誉田屋(ほんだや)
二代目桂圓枝
京都の
三条室町に、
誉田屋さんという、
縮緬問屋がございました。旧家で
極く
御有福で、問屋仲間でも、一二と指を屈せられる御宅でございます。御夫婦の仲に一人娘のお花さんという、
嬢はんが御座います。お年が十八で、
容色はよろしい。なにしろ、室町小町、今小町と
謳われて、近所でも
豪い評判の
嬢はんで、御夫婦は
掌中の
珠、蝶よ花よと、
可愛がっておられましたが、満つれば欠くる世の習いとはいいながら、フトした風邪の心地でブラ/\
病、サア、御両親は、非常の驚き、医者よ薬よ、
加持祈祷と、色々と手の届く限りお尽くし遊ばしたが、思う様に
癒りません。ある日の事、御両親は、お花さんの枕元へお出でになりまして、
父「コレ、花や、今日は気分はどうや、ちょっとええか。あんまりクヨ/\しては
却って病気が
癒りやせんで、心配せずに気を確かに持っていなされや」
と優しく、慰められますと、
嬢はんは
痩せた両手を合わして涙を
零しながら、
花「お父様。お母さん。色々と御心配掛けて、なんともお詫びの申し上げ様がおへんどす。
妾も今度は、とても
全快は出来んと諦めてますのえ。もし、
妾が死んでしまうたかて、お力落としをせず、
妾やと思って、親類から、一人、子を
貰ておくれやすや。先立つ不孝はお詫び致します。草葉の蔭から御父さんやお母さんのお達者を祈ります」
母「コレ、お花、何を(泣く)……そんな、心細い事をいうのやあらへん。一日も
早よ、
全快なって、孫の顔が見たいと思ってるのに、ウハ……」
父「ナア、お花、病は気からという事があるで、心丈夫に持っておれば
癒るで……」
と、御両親は、口では言うてはおりますが、娘の容体を見ますると、今日か明日かの大病でございます。
母「花や、一日も早よ
全快ておくれや。
貴女に先立れては、お父さんも、
妾もこの先、何楽しみに生きてるのどす。一日も早よ
全快てなァ」
と御両親、
交る/″\娘さんの心を引き立ておいでに成ります。これも真実、可愛い親心で。
父「ナア、お花。とは、いうものの人間は
老少不定、いつ、どんなことがあるや知れん。もし、お前が先に
亡くような事でもあったら、心残りの無い様に、なんなりと言い置いたがよいで。お前の事なら、なんなりと聞いて上げるで」
花「ハイ、大きに。では、お父さん、タッタ、一ツだけ望みがおすのえ。それを聞いとくれやすか」
父「オヽ、何んなとも言い。聞き入れますとも」
花「ではお父さん、
妾が死んでも髪を剃り落としたりせんように、坊主頭にせられると
嫌どすのえ、きっとこれだけ」
父「そんな事ぐらい、よいとも/\」
母「お花、もうそれだけどすか」
姓「もう、一ツ、あるのどす」
母「あるのなら、遠慮あらへん、いうておみ」
花「
妾が、死んだら……一番好きな
着物を着せて、髪も島田に
結うて
白粉をつけて、綺麗にお化粧をして
棺に入れて、それから、お小遣に三百両、財布に入れて首に掛けてほしいのどす。そうして、火葬は
厭どす、埋めとくれやすや」
父「コレ、お花、
外の事は、かまへんけど、お金、お前三百両も、昔から死んで行く人は六文銭を
棺に入れるに決まってるが、三百両もどないにするのや」
花「ハイ、あの世へ
逝ったら
閻魔様に差し上げて、お父さまや、お母さんの事を頼んで置くのどす」
母「死んでまでも、親達の事を思うてくれるのかえ」
と、
流石は女親、
堪り兼ねて、ウハ……と泣き出します。
花「それから、寺は四条の寺町、
大雲寺へ葬っておくれやすや」
父「よし/\それも承知した。それで、何んぞ食べたい事はないかえ」
花「あのお父さん、四条新町の、
新粉餅が食べたいのどす」
母「コレお花、
外の物なら、
構へんけど、新粉餅は、
消化が悪いで、それだけ
止めとおき」
花「でも、新粉餅が、食べたいのどす。一生のお願いどすさかい、一ツだけでも食べさしておくれやす」
父「よし/\食べたい物なら、食べさして上げる……コレ、
丁稚……
嬢が、四条新町新粉屋新兵衛はんの、新粉餅が食べたいというで、お前、
直ぐに行って買うといで」
丁稚「ヘイ……」
丁椎は大急ぎで買うて参りました。
父「サア、お花、新粉餅が来たぜ、食べなされ」
花「アイ、大層、お
旨しおすえ。食べたい/\と
平素から思ってましたので、もう一ツ、
貰てもよろしうおすやろか」
母「コレ、お花、一ツでも毒やと思てるのに、二ツも」
花「お
母はん、どうぞ、もう一つだけ」
父「よし/\それでは、もう一つだけやぜ」
花「ア……おいしかった、お父さん、一生のお願いどすさかい、もう一ツだけ、食べさして」
母「コレ、そんな
無理をいうものやない。体さえ
全快ったら、
何程でも食べさして上げるで」
花「もう一ツだけ、その替わりこの一ツ食べたら、
後は、決してくれと申しまへんどす」
父「コレ、食物で、とやかく言うのは、
厭やけど、それも、お前の体を思うので、言うのや。悪う取りなや。可愛いお前じゃもの、しかし、余り食べると、体に
触る。それ位にして置き、ナア、お花」
花「こんな、おいしいもの、食べて死んだら、
妾は本望どすえ。どうぞ、もう一ツだけ」
眼に
這入っても痛くない、可愛い/\娘に掻き口説かれて、悪いとは知りながらも、子に甘きは親心で、三ツ目の新粉餅を渡しますと、娘は、嬉しそうに、半分程食べかけると顔の色が段々と変わって参りました。サア、両親は
狂気の様に、
父「お花やァイ……」
母「コレ……お……花……
確りしとくれや、コレ……
何誰ぞ、
早よ、お医者さんを……」
父「それやで、食べなァと言うてるのに……お花やァイ……」
呼べど、叫べど、その甲斐も無く、とうとう息を引き取りました。お医者さんも、駈け付けましたが、もう、
如何とも仕様が無いので、そのまま帰りました。こうなると
顛倒返る様な騒ぎ、親類一同へ知らす、
何れも前後して駈け付けて参ります。御両親は魂の抜けた人形同然でこれは無理もございません。たった、
一人しか無い、娘さんに先き
逝たれたのですさかい、まして、今小町、
室町小町と
謳われた、
容色よしの娘さんですもの、その日は、それぞれ、届けるやら、何にやかやと葬式の準備、その晩は親類や近所の人が、しめやかなお通夜をせられまして、明くる日は、娘さんの、
遺言どおり、髪も切らずに、島田に
結うて綺麗にお化粧までして、三百両財布に入れて、四条寺町の菩提所、大雲寺へ泣く/\葬りました。何にかの事は、また、
明日の事、皆、
草臥れて一同は宵から
臥りました。そのうち、
夜も次第に
更け渡ります。二階に寝ていました番頭の久七、フト、眼を覚ましまして、
久七「ア……(
欠伸する)……よう寝たなァ、
何時か知らん、宵から、グッスリ、寝込んだで、しかし、
葬式の出た
後は、何んとなう
淋しいもんやなァ。それはそうと、旦那様や、奥さんは、お気の毒やなァ、タッタ、お一人の
嬢はんを、十八まで育てて、これから、可愛い孫の顔でも見てと思う時に、死なれるとは、それに引き替え、あの琴の
音は、お向こうの
嬢はん、お年もちょうど、
同年、今夜は親類のお客さんがお泊りで、そのお慰みに弾いていやはるのやろうが、親の身に取ったら、どんなや知らんと思うと、涙がこぼれる……そう/\
宅の死なれた、
嬢やんで思い出した。なんぼ、財産が有り余ると言いながら、死んだ人の手に、純金の指輪や、天下通用の金、三百両も、実に惜しい、指輪や、その他の物で、時価に直しても二百両は有る、悪い事やが、今夜墓を掘り出して、一時、拝借して、これで一番、店を出そう。そうして成功したら、お詫びして、
嬢はんの菩提も葬らおう。幸いに、下では、皆、寝ているらしい」
と、これから、久七は二階から飛び降りまして、大雲寺の墓場へ来て見ますと、昼、
嬢はんを埋めたまま、土が、コンモリ、と高く、まだ、線香の煙も絶えていません。久七は基場の前へ両手を突いて、
久「
嬢はん。久七は決して悪い気で、お金や指輪を取りに来たんやおへん。通用金を土の中へ埋めるのは、
御法度で、もし埋めたと言う事がお
上へ聞えると御一家は厳しい
御詮議を受けます。それがお気の毒、なお、勝手な事を言う様どすが、一時久七が拝借して置けば、もし、ここを
発掘されても判りません。どうぞ、
私に一時お貸し下さいませ」
と、
活ける人に言うごとく、お詫びをしながら、土饅頭を掘り起して見ると、三百両の金も、指輪もある。久七は、
恐々ながら、
嬢はんの指に
嵌めてある指輪を抜こうとすると、「
何誰どす」……と闇から、声を掛けられたものですさかい、久七、
吃驚したの、せんのて、腰も抜かさんばかり、
久「
嬢はん、
堪忍しとくれやす。先きも、お詫びした通り、決して、陽気浮気で、拝借するのやないので、店を出す
資本に借りますので、どうぞ迷わず成仏しておくれやす。南……無阿弥……陀仏……」
花「コレ、そこにお
居るのは、久七どんやおへんか」
と、自分の名を呼ばれたので、恐々ながら久七、見ますと、
嬢はんが眼を開いて、動いてますので、なおさら、
吃驚した久七、
久「アハ……
嬢はん、久……七で」
花「アハ、やっぱり、久七どん、どすか、
妾どないしたのどす、何んや、夢でも見ている様て、何んで、こんな、
闇い、淋しい所へ来ているのどす。そうして、お父さんや、お母さんは」
久「アハ……それでは、
貴女、御存じ無いのどすなァ。昨日、
貴女、
新粉餅、三ツ目を半分程、お
喰りになるなりお死にになったのですせ」
花「エヘ……新粉餅を、食べてたのは覚えてましたが、何んやり急に、
咽喉が、苦しうなったと思たら、そのまま、何んにも判らん様になったのどす。すると、新粉餅が、
咽喉につまってたのどすなァ」
久「
成程、そこを、私が、
貴女の体を動かした拍子に、咽喉につまってた、新粉餅が、通ったので、息を吹き返しなさったのどす。しかしまァ、結構どす。
早よ、お
宅へ帰まひょ、旦那さんも奥様も、どんなにお喜びになるや判りませんで、サア、帰りましょう」
花「久七どん、
妾、
宅へは帰らしまへん」
久「何で……」
花「一旦、死んだ
妾、
宅へ帰ったら、あら、
蘇生りよった、と、近所の評判になり、表へも、出られん様になります。久七どんも、
宅へ帰らんつもりで、お
出でやしたのやろ、幸い、ここにお金もあるさかい、どこぞ、
妾を連れて逃げとくれやすなァ」
と、
嬢はんに言われて、久七も
木石やございません。それではと、言うので、久七、お
花さんと手に手を取って、東京に少しの
知辺のあるのを幸いに
出奔致しました。何が縁になるやら判らんもので、東京へ参りました久七とお花、浅草の
並木町へ一軒の
店を借り受けまして、持って来た。三百両を
資本に、手馴れた呉服屋を始めましたが、幸いにも、
店は追々と繁昌致しまして、奉公人の五六人も置く様になりました。家号も、
誉田屋久七とつけて
縮緬問屋をやっております。
お話替わって、京都の誉田屋忠兵衛さん、最愛の娘さんに死に別れたので、
老の身の、何の楽しみもなく、無常を感じていられましたが、これも
宿世の縁、せめて娘の菩提でも
弔うてやりましょうと、御夫婦、相談の上、奉公人はそれ/″\手当を遣って暇を出して、家は親類に預けて、西国巡礼に出られました。西国、四国の霊場を廻りまして、今度は、坂東の方へ巡礼しようと、出てまいられましたのが、東京。昼は毎日、市中の霊場を廻り、夜は
旅宿に泊まられます。しかし
何程財産のある人でも、巡礼姿ですさかい、あまり上等の宿屋へも泊まらず、やはり木賃宿位で辛抱していられます。市中を廻ってるうちに、死んだ娘さんと同じ年頃の娘さんを見ると、愚痴が出ます。
忠兵衛「ナア、
婆どん。今日、芝で見た娘さん、ちょうど、お花と同じ様な年頃やったなァ」
妻「そうどした、お花が生きてたら、あれ位の
年恰好、お花さえ生きてくれてたら、今頃巡礼なんぞせいでも、一家が面白おかしゅうに見物が出来るのに、ナアお
爺さん、オヤ、
貴郎、泣いておいやすなァ」
忠「イヤ/\泣いてはせん。東京は暑いので眼から汗が出るわい。ハヽヽヽ、サア、今夜も
早よ寝て、また、明日浅草の方を巡礼しましょう」
と煎餅蒲団にくるまって夜を明かし、
翌日は早朝から浅草辺を御詠歌を唱えながらやって参りました。所が一軒の家から、
幾何かのお
銭を紙に包んでくれました。夫婦は喜んで礼を述べ立ち去ろうと致しますとふと、眼についたのが、表の
暖簾。
忠「ナア、婆どん、見なされ、ここの家号も、
俺とこと同じ誉田屋、商売も縮緬問屋、世間にもよう似た家号と商売はあるものじゃなァ」
妻「
妾も、
先刻から、そう思うてますのや。何んとなう懐かしい様な気がしますでなァ、頼んで、少し休まして貰いましょか」
夫婦は店の隅へ腰を掛けて、過ぎし事を想い浮べながら、商売の様子を見ておられますと、丁椎が出て参りまして、
丁稚「ちょっと、お尋ね致しますが、
貴郎方は、もしや京都の
御人ではございませんか」
忠「ハイ、京都の者でございます」
それを聞いて、丁稚は奥へ
這入りますと、入れ違いに、出て参りましたのが、この
家の
主と見えて、
主人「只今、丁稚に、ちょっと、お聞せ申しましたが、もしや、京都三条室町で誉田屋さんと仰せにはなりませんか」
忠「よく、御存じで、お尋ねの通り、誉田屋忠兵衛でございます」
主人「それでは、やっぱり、旦那さま、お久しゅう存じます。お忘れになっているかも存じませんが、私は、御店に奉公しておりました、久七でござります」
忠「エヘ……あの、久七どん、婆どん、久七やと……」
妻「マア、久七どんどすか、オヽ、そう/\娘のお花が、死んだ晩に、
何処や姿が見えんと思うてたら、こんな所へ
来といやしたのか、あの晩、随分と
貴郎を、探したんどすえ、ナア、お
老爺さん」
忠「成程、そうか、久七どんで、思い出したが、家に奉公人も沢山使うてたが、品物を置いて出たのは、お前さんばかり、
外の者は、皆、持って出るのが多いで、それも、自分のならええけど、人の物まで、持って行くでなァ。お前さんの物は、チャンと荷造りして親類に預けたるで、イヤモウ、こんな、出世をしなさるも、お前さんの
平素の心掛けがよいのでじゃ。私も、こんな嬉しい事はありません、ナア、婆どん」
妻「お
老爺さんの言う通どす」
久七「つきましては、お
両方に是非とも、御覧に入れたい人も有りますし、また、色々と、お話もありますし、ともかく、どうぞ、奥へお通りを」
久七の言葉に、御夫婦は一間に通されて、厚い
饗応を受けておられます。そのうちに、久七は、立派な紋付に、袴をつけて、お花には綺麗に着飾らせて、
両方の前に両手を突いて、
久「サテ、旦那様、何からお話を申し上げてよいやら、実は、ここにおられますのが、死なれた、
嬢やんで」
忠「エ……」
妻「……」
花「お父様、お
母はん、お懐かしゅうござります。お達者な、お姿を見て、嬉しゅうて/\」
忠兵衛さん御夫婦は驚いたの/\、そら、そのはずで、死んだと思うてる娘さんが生きてますのですさかい、夢の様な話で
忠「コレ、婆どん、ちょっと、眼鏡を出して下され。
私は、何じゃ、夢を見ている様で、婆どん、コラ、
真実の……娘のお花か……」
妻「マア、お花(泣く)……よう、
蘇生ってくれたえなァ。お
老爺さん、
真実のお花どすえ。その証拠には、目の下に、
黒子があるのが、何によりの証拠どす。ウハ……」
花「お母さんも(泣く)……お達者で」
忠「コラ、久七、何んじゃ、さっぱりと、私には訳が判らんが、全体、お花が生きてるとは、どうした訳じゃ」
久「その、御不審は御もっともではござりますが、実はかく/\の次第でこざいます」
と、以前の話を
一伍一什物語ります。
久「
斯様な訳で、只今では、
貴郎様にも、一言の御応えもなく、この、お花と夫婦になり、二人の仲に、子供が二人も出来ております。どうぞ、御立腹でもございましょうが、二人の仲の子供に免じて御許しの程」
忠「アハ、
左様か……何の、
私が……御礼こそ言え、怒りましょう。お前さんがその晩に行って下さったればこそ、お花にも
生命が有ったのじゃ。ノウ、婆どん、言わば、久七どんは、お花の命の恩人じゃ」
妻「そうとも/\。まして、孫まで出来て、
妾は、こんな、嬉しいことは、おへん。気心の知れん人を
聟にするより、子供の時分から
宅にいてくれた久七どんを、養子に貰うのが
妾等も安心じゃ」
忠兵衛さん夫婦は、夢見る心地、娘の手取り合い、喜び涙にくれております。
久「サテ、
斯様に相成りました上は、
不束な者ではこざいますが何卒
宜しゅう御願い致します。
明日から、もう、巡礼に歩かず、どうぞ一生、お
在でを願います。
夜も更けて参りましたし、それにお疲れでもございましょうで、どうぞお
寝みを、お花、お父さんや、お母さんを御案内し」
花「ハイ……」
次の間へ上等の蒲団を敷いて、
花「サア、お
寝み遊ばせ。御用がございましたら、いつでも手をたたいて」
忠「ハイ……それでは、また、明日ゆっくりと話もし、孫の顔も、とっくり、見せて貰いましょう。ハイお
寝み」
お
両人は寝られましたが、嬉しゅうて中々寝られません。同じ思いのお婆さんも、
妻「ナア、旦那どん、
妾は、今日の事は夢では無いかと思います。夢なら
醒めてくれぬように、ナアお
老爺さん」
忠「イヤ/\婆どん、夢じゃ無い、これと言うのも、皆、観音様の
御利益じゃ。アヽ、有り難や、
南無大慈大悲の観世音菩薩……」
妻「ナア、お
老爺さん、世の中に、こんな嬉しい事はまたとあるまいが、
貴郎は、いつまでもここにいなさるか」
忠「いるとも/\。死ぬまでここにおります。他人の
宅に厄介になる訳やなし、可愛い、聟や娘の家じゃもの」
妻「デモ、京都の
家はどうおしる」
忠「京都の家なんか、どうでもえい。有り難い/\。これも南無大慈大悲の観音様のお蔭じゃ」
妻「ナア、お
老爺さん、
昨日は木賃宿で、ゴツ/\した、冷めたい蒲団の上で寝たが、中々寝られやしまへん。その上、何や体が
痒うて/\
堪りまへんどしたが、今晩は
絹布の蒲団で、
昨晩はどうして、あんなに寝苦しかったんどすやろ」
忠「それも観音様(
虱)のおかげじゃ」