ちきり伊勢屋(ちきりいせや)
四代目柳家小さん
昔紀州の浪人で
白井左近という学者がありました。この人御主人を
諫めて御不興を受け、長の
御暇、よんどころなく江戸へ出て、麹町半蔵御門外へ出て、夜分辻占いを致し、
左「サァ往来の方、私は易を観る。人相も観るが、人には吉凶善悪、日の内にいろいろの事がある。お持ち合わせのある方はいささかでも申し受けるが、御持ち合わせのない方は無料で観て上げる」
とヒュー/\風の吹くのに
濠瑞に立って客を呼んで占いをしている。ところが中に洒落や
串戯に見て貰った者が、怖いように当ってこれを人に吹聴をする。私も見て貰おうと、段々客が付いて来たが、困る者からは
見料を取らない。そういう具合だから、
扮装も汚ない。脅かしもないから、見料を置く者も沢山は置かないような訳、ところへ麹町三丁目の米屋さんで、
家作を
造らえたが、
住人が落ち着いていない。どうも気になるから、白井左近に見て貰うと、これはこういう所が悪い、ここをこう直せば
巧くゆくと教えてくれたので、その通りにして見ると成程巧くいった。ソコで米屋さんが喜んで、
米「どうですえ先生、失礼だが、お前さんこうして
此所に立って
売卜をしているより、
私の
家作で麹町の平河町に元医者が住んでいたのが悪い事をして変死をしたので、化物が出るなどといって、誰も住まわない
家が一軒あります。家も立派だし、庭も広いから、
其処へ入っておやんなすってはどうで、
金主ではないが万事御世話をしましょう」
というので左近も喜んで、その家へ入って、米屋の亭主の指図でちょっと様子をよく見せるように造って、本などは先生見ないでも心得ているが、それでも世の中には馬鹿が多いからと、机の上へ易の本を積み重ねたり何かして、賑やかにして店を開くと、大層評判になって、毎日朝から絶間ない位に客が来るようになりました。丁度七月の
初旬、朝の内一しきり見てしまって、これから御飯を食べようと思って、ヒョイと玄関を見ると、まだ一人、
人品の
好い人が待っております。
左「お前さんは」
○「ヘエ御待ち申しておりました。どうぞ先生一ツ御覧を願います」
左「ア、そうかえ、それは御待ち遠だった。サァ
此方へ……。まだ御若いようだが、御年はお
幾歳だね」
○「二十五でございます」
左「ハァ、モウちっと前へ進みなさい」
天眼鏡をジッと見ていたが、
左「ア、お前は縁談で来なすったな」
○「ヘエ左様でございます」
左「失礼だが、お前は縁談は無駄だ。
止しなさい」
○「ヘエ
本年は年廻りが悪うございますか」
左「イヤそうではない。
本年来年に限らず、お前は家内を持てない
身体だ」
○「ヘエー、私は男で……」
左「それは分ってるよ」
○「男が家内をてないというのはどういう
理由で」
左「その
理由がある。ついてちょっと伺うが
貴郎の御住まいは
何所だね」
○「
私は麹町五丁目に住んでおります」
左「ハァ失礼ながら御商売は」
○「
私は質両替を渡世にしております、ちきり伊勢屋伝次郎と申します」
左「アヽ左様か。かねてお名前は伺っておるが、
私は世間が暗いので、お
見外れ申して甚だ済まなかった。それではお話をするから
最些と前へ進みなさい。さて御主人、今
私が詳しく言わなかったから、
不実の見方でもしたと思し召しがあったろうがそうではない。丁寧にいうとお前さんが落胆をしなさるから、手つかずただ縁談は無駄だとこういったが、実はね、お前は死になさるよ」
伝「エッ
私が……」
左「アヽ死ぬ」
伝「ヘエーそれがお判りになりますか」
左「お前の
天庭に
黒気が現われている。槌を以て大地を打つは外れるか知らんが、私の観相に違いはない。人間は
老少不定、二十五だからまだ死なない。八十だから死ぬと
定ったものでは無い。お前も
大家の主人だ。死生命あり、
富貴天にあり位の事は御存じだろう」
伝「ヘエ恐れ入ります」
左「誠にお気の毒だが死ぬ。
詰まらん事をいうようだが、人は生れた時に丁度借りを
背負って出るようなもので、短命の人は早く借りを返す。長命の人は借りが返されない訳だ」
伝「成程、シテ先生
何時死にましょう」
左「待ちなさい、見て上げるから……。今年ではない、来年だな」
伝「来年というと何月頃で」
左「そうさな。正月は死ない。二月の……中旬だな。二月十五日の昼、正午の刻にはこの世の人ではない。誠にお気の毒だが……」
伝「ヘエ」
左「ソコで一つ心得のために話をしよう。お前さんは誠に善人だが、お前さんの親御が失礼ながら悪人だった。悪人といって何も人殺しをしたの、盗みをしたのというのではないが、金を貯めるために無理をして、人を泣かしている。世間でお前の
家の事を何という。陰口に乞食伊勢屋、鬼伊勢屋というだろう。
親父さんの代に、金を貸して高利を取り、儲ける事は儲けても、人を助けた事が
一廉もない。奉公人が病気にでも
罹れば役に立たないといって暇を出し、家の前へ倒れる者があると、水をぶっ掛けて追い払ってしまい、長屋に食うにも困る者があって、
店賃が滞ると着ている物でも剥いで追い立ってしまい、そうして
作らへた金だ。聞けば今公儀にはお前さんの身代は何万という書き上げになっているそうだ。世にいう親の因果が子に報うで、お前さんは善人に生れながら、そのの身代を相続しても、二十六でこの世を去り、女房を迎えて跡へ子孫を残すことも出来ないというは、
如何にも御気の毒だ。ソコで御主人、
私が良い事を勧める」
伝「ヘエ」
左「
外ではない
施しをおし」
伝「ハァ施しをすれば私の命が助かりますか」
左「そこだ。天理といって、現世で天理に叶った事をすれば、来世に良い報いがある。よく後生を願うという。この世で悪くても後の世の善い事を願う。人間はモウこれでお
終いという訳ではない。
草木でさえ花が散り、葉が枯れても、また春が来れば芽を吹くだろう。お前が
此所で施しをすれば、親の罪も自然に消え、親孝行にもなれば、
仁者にもなり、その徳によって来世は誠に結構な身の上になる。悪い事は言わないから、精々施しをしなさい」
伝「
畏こまりました」
左「お分りになったか。失礼の事をいうようだがこれは
真正だよ……」
○「旦那様お帰り遊ばせ」
伝「ア、今帰った、お茶を一つおくれ」
○「
如何でございました。木場のお嬢様の方がお年廻りが
宜しゅうございますか、しかし赤坂のお嬢さんの方が今年は方角が
宜かァないかと、陰でも話を致しておりましたが」
伝「余計な事をいいなさんな。
蒼蝿い、マァ久兵衛さん
此所へ来ておくれ。どうも大変な事が出来た」
久「ヘエー」
伝「観て貰ったら、
私は死ぬとさ」
久「エヽそれは大変、アノ先生がそう仰ればきっと死にましょう」
伝「きっと死にましょうは心細いな」
久「先だって畳屋の辰公が、白井左近に観て貰ったら
近々に死ぬと言ったと、
欝いでおりましたが、間もなく死にました」
伝「そう/\、そんな事があった。何だか知らないが、
天庭に
黒気が現われたとかいって、
私の額に黒い筋が出ているそうだ。これが出ると死ぬんだという」
久「ヘエーお見せなさいまし」
伝「お前に判るか」
久「判りゃァしませんが、見て置きます」
伝「
串戯いっちゃァいけない。ところが久兵衛、段々聞いて見ると、
親父さんが無理非道の事をして、金を
畜めたのが、私の
身体に崇って来たのだから、施しをして後生を願え、そうすれば
親父さんの罪も消えるし、来世は
私も楽が出来るというんだ」
伝「今日から商売休みをして、清蔵重次郎幸助三人掛かりになれ」
清「ヘエ」
伝「表へ早速
札を出しな」
清「どういう札を出します」
伝「障子へ西をモウ二枚ばかり貼って、清蔵お前書きなさい。今までの入れ質は元利とも頂かずに、物品をお戻し申しますから、お持ちなさいと、分り易く仮名で書いて出しなさい。そうして受け出しに来たら、ただだからといって、
粗相に扱ってはならない。丁寧に長々御贔屓を頂きまして、有難う存じますと、一々礼を言いなさい」
清「ヘエー、それでは旦那様
身上が
堪りません」
伝「堪らなくても、来年の二月には死ぬんだから施しをするんだ。ソコで久兵衛どん、
有金はどの位あるね」
久「ヘエ、この間棚勘定、何やかやで五万両と
一寸端たでございました。今月の地代店賃利息などを加えましたら……」
伝「そんな事はどうでもいい。取る勘定はモウしないでもいいから出す事に精々気をつけておくれ。奉公人にも今まで
美味いものを食わせない。
勿論質屋は
何所でも
食物が悪いが、とりわけ
私の家は
甚かった。久兵衛どんなぞは
親父の代から奉公していて、今まで美味いものを食った事がなかろう。今日から
皆な好きな物を食いなさい。横丁の
魚藤という魚屋へ行って急に
誂え物をすると、肝を潰すから、仔細あって今日からお魚を頂きますから、どうかお寄んなすって下さいと、そう言って来な。久兵衛さん、笑っちゃァいけないよ。俺は刺身をまだ食った事がない。この前法事の時に刺身を誂えようと言ったら、親父が、法事に
生臭物はいけない。奴豆腐て沢山だといって、刺身が奴豆腐になって、お前達が笑った事があった。どうだ、お前達も人間だが魚を食ったことがあるか」
金「ヘエ私は鰻を食べました」
伝「剛気だなァ、俺の所へ来てか」
金「どう致して、
当家でなかなか食べられは致しません。
宿下に行きました時、
親父が
平常お
店で
不味いものを食ってるから、鰻を食えといって食べさしてくれました。実はモウこの頃
骨離れがしそうでございますから、御暇を頂こうと思っていました」
伝「そんな話をするな、何だか陰気になっていけない。鰻の食いたい者は鰻を食いなさい。
皆な好きな物をやるがいい」
その中に質受けの人がゾロ/\来るのを、店の者が礼をいってただ返してやる。中に
○「御免なさい」
久「ハイ」
○「ドテラと腹掛けを四貫八百で置いた、あれを出して貰いてえ」
久「ヘエ/\、腹掛けとドテラ」
○「元利とも取らねえというのは
真正かね」
久「エー頂きません」
○「そいつァ済まねえ、じゃァモウ一つ火事道具があったが出してくんねえ」
久「火事道具というのは、帳面にないが、
何時置いたので」
○「四五年前だ」
久「アヽそりゃァ
疾うに流れちまいました」
○「じゃァ何か代わりをくれねえか」
なんという酷いのがある。中にはまた宜い客もあります。人には良心というものがあるから、ただ貰っては済まないという、気のある人は、半金持って来るのもあれば、金を揃えて出しに来る人もあります。今では新聞という結構なものがありますから、宣伝が早いが、昔の事だから辻々へ貼り札をして、麹町五丁目のちきり伊勢屋で施しをするから、困る方はお出でなさいと書いて世間へ知らせました。その頃広告というと貸本屋へ頼んで、本の裏へ紙を一枚づつ付けて、
何処に何があるとかいう事を書いて知らしたもので、そんな事もしてドンドン施しております。しまいには表から飛び込んで来て、
○「御免なさい、旦那はお
在宅で……」
伝「ハイ私が伝次郎だ」
○「私は音羽の九丁目から参りました、
家主松兵衛の手代でございますが、
店子に九死一生の病人がございます。どうか旦那に御見舞いを願います」
伝「今
直ぐに行きたいが、隣町に病人が一人あるから、それを見舞って、それから行くから、マァ御大事になさい」
まるでお医者様の始末、伝次郎小ざっぱりした
扮装をして
懐中へ金を入れて、音羽の九丁目まで参りました。今は結構な所になりましたが、昔は音羽というと
辺鄙な所で、古い付け合わせにも、
「よう/\と、音羽九丁は立て揃い、米
搗きながら荒物を売る」これで大体分っております。
穢い裏へ入って下駄の歯入れの金兵衛という
独身者の
住居、枕元へ座って、
伝「お前さんが金兵衛さんというのか、病気は何だえ」
金「ヘエ病気の
原因は雨で」
伝「ハァ雨の病気か」
金「雨が降って商売に出られません。
二日降られて御飯が食べられません。三日目に御芋を食いました。やっと四日目に天気になったから商売に出ましたが、
全然仕事がありません。仕方がないから家へ帰って水を飲んで寝ました。それが
原因で病気になってしまい、御近所の方の御厄介になっていますが、長い間こうしたきり動けません」
伝「それは気の毒だ。しかしお前のは病気ではない。つまり食が足りないのだ。ここに金が十両ある。今家主にも話をして行くが、
一時にやたらに物を食ってはいけない。疲れている所へ急にウンと詰め込むと、なお
身体を悪くするから、医者を
遣してやるから、薬を
服むがいい。それに布団が薄いから
身体が冷える、お前などは寿命があるんだから、
身体をよく養なって、達者になったらまたお前が人の事をしてやんなされば、善い事にぶつかる。
私も人から聞いた事があるから、こうして施しをしているんだ」
金「どうも有難うございます」
下駄の歯入れ屋の金兵衛喜んで、恵まれた金で、充分手当てをした。お蔭で、病気がスッカリ
癒りました。こういう工合に伝次郎盛んに施しをしていたが、或る日のこと、
伝「オイ
皆な
此所へ来てくんな、久兵衛どんマァ随分施しもしたが、この頃世間を歩いて見ると、女房が給仕をして酒を飲んだり、
御飯を食ったりしているが、誠に楽しそうだ。誰が言ったか知らねえが、酌はたぼと、どうも酒の酌やお
飯の給仕は女に限る。俺の家は男
世帯でこの味を知らない。どうせ来年死ぬと
極った
身体だ、乱暴のようだが、生涯の思い出に、女の酌で酒を飲んで、女の給仕で御飯を食べて見たい。その位の事はしても
宜ろうと思うがどうだい」
久「エー結構でございます。早速今日
何所かへ行っしゃいまし」
久「
何処其処というより、いっそ新宿へいらっしゃいまし。素人ではかえって面倒でございますから、遊女屋の方が気兼ねがなくって
宜しゅうございましょう」
伝「お前なかなか詳しいな」
伝「
何処へ行こう」
久「ヘエ御使いに参りまして、前を通りました」
伝「何だか
訝しいぜ、この人は……、そんなら新宿へ行って見よう」
というので出掛ける。その頃新宿に
倉太夫という
幇間がいました。清元の太夫だが、ちょっと癖があって、太夫を
止めて幇間になってる、これがうまく
周旋て伝次郎を面白く遊ばせるから味を占めて、セッセと通って、ドン/\金を使う。
漸々遊び馴れて来ると、新宿ではいけないと言うので、吉原の本場へ引っ張り出す。
此所へ来ればまた遊びが大きくなって、小学校から大学校へ入ったようなもので、芸人の取り巻きも大勢付いてしまいには家へ芸人が出入るようになって来た。ソコで奉公人をまた呼んで、
伝「サァ
皆ないよいよ来年二月俺は死ぬについて、今の内にお前へ金を分けて置きたい。誰に幾ら彼に幾らというのは面倒だから、千両箱を二つばかり
毀しな。全体箱なんぞへ入れるから金が出ないんだ。サァ/\
此所へ持って来なさい。こうして紙をズッと敷いて、俺が二掴みづつ金を盛るから、どれでも一つづつ取んなさい。久兵衛、清蔵、重次郎、皆な取ったか、
藤助何を考えてるんだ」
藤「
私のは横ッチョに
洞穴が明いています」
伝「じゃァ埋めてやろう」
藤「穴は埋まりましたが、
此方の方へ
築山を一つ……」
伝「
巫山戯るな。定吉、貴様には百両やる、お前は親孝行だ。親父が
病ってるそうだから暇を取って
床店でも何でも出して商いをするが
宜い。それとも家にいたければ、二月までいても宜い。権助お前この間台所で愚痴を言ってたな。奉公人も大勢いるが、道楽をして奉公に来たのは俺ばかりだ。どうかして田地田畑を受け出して元の百姓になりたいといってたようだ。そんなに道楽をして金を使ったのか」
権「ヒャア、
私の家、三代道楽者が続いて
身上潰してしめえました」
伝「ハァ三代……」
権「ヒャア、親父が道楽をして、兄貴が道楽をして、それから私がまた道楽をして、とうとう家
失くしてしめえました」
伝「大変な家もあるもんだな。田地田畑を受け出すには、余ッ程の金がいるのか」
権「そりゃァハァ
大変こッて……」
伝「フーム、どの位の
金高だ」
権「そんならば話ぶつでがすが、十七両二分でがす」
伝「馬鹿にするな。それじゃァ、俺がこれだけ遣るから
故郷へ帰って田地を受け戻して元のように百姓になって、家を立てるが宜い」
権「へイ」
伝「俺が死んだと聞いても出て来ねえでも宜いから、困る者の子供にでも、餅か何か食わしてやってくれ。サァ皆な直ぐに暇を取るとも二月までいるとも、勝手にするが宜い」
奉公人一同へ言い渡したところが、不覚という訳でもないが、一人減り二人減り、跡に残ったのは番頭の久兵衛さんに定吉という小僧ばかり、そのほか家にいるのは怠け者という訳でもないが余り世の中に用の無い人間ばかり、ゴヤ/\来て遊んでいるから賑やかな事は賑やかでございます。
一夜明くれば正月、この月は
何所でも大体騒いで暮らしてしまうから、二月となると何となく物足らないような月に昔から出来ております。ところが伝次郎さんは忙しい、今月の十五日はモウ死ぬんだ。人間死ぬ日が分かると忙しい。
夜も寝ずに遊んでおりますうちに、十日十一日十二日十三日、いよいよ十四日の晩となると、
流石に考えた。
伝「久兵衛さん、
明日死ぬと思うと何となく陰気でいかねえから、今夜は大勢で通夜をして貰いたい」
久「ヘエ、生きていで御通夜を……」
伝「アヽ生き通夜だ。死んでしまったら家へ置いても仕方がないから、明日の
午の刻に息を引取ったら直ぐ担ぎ出して貰いたい。
頭、お前万事葬式の方は頼むよ。久兵衛、寺は宜いかえ」
久「ヘエお寺は
疾うに知らせてございます」
伝「それなら出入りの者の半纏、
棺側の者の羽織袴は揃ってるかい」
久「ヘエ宜しゅうございます」
伝「
早桶はどうしたえ」
久「ヘエ、モウ今晩のうちには出来上がって参りましょう。早桶屋が驚いていました。親の代からこの商売をしているが、死なない内から早桶のお誂えを受けたのは初めてだと言いました」
伝「そうだろう。中へ腰掛の台を付けるようにそういったか、台がないと腰の工合が誠に悪いから……、エー早桶が出来て来た……、アヽ立派々々、この位大きけりゃァ楽だ。誰か入って見ろ」
久「どうも早桶に入るのは、御免
蒙りとうございます」
伝「じゃ宜いから今夜はマァ賑やかに騒いで貰おう。女達は
此方へ来て三味線でも弾くが宜い」
ワイ/\いう騒ぎ、
暁近くなると、
伝「オイ/\飯を炊いたか」
久「ヘエ炊きました」
伝「
肴は宜いかえ」
久「エー、今日は
御葬式が出るんですから、精進でございましょうが」
伝「馬鹿ァいいなさい。精進なんぞする仏じゃァない。味噌汁の中へ
生臭物を
敲っ込んでゴッタ汁を
造らえろ。ソコで久兵衛さん夜が明けたら、店へ
簾を掛けなくちゃァなるまい。それから
暖簾を裏返しにして忌中の札を出しなさい。刻限が来たら直ぐに持ち出すんだから、やはり
午の刻出棺と書いて置きなさい」
と仏様が八方へ指図をしている。通夜の
暁方は誠に淋しいものだが、それが賑やかだから
可笑しい、朝になると近所では驚いた。
○「ちきり伊勢屋に忌中の札が出たが、誰が死んだんだろう。
主人一人で両親は疾うに死んで、女房もなけれは子供もないが……」
△「何でも伝次郎さんが、今年は死ぬんだといっていたから、それじゃァ
主人が死んだに違いない」
○「ヘエー驚いたねえ。何しろ行かなくちゃァなるまい。婆さん羽織を出してくれ……。お早うございます」
久「ヘエお早うございます」
○「久兵徳さん、どうも当家でも飛んだ事だったねえ。ちっとも知らなかったら、今朝忌中の札が出たんて驚いたような訳で、ちょっとお悔みに……」
久「ヘエどうも有難うございます。どうぞ
此方へ……旦那々々」
伝「何だ」
久「筋向こうの紙屋の旦那が御悔みに来ました。ちょっとが御会いなすって……」
伝「困るなァ、仏が自分で会うのは。どうも仕方がねえ、
此方へ御通し申しな」
○「ヘエどうも
当家でも飛んだ事でございました……。オヤお前さんは御主人、
何方がお
没くなんなすったので」
伝「
私でございます」
○「エッ」
伝「
私」
○「
私だって、お前さん口を利いてるじゃァありませんか」
伝「エーモウ今日の
正午頃、刻限が来るとチャンと死にます。長い御馴染みでございますから、どうか御見送りを願います」
○「呆れ返ったねえどうも、線香を持って来て
体裁が悪い。また上がります」
紙屋の爺さん、肝を潰して帰って来た。
○「俺も随分、変った者に
出遇してるが、悔みに行って、死ぬ本人と話をしたのは初めてだ。おまけに仏様が
胡坐を
組いて、酒を飲んでいた。馬鹿々々しい
葬式があるもんだ」
と笑っている。そのうちに追々近所から悔みの人が来るから
久「ねえ旦那、
貴所が一々挨拶をするのは厄介でございますから、モウ早桶へお入んなさいまし」
伝「そうか、それじゃ入ろう……。宜いかえ、前へその机を飾って線香を上げるようにしてな……。誰だえ
其処へ来たのは」
一「ヘエ一八でございます。長い間御厄介になりました。頂いた御金で、これから
阿母と二人で荒物屋をして
堅気になります」
伝「そうだ。
身体を大事にして長命をしなよ」
半「ヘエ
半平でございます。どうも旦那様長々御贔屓を頂きました。随分御達者で
在っしゃいまし」
伝「誰が達者で死ぬものか」
半「成程、それじゃァ御機嫌よろしゅう」
伝「それも悪いや」
甲「何しろ、皆な少し念仏でも題目ても唱えようじゃァねえか、お前の宗旨は何だ」
乙「俺は一代法華だ」
甲「一代法華だって威張るな」
丙「俺は
門徒だよ」
丁「俺は浄土だ」
甲「皆な違ってるな。オイ/\お前は何だ宗旨は」
戊「何だか知らないが、南無阿弥陀仏だ」
甲「南無阿弥陀仏だっていろいろある。門徒とか浄土とかあるだろう」
戊「
何方したって南無阿弥陀仏に変わりはねえ……」
○「ハイ御免よ……、俺だ/\、イヤ久兵衛さん、どうしたってえ事だ。今、湯で聞いたら、ちきり伊努屋の
家が
是々という話。伝次郎さんが
没くなったそうだな」
久「左様でございます」
○「左様でございますじゃァない。親類という訳でもないが、町内でもマァ何かにつけて俺の所へ相談に来るのに、主人が死んだってえのに、一言も知らせねえという事はなかろう」
久「ヘエどうも相済みません。ツイ取り込んでおりまして……」
○「それもマァもっともだ。何だかこの頃商売も
廃めて、施しばかりして、大層様子が変ったと思ったら、やっぱり死ぬ
瑞祥だったんだね」
久「ヘエ」
○「
何時死んだんだえ」
久「今日
正午に」
○「何をいってるんだ、今
何時だと思うんだ。血迷っちゃァいかねえ。モウ仏は
納棺ってるのか」
久「ヘエ納まってしまいました」
○「変だなァ。何しろ線香を立ってやろう、可哀想に……南無阿弥陀仏々々々々々々、皆さん御苦労様……、今また婆さんを
遣すよ、ハイ左様なら……」
伝「何だい今来たのは」
久「近江屋のお爺さんでございます」
伝「どうもこの中に入ってるのは面白くねえや」
久「どうせ早桶の中だから面白くございません」
伝「煙草を
喫みたいもんだ。しかし煙草を喫む間、
蓋を取っても置けまい。上へ大きな穴を明けて
煙出しを
造らえてくれ。横に穴はあるけれども、
煙は上へ抜けなくっちゃァいかねえ……アヽそれで宜い、
剛気々々……」
甲「オイ旦那が中で煙草を喫んでる。御覧よ早桶から
煙が出るぜ。どうだい焼芋屋の
竃見たようなものが出来た」
△「御免下さい」
久「ハイ」
△「イヤどうも
当家でも飛んだ事でございました。何とも御気の毒で……しかし今日死んで、今日直ぐに
葬儀を出すので……」
久「ヘエモウ御通夜は
昨夜してしまいました」
△「恐ろしい気の早い
葬式だ。マァ長い御懇意だ。御見送りは致しますよ」
久「御親切様に有難う存じます。どうかお願い申します」
伝「オイ/\、今の人が煙草入を忘れてった」
仏様、早桶の穴から覗いている。ワイ/\という騒ぎ、その内に静かになったから、
久「サァお
没くなりになったようだ。それじゃァ
少と時刻は早いけれども皆な支度をして担ぎ出そうじゃァないか。
頭お前の方は
宜いかえ」
伝「オイ/\、まだ生きてるよ」
久「アヽそうでございますか、オヽまだだ/\」
伝「ちょっと蓋を取っておく」
久「旦那、何でございます」
伝「小便だ」
久「オヤ/\仏様
御小便だ……」
厄介の仏があるもんだ。その内にまた静かになりました。
久「
頭いよいよ死んだせ。ちょうどモウ時刻だ、……イヤどうも表は大変な人だな」
頭「ヘエ番頭さん、今若え者が金棒を引いて道を明けて歩くような始末で」
久「これじゃァなかなか出られないな」
頭「仕方がねえ、水を撒きましょう」
久「そんな馬鹿な事をしちゃァいけない。サァ皆な揃ったかね、頭頼むよ」
頭「エー
宜うござんす」
麹町五丁目を出て、深川の
浄心寺までの間、人が続くという位。町人の
葬人としては大変な景気でございます。もっとも途中から見送りの人が
殖えた。
○「何ですえ、この人は」
△「麹町五丁目のちきり伊勢屋の
葬式で」
○「アヽ、この頃大層施しをした、アノ人がとうとう死ましたか、寺は
何処で……」
△「深川の浄心寺だ」
○「それじゃァ私も送ろう」
と皆な途中から送って来る。こうなると
強飯が足りない。今のように切手なんぞはない。深川
辺の餅菓子屋から出来合いの菓子をどうか仏様へ上げて頂きたいといって今いう寄付をする。これを聞いて乞食が何千人と
集って来る。まるで
御祭礼のような騒ぎ。サァ
棺が着いて本堂へ担ぎ上げようようとすると、
甲「どうだいモウ早桶を揉もうじゃァねえか。旦那が酔っ払うとお
神輿の真似をするのが好きだから、お神輿の真似をしや」
とヤッチョイ/\揉んでいるうちに一人二人手を放したから堪らない。早桶を
抛り出した。
伝「イタヽヽヽ、アヽ痛い/\」
甲「ヤァ大変だ、仏様が痛がってる」
伝「明けてくれ、
痛え/\、どうしたんだ久兵衛々々々」
久「オヤ旦那、まだ死なないんでございますか」
伝「まだ死なねえ。酷い事をするな、今トロ/\と
眠たところなんだ。此処は何処だ、
寺かい、ウーム
何時だ」
久「今八ツ頃でございましょう。
午の刻に麹町を出たんで……」
伝「
訝しいな、死なねえのは」
久「旦那、
貴郎一月間違えァしませんか」
伝「ナニ間違えるものか。天下の名人が、二月十五日
正午の刻にきっと死ぬといったんだ」
久「
日延になりゃァしませんか」
伝「芝居じゃァあるまいし、日延なんぞするものか。何しろ腹が
空って仕様がねえ。
強飯を二つ三つ持って来てくれ」
久「モウ
強飯はスッカリ出切ってしまいました。初めの見積りで二千人前誂えた所が、途中からお見送りが
殖えたので、深川の菓子屋から仏様へ供えてくれといって貰った菓子を出すやうな訳で……」
伝「ウムそいつァ困ったなァ。近所に鰻屋があるだろう。
中串を
二分ばかり誂えてくれ……」
○「旦那々々大変でございます。和尚さんが仏に魔が差したんだろうから、早く埋めちまへといってますよ」
伝「
串戯いっちゃァいかねえ。死なねえうちに埋められて堪るものか」
といったところで金は皆な施してしまい、今更どうする事も出来ない。仕方がないから和尚に話をすると、和尚も
流石名僧だ。
僧「こういう事もないとは限らない。それでは
祠堂金の百両お返し申すから、これを以て身をお立てなさい」
此方も善人だ、百両は貰えない。押し問答の末、そのうちから二十両の金を貰って夜逃げというのはあるが、日の暮方深川を逃げ出したが、さて
何処といって行く
的がない。ふと考えて相州の浦和に元置いた乳母の
家があるから、それへ行って厄介になっていたが、相変わらず困る者があれば施しをする。病人があれば薬を買ってやる。たちまち一文無しになってしまった。そのうちに花の咲く陽気になったから、故郷
忘じ難く、江戸へ帰って来て芝の札の辻まで来ると黒山のように人が立ってる。何だと思って覗いて見ると
売卜者、前へ小さな台を置いて
床几に掛かり天眼鏡を取って、
卜「サァお立ち合い、当用身の上の判断、何でも見て進ぜる。仔細あって私は数万の人の人相を見る。見料お持ち合わせの無い方は
無料で宜い、御持ち合わせの方は思し召しを頂戴する」
伝「願います」
卜「ハイ」
伝「人相を一つ見てお貰い申したい」
卜「ハイ/\、御年は
何歳だな」
伝「去年二十五だったから、今年二十六で……」
卜「無駄の事を言わんでも宜い……、オヽお前さんは伊勢屋の御主人だな、伝次郎さん……」
伝「オヽ先生、
貴所に会いたかった」
左「イヤ御立腹は
道理だ。
私もお前さんに会いたかった。この変った様子を見て、大体お分かりになるだろうが、お前さんが
私のいう事を聞いて施しをして、二月十五日に死んで、
葬式を出したという噂を聞いた。ところが死なないで寺から逃げてしまったというので、翌日
私は奉行所へ
喚び出されて、人の
命数を見て、
天機を漏らしたという所から、所払いになった。
私は長年多くの人の人相を見て、一度もこれまで間違いはなかったのに、お前さんばかりは違ったというのは、どうも判らない。何かこれは仔細のある事と思い、縁があったらお前さんに今一度会いたいと、この札の辻は土地の境で、江戸の部でないから、
此処へ来て店を出して諸人の易を見ながらお前さんの来るのを待っていた。それとも
乃公を
欺したから助けんというなら、手前の首を差し上げるが、心ゆかせに今一度人相を見せてくんなさらんか」
伝「アヽ幾度見ても宜い」
天眼鏡を取って、ためすすがめつ見ていたが白井左近膝を叩いて、
左「これは御主人死なないよ、お前さんは。なかなか急には死なない。今
私が見る所では長命だ。七十は
古来稀というが八十九十事によるとお前さんは百を超えなさる。どうも不思議な事があるものだ。去年見た時は確かに命数尽きていた人だが……、何かお前さん人助けでもした事はないか」
伝「あります」
左「ある、
何処で」
伝「去年の暮の事で、新宿で遊んでいました。ところが風が大変に吹いて来ました。貰い火は仕方がないが、
自火を出したくありません」
左「
道理だ」
伝「ところで奉公人任せにしてありますから、家を案じて帰る途中、食い違いの所へ来ると、松の根方に二人女がシク/\泣きながら、今細帯を引っ掛けて首を
縊ろうとしていました。それを助けて話を聞くと、娘が主人の金を預って使いに行って、二百両というものを落としたか、取られたか分かりませんが、失したために、娘の身に濡れ衣が掛かりました。
外に仕様がございませんから、親子死んで申し訳をするという訳。マァお前達は金がなくって死になさる。
私は金が有っても命が無い。金で済むのなら二百両
私が上げるから、死ぬのを止しなさいといって二人を助けました」
左「それだ、それだよ。
唐国にもそういう
例がある。我が
朝にも幾らもある。早くいうと金で命を買うというようなもので、二人の命を助けたためにお前さんが
長命をする。これは天理の
然らしむる所だ。金は使い
失しても寿命が延びれば、この位
幸福はない。寿命があれば金は出来る。ソコでお前さんは今年南の
方に運がある。北はいけないよ、敗北と言って敗ける、死ねば北枕といってあんまり良い方へは使わない、南の方へさえ行けば運にぶつかる。何しろ
私が一言いったために身代を潰してしまったのは誠に気の毒だった。全体手前宿へ案内をして粗茶でも差し上げたいが、見苦しい家だに依って、こういたそう。ここに百
疋ある。これは
貴郎に上げるといっては失礼だから、上げるのではない、御用立てをするから、御身分が出来て
後、お返し下さるともまた御返し下さらんでも苦しゅうない。
貴郎が再び立派な者になって下されば、ソコで
私の所払いも
御免しになり、天下に白井左近の名前を揚げる事も出来る。しかしお前さんが施しをしたために、どの位世間に助かった者があるか知れない。この
報いがきっと来るから
私の言葉を疑わずに、南の方へ向いてお出でなさい。モウ直きに運に
打付る」
伝「どうも有難う存じます。御機嫌よろしゅう」
と伝次郎もとより善人だから、左近に貰った百疋の金を
懐に入れて、南の方を向いて出掛けました。
甲「オイ/\聞いたか」
乙「聞いた」
甲「南の方へ行くと運にぶつかるというんだ、一緒に行って見ようか」
乙「馬鹿ァいえ、
此方等が行ったって、運になんぞ
打付るもんか。打付りゃァ
肥桶屋位だ」
○「アヽ伝さん/\」
伝「何だい……、オヤ
伊之さんじゃないか、どうしました」
伊「イヤどうにもこうにも、お前さんが散々施しをしたり、遊びをしたりして、金を使って死んでしまって、
葬式を出した所が、死なねえで、
何所かへ
行方知れずになっちまったという事を聞いて私も考えた。人間は一寸先は闇だ。どうなるものかと、
親父の金を千両ばかり持ち出して、お前さんの真似をした。スルと親父がこんな奴は家へ置かれねえと勘当されてしまった」
伝「ヤレ気の毒な事をした。今
何処にいなさる」
伊「品川新宿の三田屋という酒屋の裏へ
二間ばかりの家を借りて皆な怠け者を集めて騒いでいるが、伝さんこれから
何所へ行くんで……」
伝「ナニ南へ向いて行けば運にぶつかるというんで、
何処という
的もなく南を指して歩いてるんだ」
伊「それじゃァ家へお出でなさい。丁度これから南に当る」
伝「それは有難いが、伊之さん今商売は何をしているんで」
伊「何にも商売無し」
伝「商売がなくっちゃァ困るだろう」
伊「困るにも困らねえにも形無しさ」
伝「一人でさえ困る所へ、二人になったら余計困るだろう」
伊「ナニ割前で困るから構わねえ」
伝「それじゃァ伊之さん、
此所に百疋お金があるからこれで米を買っておくれ」
伊「百疋ありゃァ米なんぞ買わないでもこうしよう。坂の荒井屋という鰻屋へ
中串を二朱誂いって、酒を取って一杯飲んで、今夜寝ずに話をしよう」
伝「そりゃァ結構だが、モウこれっきり金は無いよ」
伊「ナーニ
明日は明日の風が吹くから心配は要らねえ」
暢気の人が二人集まって、その晩
驕って明日の朝になると楊枝を使ってしまったが、伊之助が飯の支度をしない。
伝「伊之さん朝飯は」
伊「朝はお休みだ」
伝「お昼は」
伊「お昼は
御延引という事にしよう」
伝「変だな、夜はどうなるだろう」
伊「夜は形無し」
伝「じゃァ
全で食えねえ、それだから
昨夜そういったら、明日は明日の風が吹くといったじゃァないか」
伊「ところが
一昨日の風が吹いてやがるから仕様がねえ、世の中は花が盛りだ。モウ
胴着を着ていねえでも宜いから脱いじまおう」
伝「胴着を脱いでどうする」
伊「江戸なら二分貸すが
此辺じゃァ一分二朱しきゃァ貸さねえ。これを
典物て鰻を食おう」
伝「よく鰻ばかり食いたがるね」
気の合った二人暮し……、家主は驚いた。
家「婆さん
可笑いじゃァねえか。
昨夜な、伊之さん所の前で立ち聞きをするという訳じゃァねえが、
頻りに話をしているのが耳へ入った。十万両の運があったらお前に五万両やるという大変な話だ。その金で何をするというと、五万両ありゃァ品川の海を半分埋めるというんだ。俺は呆れ返っていた処が、今アノ番頭が来ての話、満更嘘でもなかろう、俺はちょっと行って来るよ……、ハイ御免」
伊「お出でなさい。オヽ
家主さん、これ
私の
朋友のちきり伊勢屋の
主人の伝次郎さんで……」
家「ア、お前さんがちきり伊勢屋の御主人か、かねて、承ったが宜い事をなすった。定めて長命をしなさるだろう。ソコで伊之助さん、今お前の
所の番頭さんが来て、主人の使いという訳ではありません。
私の一存で上がりましたが、承れば主人の倅が当長屋に御厄介になってるそうでございますが、辛抱を見届けた上、家へ入れる筈にはなっておりますが、どうかそれまでの間御世話を願います。家賃そのほか何や彼や御借りもございましょうから、失礼ながらこれをお預かり下さいと、金を二両俺の処へ置いてッた。しかし本人に聞かせると気が緩んでいけませんから、内々でいてくれろといってッたが、黙っていては俺が気が済まないから話をする。ついてはこうして二人で遊んでいては辛抱が分らないがどうだい。この長屋の駕籠屋の新兵衛という者が金を
作らへて国へ帰った。その駕籠が一挺家に置いてあるから、二人でこれから
夜駕籠をやんなさい。そうしているうちに、伊勢屋の御主人だって運が向いて来るに違いない。私が是非勧めるからやって御覧なさい」
伊「成程、伝さんお前どうだい」
伝「アヽ結構だ。
家主さんやりましょう」
家「そうおしなさい。提灯も私の所にあるからソックリ貸そう」
伝「それじゃァお願い申します」
と日の暮方から二人支度をして、駕籠を担いで出掛けました。
伊「ねえ伝さん、こうして黙っていちゃァ客が無い。
私がへイといったら、お前さん駕籠と言っとくんなさい、へイ」
伝「駕籠」
伊「へイ」
伝「駕籠」
伊「アヽ、
彼所へ半纏を着たオツの人が来た。アノ人に乗って貰おう。今晩は親方駕籠へ乗って下さい」
○「入らねえ、近い所だ」
伊「近い所結構で、馴れませんから」
○「湯に行くんだ」
伊「お湯でげすか、お湯まで行きましょう」
○「
巫山戯るない」
△「ヤイ駕籠屋」
伊「アヽ
酔漢が来た」
伝「あんな者に構っちゃァいかねえ、行こう/\」
伊「へイ」
伝「駕籠」
△「何だ、ヘエならヘエで宜い、駕籠だけ余計だ、品川まで幾らだ」
伊「ヘエ三分下さい」
△「
串戯いうない、百という帳場だが、二百やらァ。威勢よく乗り込んで、
息杖をトンと突いて、
垂をポンと上げて、トン/\/\と
後へ三ツ下がってお客様だよーとやってくんねえ」
伊「ヘエ宜しゅうございます。お乗んなさい」
△「サァ乗った、早くやってくれ」
伊「伝さん、お前さん前を頼む。私は
後棒だ」
伝「困ったなァ、こう担いで息杖を突いた日にゃァ提灯が持てねえ。ねえお客様……どうか一ツ提灯を持って下さいな」
△「
串戯いっちゃァいかねえ。何処の国に駕籠へ乗って提灯を持つ奴があるものか」
伝「それでも駕籠を担いで息杖を突くと、提灯を持つ事が出来ません。お前さんのために担ぐんだ。いやなら私が乗って持ちますから、お前さん担いでおくんなさい」
△「大変な駕籠屋だなァ、サァ出しねえ」
伝「この雪駄は入らねえンですかえ」
△「
先刻買ったばかりだ」
伝「駕籠を担いで行ってしまった跡へ残ると
失なるよ」
△「
巫山戯ちゃァいけねえ。駕籠かきが取って載せるのが
当然だ」
伝「自分の履いてる雪駄位始末が出来ましょう」
△「驚いたなァ、
此方へ出しねえ。サァ早くやってくれ」
伝「ヘエ上がりますよ……。アヽ重い、伊之さん大変な奴を乗っけちまった。生きていてこの位重いから、これが死んだらなお重かろう、黙ってちゃァ重いから声を出そう」
伊「アヽ
宜しい、ヤッショイ」
伝「ヤッショイ」
伊「ヤッショイ」
伝「ヤッショイ、旦那モッとずっと提灯を出しておくんなさい。先が見えねえから、ヤッショイ」
伊「ヤッショイ」
△「オイ駕籠屋、雨が降って来たか」
伝「どうして星が降るようで、
朧月夜に
如くものはなし、宜い晩ですよ」
△「それにしちゃァ
訝しいな、今霧見たよなものが顔へ当った」
伝「アヽそりゃァちょっと小便をしたんで」
△「乱暴な奴だな」
伊「アハヽ、こう見た所が駕籠のお化けだ。中から長い手が出て、提灯がブラ下がってる、これで駕籠が動かない位面白い事はない」
△「面白がってちゃァ仕様がねえ、早くしねえか。品川まで持ってきゃァ宜いんだ」
伝「桐ヶ谷まで持ってくつもりで」
△「馬鹿にするない、下ろせ/\。モウ
此所で宜いや、ソレ駕籠賃を
遣らァ」
伝「アヽ驚いたわ、けれども
酔漢を怒らして二百取った、
粋なもんだ」
伊「イヤ伝さん、癇癪持ちは損だねえ。腹を立って二百損をして行った」
×「モシ駕籠屋さん、新宿までやって頂きたいね」
伝「ヘエ有難うございます。……オヤお前は
一八じゃァねえか、生意気な事をいうな。俺を忘れたか」
一「オヽこれは驚きましたね、
貴郎はちきり伊勢屋の旦那で、どうなさいました」
伝「どうにもこうにも家は失なる。命は助かる。仕様がなくって、駕籠屋をして運を待てるんだ。お前これから遊びに行くのか」
一「ヘエ品川の新宿へ参ります」
伝「そうか、遊びに行くようなら
懐中に幾らかあるだらう。
些と俺に小遣いをくんな。恩に掛ける訳じゃァねえが、まだ俺の遣った羽織を着ているな」
一「ヘエ」
伝「相棒を誰だか知ってるか、紙屋の伊之助さんだ。二人ながら苦しいんだ。小遣いを置いてってくれ、世の中へ出りゃァ倍にして返して遣る。妙な
面をするな」
一「ヘエ御貸し申しますが、世の中に出るという方に出た
例がありませんから……」
伝「馬鹿にするな、紙入れを出しねえ。アヽこれも俺が遣った紙入れだ。大分あるな」
一「一両一分と二朱でございます」
伝「ウム金を取って紙入れだけ返してやる」
一「一文なしではいられません。その内幾らか下さい」
伝「それじゃァ二朱遣ろう、礼をいえ」
一「自分の物を貰って礼は言えません」
伝「
汝何だな。この暖けえのに下着を着ているな」
一「ヘエ」
伝「それを脱げ/\、今度良いのを
造らえてやるから置いてけ。脱がねえかい」
一「ヘエ脱ぎますよ」
下着を脱いで一八は
這々の体で逃げて行った。
伝「こいつァ面白い。これから
幇間を捉めえて
追剥をしよう」
暢気なもので、ソコで
翌日この下着を伊之助に頼んで質に置く事になると、
伊「伝さん一緒にお出で、質屋を覚えて置く方が宜い」
伝「
体裁が悪いな」
伊「ナニ追剥さえするんだ」
元取った人が置きに行くというのも面白い。質を置いて帰ろうとすると、
女「ちょっと
貴所」
伝「ヘエ何でございます」
女「御機嫌よろしゅうございます。私は食い違いで
貴所に助けられました花でございます」
伝「アヽお花さんか、そうかえ、
宜ったねえ達者で、
阿母さんはどうしたえ」
花「母は
没くなりました」
伝「オヤ/\」
花「母が没くなるまで
貴所の事を言っておりました。御恩を返さないで済まないと、言い通して没くなりました。この節は
此方へお出でになりましたか、お見受け申せば
余程御困りの御様子で……」
伝「アヽ今スッカリ困っています」
花「それは御気の毒様、失礼ながら御金がここに二両ございます。これをお持ちなすって。また私が何とでも致しますから、お困りの時はいらしって下さいまし。
此所は私の伯父の家で、母が没くなりましてから
此方へ来て厄介になっております」
伝「そうかえ、それじゃァお借り申して行くよ。……どうだい伊之さん、人は助けて置きたいねえ」
伊「
豪義だねえお前さんは、品川へ来て女に金を貢いで貰っちゃァ……」
怠け者が二人巧い金の
蔓が出来たという
了簡で、小遣いが
失くなるとお花の所へ借りに行きます。金はないから髪の物などを貸していたが、堅気の娘だからそう品物も沢山ある訳はない。しまいには伯父さんが気が着いて、
伯「花や、お前の髪の物がないようだが、どうした」
遣ったとは言われないから、
花「私も
昨日気が着きましたが、
何時の
間にか取られました」
伯「取られて
打捨っといてはいけない」
と早速自身番へ訴え出ました。今も昔も変りがない。品触れが出たので、南品川の丸屋という質屋へこの品物が伊之助の名前でソックリ入っている。ソレというので伊之助が御用になって調べられると家にいる伝次郎に頼まれたというので、伝次郎を連れて来て調べると、これは善人だから、伊之助にもお花にも迷惑は掛けない。私が盗みましたと白状をした。その時に島田
出雲守という名奉行が、どうも伝次郎という者は四万五万の身代を人に施し、死を覚悟しただけの人間で、夜盗などをする者ではない。何か入り組んだ訳があるだろうと思い出している所へお花が聞いて、
素跣足で駈け込み願い。
花「恐なから御願いでございます」
役「コレ/\差し越し願いはならん、順を以て願え」
花「恐れながら恩人の命に拘わりまする一大事、御取り上げを願います」
恩人の命に拘わりまする一大事といえば、採り上げない訳に
往かない。一応御調べになると
是々というので、伝次郎と突合せ、
出「伝次郎、これなる花から
其方貰い受けたか」
伝「ヘエ、実は貰いましたに相違ございません」
それから係り合い一同御呼出しの上、伝次郎は無罪。ソコで御奉行の
出雲守がお花の伯父甲州屋五兵衛に跡取の
倅が無く、このお花に婿を取って跡を継がせるとお聞きになって、伝次郎が元質屋の事であるから、これを婿に致してはどうだという御言葉。五兵衛も喜び、伝次郎お花には
固より異存はございません。御奉行の橋渡しで、伊之助が
媒酌となって目出度く婚礼をいたしました。伊之助も勘当が免て実家へ戻って元の若旦那。サァこれがまた評判になると、蔵前の伊勢四郎を初め、江戸の金満家から伝次郎へ
交際を求めて来るような事で、一旦零落をした伝次郎、以前に増して働いて、養家甲州屋の身代を殖やし、そのうちに子供が出来たので、これに甲州屋を継がして、自分は再び麹町五丁目へちきり伊勢屋という質両替の店を再興いたしました。白井左近は島田出雲守より所払いの処分御取り消しになって、ますます名人の名前を揚げました。
積善の
家に
余慶ありというのはこの事、ちきり伊勢屋伝次郎一代のお話でございます。