三味線栗毛(しゃみせんくりげ)

五代目三遊亭圓生




 昔、御武家に生れました人は誠に御運のかったもので、何故なぜというに当今とうこんのように人材登用なぞという社会でなく、千石でも万石でも、失礼でございますが御自分の力でない。御先祖様の戦功またはいろいろ御苦心を遊ばしてそれだけの扶持高をお取りになる。そのお家にお生れになりましたため、殿様御前ごぜん社会よのなかが送られます。ところがそういう御身分おみぶんになると、お気の毒な事が一ツございます。というのは、勝手我儘わがままに寝たい時分に寝、起きたい時分に起き、飲食物めしあがりものべたい時にべるという事が出来ません。それにはお附き添いがいて、そういう軽々しい事を遊ばしては相成りません。御身分ごみぶんさわります。こう遊ばせ、アー遊ばせと、故意わざ社会よのなかの事を知らせないようにしてありました。またその頃は下層の者は上流社会の事は見る事も出来なかったもので、されば上下の間が甚だしく隔たっておりました。その頃申した事に、片仮名のトの字に一の引きようで、うえになったりしたになったり、御承知の通り上という字は下に棒があって、これで下層社会の事は分らない。下々しもじもの者は上に一あるので上流社会うえつがたの事は分らない。ところがなかという字は上下じょうげ突き貫けており上も下もよく分る。町奉行などという役はその中途ちゅうとにいて、上下御存じなければ勤まらなかったが、じょうの部に属する御大名方はとかくあいだを隔たれて下層しもざまの事が分りません。しかし人情として、見てはいけない、聞いてはいけないとなると、見たがる聞きたがるもので、御登城ごとじょう遊ばす時に、何か町人の話を聞き出した事があれば、殿中でんちゅうに行って下層しもざまの事に乃公おれは通じているというのを、誇り顔に話したいから御駕かごの戸をけていらっしゃる。百万石も剣菱けんびしれ違うての繁昌はんじょうかねる木の植え所。剣菱のこもを着た乞食こじきも御大名も摺れ違うというそこが江戸の豪義なところ、御大名のお通りなどは珍しくないから、エイ寄れッ、という中でも平気で町人が話をしている。
○「マァなんだネ、これから大きに生計くらしくなるぜ」
□「そうかえ」
○「今日の米の相場を聞かねえかい」
□「知らねえ」
○「両に五斗五升だとヨ」
□「有難え。それは楽だ」
 おかごうちで洩れ聞いた殿様が、これは良い事を聞いた、米が両に五斗五升で、町人は余程楽と見えるな――殿中へお出でになると、それぞれお詰所に御大名がおります。
〇「これはお早い御登城」
△「イヤ大きに遅刻いたした」
○「市中の様子は如何いかがでござるな」
△「されば、町人はこの頃ズント暮らしうござるな」
○「左様か」
△「今日の米の相場は両に五斗五升だそうで」
○「是は恐れ入ったな。米が両に五斗五升……。その両というは何両で」
△「ウム……百両……」
 ここらが御大名の了簡で……。中にまたどうかすると恐ろしく下情かじょうに通じた殿様が出来あがる事もあります。何時いつ自分か年代も分りませんが、酒井雅楽頭さかいうたのかみという御大名の若殿、角太郎かくたろう様、これは間に姫様を挟んでお三人目で……ところがどういうものか、大殿とお気質が合いません。最もお部屋腹ではありますが、大殿はぜん申し上げたような御大名風で、その頃は万事寛裕おっとりとした御気性だが、若様は至って闊達の御気風、ソコで巣鴨鶏声ヶ窪けいせいがくぼの御下屋敷の方へ遣られ、おまかないは僅か五十石で、用人の清水吉兵衛という人が忠義者で、よくおもりをして、成るたけ入費の掛からぬようにいたし、御徒然おとぜんの時には盛り場所へ御案内をする。その頃盛り場といえば観物みせものや何かあって、最も賑やかなのが両国、或いは芝の久保町くぼちょう下谷したやの山下、神田の筋違いの八辻ヶ原やつじがはら、浅草観音の境内、これは今日も誠に賑やかでございますが、そんな所へ御案内をしてお気を慰さめ、夜に入りますと御学問をお仕込み申し上げる。おまかないが少ないから吉兵衛夫婦が手内職をして、そのお鳥目ちょうもくをつぎ込むというようにしております。若様は至って御壮健で、お一人で日々活発に遊んでおいでなさるが、うかすると、吉兵衛が内職にでも気を取られているうちに見えなくなる事がある。驚いて彼方此方あっちこっちと尋ねております所へブラリお帰りになります。
吉「お帰り遊ばせ」
若「今戻った」
吉「若様お一人でお出掛けになりましたか」
若「ウム一人で参った」
吉「御大身ごたいしんの若君が軽々しく御外出遊ばし、万一御上屋敷へ知れますると、吉兵衛が役目の落度に相成ります。以後は左様軽々しき事は遊ばしませんように」
若「イヤ吉兵衛、ゆるせ、大方其方そちが小言をいうだろうと思ったが、しかし吉兵衛、たまには一人で歩いて見んと分らんから、ソッと其方そちに知れぬように参ったが、以後はつつしむからゆるせ」
吉「恐れ入りました。シテ何方どちらへお出でになりました」
若「両国へ参った」
吉「やはり向こう両国へ」
若「向こう両国、何か知らぬが両国へ参った」
吉「アノ長い橋をお渡りになりましたか」
若「渡った/\」
吉「何を御覧遊ばしました」
若「先日其方そち斯様かような物を見てはならぬと言った、菰張こもばり観物みせもの這入はいって見た」
吉「しからん所へお這入りになりましたな。何を御覧遊ばしました。御意ぎょいかないましたか」
若「少しも気に入らぬ。水の中で笛を吹く河童の化物を見たが、あれは正真ほんとうの物か」
吉「偽物ぎぶつ、造り物でございます」
若「ウーム、偽物ぎぶつを似って衆人しゅうじんあざむくとは怪しからん奴だな」
吉「アノ刻限にお出でになりまして、さぞ御空腹でございましょう。いづれでかお昼食ちゅうじきを遊ばしましたか」
若「どうも分らんで困った。ソレ先度せんど其方そのほう此処ここにあるは皆、料理屋だと教えたな。アノ洒落しゃれた茶屋と申したいえ昼飯ちゅうはんをいたした」
吉「洒落た茶屋、左様なお茶屋はございません」
若「ソレ両国へ参った時に、これは何じゃと尋ねたら、茶屋小屋じゃと申したではないか」
吉「両国の此方こっち河岸では、梅川、萬八、柳屋……」
若「そんな家ではない、橋の向こうじゃ」
吉「中村屋、柏屋、青柳」
若「そうでもない」
吉「のような構造つくりで……」
若「古い家での、なわ暖簾のれんが掛かっていて、樽が床几しょうぎになっていたが、料理はチト臭いな。半ぺん鍋に蒟蒻こんにゃくのプリ/\煮……」
吉「怪しからん所へお這入はいりになりました。あれは洒落た茶屋ではございません。洒落に御案内いたしましたので、どうぞお上屋敷へは御内聞に願います」
若「申す気遣いはない、心配するな」
吉「今朝程お肩がお凝り遊ばすように仰せでございましたが、先刻から按摩あんまを一人呼び置きましてございます」
若「按摩……」
吉「お肩を撫でさすりまして御療治おりょうじを致します」
若「これへ通してくれ……茶を一杯くれい。コレ/\向こうに坊主がおるが……アヽあれが按摩か。汚ないな。……コレ坊主、モソット此方こっちへ参れ」
按「今晩は、お寒うございます」
若「アー其方そのほう按摩と申すか」
按「左様でございます」
若「按摩というは名か」
按「ナニ名じゃァございません。名は錦木にしきぎと申します」
若「錦木、名はそのにんたいを現はすと申すが、余り現わさんな……いづれに住まいおる」
錦「御通用門の向こうの豆腐屋の裏におります」
若「そうか。顔を上げろ……面白い顔をしておる奴だな。どういう訳で其方そのほうは目をふさいでおる」
錦「ヘエ」
若「何故なぜ目をかん。談話はなしをするに目をつぶっていては張合いがない。遠慮せずに目を開けよ」
錦「そんな御無理を仰ってはいけません。私は七ツの時にこんなになりましたので」
若「七歳ななつの時につぶったぎりか。只今何歳じゃ……アヽ左様か、永年じゃの。何か其方、かんのためにそうなったのか」
錦「ナニ癇のためじゃァございません。七歳ななつの時に疱瘡ほうそうにかゝりまして、すでに生命いのちの危うい所を助かりました代わりに目がいけなくなりました。それでも命が助かったお蔭でこうして按摩をしております」
若「アー盲人か其方は……ウームしかしそうして目をつぶりきりにしておったら夜分もねむい事はなかろうな」
錦「そうは参りません。目はつぶっておりましても心までは寝ません」
若「左様か、夜分笛のが聞こえたゆえ吉兵衛にあれは何じゃと聞いたら、按摩の笛だと申したが、外を笛を吹いて歩くのは其方か」
錦「左様でございます」
若「毎夜まいよか」
錦「ヘエ」
若「雨降あめふり風間かざまゆきなどのは、盲人の身ではさぞ難儀なんぎであろうな」
錦「ナニ子供の時分から慣れておりますから、さのみ難儀とも思いません」
若「異な事を尋ねるようじゃが、そうして其方歩いておって何か望みがあるか」
錦「殿様の前でございますが、大きければ大きい、小さければ小さいなりに人には望みがございますもの」
若「成程、何が其方望みじゃ」
錦「私はかねが欲しいと思っております」
若「ハァ左様か。金を何に致す」
錦「何にすると仰って、金が無ければ官位かんいが取れません」
若「白痴たわけたことを言うな。金で官位が自由になるか」
錦「エー成りますとも、よく人が盲人を捉まえて座頭ざとう々々と仰いますが、座頭と言われるには大変でございます。座頭の上が勾当こうとう、勾当から検校けんぎょう、検校となると中将ちゅうじょうの位の方と同格でございます」
若「デハ何か盲人の官位は金で得られる。それで金が欲しいと申すのか」
錦「左様でございます」
若「其方は金を貯めて検校になろうというのか」
錦「どう致しまして、検校どころではございません。座頭も覚束のうございます」
若「何故じゃ」
錦「何故じゃと言って、検校になりますには千両要ります。一口に千両といいますが、なかなか大変でございます」
若「しかしゆくゆくは検校になりたいというのが其方の望みじゃな。左様か……、何か他に楽しみがあるか」
錦「楽しみと申しても、見る物は到底いけません。マァ聞く物ですな」
若「聞く物……、小鳥のを聞くとか、虫のを聞くとか」
錦「そんなものはやかましくっていけません」
若「何じゃ」
錦「雨でも降って御療治ごりょうじのございません時には、両国か何かの昼席ひるせきへ行って、ころがっているんでございます」
若「寄席よせ……、アー成程、先度せんど両国で見たのぼりなどを建てた騒がしいものじゃ。アノ中に何がある」
錦「落語はなしがあり、講釈があり、義太夫がございます。私は主に落語はなしを聞いて笑っております」
若「落語はなしとはどんなことをする」
錦「貴所あなた御存じございませんか」
若「寄席という所へ参ったことがないから左様な物は知らん」
錦「それでは殿様こう致しましょう。私が御療治おりょうじをしながら、聞き覚えの落語はなしを一ツ二ツお聞きに入れましょう」
若「それは一段と面白かろう。肩を揉みながら話してくれ。コレ/\手を取ってやれ」
 錦木は背後へ廻りまして、聞き覚えの落語はなしを一ツ二ツ申し上げる。初めてお聞きになった若殿、可笑おかしい可笑おかしくないの、大層御意にかないました。
若「面白い奴じゃ、斯様かよういたせ。明日あすから外出をいたさんで、昼のうちに読書して、夕方から其方の来るのを楽しみに待っておる。別段迎いは遣らんが、苦しゅうないから、ズット参れ」
錦「有難うございます。お蔭でお華主とくいが一軒えました。つきましては、つかん事を伺いますが、貴所様あなたさまは御当家の御親戚おみよりでございますか」
若「違う/\。家中かちゅうだよ」
錦「ナニ嘘でございましょう。ヘエ真実まったくでげすか……それでは御家中から一足飛びに御大名になれるものでございましょうか」
若「白痴たわけた事を言うな」
錦「なれませんか」
若「イヤあながち成れぬという限りもない。豊太閤ほうたいこうも初めは足軽奴僕あしがるぬぼくであった。それがのちには太政大臣だじょうだいじん御位みくらいに昇ったから成れぬ事もないが、しかしあの頃と今日こんにちとは時節が違う。太平の世の中で、家中から大名になるというは、マァ滅多にないな」
錦「エー、変な事を申しますようでございますが、私どもの支配頭しはいがしら惣録そうろくと申します。本所ほんじょ一ツ目向こう、弁天様のそばに惣録屋敷というのがございます」
若「ウム」
錦「其処そこ毎月まいげつ儒者が出張でばりまして、いろいろなお講義がございます。私どもはヘボ按摩でございますが、私の師匠は毎月まいつき其処へ詰めます」
若「成程」
錦「ところが先日、私の師匠が、人間の身体からだの御講釈を聞いて帰って来て、私に療治を教えながら言うのには、錦木お前も辛抱しろ、行く末は検校になるかも知れない。お師匠さん、冗談言っちゃァいけません。イヤ冗談じゃァない、惣録屋敷の講釈を聞いて来たが、こういう節々の高い、こういう所がこういう肉付きの体格の者は、大名でなければならないそうだ。お前はマァ盲目めくらの事だから辛抱すれば検校になれるかも知れないと、師匠が教えてくれました。それから以来お客様の療治をしながら身体中からだじゅうを撫でてみましたが、とんとございません。ところが、今夜初めて上がった貴所様あなたさまにお大名の体格がございます。しかし体格ばかりあっても家中から大名にはなれないと言えば、儒者や学者でも、盲目めくらばかり相手にするので、馬鹿にして、好い加減なことを言うのでございましょう」
若「イヤ錦木とやら昔からそうは人にあり、人は相にあり、福相でもそのにんの活動が薄いと貧相になる。また貧相の者でもそのじんの働きに依っては、福相にも勝るという。マァその様な事はあるまいが、万一、予にその相があって、大名に乗り出した折には、其方を検校に取り立ててやるぞ」
錦「有難いな。貴所様あなたさまが御大名になれは、私が検校に……真実ほんとうでげすか」
若「武士に二言はない」
錦「貴所あなたにはその相があるのですから、おなんなさいますよ。私も蔭ながら一生懸命に信心を致しております」
若「ウム明日あすは早く参れ」
錦「有難うございます」
 おいとまをして立ち帰りましたが、これが御縁になって、毎晩のように参ってはいろいろな話をするのを若様が楽しみに思し召しておりますと、バッタリ錦木が来なくなった。実は感冒かぜをしくじらかしてドット床に就いたが、平常ふだんが如才ない按摩さんでございますから、長屋の者が見舞いに来る。
○「どうだえ、気分は」
錦「安兵衛さんですか、マァお上がんなさい」
安「イヤー大将座ってるな」
錦「どうぞお上がんなすっておくんなさい。お蔭様で大変今日はうございます。二三日中に月代さかやきってお華主とくいを廻って来ようと思ってます」
安「よしな/\、軽はずみをして再発ぶりかえすといけない。今だから言うが、一時は長屋の者も首をひねった位。若いとはいいながら、マァ/\早くなおってよかった」
錦「それもこれもお長屋の方が御親切ゆえでございます。とりわけてお宅のお内儀かみさんにはいろいろ頂戴物をいたしまして有難うございます。どうぞ宜しく仰って下さいまし。この御恩は死んでも忘れません」
安「そんな事は言わなくってもいい」
錦「親類がございませんから、長らくわづらいでもすると欝々くさくさしまして、いっそ首でもくくって死んじまおうかと……ナニやりゃァしませんがね」
安「当然あたりめえだ、やられてたまるものか。長病ながわづらいといっても二十日はつか一月ひとつきじゃァねえか、気落ちをしちゃァいけねえ。詰まらぬというは小さな智恵袋てえことがある。人は何時いつ何時運が向いて来ねえとも限らねえ、七転び八起きといってな」
錦「七転び八起きといっても私なんざァ生涯転んでばかりいるようで」
安「イヤそうでない。この向こうの酒井様のお下屋敷に角太郎様という若様がある。近所で馬鹿様馬鹿様という悪口をいった」
錦「何故々々」
安「そうムキになって怒らなくってもいい。何とかが鍵に引掛かったように、ダラ/\遊んでばかりいるので、そんな陰口をいたんだが、どうして馬鹿じゃァねえ」
錦「そうですとも、滅法利発者で、時々冗談なぞを仰る面白い殿様で」
安「マァサ、黙って聞きなよ。あの方は御兄さんが、相続人と極まっているから、わきへ御養子にでた。ところがお前、大殿様が御隠居をなさるについて御兄様が御相続なさろうという間際ににわかに御病死をなさった。ソコで二番目のお姫様に御養子をするとなると御親類方が不承知で、今度角太郎様がお乗り出しになって、酒井雅楽頭さかいうたのかみ様、どうだえ大したもんじゃァねえか、そうなると今迄の御家来に馴染みがねえ、人は世話をして置くもんだぜ。アノ清水さんという御用人があったろう。それをお上屋敷へんで、何と可笑おかしいじゃァねえか、御意見番で三百石、昔を忘れて贅沢な真似をすると、清水吉兵衛さんが意見をする役だ。それだから人間ばかりは行く末は分からねえ。お前もクヨクヨしねえで身体からだを丈夫にしなくちゃァいかねえ、しっかりしなよ」
錦「ヘエー、マァちょっと上がっておくんなさい」
安「上がってるよ」
錦「何かね。アノ若様がお乗り出しになったって、お乗り出しになったら大名だろう」
安「大名だろうどころじゃァねえ。大名も大名、酒井雅楽頭さかいうたのかみじゃァ無えか」
錦「真実ほんとうかえ」
安「真実ほんとうだよ」
錦「えらい……、儒者や学者は嘘はかねえ。やっぱり体格に在るんだな……有難い」
安「何が有難い」
錦「ねェ安兵衛さん、お前さんも今言ったが、人は七転び八転びだ」
安「そうじゃァねえ、八起きだ」
錦「ア、そうか。今度お長屋のかたに御厄介になったのは忘れは致しません。七歳ななつの時に目がつぶれ師匠の所へ弟子入りをして、年季が明けて見ると両親がございません。師匠の内儀おかみさんが可哀想だと言って、世帯しょたいを持たしてくれましたが、盲人めくら一人だもんですから長屋の方がいろいろお世話をして下さいました。御恩はたとえ死んでも忘れは致しません。人は出世をすると貧乏時分の事を忘れますが私は決して忘れませんよ。マァよろこんでおくんなさい。今日きょうから検校けんぎょうでございます」
安「オーしっかりしなよ」
錦「全体お上屋数は何処どこで」
安「お屋敷は大手の前だ」
錦「御用人の清水さんも其方そっちへ行ってるんで……」
安「そうだ」
錦「一寸ちょっと行って来ます」
安「マァ待ちな……危ないから待ちな」
 留めてもきません。杖にすがって、大手へ参りますと、赤い御門の御屋敷でございます。
○「コレ/\何だ盲目めくら、堀に落ちるといかない。何処どこへ参るのだ」
錦「少々伺いとうございます。酒井様のお屋敷は此方様こちらさまでございますか」
○「御当家だ」
錦「此方様の殿様に一寸ちょと……」
○「コレ/\何を申す。貴様のやうな者が殿様に御目通りが出来るか、何の用がある」
錦「エーそれでは御用人の清水さんという方がおいでになりますか」
○「いらっしゃる」
錦「その御用人さんにお目にかゝりたいので」
○「きさまは何だ」
錦「ナニきさまだ……、大きな事を言うな、きさまとは何だ、これから検校だ、安く見てくれるな。おめえなんか三両一人扶持さんりょういちいんぶちじゃァ無えか。此方こっちゃァ千両だ。どうだ千両の金を見た事はなかろう。お前の給金を十年貯めたところが千両にゃァならなかろう」
○「何だ大層威張るな、何しに来た。取り次はしてやるが、お前は何という名前だ」
錦「早くそう言やァいいに……大塚から来ました錦木という者で、御用人様へお目にかゝりたくって来ましたと、はばかりだがそういっておくれ」
○「大柄おおへいな奴だな」
 清水吉兵衛のお小屋にこの事を通じると、苦しゅうない通して下さいと言うので、案内につれて来ました。
清「どうした。何か病気で臥せっておったと、そうか。早く知らせてやりたいと思ったけれども、お移転ひっこしや何やかやいろいろ御繁多ごはんたでな。いづれ四五日中に、迎いの者を遣わそうと、最前も御前でお話があったが、よく参った」
 吉兵衛さん早速御前へ出て申し上げると、
殿「アヽ坊主参ったか、直ぐにこれへ通せ」
清「むさ姿なりで参りまして、あまり不躾ぶしつけと存じますが」
殿「イヤ苦しゅうない。大塚におった時同様無礼講じゃ」
 驚いたのはほかの御家来、
×「何だえ近藤」
△「按摩だよ」
×「どうしたのだ」
△「御主君がお下屋敷においでの時分のお朋友ともだちだ」
×「汚ない者と遊んだのだな。モウちっとサッパリした衣服きものでも着て来るがいいじゃァないか」
△「汚ない姿なりで来るのが訳ありだよ」
×「どういう訳だ」
△「大きな声では言えないが、御主君がお小使銭こづかいに困った時に、アノ按摩に借りがあるのだよ」
×「嘘をおきでない」
殿「オ、錦木よく参ったな。おもてを上げろ。不快じゃと申したが、ウーム大分せたな。しかし早速の全快で芽出度いな」
錦「貴所様あなたさまにも御乗り出しで御恐悦申し上げます。少しも存じませんでおりましたところ、只今隣りの安兵衛さんから聞きまして一生懸命で飛んで参りました」
殿「錦木、其方そのほう今日こんにち参ったは初めて下屋敷で会うた折に、予が大名になる相があると申したな、その節約束致した事か」
錦「ヘエ、検校にしてやると仰いましたを楽しみに飛んで参りました」
殿「吉兵衛、彼を検校に取りたってやれ」
 鶴の一声で、お手元金千両下さいまして、たちまち錦木検校と出世を致しました。珍しい出世で……ところがこういう殿様ですから、何から何まで御存じで、折々検校も御前に出ます。
殿「コレ錦木見えたか、吉兵衛の宅へ寄って参ったか」
錦「只今清水様で承って参りましたが、お上には今度御乗馬をお求めになりましたそうで」
殿「ウム南部三春の産で栗毛の良い馬じゃ。今馬場に引き出すから探れ」
錦「何と申しますお馬の名は」
殿「三味線と命名つけた」
錦「何と申します」
殿「三味線」
錦「珍らしい名で……、手前は盲人もうじんで、一向左様の事は存じませんが、しかし名馬で昔から聞こえを取りましたのは、もろこし関羽かんうが乗りました赤兎馬せきとめ我朝わがちょう小栗おぐりの乗りました鬼鹿毛おにかげ、宇治川に佐々木梶原が先陣を争いましたのが、池月、摺墨するすみ神君様しんくんさま長久手合戦の折、召されましたは確か鶴巻」
殿「コレ/\理屈を言うな。大方かわった名であるから意見を申せと、吉兵衛にいいつかって参ったろう。けれども、予が乗るのじゃ。雅楽うた(唄)が乗るから、三味線でよかろうの」
錦「ヘエ成程」
駿「乗る折には曳かせもする、駒ともいい、止める時にはどう(胴)とも申すぞ」
錦「成程、おかみがお召し遊ばすので三味線、もし御家来方が乗りますると」
殿「ウム、ばち(撥)が当る……」





底本:名作落語全集・第一巻/開運長者篇
   騒人社書局・1929年発行

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