千両蜜柑(せんりょうみかん)
初代桂ざこば
この落語は、現今の
青年の方が、お読みになりますと、あまり
莫迦々々しい
程で、なぜかと申しますと、只今は、どんな品物でも買えます。とりわけ、果物なんかは、季節でない物でも、年中、
喰べられます。今は、日本で産する物では飽き足らず外国の果物を喰べる世の中、昔はどんな果物でも余り自由に喰べようと思うても手に
這入りませなんだ。ご承知の唄に残ってます「沖の暗いのに
白帆が見える、あれは紀の国
蜜柑船」、
紀文が残した、
活惚、あれでも、蜜柑の季節でありながら、江戸(只今の東京)では、紀州から蜜柑船が
這入って来ませんために、既にに蜜柑はないものと
諦らめていた所へ、暴風を乗り切って江戸へ船を入れたので、よう/\蜜柑が江戸の人の口に
這入ったという伝説がございますくらいのもの。
今はそんな
莫迦な事はございません。なにしろ、ツヱッペリン伯爵の飛行船に乗りますと、
独逸から、東京へ僅か、五日間で、来られる世の中。これからは、こんな飛行船で、世界中の名物を喰べ歩く、
食通が出来ますやろうと思います。
考えますと、昔の方は、そんな点から見ますと、お気の毒で、喰べたい物も、金は腐るほどあっても喰わずに死ぬと言う、文明の風潮に恵まれないので仕方がございませんが、この噺は、ちょうど、その時分の事でございます。こら、大阪の
船場で至ってご裕福なる
御大家の若旦那、お年は
廿一に成られまして、何不自由ないお身の上ではございますが、何が、
原因ともなしにお
病気になりました。サアご両親のご心配は一通りやございません。医者よ薬よと手の届く限りお尽くしになりましたが、
病気は日々に重くなるばかり。ところがある一人のお医者様が、病気の
原因は、
愚老の考えますのは、なんぞ胸に思い込んでござる事が有ると思いますのでその
想うてられる事を
叶えて上げたら
癒るやろうと思いますと、
診察ました。そこでご両親は、番頭さんを呼んで、
旦「ナア、番頭どん、今、お医者さんの言われた事を聞かれたか」
番「ヘエ、承りました。ご心配の事で」
旦「ところで、
倅の胸の内を聞くのにも、私が聞いても恥かしがって、
言はしまいし、
他の者でも具合が悪いが、お前さんなら、倅と
幼少い時分からの
仲好しやて、一ツ、聞いて下さらんか」
番「よろしゅうございます。おっしゃるかおっしゃらんか知れませんが、聞いて見ましょう」
旦「頼みます」
番「ヘエ……若旦那様、
今日はご気分は
如何でございます」
若旦那は
絹布の上等の
蒲団の上に横になっておられます。
若「オー番頭さんか、いつも、よう尋ねてくれてやった」
番「イーエ
阿呆らしい。ついお
店が忙しいおますので、相済まんことで。ところで、若旦那、昨今、
豪い召し上り物が進まん様でおますが、あなた、なんぞ
想い込んでなはる事がおますなァ。イーエ、隠しなはんな。アヽ、何も恥ずかしい事あらしまへん。
腹蔵なく言いなはれ。面と向うて、サテ、こうとは言いにくいかも知れませんけど、あなた、お一人で、お気を痛められてますと、尚更お体に
触ります。決して悪うはしまへんでおっしゃい」
若「イヤ、番頭、それなら、いうがなァ、お前、笑わへんか」
番「滅多に笑やしまへん、ヘエ……」
若「イヤ、やっぱりり
止めとこう。言うても出来ん事やで、言って不孝、言わいで不孝、同じ不孝なら言はずに死のう」
番「何を言いなはる。あんた、一人で決めたかて
判らしまへんがなァ」
若「そないにいうのなら、言うが、実は番頭、……
面の
好い……」
番「ヘイ……」
若「ふく/\した……」
番「ヘエ……イヤ……ヘエ……
判りました、皆まで、おっしゃるな、チャンと私が承知しております。どこの娘さんだす。ヘエ、違いますか、それなら
芸妓はんだすか。名前と所は
判ってますか。金は
何程入っても、旦那はんにいうて出してもろて、話つけに行きます」
若「コレ、番頭、
狼狽ないなァ。何にも
私、
女子はんと違うで、実は
蜜柑が喰べたいので、病気になってるのや。
水々しいが蜜柑が喰べたいのや」
番「なんだす、蜜柑……それで……病気、……しっかりしなはれ。その蜜柑ぐらい、なんでもないことだす、よろしゅうおます。
直ぐに
買うて来ます。心配しなはんな、この居間を蜜柑
詰めにします」
若「そんな事いうて、大丈夫か」
番「御心配御無用、たかゞ蜜柑ぐらいですもの」
番頭さん、安請け合いに請け合うて旦那のところへ参りました。
番「ヘエ、旦那様、
判りました」
旦「ご苦労さん、倅の病気は、やっぱりなんぞ思うてる事があったのかい」
番「ヘエ、仰せの通り、クヨ/\と独りで
想い込んでおられましたので」
旦「やっぱり、そうか。親という者は、
阿呆なもので、いつまでも、子供や/\と思うてますのじゃ、シテ、
対手の
女子さんは」
番「イーエ、誰でも、そう思いますやろ、
私かてそうおもたので」
旦「違うのかい」
番「ヘエ、……実は、若旦那の
想い込んでられるというのは、
蜜柑が喰べたい……と」
旦「なに、……なんじゃて……」
番「蜜柑が喰べたい」
旦「蜜柑が……」
番「そうだすのや。この望みさえ
叶えさせば、病気は
癒りますのや」
旦「
豪い事を倅は言い出しよったなァ。コリヤ、困ったなァ、番頭どん」
番「なにをおっしゃる。こんな事ぐらいでお困りになる事がおまへんだすぜ。
私は、若旦那に申しました。
直ぐにお居間を蜜柑で詰めますと」
旦「コレ、番頭。お前、何を言いなさる。そんな無理な事を聞いてよろしいと請け合うて来る人があるかい」
番「デモ、たかが蜜柑だす」
旦「サア、蜜柑と言うても、
今日は何月の何日やと思いなさる。八月の四日、この暑い時分に、有田の
水々しい蜜柑がどこにある」
番「アハ、なるほど、今日は八月の四日、いま時分、どこを探したかて蜜柑なんておまへんワ。こら、
豪い事を引き受けましたなァ」
旦「今頃に蜜柑が無いのは
判り切ってる。それを引き受けたお前さんじゃ。倅もお前さんの言葉で一時はよくなりましょう。しかしいよいよ無いとなったら、
落胆して
直ぐに死んでしまいましょう。そうなると、お前さんは、
主殺しやで。世の中に何が重い
罪科というても、主殺しほど重い物はあらへん。旧幕時代なら
逆ばりつけと
極まってます。しかし今はそんな事は無いから、その代わり、お前さんが、今日中に、
水々しい有田の蜜柑を探して来てくれたら、特別の
褒美をあげるが、モシ、無いとなったら、気の毒やが、
永の
暇を出します。それも預ってある、貯金や、来年
別家する手当ての金も衣類も全部渡しまへんぞ。その
心算で探して来て下され。
早よ
行て探して来なされ。イヤ倅が言うも不孝、言わぬも不孝と言うた通りじゃ」
番「ヘエ……」
番頭さんも
可哀想に、
悪気があって引き受けたのではございません。
主を思う一念からですが、親御さんも
可愛い息子さんを救けたいばっかりに、番頭さんに無茶をおっしゃったので、番頭さん仕方なく
家を飛び出しましたが、この暑中にどこを探しても蜜柑の有りそうなはずがございません。と、言うて、無いというて帰れば
永のお
暇が出ます。
暇の出るのは仕方が無いが、何の落度もないのに、僅か、蜜柑ぐらいで
暇が出ると思うと
阿呆らしい。もうこうなると無茶苦茶に歩いて、訳も
判らずに飛び込みます。
番「
今日は……」
氷「お
出やす。何にしまひょう。みぞれだすか。
金時だすか。レモン
水でも」
番「イーヤ、蜜柑を」
氷「ヘエ、蜜柑
水だすか。氷を掛けまひょうか」
番「イーエ、紀州有田の
水々しい蜜柑を」
氷「
阿呆らしい。この暑い盛りに蜜柑の“み”の字もおますかいなァ」
番「そりゃ
判ってまんネ。けど、無かったら、若旦那は死ぬし、私は
永のお
暇だす」
番頭さん、半泣きで、こんどは八百屋を一軒見つけて、
番「
御免……」
八「お
出やす。何を上げまひょう」
番「有田の
水々しい蜜柑がおますやろか」
八「有田の蜜柑……アハヽヽヽ
阿呆らしい、どこを探しなはったかて、おますかいなァ」
番「……」
番頭さん、
彼方此方と
迂路つき廻りました。もう、足が棒の様になって来ます。
番「
御免……有田の蜜柑がおまへんか」
○「ヘエ、間違うてしまへんか、手前とこは、金物屋で」
番「ヘエ、そりゃ
判ってます。
判ってますがなんで金物屋に蜜柑が売ってない」
金「そんな無茶言いなはんな、ハア……お気の毒に、この
烈しい暑さで
脳が変になったのやなァ、
可哀想に」
番「いよいよ、お
暇か。若旦那の命はなし、
仕様が無い。因縁と
諦めよう」
金「モシ、ちょっと、あんた、先程から見ていますと、なんじゃ、ご心配の様子だすが、全体何で今頃蜜柑を探してなはるのや、お薬にでもしなはるのか」
番「ヘエ、よう、尋ねとくなはった。薬どころか、実は、私の勤めてる主人の若旦那が九死一生の場合だす。医者よ薬よと手の届く限り手を尽くしても、一向に、その
効能が見えまへんのや。食事も進まず、その
病の
原因も
判りまへなんだ。ところが、段々、若旦那に
私が聞いて見ますと、病の
原因は、蜜柑の
水々しいのが喰べたい、その蜜柑さえ喰べたら病気は
癒ると言われます。
私も
癒したい一念から、ウッカリ、この暑い時分に蜜柑が無いという事を忘れ.よろしい。あんたのお居間を蜜柑で詰めます。安心しなはれと引き受けましたんや。若旦那も喜ばれ、頼む、喰べさしてと手を合わされました。親旦那に話しをして、初めて今頃、蜜柑が無いと言われて気が付いた様な訳だす。モシ、今日中に蜜柑が無かったら、若旦那は
落胆して死にはるやろし、
私は十三から勤めて、今が三十九、来年
別家と決まったのだすが、これが蜜柑のため、フイ、になり、お
暇が出ますのや。どうぞ、助けると思って蜜柑の有る所を教えて頂けまへんやろか」
金「そりゃ、お気の毒な事だすなァ。しかし、
私も
確とした事は言いまへんが、昔から
天満の
市場には年中蜜柑の
囲が一箱や二箱は有ると聞いてます。マア、一つ探して来なはれ」
番「ヘエ、天満の市場に……なるほど……問屋に……そこへ気が付きまへなんだ……大きに有り難う存じます。あんたは、命の恩人でおます、この御恩は一生忘れやしまへん」
番頭さん、金物屋を飛び出して、天満の市場を
軒別に探し歩きましたが、どうしても無い。ガッカリ、として、もう歩く勇気もないようになりましたが、ふと、見ますと、問屋が一軒見当たりましたので、
番「
御免やす」
若「ヘエ、お
出やす。なんぞ御用だすか」
番「お宅に……紀州有田の
水々しい蜜柑が、おまへんやろか、
値は
何程高うてもよろしいのだすが」
若「ヘエ……有田の蜜柑、この暑い時分やけど、おます……ちょっと待ちなはれや、
私、忘れてたが、確か、
囲が一箱あったと思います」
番「ヘエ……あの……かこ……いが……ひ……と……はこ……アハ……有り難い、サア、出してくれ、サア売ってくれ、
糞垂れ
奴、ウン/\、有ると聞いてウン/\」
若「モシ/\離しなはれ……アハ、苦しい、モシ、人の
咽喉を締めて……アハ、
辛い目におうた。アハ痛かった。アハ苦しい、モシ、大将、いま、蜜柑を買いに来やはりましたが、おましたかいなァ」
主「裏の倉に一箱、囲うてある。しかしこの
暑気で腐ってやせんか、一度、見て来て見い」
若「ヘイ……」
若い
衆が、倉へ
這入って見ますと一箱の囲いの蜜柑は有りますが、この暑さのために
皆な腐って、タッタ、一ツだけ、
水々しいのがありました。
若「ヘエ、いま、見ましたら、たいてい、腐って、タッタ、一ツだけ、有りました」
主「モシ、一つだけ、おますと」
番「フワーイ」
主「どうしなはった」
番「有ったと聞いて、腰が抜けた」
主「しっかりしなはれ、ソラ、ウン―」
番「ヘエ、大きに、腰が立ちました。シテ、
何程だす、蜜柑は」
主「値段だすか、お高うございますぜ」
番「どうせ、季節違いの蜜柑だすもの、高いのは承知の
助、
何程だす」
主「千両だす」
番「ウアー、あの蜜柑が、……一ツ……、あの千両……そら
本……まかいなァ……」
主「
厭なら別に買うで貰わいでもよろしい、蜜柑一ツで、人の命が助かりますのや、蜜柑一ツが千両と聞いたら高い様だが、人の命としたら、安い物で」
番「
本当に、千両、フワ……」
主「どうしなはった」
番「腰が抜けた」
主「よう、腰を抜かす人やなァ」
番頭さん、這う様にして帰って参りました。
番「ヘエ、旦那はん、ただいま」
旦「オヽ、番頭どんか、待ち兼ねました。しかし蜜柑は無かろう」
番「ところが、タッタ、一ツだけ、おました、有田の蜜柑が、
水々しい奴が」
旦「それは/\、よう探して来て下さった。
早よ買うて来て倅に喰べさしてやって下され」
番「ところがいけまへんので」
旦「なんでや」
番「高いの/\話しになりまへん」
旦「イヤ、よろしい。いくら、高うても、倅の命には替えられん。買うて来て下され。番頭どん
何程や」
番「旦那はん、腰抜かしたら、あきまへんで、一ツで、千両」
旦「千両、アハヽ安い、サア、こゝに百円
紙幣で十枚ある。持って
行て
早よ買うて来て下され。倅に
早よ喰べさしてやりたい」
番「ヘエヽウアハ……」
また、番頭、
吃驚して腰を抜かしました。よう、腰を抜かす番頭で、これで三度、腰を抜かしました。これから番頭さん、千両の金を持って天満の市場へ来て、蜜柑を買いまして、急いで帰りました。
番「ヘエ、若旦那、永らくお待たせ致しました。お待ち兼ねの蜜柑、
漸々、大阪中に一ツだけございました。買うて参りました。どうぞ、お
喰り」
若「ヘエ、有ったか、今時分に、番頭、無理をいうて済まなんだなァ。
本当に
水々しい、えゝ蜜柑やなァ。これ見てスウ―と病気が
療った様な気がする」
番「しかし、若旦那、この蜜柑の高いのには番頭、三編も腰を抜かしましたで。サア、お
喰り。この蜜柑は
何程すると思うてござる、一ツが、千両だすぜ。しかし若旦那、世の中に親ほど結構な者はございまへんで、
平素は、
吝嗇の親旦那も
可愛いあんたのために、惜しげも無く千両の蜜柑を買いなはる。親の恩を忘れてはいけませんで。サア、お
喰り。ヘエー この皮が五両だすなァ。袋の数が、一ツ、ニツ、三ツ、……ちょうど、一袋が百両。筋が二両に当たりますなァ」
若「番頭、お父さんにお前からも、よう礼を言うといてや、頂戴するワ」
若旦那も大喜び、日頃の望みが叶うたのですさかい、サモ旨そうに召し上ります。
番「アハ、口という物は、
豪いもんやなァ。もうあれで二百両口へ
這入てしもうた。アハ、また百両、アハ、また、五十両、アハヽ、残りの五十両が口へ……」
番頭さん、目を
剥いて蜜柑を喰べられるのを見ております。
若「サテ、番頭、実にお前さんのお
蔭で、こんな時候に
旨しい蜜柑を喰べました。これというのも、お前さんが一生懸命探して下さったからこそ、また、お父さんやお母さんがお金を惜しまずに買うて下さったからこそ、私の口に入ったのや。そこで、こゝに
三袋残っているさかい、お父さんやお
母はんに
一袋ずつ上げてんか。
私ばっかりが喰べると
罰が当たるさかい、残りの一袋はあんた、喰べて」
番「ヘエ……ヘエ、どうも大きに有り難う存じます。ヘエ、
早速親旦那様の所へ持って参ります、ヘエ、
御免…………どうや、
御大家と言いながら、千両の蜜柑を若旦那のためなら、惜し気も無う買いなはる。いま、私の手の
掌に乗ってあるこの三袋、これで三百両、……待てよ……俺も来年年明きで別家するのやが、高々くれて、まず百両、とても、二百両とはくれまい。この蜜柑の袋が、
一イ
二ウ
三ツと三百両ある、エヽ
儘よ、
跡は野となれ山となれ、これを持って逃げてやろう」
と……番頭、蜜柑の袋を三袋持って逃げました。