只今
上にはこれをお突きになりました。それ故手前がこれを取ります。
隔番に」
殿「
隔番に
遣るくらいは、
汝に教わらんでも存じておる」
○「只今
上がこの歩をお突きになりましたから、それ故手前がこれを頂戴致します」
殿「イヤその歩を取られては、
此方が不都合だ」
○「不都合と
仰せられましても、恐れながら手前の手で」
殿「
其方の手には違いないが、当方において不都合があるから取ってはならんと申すに分からんか。主人の不都合を
顧みず、この歩を取るというは
不忠ではないか。
強って言葉に背くか」
○「イエ御立腹では恐れ入ります」
殿「その歩を取らずに
他の手をいたせ。
怪しからん奴じゃ」
○「ハヽッ、イヤ御同役お笑いなさるな」
殿「サア早く致せ」
○「御言葉に背くと仰せられましては、甚だ恐れ入りますから、仰せの歩を取る事は
暫く思い留まりまして……他の手がございません。止むを得ず端の方の歩を突く事に致します。どうかこれにて御勘弁を願います」
殿「
確と左様か。それなら、
此方においてこの歩を取ると甚だ都合が宜しい」
○「ハヽッ、
御道理」
殿「分からん事を申さずに早く致せ。
下手の考え休むに似たりという事があるが、
戦争を致すにそう一々首を傾けて考えておっては勝つ事が出来んの。これはいかんな。アヽコレ控えろ、その飛車は
何時の間にか
此方の陣中へ乗り込み、
剰さえこの辺りの駒を皆な取ってしまうというは
怪しからん奴だ。
其方は主人の言葉を背くか」
○「恐れ入ります。決してお言葉を背きは致しませんが、この飛車なる者が陣中へ乗り込みますまでには
幾許の
艱苦を
嘗め、
漸くこれまで参りましたもの故、
何卒これまでの
艱苦を思し召し、飛車だけは
御憐憫の
御沙汰をもちまして、そのままお差し置きを願います」
殿「
其方如何に嘆願に及ぶといえども、この飛車が我が順中へ乗り込んで参ったのは如何にも
怪しからん奴だ。しかしながらせっかく
其方の嘆願致すものであるから……何とか趣意を見つけ出して
遣わす。待て/\
暫時差し控えおれ。こうっと……有った/\趣意を授けて遣わす、
此処に
蹲っておる
此方の飛車を
其方の順中へ成り込ませれば、許して遣わすが、その代わり
其方の飛車は当分動かしてはならんぞ」
○「ハヽッ、恐れながら手前の飛車をお助け下しおかれるために、手前陣中に
上の飛車がお成り込みに相成りまする事は、承知致しましたが、しかし途中に金と銀とがございますのを飛び越して
入らせれれましては甚だ迷惑
仕ります」
殿「分からん奴だな。
其方の飛車を助けるがために、
此方の飛車を成り込ましたのじゃ、しかるに何ぞや通り道に金銀があって、飛び越したとて
宜いではないか」
○「お飛び越しと申すは、飛び将棋の
外はないかと存じます」
殿「将棋のほうにないといたしてみれば、
此方の飛車も
其方へ行く事が出来ん。行く事が出来んければ、
其方の飛車も助ける訳にはならん。もし飛び越す事が出来んなら、この金銀は
目障りに依って取り払い申し付ける、早速取り払え」
○「ハヽッ……御同役お笑いなさるな。しからば
斯様取り払います」
殿「コレ/\死体は此の方へ引き渡せ。
其方の願い通り助けてやる、代わりに
此方の飛車は
其方へ参るぞ」
○「恐れ入りました」
殿「どうじゃ負けたか、
其方は
下手じゃな。コレ入れ代わって参れ/\」
サアそれから何人かの
御近臣が入れ代わり立ち代わり、出ましたが
皆な取り払い、お飛び越し、差し控えを申し付けられ、甚だしきはお
上が
二手くらい遊ばしますからどんな先生だってこれじゃァ負けます。碁敵は憎さも憎し懐かしゝで
総て勝負事は負け勝ちの
中にお互いに楽しみを致すものでございますが、これは
何時でも殿様が勝って、家来が負けてお辞儀をすると
極まっているから面白くない。御近臣の者が毎日お
対手をいたしモウ飽きるだろうと思うとなかなか飽きない、御飯を召し上がると御休息もなさらずに
直ぐに始める。御家来方もやり切れないから、なるたけ早く負ける事ばかり考えております。
○「お早う」
△「これは大層お早く、御苦労千万。
上は」
○「モウ
疾うにお目覚めになったようで、只今
一寸覗いてみました
処が、将棋盤がモウ出ております」
△「それは/\。
最早大概お飽きになりそうなものではござらぬか。そうも困ったもので、またお
対手仰せ付けられるかな」
○「イヤこれもよんどころござらん。実は拙者、昨夜親父に相談を致した
処、それはどうも致し方がないから、御機嫌を取り結んだが
宜い。それは御奉公の道であると言われてみると、それに相違ござらん」
△「
如何さま
是非に及ばん。どうでござる、モウお出ましになろうか」
○「イヤまだチト早うござろう」
殿「コリャ/\
次の
間に声が致すが、一同見えたか」
一同「ハヽッ、御機嫌お宜しゅう……」
殿「サア皆の者参れ」
△「ソレ、お飛び越しお取り払いのお呼び込みだ」
殿「コレ/\
其方共はどうも
下手でいかん。
何時やっても
此方が勝つと
極まっておって面白うない。負ければ辞儀さえすれば
宜いと心得ておるのに依って、
何時までも上達致さん。奨励のため一工夫致した。
此処へ
鉄扇を
賭け置いて、負けたる者はこの扇で頭を打つ事に
極めたから左様心得ろ。勝負の事だから、
其方が勝ったら遠慮なく充分に予を打て、
依怙の
沙汰はない。どうじゃ」
△「しからば幸いにして、我々が勝ちを得ましたる節は、恐れながら
上の
御頭を打ち奉りましてもお叱りはございませんか」
殿「それが勝負であるから、
腹蔵なく打て」
△「ハッ
一統へ只今申し聞けまする間、
暫く御猶予を願います……同役、今聞く通りの訳だから
宜いか」
○「イヤいかん、到底勝てる訳がない」
△「
今日我々が勝てば
彼の
鉄扇を拝借して、
御上を打つんだが、ナニ
真正にやれば御上などは赤子の手を
捻るより
猶易いことじゃ」
○「それがなかなかそうはいかんよ、お取り払い、お飛び越し、差し控えがあった日には到底勝てん。
鉄扇を賭ける事になっても、やはりお取り払いやお飛び越しは依然としてあるに違いない」
△「イヤそれはなかろう、
例もと違い現在
腹蔵なく打てと
仰るのだから」
○「そうかな。それではとにかく伺ってみよう……エヽ恐れながら伺いますが、一統の者へ励みのために
鉄扇をお賭け遊ばす事を申し聞け、一統承知
仕りましたが、それにつきまして、少々前に伺いおきたきは、いよいよ
鉄扇をお賭けになりましてもやはり、例のお取り払いお飛び越し差し控えを仰せ聞けられるような事がございましょうか、念のために伺い奉ります」
殿「それは念の入った尋ねだが、盤に向かってみなければ分からん。不都合な時には取り払い、飛び越しもあるものと存ぜい」
○「オヤ/\、
各々やはりお飛び越しがありますと。どうぞ、貴殿から先へお
対手に」
△「イエどうぞ貴公から、御遠慮には及ばん」
○「頭を打たれるに誰も遠慮する者はない。しからば拙者お先へ、宜しい/\、参ろう」
ブル/\もので盤に向かって手を出すと、無い
処ではありません。常より
烈しい、
忽ち勝負が付いて、
殿「どうじゃ」
○「恐れ入りました」
殿「頭を持ち参れ」
○「ヘエ……恐れながらお手柔らかに願いとう存じまする」
殿「イヤそれはいかん。
甚く打たれゝば、これでは
堪らんと存ずる所から、上達致すのじゃ。このくらいなら我慢がし
宜いというのでは
上手にはなれんに依って、充分に打つから左様心得ろ」
と例の
鉄扇で頭をポカン、
殿「どうじゃ……代わって参れ」
剣術でも
遣るような塩梅、出ても/\お取り払いお飛び越しをして、ポカ/\頭を打たれるから、それが
幾日も続きますので、
御近臣やりきれません。
○「イヤ/\どうも堪らんな……オヤ貴公は珍しいな。
瘤が一つもございませんが、
如何なされた」
×「ナニ、拙者
瘤が一つもないのではござらん。余り沢山になり過ぎて、一面に地ぶくれが致したのだ、お察し下さい。昨夜お夜詰めでお
対手仰せ付けられ、誰も
外に交代がないので、多分に打たれ、
斯くの如く次第」
○「イヤそれはどうもお気の毒千万、道理でお顔の色が悪いと思った」
×「
例もとは気分も異なり、事に依ったら
瘤衝心かも知れん」
と
各自に愚痴を
零している
処へ、
何れも御大名にも御意見番と申し、殿様の煙ったがるお爺さんが一人や二人あります。大久保
三太夫という人が、病気で引き籠っていましたが、この事を聞いて、これは捨て置けないというので、病気を押して
出仕いたし、次の間まで来てみると驚いた、御近臣の面々
何れも
瘤だらけで青くなっております。
三「ウム、
各々方
大分頭に
瘤があるが、察する所
素面素小手の
仕合に及んだものであろう……ナニ将棋のお相手をして負けたる者は
鉄扇にて頭を打たれる。ウーム将棋は武道
軍学算木を以って割り出した畳の上の戦争だ。
治にいて乱を忘れず、誠に結構な事をなさる。
上にも定めてお
瘤が沢山お出来であろうな」
○「ところがお
上においては一つもございません」
三「しからば、
各々方が負ければ打たれ、
上は負けても打たれんという片手落ちの
極めか」
○「イエそういう訳ではございません。お
上はなかなかお強くして、
七日八日掛かって一人も勝つ事が出来ません」
三「イヤそれほどお
上手の訳がない。
上未だ御幼少の
砌、
某が
一手二手、御教え申した事はあるが、左様に御上達はない
筈だ」
△「イヤそれがどうも、我々が
下手ゆえによんどころございません」
三「ウム
余程各々方は
下手だと見えるな。しからば
今日はこの
三太夫が
上のお
対手を致し、
鉄扇を拝借して
多寡の知れたる
上のお手際、各々方の
復讐を致して進ぜる」
○「イヤなかなかそうは参りません」
三「ナニ拙者きっと勝って御覧に入れる。エヽ恐れながら、
上には
例も御機嫌の
体を拝し、恐悦至極に存じ奉ります」
殿「オウ
爺見えたか。病気全快いたしたか」
三「ハッ、
未だ全快は
仕りませんが、日々
御近臣見えましての話に、何か将棋のお催しがあるとの事」
殿「爺また意見か、将棋を致しては悪いか」
三「イエ悪いどころではございません。将棋のお慰みは誠に結構。何か
鉄扇を
間に賭けまして負かした者が打たれるとかいう、至極面白いお考え、しかるところ
若侍共、
何れも
瘤だらけでありまするに、
上お一人は一つもお
瘤がございませんのは、
余程御上達と見受けます。つきまして
斯く申す三太夫、年寄りの冷や水には似たれど一番お
対手を致して、運
宜くばお
上のお
頭を打たんず心得にて
罷り
出でました」
殿「イヤ三太夫、
其方はいかん。年寄りと思うと
不憫じゃに依って、
此方の腕が鈍る。若い者の方が
宜い」
三「恐れながら手前年寄りではございますが自ら
仇討ちを勤めましょうと名乗り掛けて出ました者、幼少の頃より
袋竹刀で打ち固めたこの
頭、
御柔弱のお腕にてお打ちになりましても、容易にこの
薬鑵は
凹みません。もしまた手前の頭を
凹ます程のお腕前にならせられゝば手前死しても武士の本懐、更に
悔む
処はございません。御充分にこの
頭の砕けるほどお打ち下さい」
殿「しからば
対手を勤めるか、打つぞ」
三「委細承知
仕りました。しかしながら万一手前勝ちを得ましたる節は恐れながら
上のお
頭を」
殿「オヽ約束じゃ、充分に打て」
三「お坊主衆、将棋盤をお取り出し下さい」
○「ホラいよいよお取り払いが始まるぞ」
殿「イヤ
其方は
列べても、
此方が
列んでおらん」
三「これは異な事を承るものかな。駒を
列べるのは即ち陣を作るも同じ事。味方の陣を敵に
列べさせるなどと言う、左様な事はござらん。御自身にお
列べ遊ばせ」
殿「
宜い/\しからば自身
列べる……サア
宜いか、
此方が先手であるぞ」
三「もちろん
下手の方から先手と
極まっております」
殿「
怪しからん事を申すな……
何時も角の道から出ると
極まっておるのじゃ」
三「左様、
下手は大概角の道から出るもの」
殿「一々
下手々々と言うな……ウム、なかなか
其方は早いな」
三「左様で、
下手の考え休むに似たりと申します。戦争を致すに考え/\致しておるような事ではなりません。その場に向かわば油断なく智恵を
廻らし、機に
臨み、変に応じなければなりません」
殿「
如何にも
其方の申す通りじゃ……コレコレ控えろ/\」
三「ハア」
殿「その右の手を
一寸放せ、その歩で桂馬を取ってはいかん」
三「ハッ」
○「フヽヽヽヽ御同役、始まりましたよ」
△「いよいよこの次がお取り払い、その次がお飛び越しと
極まっている」
殿「三太夫その桂馬を取ってはいかん」
三「ヘエ……お
上のお手は左の金が、右の方へお
上りになりましたから、桂馬の
高上がりは歩の餌食という
譬えの通りで、桂馬を取りました。お
上一人で差す将棋ではございませんから取りましても差し支えなきものと存じます」
殿「イヤそれはそうじゃろうが、その桂馬を取られては、
此方において不都合があるから申すもじゃ。
其方は主人のためをも
顧みず
強って取るか」
三「これは近頃
怪しからん事を承ります。敵の
不為、不都合は味方の幸い、敵が都合
好くば味方は全敗と
極まっております。既に斯くの如く盤面に
対って互いに勝負を争う以上は、君臣の別はございません。即ち
御前を憎い敵と心得て、勝ちたる時はお
上のお
頭を……」
殿「イヤそれは心得おるが、
此方において困るに依って、取るなと申し付けるに
主の言葉に背くか」
三「
上のお言葉を背くかと仰せられましては恐れ入りますが、拙者老衰いたせばとて、武士でござる。一旦取り掛けました物を敵の迷惑になるから差し控えるなとというのは、甚だ
卑怯でござる。たとい、お怒りに触れてお手討ちに相成っても、この桂馬を取らざるうちはこの座は立ちません。お
上の怒りを恐れて待つような
諂い武士は知らぬこと、
真の
武士は一歩も譲りません。これを
真の戦争としてお考え遊ばせ。恐れながら歩は
雑兵、桂馬は馬廻り以上、
一騎当千の
武士なり、その身分軽き足軽が
君恩を重んじ、我が命を軽んじ、一騎当千の
武士に立ち向かって、その首を上げるというは末頼もしき奴、
天晴れな奴にございますから、
何れ
帰参の上は
士分にも取り立て遣わさんと存ずる程の者、それを敵の大将がとやかく申したからとて、その言葉に従えましょうか。将棋は
素より軍学の稽古同様ものにて
未だかつて左様な
例ある事を承ったことがございません」
殿「イヤ
其方そう理屈を申すな。マア宜しい、その桂馬は取れ」
三「
固より取るべきこの桂馬、取れと仰せがなくとも取ります……イヤこれは
怪しからん。飛車が歩を飛び越して参るとは」
殿「コレ/\
此方の飛車を投げ返すとは無礼であろう」
三「イヤ、無礼の御
咎めこそ恐れ入ります。お
上も御
両眼明らかにいらせられますれば、これに金銀のある事を御存知でございましょう。金銀は
境壁を固くして王将の前後を護衛し、飛車は盤上重く用うる軍師でございます。いやしくも軍師たるものが、
軍略に依らず、
陣法に従わず、卑怯未練にも道なき
処を飛び越して参るとは将棋の法にございません。軍法を
弁えざる者を切るは
却って刀の
汚れと存じ、情けに依ってお返し申したが、御異存あらば
此方へお返し下さい。首を
刎ねて軍門に
曝します」
殿「マア/\
宜い……この通り道に金銀がいないと
宜いのだが」
三「
此方の駒が上がって
大手になります」
殿「そうか、この駒は
何時の間に入っておったのか。宜しい、サア早くやれ」
三「
一寸承りおきますが、もし敵が城の
塀際まで迫った節は
如何遊ばされますか。恐れながら敵勢塀際へ詰め寄るまで戦うは大将たるものゝ
不念であります。およそ心得ある大将は、三日も以前にその勝敗が分かっておるようでなければ一国一城の大将とは申されません。もっとも時としては、計略に依って敵の塀際まで押し寄せるのを機として打ち出し、全勝を
得る事もありますが、軍法懸け引きのなき勝ちなれば、
真の勝ちとは申されません。策もなく、略もなく、安閑として敵の塀際まで詰め寄せるも知らず、
空然と控えておる者の如きは武士の風上にも置けぬ、馬鹿大将とも間抜け大将とも言うべきで、俗に言う
雪隠詰めになるまで逃げ惑い、苦しんでおるとは実に馬鹿々々しき言語道断の事でござる」
殿「ナニ馬鹿大将とは
怪しからん……ソレこれへ参るぞ、ナヽナニ金がおると。ウーム負けたか」
三「負けたと仰せられるは
何方で」
殿「皮肉な事を申すな。
此方じゃ」
三「お
上が負けだと仰せられゝば三太夫勝ちを得ましたもので、まずこの頭も凹まずに済みました、しからばお約束通りお
鉄扇をどうか拝借」
殿「サアこれだ」
三「ハヽア、これは手頃の結構な鉄扇でござる。エイッ/\」
殿「コレ/\そんなに気合を入れるな」
三「恐れながら手前壮年の折柄、
一刀流の片手打ちが自慢で一人も争う者はなきほどでございましたが、近年老衰致し、力の
脱けましたために痛さの利きません
処は幾重にも御容赦を……」
殿「そんな事は
詫びんでも
宜い」
三「サア
各々方御見物なさい。武士はこの通りでござる」
と
総身の力を腕に込めてポカッと打った。剣術の出来る人に打たれたから
堪らない。殿様がポロポロ涙を
溢しながら、
殿「ウムなかなか利いた、えらいなどうも」
三「今一つ参りましょうか」
殿「イヤそれには及ばん。コレ/\、一同何を笑っておる。早く将棋盤を取り片付けろ……
明日から将棋を差す者には切腹申し付ける」