大山詣り(おおやままいり)
八代目春風亭柳枝
ェェ、ご機嫌よろしゅうございます。お馴染のお笑いで、ごめんをちょうだいをいたしますがもう、落語ォのほうは、なるべくまァお笑いの多い、お客さまがたにお
差合のないのがまァ一番よろしいとしてございますン。
ただいまの東京、その
頃の江戸でございますン、江戸ッ子、なァんという者がたいへんにこの、
徘徊をいたしましてな、ふた
言めにァ
「ッてやんでいべら棒め、江戸ッ子だァッ!」
なァんてんで江戸ッ子を振り廻しておりましたが、もっともォォ江戸ッ子と申しましても全体ではございませんでいろいろの商売がございますんで、主にこのォォお職人衆勇み肌、こういったようなまァご
連中のことォいったんでございましょう。
ェェ夏場ンなりまするてえとこういうご連中が、お仕事が暇になる。
「どうでいおい、
何処遊びに行こうじゃァないか」
なァんという相談がまとまりますが、ただいまと違いましてその頃、遊山の場所も少のうございまして、たいていはもう
「どうだいお富士さんへでも行こうじゃァねえか」
「大山さまィでも参詣をしょうじゃァないか」
と、信心半分遊山半分、まァそういう
所へお出かけんなります。なかにゃァ、“
積金”なんてえものがしてございまして、“講中”なァんてえものがございましてな―神田講であるとか勇み講、そういったようなご連中が、団体を組んでェェお詣りに行くというんですが、おなじこの、お山でもお富士さんのほうァ神が
穏やかでございます。これェどういうもんですかなァ、あのォ、大山さまのほうは神が荒いんでございます。あれはご承知でもございましょうが
荒神さまとしてございます。その代わりにどんな失礼な恰好をして
登がっても罰があたらないんだそうです。
威勢のいいご連中なぞァくりからもんもん、コォ
褌一本で腰ィ
鈴を、下げまして“
六根清浄”と、お山をいたしますが、そういう
恰好をして
登がっても決して罰はあたらないんだてェ、たいへんもう威勢のいい、神さまでございます。
そのためにこの間違いというものが絶えないんです。血をみなくっちゃおさまりがつかないという。
「おゥ、俺ァなァ、
今年ゃ……ァ行くなァやめるから―え?
嫌だよ俺ァ
毎年毎年、お
前達に
心配かけさせるんじゃァ俺ァ
嫌だ。これ俺ァ
今年や行かねえから、お
前達ン仲間から、なんだァ世話人、誰か
見っけて行ってみたらいいだろう」
「冗ォ談いっちゃいけねえなにをいってるんだよォ、
吉兵衛さんお
前さんが行ったってねェあァんな騒ぎが持上がるんだよ、こちとらの仲間からどんな気違いがとび出すかわからしません。すいませんが行っておくんねえ、お願ェだァ。その代りねェ
昨日ねェ、あっしの
家ィみんな集めたんで。そいで『
毎年毎年、吉兵衛さんに、
心配かけるんじゃァ申しわけがねえから、今年は
心配かけねえッこにしよう』。ああしたもんだろうかこうしたもんだろうかいろいろ相談をしてねェ、
決めしきてんでどうですゥ、なんでもちょいとでも腹ァ立ったら
二分出しっこてえン、ね? 暴れた奴ァ
髷ふんだくっちまおうッてのァどうですゥ?」
「なんだたいへんな決めだなァ腹ァ立ったら
二分かァ、暴れたら髷ェふんだくっちまう? 坊主ンなろうてえのか? なんでも坊主ンなっていいわけしようてえのァよくせきの
事ッた。よし、それほどまでに
お前達が決めたならまさかにァ間違ェもあるめェ。俺だって
毎年行ってるんだ―なァ今年だけ行かねえてのァ気持が悪い。よし、じゃァ行ってやろう」
「行ってくれますか? どうもありがとうがんす。おゥ、吉兵衛さんが承知をしてくれたぜ―さァ、手を締めようじゃァないか」
『よいよいよいのよい(と手を打って)』。同勢が二十人ばかりでもってわあーッと出かけたン。
ェェ誰しもこのォォ
二分取られんのァ
嫌ですわ。
二分と申しあげるとただいまのお金でいうってえと五十銭。もうお金の仲間に入っちゃァいませんが、昔はご承知の通り、二分といえは
大金でございます。なにしろ、十両盗めば、首がとぶといった時代でございます。千両あれば
分限者です。千両分限という、いまの千円とはちょいっとわけが違いますんで。ですから誰しも、
二分とられんのァ
嫌ですから、腹を立てない我慢をする。
それから
頭髪でございますねェ、いまァ坊主ンなったって驚きゃァしませんが、その時分ァこの
丁髷てえものォ
結ってたン―
髷を
結ってた時分ですから、坊主ンなることを非常に
忌み
嫌ったもんです。どんな悪いことをいたしましても
「この通り坊主ンなっていいわけをしてます。どうぞご勘弁を顧います」
といえば、たいてえな罪はそれでもって
償いがついたてえくらい、髪の毛てえものをたいへん大事にした時代ですから、誰しも坊主ンなるのァ
嫌ですから、我慢をする。
なにごともございませんで無事に下山をいたしました。
神奈川に
大米屋という定宿がある。ここでもって一杯飲ンで
「こんな結構なお山ァしたこたァねえやなァなにごともねえてんだ―決めしきがきいたんだァな、
明日ァ江戸ィ
入るんだ―さァおゥ、
一杯いこうじゃァないか」
と、盃が廻ります。
“酒は気違い水”とはうまくいったもので、お酒ッてもなァ
人の気持を
変えるもんでございますな。あれはこの、
陰にはじまって、
乱に終るもんだそうです。
“
酒飲は奴豆腐にさも似たり、はじめ四角で末はぐずぐず”なんてえことォいう。はじめはな、
袴なんぞォはいてらっしゃるおかたァご宴会で
「はァ、はァッ」
なァんてやってますが、だんだんいい気持ンなってくると
体がくずれてくる。
「(呂律あやしく)もう一杯
注げやァい」
なんてえことんなるんでございァすが、あれ
乱に終るもんだそうです。
でいろいろお
癖がございますなお酒にも……。あのこれは
上戸と
称えてございますが、なかにはにわとり上戸なんてたいへんにお賑やかなやつがある。
「はァ……ああ
左様ですかあんまり戴けないんですがではせっかくですから、(盃を前へ出して酌をしてもらう)おおッとォ……(鶏の鳴声の調子になって)おおッとッとッとッとッとッとッとッ、おけッこォ」
なんてこれが鶏上戸てんでいろいろそうなるン。
なかにこの、たいへんにぱッぱする―これァもう
我人共にお酒を戴くてえと気が大きくなる。
「(呂律あやしく)さァ俺ァお
前達に
引ェとらないよ、紙入れごとあるからどうでもしてくれえい」
なんて紙入れェおっ
放り出しちゃうン。
開けてみたら十三円しか入ってなかったなんて……お酒ッてのァいいもんですゥ。
なかでいちばん良くないのがこの酒乱でございます、これはいけません。
「座ってくれェい!」
「ほらはじまりやがった。なんだ?」
「なんだじゃァねえ喧嘩だァ」
「弱ったなァ、え? いままでうまくいったんじゃねえか。
明日は江戸へ入るんだ。なぜ我慢をしてくれねえ」
「だから我慢ができるんならするんだよ我慢ができねえから腹ァ立てるんだよ―おゥ、
無料じゃァないよ、決めしきだ俺ァ、
二分出そうじゃァねえか」
「俺がもらったってしょうがねえ―」
「いえェとっといてくれェいその代ァり、あっしァその
代ァりねェ、
二分だけ腹ァ立っちまうから」
「どうでも勝手にするがァいいやな」
「おまはんあの二階の騒ぎィ知らねえのかい」
「知ってるんだがいま勘定してて手がはなすことができねえ。喧嘩の相手は誰だ?」
「熊の野郎です」
「困ったねェ相手変って
主変らずかァ、喧嘩ッてえと必ず熊だ。
一体どうした―」
「まァ聞いてくれどっちがいいか
悪いかァ。あっしが湯ィ
入ってたんだ―ところが熊の野郎が
喰い酔って
入って来やァがった。『おい待てやい熊ァ、江戸の湯と達うんだァ、田舎の、宿屋の湯なんてえもなァ
狭ェんだァ何人も
入った日にゃァ湯はざあざあこぼれちまう。
後ィだって
入る野郎があるんだァ、湯がまるっきりなくなっちまうじゃねえか、いま俺が出るから待ちねえ』てえのに得たねえあん
畜生、
入て来やァった。それもいいけれども毛むくじゃらの足をこう
体へおっ
付けやがった。気持ァよくねえねェ、『なァにをしゃがんでえ』ッてんでひょォいと突いたら、
突所が悪かったんですねェあァん畜生ァぶいッとやりゃァがったン……なにしろ湯ンなかでしょ?
他所いかねえんだよこいつがさァ、ぶくぶくぶくぶく、浮きあがってね、あっしの鼻ッ
先でこいつがこうォ
開きゃァがったン……なにしろ
喰い酔ってるからたまらねえや
臭ェの
臭くねえの。『なんだってこんな真似をしゃがんだ』ッたら奴のいいぐさが癖にさわるじゃァねえか、『俺はなにも悪いと思ってした
事ッちゃァねえ』とこういいやがン、『いらねえ
物だから捨てたんだ』とこうぬかしゃァがんあん畜生……ね?『捨てた物ォなにも酔狂に拾って嗅ぐこたァねえ』とこういやがんだよ。おまはんの
前だがあんな物ォ拾って嗅ぐもんじゃァないよ。『生意気なことォいいやがんな』と小桶で殴ろうとすると、奴のほうが力があるじゃねえか、あっしの小桶ェ“しったくり”やがって、
頭ンとこォ七つ殴られちゃった」
「だらしがねえな、殴られて勘定してるべら棒もねえじゃねえか」
「痛ェから忘れねえや。それからてえもなァさんざん暴れやァって手のつけようがねえ、とうとう、ふんずり返って寝ちまいやァったんで。あっしも決めしきで、
二分出しやした。その
代り奴を坊主にしますからそのつもりで―」
「おい、ま、待っとおくれ、え? 熊を坊主に? ああァそれだけァ勘忍しとおくれ、お願いだ。そらァわかってる―あいつが
悪いのァわかってる。けれど皆さんのかみさんにみんな頼まれて来た『今年だけは間違いのないように』と俺ァいわれて来た。俺があやまるまァまァまァまァわかってるよ。熊も悪いが、みんな酒の
上だ。酔いがさめたら俺がよォーく意見をいう、今日のところァ俺に免じて―」
「いやァ勘弁できねえッ! 他の野郎なら勘弁するが熊だけに勘弁できねえ。ま吉兵衛さんお
前さんに
心配ァかけねえ、俺達にまかしといてくんねえ」
と、気の立っている連中ですからたまりません。中にァこういうことがありゃァいいてんで
剃刀を
呑ンで来た奴があろうてン……用意周到ですわ。
熊公先生遠乗りィくらった馬ァみたいに、泡ァふいて
“くゥゥー”―寝てますン。みんなで面白半分寄ってたかってくりくり坊ちゃんにしちまいやがったン……。上からそォーッと蚊帳をかぶせといたン。
あくる朝は
早立です。二十人
前お膳が出ます。“一人
前あまっているてえとことが面倒だ”てえんで、誰かがちょろまかしちまいやがったン。わあァーッてんでみんな、
早立てんで立っちまいやがったン。熊公先生
一人寝こかしですわ。
でこういう宿屋ァ普段あまりお客ァございません。ために女中さんを沢山おかないのですが、
山時分になりますてえとにわかに、女中さんを募集しますからな、草取り
女さんやなんか……ああまァ男を男と思っちゃいませんや。
「お
松ッつァまァ
何してるだァそこでェ? お
喋りばっかりしてては……いがねえぞォ。あとからお客さまァ来てひゃァ困るでねえか。おかみさんに叱られるぞ。
早く掃除ぶたなくちゃ駄目だて。
何だって? まだ客人がいるってかね? すんな馬鹿なこたァねえ江戸のお客さまァはァ
早立だァね、あ? この部屋だんべ? 見なせえ蚊帳がひんまるめてあるだよ。江戸の客人
嫌だのォすぐに喧嘩おっぱじめやがってよォ、
昨夜の騒ぎ
何でいありゃァ?
何だってまァこんな
所ィひんまるめとくだァね……こんなにしなくってもよかんべ(と力を入れて蚊帳を引張る。驚いてぱんと手を打って、床をばたばたやって逃げようとする)」
「にげなくってもいい、化物ではねえさァ
坊さまがとび出した
坊さまが……。
昨夜はァ江戸のお客さまんなかに
坊さまァいなかっただァな?
何で
坊さまとび出したでェ?」
「ああお
松ッつァまァこの
人でィ
昨夜暴れた
人。やそうでェお
尻におかめの画の彫物がしてある―これが証拠だァね……汚ねえ
尻だねェこりゃ……
昨夜暴れたときにはァこの
人ァ
丁髷あっただな?
何だって
坊さまんなっちゃったでィ? ああァ自分だけ
坊さまではこッ
恥ずかしいちゅうて、
鬘かなんかァひっ
被って来やがったでィ。暴れた拍子ィどっかふっとばしちまいやったなこりゃ……もしお客さま起きとくんなせえましィ……
坊さまよ、片づかなくっていかねえ起きとくんなせえましィ……お客さまァ―」
「うるせえやいこん
畜生めェ……わかってるよォ、わかってるよォ……(と大きく
伸をして鼻の頭をこすり)ああァ、おお、おお―驚いたなんにも知らねえんだどうも
体が
打たれたようだおお痛ェ。どうしたんだなァ……があがあ起こすねえィ、こん畜生めェ、ッてやんでィ、寝てるときにお
前魂
遊びに行ってるんじゃァねえかァ。ぶるるるるーッと起こすから魂が入る
所わかんなくってまごまごしてるじゃねえか……うまくすゥーッと
入ったからいいんだァ、
入らなきゃのびちまうじゃねえか……え? そォっと起こせ……客じゃァねえかァ、があーッと起こしゃァがんこん畜生……けえッ、座ってものをいえェ座ってェ……行儀を知らねえ女だァ……ッてやんでなにィ笑ってやァんでィ……寝起きの
顔ってお互にいいもんじゃァねえやァ、
手前の
顔ァ見ろィ、
雌雄の区別もつかねえ
顔ァしてやァン……(煙草を吸って大きくはき出し)なにを?……(煙草を吸いながら)さばさばしたでしょう?……坊さんだ? 坊主なぞいやァしねえじゃねえか……なにお
前さんが坊さんだ? おい変なことォいうねえィ、お山でもってェ
体浄めてるんだ、頭に毛のある坊主ッてえのがあるか? なにを? 毛がねえから坊主だァ? なァにをいいやがんでィべら棒めェ、(ぽんと灰を落とし)こちとらァなァ、江戸ィ
入ってみろォ―なァ、髪の毛ときた
日にゃ自慢……(と頭に手をやる。常がないので信じられないといったように、頭を三度なでて)おゥおゥ
女中やん
女中やんおい笑い
事ッちゃァねえおいおい、ちょいと見つくれェいおい、これ
俺、俺の頭か俺の頭か?」
「あァら
他人の頭か
自分の頭かわからねえかこの
人……ぽかりとすっ
叩いてみろ、
痛かったら
手前の頭だ―」
「なにィいやがんでィ……おい
女中やん、俺
昨夜暴れやァしねえか?」
「あァれッ?!
知らねえのかね? お
松ッつァんこの
人知らねえんだって。酒なんてなええもんだァねェ。屁がどうとかこうとかして暴れたどこの騒ぎでねえだァ」
「そォかちっとも知らなかった。こん
畜生たくらみやがったな俺が酒の上が悪いてえのォ、知ってやがってがぶがぶ飲ませやァって、みんななんだろうそこいらで笑ってやァんだろ、なにィ?
早立だおゥ? 立っちゃったのか?俺寝こかしかい?
女中やだってそうじゃねえか気がきかねえじゃねえかァ、こういうところへ奉公してるんだ『
一人前膳があまってますから、もう
一人』―うん、みんな綺麗ンなってました? おォやおや手を廻しゃァがったねェ……これ仕方がねえ、
後の祭だァ。すまねえが膳を
一人前こしらいてくれェい、そいから一本
爛けてもらいてえ―
通い
酒だ気持が悪くってたまらねえんだァ。あッ、
女中やん
女中やん、すまねえがねェ、駕龍を一丁頼ンでくんねえか。江戸まで
通しだァ、
酒手は
十分に出すよ達者な野郎を、頼むよッ」
なにを思いましたか奴さん、駕籠を一丁頼ンで、まさかにゃ、坊主頭じゃ、江戸ィ入れません。手拭でもって
米屋ッ
冠てえやつィ突ッ込ンで、腹ごしらいをいたしますと
「お客さまァ、駕籠の仕度ァできましたよ」
「ありがとうよ」
顔を見られちゃァちょっと具合が悪いんで暑いのに両方の
垂をおろして、酒手はうんと、はずんでありますから、十分に鳴きをいれまして
「ほゥほゥほゥほゥほゥほゥほゥ」
みんなを突っきって、先へ江戸ィ
入っちまいやがった
「いまァ帰って来たぜェ」
「ああらお
帰ンなさい。なんだお
前さん駕龍で
帰って来たのかい? 間違いでも―」
「いいや―ま、間違い―ああいいんだい。いいんだいいんだいいんだいいんだい。あとで話しゃァわかるんだ―(駕籠屋に声を張って)ご苦労さまァ。え? なにしろお
前通しで
帰って来たんだああァ肩ァ張っちゃったよどうも。いや
銭ァすんでるんだ。そいから、吉兵衛さんのかみさん来なかった?」
「いままでお
前さん話ィしてたんだよゥ、で今年はねェ
高張提燈が、
二張ばかり余計にできたの。あのォ…
鮫洲あたりまで出迎ィに行こうと相談がまとまって、これからみんなんとこィ知らせに行こうと思っでさァ」
「それいけねえ、無駄ンなっちゃったァ。そいからなァ、山に行った
連中のかみさんの、
顔ァわかってんな? 呼ンで来てもらいてえ。『ちょっと話がありますから』ッて、ああ。『手間ァとらせませんからすぐに来るように』ッて……(声を張って)早くしなよォッ。今日ァおしゃべりァ抜きだよォッ」
「ご苦労さま」
「ご苦労さま」
「なんだってねこ熊さんが先ィ
帰って来たんだってさァ」
「そうなんだってさァ、え? また間違いでも起こったんじゃないのかァい? 決めしきなんて
当ンならないんだよゥあの気の荒い
連中だからね。あら……ちょいと熊さァん、手拭かぶって座ってるよ。(声を張って)まァ熊さんお
帰ンなさい。知らないもんだから迎ィにも行かないですいません」
「(声を張って)あァら熊さんお
帰ンなさい」
「あァら熊さァんお
帰ンなさい……あァら熊さんあらくまさん」
「俺
嫌だなァ……そんなこといっちゃ
嫌だよ……(声を張って)すんませんねェ、あっしの顔のわかるようにずーっと並ンでもらいてえんだへえィ。いやいや、話は順にいたします。そいからかぶりもんだけちょっと失礼さしてもらいます、あとで話ァわかったらとりますから。いやこんな結構なお山ァしたこたァねえ、何事もない無事に
下山とたった。神奈川の、
大米屋てえ定宿、知ってやすか? あすこで
一杯呑ったんだが、誰がいい出したんだか知らねえが『どうでい
草鞋の、
履きついでだ。金沢八景見ようじゃァねえか』、『俺も行こう』『われも行こう』、さすがァ江戸ッ子だァ、あとィ
引く野郎ァ一匹もいねえ。あっしゃァ、ちよ…っと気にかかったことがあんでやめようと
思ったが俺だけ
一人よすってえわけにいかねえ。いま考ェてみたらさすがに船頭ァ
商売人だァ、『お客さまァ、
日並が気に人らねえ、やめてくれえィ』、『なァにをいいやがんでいべら棒めェ江戸ッ子だ』と、江戸ッ子を振り
廻してみたが水の上じゃァしょぅがねえ。ぽつッと出てきた、雲。『ああえれえ雲が来たような』、みるみるうちに真ッ黒。墨を流したよう……そのうちに風が変るてえと
疾風てえやつだァ、ぽつりッと降ってきた雨はまるで
細引だァ。こいつがお
前盆をひっくる
返したよう、ざあァーッてえとお
前一寸先ァ闇だァ。
一生懸命ンなって舟を
操ってみたが、いくら腕が達者でもよ、乗ってる奴が大勢で舟が小せえときてるんだ、操りきれるわけのものじゃァねえ。横波をひとつ
喰うてえと(ぽんと手を打って転覆する仕草)舟ァがばりと……ええ、ひっくる
返った……(声をひそめ)ひっくる
返っちゃッ……あっしゃァ夢中ンなって
板子一枚抱ィて、飛込ンだまでは知ってるんだがあとは夢中。我に
帰ってみると知らねえ
顔ばっかり並ンでるんだ。『どうしたんです?』ッと訊いたら『ああお
前さんぐらい
生命冥加な
人ァない気がつきなすったのか、何人乗ってたか知らねえがいまの
疾風でもってみんな行方知れず、お前さん
一人この浜ィ打上げらいたんだ』ッといわれたときに俺はぞォーッとしたねェ。(すすりあげて)『いまがいままでひとつ、釜の
飯を
喰ってた奴が死ンじゃってよォ、あっしだけ“へえ、生きて
帰ってめえりました”と、どの
顔さげてお
前さんがたに顔向けができよう、俺ァ死のう』といったァ。ところが中の
年齢かさの人が『そらァ無理ァねえ、けれどおまはんが死ンだ
日にゃァこのことォ誰が、江戸ィ通じる者があるんだァ。江戸じゃァかみさんだの子供が“今日は
帰るか
明日は
帰るか”、首を長ァくして待っているんだ、このことを話をして、死ンだっておそかァなかろう』といわれて、あっしァ
面をかぶって
帰って来た。お
前さんがたにあわせる顔がござんせん。
亭主野郎ァみんな死ンじやったんだ。そのつもりでいつくんねえィ」
「(袖で顔をおおって泣出す)えーんだからいわない
事ッちゃァないじゃないか。あァんないい
亭主を持とうったってもう持てやァしないよッ。あたしの腰巻まで洗ってくれるんだ」
「馬鹿だねこの
人ァ……お花さん、くだらないことォおいいでない―三人寄りやァ
人中だよ、え? 心配おしでないよッ、え? あの熊さんのことなんてえの―ほら熊ちゃら熊てんだよ。“せんみつ”てえんだよッ、
本当のことォありゃァしないんだよ。(きっとなって声を張り)熊さァんッ、いいかげんにおしくだらないことォいってさァ、あたしゃァねェ
お前さんそういう手はちょいちょい
喰ってるからなんとも思わないよ、可哀相にお花さん
年齢が若いから泣いてるじゃないか。くだらない冗談いってもらいたくないね」
「おゥ、お
光ッつァん偉ェことォいったねェ、ほら熊ちゃら熊だァ―あっしゃ“せんみつ”だよ、普通の冗談たァわけが違うじゃねえか、
死生の冗談だァ。俺だっていいたかァねえや。かみさんにァすぐ
暇ァやっちまわァう、
俺ゃァ、高野ィ登ってみんなの菩提を
弔ってやろぅてえんだ。なに嘘だ? これを見ろ」
と、はじめてここでもって手拭を、とって坊主頭をぽかぽかひっぱたいてみせた。
『ほォらごらんなさいなァ
見栄坊な熊さんが、坊さんにな
るくらいだから本当だわ』てんで二十人足らずのおかみさんが“うわァー”ッてんで、ゥゥ泣き出したんですから実に賑やかです。ときならないジャズバンドがはじまりましてな。
「おゥ、ど、ど、
何処ィ行くんだお花さァん、え? なにィ? うん……井戸ィ飛込ンで死ンじまう? ―ああ無理ァねえ無理ァねえ、無理ァねえ無理ァねえ、なァ、惚れ合って夫婦ンなった亭主野郎が死ンだんだ。生きちゃァいられめえ。けどォ死ンだってしょァねえじゃねえか、な?“死ンで花が咲くかいな”、死ぬ気持があったら坊さんになんな尼さんに……菩提
弔ってやんねえ、亭主ァ
喜ぶぜ」
「じゃァあたしが坊さんなると
家の
人ァ喜ぶか―」
「あああ死ぬよりよっぽど喜ぶ。うん、坊さんになる? 偉いッ!(手をぽんと打って)みなさんお聞きなすったか、え? 偉いねェ、いちばん
年齢が若いんだよ、こんな中で……それが尼さんなって菩提を弔おうってんだ、できる
事ッちゃないよ、なァこの頃は薄情の世の中だァ、
亭主野郎が死ねばよォ、若ェのかなんかァ
引ッ張り込ンで
乳繰り合おうてえ世の中だ。それをこの若さに坊さんになろうて偉いもんですよ。さァさァさァそぅと決まったら
早くこっちィ来い、え?
帰って来るといけない―(あわてて胡麻化し)いえなァに―ンな事ッちゃァないン……なァ、おっかァ、そのなにィ、桶ン中ィ水汲ンで―(桶を受取って)おいきたどっこいしょッと。そいからなんだよ、そのォ、
剃刀と
鋏持って来ォい―いやァぐずぐずいうこたァねえやィ。さァさァさァこっちィこうなァ……ああこういうこたァ早いほうがいいんだからな、あんまり泣くってえとなァ、(扇子を剃刀にし、左手の甲にあてて剃りながら)仏が浮かばねえてえからなァ―ああァこの
身空に、坊さんになるなんてのァ気の毒だねェこりゃァどうも……しかし源坊はいいかみさん持ったねェ貞女節女烈女てんだからなァこらどうも……ええェ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
「まあァお花さんは偉いねェ、ンな若いのに坊さんになるなんて……(涙ぐんで)熊さんあたしも
家の
人のためだから坊さんにしておくれな―」
「お
光ッつァんお
前さんも? そうしてやってくれェい、なァ、
幾歳何十ンなっても
情に
変りはねえ―吉兵衛さんも大喜びだ、なァ、さ―え? お
前さんもお
前さんもお
前さんも? じゃ全部これみんなァ男?!みんな坊さんなんの? ありがてえ(と手をぽんと打って)、さすがァ俺の友達のかみさんだ―よくその気持ンなってくれた。ありがとう、そうしてくんねえお願ェします。おゥおっかァやァ、とてもこれだけ
一人じゃァ坊主にしきれねえからなァ、床屋行って、
下ァ
剃り二、三人呼ンで来ォい、ああ。剃刀一丁ッつ持って来ォいッて……そいから忘れずに
砥石を持って来るように、そいってくんなよッ。みなさんすいませんがねェこっちで
頭髪ァほどくの
面倒臭ェから、あのォ自分で
頭髪ァほどいてねェ、すいでそのォォォ、
四斗樽ン中に水が張ってありますから、あん中ァ頭みんな突ッ込ンでってくれ」
ッて
酷い奴があるもんで……。
みんなのかみさんを(力を入れて)綺麗ェにくりくり坊ちゃんにしちまいやがン……。どこで借りこんできたか大きな
敲鉦、これをかんかん叩きながら
手前が音頭をとって百万遍はじめやがったんです。
こっちゃァそんなこたァ知りません。神奈川から、その頃ォォ、ちょうど、なんでございますなァ、
八ツ
山辺、あすこまでは楽な道中だそうでございァす。
“八ツ山下の茶屋女”、
投節の文句にも残っておりますが、綺麗にお化粧した姐ちゃんが客待ちをしてます。ここで一杯飲む。飲めない者は、お茶でも飲ンでお菓子をつまんで出迎えを待とうてんですが留めちゃったから出迎えが出て来ませんや。
「おォい出迎ェなんぞ来やァしねえじゃねえかおォい……なにをしてんだなァ
本当に話だけなんだよォいつも決まってやァんだよ。おォい
天道さんが
顔ァ
引ッ込めちまうんだよォッ、さァさァさァ勘定ァすんでるんだ―いつまで飲ンでるんじゃァねえ。なァ
酒飲ァ
尻が重くってしょうがね
えどうも。さァさァおみこしをあげて、さァ出かけようじゃァないか」
と、“男は
裸体百貫のかけ念仏も向う見ず”、清元の“山
帰り”てえ書物にもございますが
勇みなもんです。大森細工かなんかを、肩ィ
引っかけて、
新道までやって来たァ。
「なァこォんな結構なお山ァしたこたァないよ、うん。
第一熊公を坊主にしたのが気持がよかった。ふだんから癪にさわるんだあん畜生ァ……え? 頭
抱ィてしょげてやァるよきっと。
顔ァ見てえやなァおゥ……。おゥ、みなさんちょいと待っとくんねィここァ熊公の
家の路地でございァすがへえ。あのォ、かみさんにァ
罪科ァねえ、
心配するといけねえから、ちょっとおくれるてえことォ、吹ッ込ンどいてやりァすからァ、すいませんねェちょっと待っとおくんねえ。おゥ、与太ァその、大森細工持ってェおゥ、源ちゃん一緒に行けやァ。な? ここの、路地だったなァ熊公の
家ァそうだなァ? (節をつけて)くまこおの家は……このォ……(吹き出して)おい熊公の家ィ百万遍やってやァら……おかしなもんだねェ、亭主ァ坊主ンなって
嬶ァが家で百万遍やってやァる……ものてえな因縁だなァこりゃなァおい……(覗いて)おやッ? おい熊の野郎が音頭とってるんだよおいッ? あァん畜生先ィ
帰って来やァった。あッ、さっき俺達突ッ切った駕篤があったなァ、この
暑いのに両方の
垂ェおろしてやァった。あん畜生ァ
通しで
帰って来やァがったんだ馬鹿だねェ
銭を使いやがってあの馬鹿野郎……たいへんに坊さんを集めましたねこりゃァ……えらい坊主ですよ……
何処からこんなに集めて来やァがったんだろう? おいみんな尼さんだよこりゃァおォい! おもしろいねェこらァ……
服装がおかしいやみィんなまちまちじゃねえか……おい源ちゃん源ちゃんッ、あのォ
鼠不入の脇でもって眼ェ真ッ赤に泣きはらしてんのァお
前のかみさんじゃァねえかいありゃァおォい……お花さんによく似てるよ」
「冗ォ談いうない俺の
嬶ァが坊主ンなるわけェねえじゃねえか。いちばんの
丸髷かなんかで赤い
手絡をかけて、『おやァ、お
帰ンなさいよォ』ッてなこと―」
「わかったよ―よォく見てやってくれェい」
「そうかァ?……(覗いて)ああァ俺の嬶ァだ―」
「そうだろォ? よく似てるからね……ああ吉兵衛さんとこのお光ッつァんもあすこにいるよ。(泣声になって)ああ俺ンとこの塀ァがあすこにいやァがン―(泣きだして)
嫌だ
嫌だ
嫌だ……(声を張って)大変だァーい、みんな来ォいやァーい」
「(片手で拝み片手で鉦を叩き、にやにや笑いながら)
帰って来やァった
帰って来やァった―ありがてえありがてえ……ご苦労さんですねェ、
一生懸命に菩提
弔ってるんだが、やっぱりお
前さんがたに気が残ってるんだ。迷って出て来ましたよ―」
「冗談いっちゃいけないよこんなに一生懸命にお
前さん、(すすりあげて)お念仏を唱えて―すんな馬鹿なこと……(亭主の姿にびっくりする。涙声で)あらまったくだよ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、どうぞ
頭髪ァ見て浮かんでおくれ―もう決してこれからは亭主ァ持たないんだから、心配しないで浮かんどく―」
「なにをいやァんでィこん畜生めェ……なんでィあッ……なにィ? お、お、俺達が幽霊だァ? 足のある幽霊があるかいこん畜生めェ。
一体どうしたんだよゥ? うん……みんな? 金沢沖でもって舟がしっくる
返って死ンじゃったって?……誰がそんな馬鹿なことをいった誰が馬鹿なことを? ああ熊公笑ってやァらあん畜生……もう少し
前へ出ろ、な?
手前は
決めしきで坊主にされたんだ。(べそをかいて)それをなにも
罪科のねえ嬶ァまで坊主にされちまって(と泣き出す)」
「馬鹿野郎、泣いてやァらえッへッへッへッへッ、うゥい、いい気持だねェ。当分
生えませんよこりゃァ……なァ、え? どうです、うゥんと腹ァ立ってくれ構ァねえから……なァ、(きっとして)
草鞋を脱がねえうちァ旅先だァ、さァおゥ、みんなからァ
二分ッつもらおう―」
「おッ? (あわてて口を押え)わッ……わァおいロがきけねえじゃねえか誰だいこんなことォ決めやがったなァ……おい吉兵衛さん、なんとかしてくれェ笑ってねえで」
「まァどうしたてんだ―なにがなんだかさっぱり様子がわからねえ。おゥこれこれこれェ、誰だ誰だそのォ
溝板なぞォ振り廻してんのァ? 静かにしなくちゃいけねえどうした―おやおやおやおや綺麗だ綺麗だ、
冬瓜船がついたてえのァこのことォいうン……青々としとるン。
家の
婆ァまでいいいけ
年齢をしやァがって、熊公の
洒落ンのって坊主ンなりゃァがって馬鹿婆ァめ……いまさら頭隠したっておッつくか。お
前はいちばん
年齢嵩だァ、よく考ィてものォしろ考ィて馬鹿婆ァめ。あッはッはッはッはッはッはッはッ、しかしみなさんの
前だが、こんな目出たいことはないねェ」
「冗ォ談いっちゃいけねえ気でも違ったんじゃねえかい吉兵衛さんおォい、しっかりしろ―なにが目出てえんだい。嬶ァ坊主にされてよ、その上二分ッつとられて、なァにが目出てえんでい」
「だって考ィてごらんな、お山が無事にすんで、
家へ帰って来てみな、みィんなお毛が〔お怪我〕なくってお目出たい」