野晒し(のざらし)

八代目春風亭柳枝

 ェェおあすび場所の多い中でございます。お足労はこびを頂きまして、厚くお礼を申しあげます。どうぞ定時までごゆっくりとお遊びを願います。
 今晩は円朝まつりという大師匠のお祭りでございます。何かちなンだお噺をということでございますが、あたくしはひとつ、では今晩お馴染でございますが『野晒し』をお伺いしようとこういうわけでございます。しかし 『野晒し』という噺は皆様方にもたいていはもうお馴染でございますが、しかし本当はこの『野晒し』てえ噺は、その時分には、この凄い、この怪談噺だったんだそうですな。それを初代の円遊師匠が、かように滑稽に直していたしました。それをあたくしたちが、まァ、お取次ぎをするだけでございますんで……それにこの寄席でございますと、大抵はもゥお時間がございませんから、あごへ、へえ、針を引ッ掛けて、それでおしまいでございますが……あたくしせんだって或るお客様に言われましてな
「君、なにかい? あの『野晒し』てえのは、あれが落ちかい? あの先はないのかい?」
 と訊かれたことがございますんで……。
「いえ、そんなことはございません、落ちはございます」
 と申しあげました。今晩はひとつ『野晒し』の落ちまでらして頂きますんで……。
 ェェ落ちはあまり申しあげない、というのは、ちょっとお解りにくいのでございます。まァ今晩のお客様はご通家つうかでいらっしゃいますので、皆様もうご承知でございますが、もしもご存じないお方がいらっしゃるといけませんので、ちょっと失礼でございますが、まァ申しあげさして頂きますが……この浅草に雷門、あれから南千住へ行きますが、あの電車通りでございます。あの停留所に花川戸、山の宿しく、それから吉野町という停留所がございますんで、以前あすこに、ま、ご年輩のお客様はご承知でございますが『新町しんまち』と書きまして新町しんちょうという停留所がございまして、今はもうなくなっちまいました。町名もないようでございますが、新町しんちょうという所がございます。それにまた、あすこに太鼓屋さんがどッさりございましたんで……太鼓屋さんは今、二三ございますようですが……太鼓の皮は馬の皮でございます。それに幇間、太鼓持ち―これを一口に『たいこ』とこう言いますんで……。太鼓持ちのことを“たいこ”、太鼓の皮は、あれは馬の皮でございます。それに新町という町名と、この三つだけをちょっとお覚えおきをお願いを致しておきますが……。

 ェェお楽しみということをよく申しあげますが、どなたにもお楽しみてえものはございますな。人間と生れましてお楽しみのない方はございません。稼ぐばかりが能ではございませんで、やはりご慰安というものがなくちゃァ、稼ぐ張り合いがございません。しかしこの、道楽てえと非常に人聞きが悪いです、道楽てえとなァ……。
「あの人は道楽もんです」
 これァよくない。
 このごろの言葉ではこれを趣味と言う……いいお言葉でございますな、趣味……。
「あたしは競輪が趣味だねェ」
「僕は麻雀が趣味だよ」
「読書が趣味……」
 いいですねェ、趣味てえのは……。
「あたしは掏摸すりが趣味だ」
 これは趣味には入りませんが……いろいろお楽しみがございます。
 なかで一番いいお楽しみが釣りでございますなァ。お客様の中にもお好きな方がいらっしゃるでございましょう。われわれ仲間にも好きな方がいますが……釣りの所為ために金馬師などは、怪我をしたような騒ぎでございます。まァお気を付けて釣りにいらして頂きとうございますが……。
 釣ってる間は無念無想、何の考えもございません。つむりのために大変よいお楽しみでございますが、あの釣り師てえものは面白い気風を持ってるもので、ご自分で釣り場をお探しになると、鬼の首でも取ったよう、ご自慢でございます。
「(扇子を右肩に釣り竿を担いだ様子で)あ、何処どっか釣り場を探しましょう……いやァ他人しとの釣ってる場所ところは面白くない、なァ、何処か釣り場をね、探して……あッ、こういう場所ところだ、どうです? 気が付かない、だあれも釣ってないでしょ? こういう場所ところはちょいと気が付かない、こういう場所ところへ竿をおろすでしょ? さかなァ隠れてますから、入れるとぱくりッときます、入れるとぱくり、“入れぱく”……どうです? きますか?」
 なァんてな、一生懸命、釣り糸を垂れていらっしゃる。土地のお方がな、通りがかりにな
「お楽しみですなァ」
「ありがとうごァんす」
「どうですか? 釣れますか?」
「いえ、あまり食わないんですよ」
「ああ、そうでしょう、昨日きのうの雨で水が溜ったんですから」
 ……なんて場所とこで釣ってらしたんじゃァ……実にどうも面白い方がありましたもんで……。
 それにまた、釣りにると、他人しとの顔が魚に見えるそうですなァ、これァまァ何でもそうなんだそうです、夢中になりますとな。
「ああ、いい鯛が来たねェ、あすこから来た、あすこから素晴しい鯛だね、あれァ。向うから来るのは白鱚しらぎすだね、あれァ……あァ、お腹の大きな女の人が来たねェ、あれは河豚ふぐだな、あれァ……ああ、噺家が来た、あれは“だぼはぜ”だ」
 なァんて情ないことになるもんでァんすが……いろいろその判るもんだそうでございます。
 それを熟練をしますと、引き方によって何がかかったてえのが、これが判る、えらいもんですなァ。これは私は釣りではございませんが……網、お客様のお供をして参りますと、船頭さんが網をぴゅゥッと打ちまして、ぐうゥッと上げてまいります。
「お客さん、今日は珍しく“ふっこ”が入ってますよ」
 とこう言うんです。さかなを見ないうちに何が入るもんじゃあるまいと、半信半疑で見ておりますと、上げるてえと、この、大きな“ふっこ”が入ってまして……えらいもんです。永年の熟練です、暴れ方によって何が入ってるか、判るんだそうです。釣りがそうですな、引き方によって何がかかったかてえのが判るッてんですが、ここまでいかなくッち
ゃ、本当のお道楽でもないでしょう。
「(扇子を出し、糸を垂れて)いやァ判りますよ、な、おせェてあげる、な、ほら見たまえ、竿の先をごらん、竿の先を、ね? 教ェてあげる、みんな引き方が違うんだ、おうおう、ほら、竿の先をごらんなさい、ね? 食ってッでしょ、なに? はぜ? 鯊じゃないよ、鯊はこういう食い方じゃない、これァ強いね、これァ……かれえじゃねえかな?(ぐっと引かれて)強いね、これァ……鯨かな?」
 鯨なんざァ釣れやしませんが……いろいろ、その、判るもんだそうでございますな、あれは……。

「(戸をとんとん叩き)ちょいと開けつくれ、おい先生……先生、ちょいと開けてくれより、尾形の先生、ちょいと開けてくれ、先生……(と叩き続ける)」
「はいはい、はい、どなたじゃな? はいはい、いま開けますよ……いや寝てえるわけではない、いま開けます、そうどんどん戸を叩いては、戸が破れておるで、壊れるで……これこれ、そうまァ叩くではないと申すに……困ったものじゃ、はいはい、はい、いま開けますで、そう叩いてはお前さん、戸が壊れ……(戸を開けた途端に、額を打たれて)これァ痛いな、これァ……」
「どうも済みません、夢中ンなって叩いてたんで、先生が黙ってすッと開けたから、ぽかりッといっちゃったんです……戸にしちゃァいやに柔けえと思った」
「戸とわしひたいと一緒にするやつがあるか……誰かと思ったら、ご隣家の八五郎さんか」
「へい、誰かと思わねえでも、ご隣家の八五郎さん……」
「大変なご立腹だな?……」
「馬鹿なご立腹だ、生易しいご立腹じゃァねえ。普段から高慢なつらァしやがって、(口調を真似て)『わしは聖人じゃから、婦人は好かんよ』なんて言やがッて……ちょいと先生、おい、昨夜ゆうべの娘、何処どっから引ッ張ってきた? いい女だねェ、としのころは十六八じゅうろくはちだね……」
「十六八では七がない」
「そう、質〔七〕は先月流れた」
「くだらねえことを言いなさんな」
「色の白いのをちょっと通り越して、ちょっと蒼味あおみがかっていたが、いい女だ、先生、何処どっからッ張ってきた?」
わしにさような覚えはない、お前は夢でも見たな?」
「夢だあ? 夢なら夢でいいんだよ、夢ではないてえ証拠をご覧に入れようじゃァねえか……(指で壁をさして)夢でもって壁にあんな大きな穴があくか?……」
「(見て)なるほど、大きな穴をあけたなァ、これは……
ではお前は昨夜ゆうべのあれを、ごろうじたか?」
「ごろうじた。こっちァべらぼうめえ、ごろうじ過ぎちゃってるじゃねえか、まんじりとも寝やしねえやな……昨夜ゆうべはねェ、一杯いっぺえ飲ンで、うたた寝よ、夜中にさぶいんでひょいッと目を醒ますと、先生の家でひそひそ声。はて先生は独身者ひとりもの、相手のいよう筈はなしと、聞き耳を立ててみると、相手の声が女の子、“れこ”だよ。ますます勘弁できねえ、ふだんに言う口と違うじゃァねえか。それから俺ァ商売ものののみでもって、壁へ穴ァあけて(親指と人差指で丸を作って覗く恰好)覗いたら昨夜ゆうべの女の子だよ……先生、何処どっからッ張ってきたんだよ」
「ご覧になったならば、致し方はない。隠さずお話しよう。なにかの功徳くどくにもなろう……じつは八ッつァん、昨夜ゆうべのはな……(急に声をひそめて)こういうわけだ」
「あ、そういうわけか」
「まだなんにも言やァしないよ……お前もご存じのごとく、わしは釣り好き……いやいやこれが話の順序、聞いてもらいたい。お前に頼まれたことがあったなァ、『先生、彼岸の中日のはぜは、中気のまじないになる、是非たのむ』と、そのこともつむりにあったので、釣り竿をかたげ、向島へやってきたが、昨日は魔日まびというのであろうか、雑魚ざこ一匹かからん。ああ、こういう日は、殺生せっしょうはしてならんいましめと思うて、わしも諦め、釣り竿を巻きにかかる、浅草弁天山べんてんやまで打ちいだす暮六くれむツの鐘……(声をひそめ)陰にこもって物凄く、ぼおォォん、となァ」
「(気味悪くなり、尻ごみしながら)止せ止せ止せ、止せよ、止せ止せよォ先生、おい……あッしは見たとこァ強そうでも、しんが弱いんですからねェ、もっと陽気にしてくれェ……(低い声で)どうしました?」
四方よもの山々雪解けて、水量みずかさまさる大川の、上げ潮南風みなみで、どぶうゥりどぶゥり……水の音だ」
「……(何か言おうとするが、声にならない)……」
「あたりは薄暗くなって、釣り師はみな、散乱をしてしもうてわしひとり。風もないのにかたえよしが……がさがさ、がさがさッといごいたのだ……中からすゥうッと……(掌で前方を逆撫でして)出たッ」
「あ、これは……(びっくりして、ああてて前に置いてある手拭いをわしつかみにして、懐へ入れる)」
「(見とがめて)これこれ、お前、何かふところへ入れたようだなァ」
「へ? 懐へですか? ええ……これを(手拭いを出す)」
「(あわてて引ったくり)あたしの紙入れだよ、なんだ油断もすきもならんね、お前は」
「えへ、あッしァもう、怖くなるとね、何か持って行きたがるんで……」
「悪い性分だなァ」
「先生、何が出たんで?」
からすが三羽出たよ」
「(ほっとして)からすゥ? 俺ァいやだよ、鴉なら前に断ってくれやい……それから?」
「はて、ねぐらへ帰るからすにしては、ちと時刻も違うようじゃと、わしも物好き、その場へ行って、釣り竿でもってよしをかたげて見る、生々しい水死人、髑髏どくろしかばね。ええァ、お気の毒千万、かくしかばねを晒しているは不憫なもの、成仏うかぶこともできまいと、ねんごろに回向えこうしてやった。上手うまくはないが手向たむけの句―『野をこやす骨を形見にすすきかな』。『生者必滅しょうじゃひつめつ会者定離えしゃじょうり頓生菩提とんしょうぼだい南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、南無阿弥陀仏』と、瓢箪ふくべに飲み余りの酒があった、これをこつにかけてやる、気のせいであろうか、赤味をさしたような感じがした。あァあ、よい功徳をしたと、そのまま帰ってきたが、独身者ひとりもの、自分で床をのべ、ごろり横になる……左様、時刻ときは何どきであろうかほとほととおとずる者がある。『何者か』、問うてみたら、かすゥかな声で、『向島から参りました』……さては先刻さっきあれほど回向してやったのがかえって害となり、狐狸妖怪こりようかいたぐいでもたぷらかしに参ったなと思い、一合とっても武士の端くれ、侍、としはとってもまだまだ腕に齢はとらせん心算っもり、尾形清十郎、身に油断なく、がらり、戸を開ける……(謡うような調子で)『乱菊や狐にもせよこの姿』―昨晩ゆうべの娘が音もなくすうッと入って来たと思いなよ、八ッつァん」
「(口調を合せて)うッぷ、俺ァいやだよ、先生(と言いながら、相手の顔を撫でる)」
「なぜ顔を撫ぜる……(手を払いのけ)『私は向島にかばねを晒しておりました者、あなたの功徳によりまして、今日こんにちはじめて浮かばれました。往く処へ参られます。お礼に参じました。お御足みあしなりともさすりましょう』……はるばる向島から釆たる者、すげなく帰すのも何とやら、足をさすらせ、肩を叩かせていた。昨晩ゆうべのはこの世の者ではないのじゃ」
「へッ? お化け? 幽太ゆうたかい?(と両手を七三に構え、幽霊の仕草)……いい女ですねェ、先生。幽霊でもお化けでもいいんだよ、あッしもああいういい女は、一晩こうみッちり話をしてみてえんだがねェ……まだ向島にこつはあるかねェ?」
「さて、それはわからん」
「わからんなんて……おせェろやい、おい、しみったれ」
しみったれてるわけでない。あるかも知れん」
「そうですか? なきゃァお前さん立替えるか?」
「そんなものを立替えられません」
「じゃ、骨の来るおまじないだけ教ェてくれ」
「呪いではない。手向たむけの句という。これは腹から出たことでなくてはいかんのじゃが、ま、教えてくれてえなら、教えもしましょう。『野を肥すほねを形見に薄かな―生者必滅会者定離、頓生菩提、南無阿弥陀仏』……(急にあわてて止める)あァあァ、これこれ、その竿はいかん、わしが大事にしておる竿じゃ。もし、折られると、それを作る竿師がもうおらんのじゃ。それは勘忍しておくれ。持って行くならな、こっちの竿を……」
「何言ってやんでえ……(竿を担いで)先生、これを借りてくよゥ」
 いけないてえのを無理に借り込ンで、途中で二、三合の酒ェ算段をして、やっこさん向島へ……。
「(右手で扇子を竿のつもりで担ぎ、左手で手拭いを瓢箪ふくべのつもりで握って、急ぎ足)ヘヘェ、何言ってやんでえ……『齢をとっても浮気は止まぬ、止まぬはずだよ先がない』てえ都々逸どどいつがありますがね。『わしや聖人じゃから婦人は好かんよ』なんてやがッて、釣りだ釣りだッてやがッて、ああいう掘出し物があるんだねェ、どうも、ええ? こつを釣りに行こうたァ夢にも気がつかなかったねェ。俺も早く行きゃァよかったよ、えれェことをしちゃった……(顔を低めて眺めすかして)おやおや、おやおや、出てますねェ、こりゃまた。手遅れだったな、こりゃァ。こいつらみんな骨を釣りに来てやがン。油断も隙もならねえ、こりゃァ。このごろの子供は早熟はえェや、十二、三でもう、こつを釣りに来てやがんだから……(大声で)うわおゥ、こつァ釣れるかァい、骨ァ?」
「骨ゥ……?(右手に扇子を持ち釣竿を突出した態、そのまま後ろを振り向き)気味の悪いことを言っちゃいけません、いまお魚を釣ってます」
「何を言ってやんでえ(竿を担いで)、胡麻化そうと思ってやがら。『お魚を釣ってます』ッてやがら。証拠たねはあがってるんでえ、白状しろやい。どういう骨がいいんだ、おめえは……新造しんぞか? 年増がいいのか? 乳母おんばさんか子守ッか、何のこつでえ?」
「何です、あれァ?(釣り仲間に話しかけて)色気違いですねェ、女のことばかり言ってやがらァ……(ちらりと振り返って)目が血走ってますからねェ、女房かみさんにでも逃げられたんでしょう、あれァ……(ついに見かねて注意)恐れ入りますがァ、いまちょっと魚が寄ったとこなんですが、お静かに願いたいんでございますが……」
「何を言ってやんでえ、魚に人間の言葉が判るけェ、こん畜生め。魚と話をしたことがあるけェ。俺もそこへ行くぞォ……(割り込ンで坐り込み)あ、どッこいしょのしょ」
「あ、来ましたよ、こりゃどうも悪い者と口きいちゃった……済みません近藤さん、どうぞご順にお膝送りを……(と体を寄せて)いえ、色気狂い、気味きびが悪いから……どうも済みません、済みませんねェ釣り場を変えて、済みませんです……(差して)これ、あなたの弁当箱でしょ? 餌箱、みんなどうぞ……ええ、驚きましたねェ、どうも……ええェ、いえ、昨日はね、あすこでずいぶん釣ったんです、げたんです、ええ。ごらんなさい、今日はまるっきりきません……形無してんです、へえ。魚龍びくからッぽ……あなたはいいよ、それだけげりゃァ大したもんだ。(またきたのを見て)おゥおゥおゥ、またりましたね、釣り場が変ってもげますなァ、あッはッは、あなたにすっかり勝利を得られましたなァ。そんな莫迦ばかなことァないんですからねェ、さっきあなたばかり釣れて、あたしにちっとも釣れない、そんな……魚は寄ってるんですよ、なァ、へえ。餌ァ取られるくらいですからね、魚は寄ってるんですけど、どういうわけのもんですか、ちっとも……(竿をあげて糸をたぐり)ごらんなさい、また餌を取られちゃった、ちえッ、餌ばかり取られてやんの、え? 今日は型が小さいんですか? 餌は半分くらいのほうが? ああ、左様さよですか、さっきから一匹ずつ付けてんですがね、みんな食い逃げなんです、へえ。こんなではないんですからね、今日は餌も吟味してきたんですからね、あたしゃァ。じゃ、半分ぐらいにしてみたらいいんですかね? え? うん……(と餌をつけ替えて)何です? え? 今日は? 岸辺へりへ寄ってませんか? あ、遠くのほうへ……? ああ、そうですか。今日はねェ、長竿置いてきちゃった、これ一本しか持ってこないんで……いやはァ、釣れないときたら、こんなもんですかなァ、はあ……じゃ少ゥし、こうッ……(竿を斜めに上げて)遠くのほうへ放り込ンでやったらいいかと思うんでやすがね、そんな莫迦な話てえな……ええ、釣れだしたら釣れるんですが、いけないとなったら、てこでも仕様がないんですからね、いえ、餌を取られるぐらいですからね……へえ、魚ァ寄ってるんですからね。あなたに釣れて私に釣れないなんて、そんな莫迦なことは、ないんですから……よッと(と竿を上げて、魚をはずし)えへへ、いや、初めて初めて、こんな小さい小さい、こんな小さいのが……えへへ、こんな小さいのが。これでも釣れてりゃァ、飽きがきませんからねェ……嬉しくなり、餌をつけながら)あなた早くおせェつくれりゃいいんだよ。俺いやだよ、あんた、自分さえ釣れりゃァいいてえもんじゃァない。薄情でいけないねェ、あなたァどうも……なるほど餌を小さくすると釣れますな、はァ、やっぱり釣りはあなたのほうがあにィですなァ、失礼しました、いやァ、は、どうも、あなたにゃ敵いません、頭が下ります……へえ、こうなりゃァあなたに負けやしません、冗談言っちゃいけない……(と糸を投げて、ふと隣りを見やり吹き出し)うぷッ」
「何笑ってやんでえ、こん畜生め。なんで俺の顔を見て、ぷッと吹きやがる……何もてめえたちにいいこつを釣られて、おやそうですかと、黙ってるおあにィさんたァ、べらぼうめェ、わけが違うんでェ(乱暴に糸をほどき、そのまま放り込ンで、竿を振り廻す)……こっちァ酒を買って入費にゅうひを使ってるんでえ、こん畜生め。一人でもふたあつもッつも釣ってこうてんだ、こっちァ。てめえたちにいい骨を釣られて、おやそうですかと、黙ってるお兄イさんとは……べらぼうめェ、わけが違うんだ、こん畜生め。こうなりゃァこっちのもんだ」
「(よけるようにして)こりゃひどいな……(着物の水を拭いて)お静かに、お静かに願いますよ、仕様がねえなァ、水がはね返って仕様がねえから……」
「何を言ってやんでえ、煩せえやァ、こん畜生ッ。文句ばかり言ってやがら、てめえ一人の川じゃァねえ」
「あたしの川とは言やァしません。いえ、釣るのはいいんですよ、こうやっちゃァ(竿を振って)いけないんだよ、あなた。水がはねかかるから……(言いながら、ふと見て)あの、あなた、失礼ですが餌がついておらんようですが、餌がついてなくちゃァ、お魚は釣れッこァござんせん、へえ……失礼ですが、ここに餌箱がありますから、なんでしたらおつけなさい(と餌箱を差出す)」
「(乱暴に竿を振り廻して)余計よけえなことを言うねえ、余計なこと、世話ばかり焼いてやがらァ……何をゥ?『餌がついてなくっちゃァ、お魚は釣れッこござんせん?』、何より言ってやんでえ、連れッ子もままッ子もあるか。ただこうやってりゃァ……鐘がぼォおんと鳴るだろうな、なァ?よしががさがさがさがさァッとくらァ。中からからすがすうッと出つくりゃァこっちのもんでえ、べらぼうめえ、こっちァそれを待ってるんだァ……へ鐘がぼんと鳴ァァりゃさ、上げェ潮ォ南風みなみさ、鴉が飛ォォびィだァしゃ、こりゃさのさァ、こつがあァァるとさァいさい……と来やがら。♪すちゃらかちゃん、とくらァ、すちゃらかちゃん……(調子に合せて、竿を水面で叩く)」
「(あきれて)仕様がねえなァ、これァどうも……あなた、駄目だよ、そう浮かれてちゃァ、あなた、こうやっちゃァいけないよ、あなた、水がはねるから……そう掻き廻しちゃ駄目だよッ」
「(睨みつけて)誰が掻き廻してるんでえ、ただこうやってるだけじゃァねえか(と水面を叩き)……おめえの郷里くにじゃァ、これを掻き廻すてえのか? 掻き廻すてえのァ、こォォやるン……(右手で竿を水中に突っ込んで、大きくぐるぐるっと掻き廻す)」
「(びっくりして)こりゃ掻き廻しちゃったよ、これァ、驚いたな、こりゃどうも……ええ? とても駄目だ、これァ釣れませんよ。見てるほうが面白うござんすよ。竿を上げましょう」
「(構わず)なァにょッてやんでえ……(独り言)けど、昨晩ゆうべ先生ンとこへ来たこつとしが若すぎたねェ、あれじゃァ話相手にならないよ。やっぱり二十七、八、三十前後でこぼこおつな年増のこつでなくちゃァいけないねェ……やって来ますよ、きっと。(下駄の音)からころからころからころからころ……(姿態しなをつくって、高い声で)『こんばんわ』なんて……『こつじゃねえか、遅かったね』 『なに言ってんだよゥ、あなたの来ようが遅いんだよゥ』『なァに、おめえがあそこにいるのを知らなかったよ、先生に聞いて初めてわかった……はやくこっちィ上れやい』『むやみに上るてえと、つのの出る人がそばに坐ってんじゃないの?』『止せやい、独りもんだよゥ、心配しねえで上ってくれやい』『じゃ、お前さんのそばへ坐ってもいいのかい』『いいから坐ッつくんねえな』『そォお?』……ッてがってね、こつがすうッと上ってきやがる(と女の姿態)……であたしのそばへべったり坐る(尻をべったりおろす)」
「(見て吹き出し)あ、ぷッ……水溜りィ坐っちまいましたよ、あの人……よほどこれが(頭を指して)いけないようでやんすなァ、あれァどうも……」
「(構わず夢中になって)『けども、いまァとしが若いから、お前さんがいろんなことを言うの。けど、お婆ちゃんになるてえと、あたしを捨てて、若いのかなんか引ッぱり込ンで、苦労をかけるんじゃないの?』『止せやい、お前という可愛い女房ができた。お前を一生懸命に可愛がります。俺はもう、一生懸命に働きますよ』『本当に様子のいいこと言うよ、この人は……その口であたしを欺すんだろ? その口で……畜生本当ほんとに、その口が憎らしいよ、その口が本当に、その口が……』(思い切りきゅッとつねる)」
「(右手で自分の頬っぺたをつねり)痛い痛いッ……痛ェ、こん畜生ゥ」
「なに? くねえッ」
きゃァしねえやな……俺ァいやだよ、てめえ一人でやってろィ、俺の頬っぺたァつねる奴があるかい、こん畜生め」
「……『本当にお前さん、浮気をしちゃァいやだよ』『大丈夫だ、安心おしッてんだよゥ』『もしも浮気をしたら、じゃくすぐるよゥ』『いやだよ、くすぐっちゃァ』『でも、ちょいとくすぐらしてちょうだいな』ッてやがってね、骨がやさしい手を出して、あたしのわきの下を、ちょこちょこッと……(無我夢中でくすぐったい態)『俺、やだよ』『ちょこちょこッ』『うふッ、くすぐったいよ、駄目なんだよ……駄目だ、駄目だ』(身をよじり、くすぐられる仕草。もがく途端に、竿の針が顎に引っかかり、ぴたと静止)」
「うぷゥッ(と吹き出し)、ごらんなさい、あの人。魚を釣らないで、てめえのあごを釣っちまいました……(からかうように、のぞき込んで)どうしました?」
「……(右手に竿を上げたまま、針をはずそうとする。次第に顎を右上へ持ち上げて、痛そうな表情)旦那ァ、取ッつはい、旦那ァ……済みません、取ッつはい、旦那ァ……(と悲鳴。誰も取ってくれないので怒り)頼まねえ、笑ってやがら畜生、何もてめえたちに取ってもらわなくたって……つッ……(つねり上げるようにして、針をはずして、しきりに顎をなぜて)おり痛え、おゥ驚いた、こりゃどうも……(ふと左手の指先を見て)あァあァ、血が出てきやがった。ああ、こういうものがくっついてるからいけねえんだ、こォんなものァいらねえや、畜生(針を引きちぎって、放り捨て)、あ、どッこいしょのしょッ……(針のついてない竿を垂れる)」
「あ、あの人、針を取っちまいましたよ」
「何を言ってやんでえ……(ふと川を見て)おや? 便器おかわが流ァれェてさ……きやがら、どうも……(と竿で便器を引き寄せて)♪便器おまるきィよォォせさ……」
「(あきれて)あ、汚ねえな、あれァ……便器おまるを引き寄せてますよ」
「♪なかのォみイずゥゥを、こりゃさのさッと……(引き寄せておいて、両手で隣りへかぶせる)あん畜生、便器おかわをかぶって逃げ出しゃァがったよ、なァ『情事いろにはなまじ、伴侶つれは邪魔』てえことが言ってあらァ、畜生、いやァしねえや……おやおや、泡ァ食って弁当箱を忘れていきやがった。一体いツてえなにをくらってるか、ひとつ見てやろうじゃねえか……(と中を見て)ははァ、焼豆腐の煮たのだな。こっちが、ははァ、油揚あぷらげだな。このおかずの様子ぐあいからみると、あいつ近所の奴じゃァねえ、とうふ〔遠く〕の奴だねェ、あぶらげ〔危なげ〕のねえうちにェりやがったんだよ。ひとつこの焼豆腐をご馳走になろうじゃねえか、ねえ……(とおかずをつまんで)こういう役得があるからなァ(口へ放り込み)、うん……こりゃ美味うまい美味いねェ、どうも。美味い……(と言いながら、向うを見て)よッ、出ました……出たけど、なんだよ、からすじゃねえ、椋鳥むくどりが出やがったよ……ははァ、からすが忙しいんだな、きっと。さもなきゃ風邪かなんか引きやがったんだなァ……『済まないけど、ちょいとあたしァ頭が痛いんだから、椋ちゃん、代りに行っとくれよ』『よしッ、心得た』てんで、椋鳥が出やがったんだ。何だって構やしねえや、出さえすりゃァこっちのもんだァ、なァ、こっちのもんですよ……(竿を右手に、瓢箪を右手に)♪よしァきィわァけさァ、と、♪おこおつゥはァァ、どこォにさッ……ときやがら。おやおや、大変にこつがあるねェ、また大きなこつがどっさりありやがら、驚いたねェ……いいかい? 先生のは飲み余りだよ。こっちァそんな吝ったれじゃァねえや、江戸ッ子だァ、なァ……(と瓢箪の酒を注ぎながら)みんなこう、かけちまわァ構わねえから……俺ァ飲ンでねえんだよ、みんなかけちまえ(とすっかり注いで)、いいかい? 酔っぱらって来られないなんぞいけませんよ、いいかい? ほろ酔い機嫌で来てくれ、頼むからなァ……ええッと、待っつくれよ、来るおまじないがあったけなァ、何てッたっけなァ……そうそう『野をおやす、ほねを叩いてお伊勢さん、神楽かぐらがお好きでとッぴきぴのぴッ』ときやがったね。来とくれよ、頼むぜ。浅草門跡もんぜき様のうしろ、八百屋の横丁を入って角から三軒日、腰障子に丸に八の字と書いてある、すぐわかるよ、じゃ頼むよ」
 のんきな奴があるもんで、そのままぷゥいと帰ってきちまやァがった。

 かたわらの葭が繁っております、その中に屋根船が一艘、客待ちをしていたのか、幇間、たいこもちが、ちょっとこれを耳にいたしました。これァ聞き逃すわけがございません。
「いよォッ、仰言ッたね、かしたよ、申しあげましたねェ。あたしがここでもって、とろりとしてるのを気がつかず、ご婦人と再会の約束はにくいねェ。あの場へ行って『よォッ、お愉しみ、お結構です』かなんか言やァ、幾らかになるが、それじゃァ芸人の風流を失なうからなァ、邪魔はしたくないねェ。待てよ、浅草門跡様のうしろ、八百屋の横丁を入って角から三軒目、腰障子に丸に八の字、丸八てえばすぐわかるッて、おッ、先方せんぽうァわかってるんだ、夜分やぶんになったらこっちから出かけやしょう」
 なんてんで、悪い奴に聞かれたもんです。

「何をしてやんだなァ……(いらいらしながら、扇子をぱたぱたあおいで)もう来る時分なんだがなァ。さっきから、ぼォォんと鐘が鳴ってるんだ。(隣りへ)先生ェ、こつァそっちィ行きませんか? そっちィ行ったら、こっちィ廻してくださいよ。だよ、こっちィいろいろ入費を使ってるんだから、だよ……何をしてやんだろうなァ、来る時分なんだがなァ、もう。湯もちんちんたぎって、ここでもって一杯いっぺえ、差し向いでもって、ろうてんで、お酒の支度もできてるんで、何をしてやんだ……(表の足音に聞き耳をたてて)よ? 足音が? ぴたりと止まったよ、来たのかな?」
「(腰を低めて)ェェこんばんわ」
「おや……何だ?」
「ェェ向島から参りました」
「向島から? よッ(ぽぉんと手を叩って)待ってました、いらっしゃい、おやッ?……(気がついて)と、だが待てよ、に声が太いねェこりゃ……『向島から参りました』、下ッ腹へ力が入るねェ……ははァ、わかった、こつが財産かなんか背負しょって釆やがったんだな、持参金つきだねェ。重たいてんで下ッ腹に力が入って、『ェェこんばんわ、向島から参りました』ッてなことを……(表へ)おい、待ってたんだ、こっちィへえっつくれ」
「ェェよろしうございますか? では、ちょと失礼を……ェェごめんくださいまし……(障子を開けて入って来て)ェェ失礼を……(部屋の様子をうかがって)おやおや、おやおや、結構なお住居すまいでげすなァ、どうも、これはこれは、恐れ入りやしたな、どうも……畳ァぼろぼろですなァ。障子が、ないんですねェ、さんばかりときましたねェ。ははァ、流し落ッこちの様子やすで、うじゃうじゃときましたな、結構なお住居いでげすねェ。突きあたりは、これァ仏壇でげすか? へえ、仏壇?……蜜柑みかん箱ァ洒落てやすなァ、栄螺さざえの壺のお線香立てに、あわびッ貝のお灯明皿ときましたねェ。お宅の仏壇は江の島だねェまるでねェ……(見上げて)よゥよゥよゥよゥッ、お天井、お天井ッ、ほほゥ、『大雨に、たらい家中いまわり』なんてんで? そんな生やさしいんじゃないの? 雨が降ると、ははァ、座敷に坐って、傘さしてる? 往来おもてだね、まるで、こりゃどうも……けども、居ながらにして月見ができますねェ、ご風流ですねェ……『貧乏をしてもこの風情ふぜいあり、質の流れに借金の山』、
(手を打って、拍子をつけて)あ、よいよい……♪他人ひとォをォ、助ゥくゥる、身を持ちィながァァらァ、あの坊主ぼんさんは、なぜこかァァ、夜明ァけェにィ、鐘ェをォォ、ゥくゥゥ、おや、鳥が鳴く……あれェまァたァ、もくぎょォのォ……ぼくぼくぼくぼく、音ォがァするゥ、ちりとッちんしゃん」
「(驚いて)な、な、なんだよ、おい。おつな年増のこつがやって来ると思ったら、おッそろしい口の悪いこつがやって来やがった……お前は一体、何者なにもんだ?」
「あっしでげすか? あっしは新朝という幇間たいこでげす」
「なに、新町の太鼓? あッ、しまった、昼間のは馬のこつだった」





底本:八代目春風亭柳枝全集
   弘文出版・1977年発行

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