吉野狐(よしのぎつね)

五代目笑福亭松鶴

 エエ頃は一月の末つ方、年の頃廿二三と思しき男、辺りきょろきょろ打眺め、袂の中へ拾い込む石、瓦屋橋の西詰から人の見ているのも知らずに、橋の欄干に手をかけて今や飛び込まんとする有様。
「コレ待ったあぶないがな」
「イエどうぞお放しなされて下さりませ、どうでも死なねばならぬ者でござります故、助けると思うて殺して下さりませ」
「コレ何をいうのや、医者が薬違いしたのやないで、助けると思うて殺す人があるか、死は一旦にして易し、生は難しという事がある、死ぬとは思案が若い、訳をいわんせ、訳を聞いた上で、死なねばならぬ事なら、手伝うてでも殺してあげる、マアマア待たんせコレ(引倒して投げる)ココ若いだけに力が強いな、一体お前はどこの人や」
(チエえと泣く)「お尋ねあずかりお恥ずかしい事ながら、今わたしの申します事を、一通りお聞きなされて下さりませ、(相方という三味線がはいる)わたくしは心斎橋筋で、渋谷や石原と肩も並べる程でもないが時計屋店、親父は渋い事はこの上なし、堅い事は石より堅くそれに引替え私は新町南通り木原の娼妓に馴れ染めて、通い廓の習いとて、芸者舞子や幇間に持てそやされての大和巡り、何が時計屋の事故に、回る物が回ります故、汽車や車で柱掛け、ここに逗留かしこに居続け、舞妓が酒が嫌いじゃ甘い物といえば、饅頭時計やアンクルと栄耀栄華に日を送り、使いし金が三千円、家へ帰れば親父に眼玉、家に置けぬと追い出され、今更夢も眼覚し時計、後悔先に立たぬ身の上でござります」
「フフンすると今お前さんがここで死んだら、其の使うた金は誰れぞ返して呉れるのかえ」
「イエそれはあら致しまへん」
「ソレ兄さんせ、そやよって、思案が若いというのや、私はナアお前様とこの様な金目な物を商なう商売やない、高が知れた夜泣のうどん屋じゃ、モウ年を取って、肩が利かんで、車で歩いている様な始末や、処が今夜うどんが二杯残ってあるので、これを売ってしまおうと思うて、ここまで来ると、お前の素振が怪しいので後ろからいて来ると、この始末や」
「そんなら、あんたはうどん屋さんだすか」
「そうや」
「うどん屋が蕎麦へ車で知らなんだ」
「何をいうのや、いまわの際に洒落をいうてる、兎も角も私の内までおいで悪うはせぬ」
 むりに我家へ連れて帰りました
「婆さん、今帰りました」
「オオ親爺どんか、今晩は冷えが強いサド寒かったやろ、お炬燵にドッサリ火が入れてあるさかいに、早うあたらんせ、荷は私しが片附る」
「しかし婆さん、今夜は客人があるのや、これお若い衆、そんな所に立っていては寒い、内へはいりなされ、婆さん御飯があるか、何に無いか、どんな事やったな、アア、うどんが二杯残ってある、今晩はうどんで辛抱さんせ」
「いえよばれましても、お金が」
「コレ何をいうのや、お金をもらおと思て、たべさすのやない」
 うどんを食べさしてその晩は三人が押合うて寝ましたが翌日の朝、
「若い衆」
「お早うございます。昨晩は色々御厄介になりまして、何とも御礼の申し様もござりませぬ」
「何をいうのや、これからお前さんの内へ、話にいこうと思うているのやが、お前さんの内は、どこやらということやったな、フンフン心斎橋で、フンお前の名が島三郎、アアヨシヨシ」
 どこまでも親切な人で、それから親元へ渡って、直ぐ帰って来ました。「島さん、行て来たぜ、お前のお親父さんに逢うて来た、ほんに渋い堅い人じゃ、何というても取合って下さらんので、昨夜の話を一部始終はなしたら、お親父さんのいわれるには、いっそほっといて殺して下さる方がええ、一時は金も入りますけれど、後で代呂しろ物を持出したり、金を盗み出す心配がのうてええといわれるのや、そこで、その様にいらぬ息子さんなら、いっそ私の方へ養子に下さらぬかというたら、宜いようにしてくれとの事ゆえ、お前と話はせぬけども、モウ戸籍まで送って貰う約束にして来たのじゃ、お前も昨夜瓦屋橋からはまって死んで、こんな内へ生れ変ったと思うて、どうじゃ、私の内にいて、この年寄二人の面倒を見てくれる気はないか」
「色々有難う存じます、何分によろしくお頼み申します」
 とそれから島三郎は、ここのうどん屋の内に厄介になる事になりましたが、毎日所在がないので、商いに行く時に連れて行て、向うへ三膳、あちらへ五膳と持って行く。間は荷の番をさしたり、また手変りに運ばしたりしていましたが、ちょうど四月の中頃になりました。いつもの通りうどんの車を路次へ引込んで、戸を締めて門を入れて、
「コレ婆さん、今戻って来た、今夜はどういうもんかしらんが腰が痛んで叶わん、島三郎に手伝わせて荷を仕舞て下され、これ婆さんというのに、また居眠りをしている、コレ婆さんというのに、年寄のくせに眠むたいなんて、早う片付とくれ」
 独り言をいうて一服のんでおりますと、島三郎は荷を仕舞いながら、何やらボシャボシャと話しをしているようです。ハテ路次は締めたし、門は入れてあるのに、誰もはいって来た人もなし、誰と話をしているのかしらんと覗いて見ますと、年の頃廿一二の綺麗な女と島三郎が立話をしております。
「イヤいかん、今お前がここへ来てくれると、私の尻まで上る」
「かましまへん、私がお親父さんに逢て話をします」
「いかんというのに、ココのお親父さんは中々堅い人やさかいに」
「マアあんたはそっちへ行っといでやす」
 と手を突きのけて
「ヘイ御免遊ばせ、これは末だお初にお目に掛ります」
「ハイお出でなされ」
「私は新町南通木原席に勤めを致しております吉野と申す不束者、こちらにござる島三郎さんとは、深ういいかわした仲、処が今年の一月大和巡りを致しまして帰りましてから、チチ、プッツリとお越しがないので所々方々と尋ねましたが皆目とお行衛がわからず、今日、風の便りに聞きましたら、御当家様へ入聟になってござるとの事、素より私も自前で働いておりました故、儲け溜を親方さんへ千円預けて置きました、今日この金を持って参りましてござります、どうぞ、それを私の荷物とお思召して、この島三郎さんのお嫁さんにして下されませ」
「ハア左様か、これ島三郎、お前がそこでキョロンとしててどうするのや、万事は私が胸にある、コレ姉さん上へ上りなされ、庭が狭い、兎も角も奥へ連れて行きなされ」
 無理矢理に二人を奥へ連れて行って襖を締めました。
「コレ姿さん」
「老爺どん、何んと綺麗な女さんやな」
「サイナあれが島三郎の馴染んでいた女じゃといな、エエ、婆さん昔から歌にいうてあるな、女郎の誠と四角な玉子、あれば晦日に月が出ろちゅうて、近頃は晦日に月が出ているし、アアして女郎の誠が出て来たら、この調子やったら、近々に四角な玉子が見られるやろ、ドレドレこれで腰の痛いのも忘れてしもた、荷を仕舞いましょ、コレ婆さん、お前炭取を膳棚へ入れてどうするのや」
「コレコレ、お老爺さん、お前もうどんの鉢を縁の下へ入れてどうするのや」
「エエ慌てなさんな」
「お前が慌てているのや」
「コレ婆さん、どこへ行くのや、コレ人の話をしているところを覗くのやない、コレ何に涙ながらに話をしている、ナア無理はないわ、逢いに行きとうても行く事は出来ず、また逢いとうてもいる所は知れず、久し振りに逢うて積る話も有るわいな、時に婆さん今夜寝るのが難儀やナア蒲団があらへん」
「サア私もそないに思うているのや、モウ少し早かったら家主さんとこへ泊りに行くのやけども、もう遅いよって家主さんも寝てはるしなあ」
「マア仕方がないよってに、今夜久し振りに席貸屋でも行こかいな」
「あほらしい事をいいなさんな」
「仕様がない、今夜は二階で寝よ」
「お老爺さん二階に蒲団がないで」
「エイがな、一晩ぐらい餅むしろに巻かれてでも寝るわいな、サア二階へ上がろ、コレ姉さん、私等は二階で寝る、お前等は勝手知らんのに、火を持て上ったら火の用心が悪い、マア今晩は手足のばしてゆっくり寝なされ、コレ婆さん、早よお二階へ上ろ、先に上るぜ、ゴツン、アアいたやの」
「老爺どん、どうしたのや」
「ウン、勝手は知っていても二階の梁が低いもんやさかいに、頭を打ったのや、お前も打たんように上らんせ」
「時に老爺どん、二階は寒いな」
「婆さん、どうしたのや」
「老爺どん、えらい事した」
「どうしたのや」
「用便がしとうなった」
「なぜ下でしておかぬのや」
「下でしとなかったが、二階へ上ってからしとうなった」
「エイ、若い者が寝ているのに、年寄が二階から上ったり、降りたりするといやがる、暗がりやで其所らでしておきなされ」
 さて其夜は餅莚に巻かれて寝ましたが、ナカナカ寒うて寝られません、夜の明るのを待焦がれて下へ降りて来ましたが、二人は煤煙で顔が真黒けでござります。さて、こうして終に見なれぬ女が、出端入りして近所で妙なうわさが立ってはならぬと、この事情を家主へも、長家へも委しく話をしますと、家主さんは中々親切な人で、
「これ安平さん、今話を聞いて嬉こんでいるのや、常からお前は正真なゆえに、ああんな好い息子さんが出来、またその上にそんな綺麗な嫁さんが来るというのは、正直の頭に神宿るという事や、しかしこんな裏長家にいつ迄も暮していては頭が上らん、千円を資本金にして表へ出て商売をしなされ、夜なきのうどんやでは金が上がらん、というのが売る物がうどん、そばにきつねなんば、きつね、こんな物では駄目や、内店を出すとかやく物が売れるので、どこか好い家を捜して、イヤ私の方は借家の事やから長くいてほしいが、金のある内にせねば駄目やで」
「何をおっしゃる、僅かの資本で」
「コレ安平さん、足らん処は何とかまた融通をしてあげる、兎に角家を探しに行こう」
 と家主さんも世話好きで、二人を連れて道頓堀をあちらこちらと探しましたところ、恰好な家がありましたので、それを借受け、手伝や大工を入れて普請をすることになりました。
「コレ安平さん、えらかったやろ」
「どういたしまして、お家主さんに御足労を掛けまして」
「イヤイヤ、しかしあの調子やったら、近々に開店が出来るじゃろう、しかし今度の商売は当るで、というのは今迄はえらい失礼やが、夜鳴のうどんやで売る物がしれているが、内店を出すとかやく物が売れる、そのかやく物がみな内の人で出来ているのがおかしいな、しっぽくの事を“きや”という、お前所の苗字が木谷じゃ、“あんぺい”の事を安平という、お前の名が安平じゃ、小田巻の事を“まき”という、ソレ嫁さんがおまきさんや、蕎麦の事を“しま”という、息子さんが島さんや、あんかけの事を吉野という、こんど来た嫁さんが吉野さん、ソレから今いうたきつねなんば、きつねの事を信田という、そこでや始めから派手な事をして直ぐに失敗したらみっともないさかいに、始めの内はえらかろが、うどんやそばを打ったりは安平さんお前さんがして、出前は島さんが持て行く様にして、帳場へはおまきさんを据らして、若い男の一人も置いたら回って行ける、またお客さんがつかえて来たら吉野さんにも持はこびを」
「何をおっしゃる事やら、昨日今日まで勤めをした者が、うどんのお給仕が」
「イエお父上とっさん、今までの勤めのことを思えば、うどんのお給仕ぐらいなんでもないことで」
「ソレ見なされ、今の若い者の方が中々勉強家じゃ、しかし資本金は吉野さんが持て来たのやから、総てを吉野としよか」
 と暖簾行燈、はっぴ出前箱に到るまで吉野として挑えました。そのうちに普請も出来上りまして、吉日を選び開店いたしましたが、出せば買うの世の中、開店早々大繁昌、お客が押かけます。
「うどん一膳お呉れ」
「ヘイう一ツぜん……」
「オオ来た来た、早いナア、早いが御馳走や、中々だしがえいナ」
「オイ小田巻一ツせんお呉れ」
「きや一ツせん、アア一寸待っとくなはれ、間違いましたアノ小田巻というたら巻だんなア、アノきやが巻にかわって」
 中には間違うのが面白いというて喰いに来る人がある。また外にはもう一せん、いうたらあの別嬪が持て来るか知らんちゅうて、うどんの鉢を十五六杯も積んでるお客もあります。日増に繁昌しています。光陰矢の如し、月日に関守なく、ここに三ヶ年の星霜を経ました。島三郎は以前を忘れぬ様に、矢張り法被姿で出前を持って行く途中、以前遊びに行りていたお茶屋のお女将かみさんにべったり出会いました
「アアそこへおいでになるのほ、島坊んやおまへんか、チョット島坊ん」
「おおあねきか」
「マア島坊ん、御機嫌さん、永い事逢いまへんな、マアお達者で、此間だ竹内さんに逢いまして、あんたの事もお尋ねしましたら、どこやらへ御養子に行てござるということやけども、お所が分らんというてはりました、おかわりがのうて結構でおますな」
「いつから逢わんねんな」
「それ大和巡りして帰ってから逢いまへんのだす」
「そやそや、面白かったな」
「早いもんだんな、もう三年になりまっせ、それ奈良の元林院で流連の時に、毎日毎日雪に降られて仕方がないので、野施行に行きましたな」
「そうそう狐の面をかぶって、白のシャツとパッチで」
「赤飯の握り飯と油揚げを持って」
「寒むかったな」
「そうそう、あんまり寒いので、みんなそこへ一しょに捨てておいて帰りましたな、皆が寄るとあの時の話しが出ますね、今日も吉野はんとあの話しをしてましたのや」
「貴女、吉野に逢うか」
「ヘ毎日逢いますねで」
「アアそうか、あれは一月やったなア……一チ二イ三ンと、四月から内へ来て呉れてるのや」
「だれが」
「吉野が」
「マアうそばっかり、吉野はんはまだ働たらいていはります」
「二代目の吉野か」
「イエ大和巡りした、吉野はんが」
「うそ、内へ来ているがな」
「あんな事、今日も吉野はんと、旦那はんと私しと、三人連れで芝居見物に来ましたのや、一寸幕合に買物に出ましたのやがな」
「エヘ吉野が、芝居へ来ている、それほんまか」
「アノ妙な顔してなさる事、そないに疑いなはるのやったら、逢うてやったら、分るやおまへんか」
「オオ逢わして呉れるか」
「しかし直接じかにはいきまへんね(親指出して)コレが悋気深いよって戸口から覗いて見たらわかるやおまへんか」
「そンなら連れていて」
「はア、よろしおます」
「芝居へおはいり、ここから覗いてごらん、それ向うにいやはりますやろ、ひげの生えた紋附の羽織を着てはる人と」
「ホンニ、あれは吉野や……」
「それ見なはれ」
「ホンマに吉野……動いている」
「ソリャ生きていやはりますもの」
「いずれそのうちに行て話しする、左様なら」
「一寸若旦那お所は」
 と言うているうちに島三郎は内へ帰りますと、お客は満員。
「オイ巻二ぜんしてんか」
「巻二ぜん」
「アア一寸待って何や、玉子を絶っている、よいやないか、何にいかんて、そんなら何を喰うのや、きつね、もっさりしているなア、巻いかんね、きつねと替えてんか」
「巻が信田にかわって」
「やっぱり吉野に違ないがな」
 とそのまま側へつかつかと、吉野のたぶさを掴んで前へ引寄せます。
「コレコレ島三郎、お前なんちゅうことをするのや、吉野になんの罪があって」
「イーエお母さん、あんたは何も御存じおまへん、コレ、お前はどこの人じゃ、いえ、言わんと痛い目をせにゃならんぞ」
 と五ツ六ツ手荒に打擲ちょうちゃくしました。
「ハイ、申します申します」(此所「らいじょう」という鳴物が這入る)
「頃は一昨年一月寒風はげしく降り積る、ゆききの人も絶え絶えに、まんも拍子も足曳の、大和の国は奈良町の、片ほとりなる野辺に住む、無官の狐、親子五疋が困難の折柄、あなた様の野施行、御身も寒さを耐え兼ね、いっそここへと有丈けを、置いて賜わる有難さ、御恵みのあずきめし、油揚諸共頂戴し、親子五疋が糊口を凌ぎ、この後は守護し奉つらんと、御行衛を尋ぬれば、実父の元を追い出され、今は御流浪の御身と承り、仮りに吉野の君の姿を借り、資本金を御用達しも、畜生ながらも恩儀を忘れぬ、大和魂かく物語る上からは、吾れは古巣へ立帰らん、姿は忽ち走れ御覧……」
「アア…‥今のいままで、木原の遊女と思ていたが(落)吉野が信田にかわって」


「吉野狐」 について
 この噺は、初代林家正三門人、二代目林家菊丸師の作なり。明治二十年頃の作。心斎橋筋に渋谷や石原という時計屋が出来た時代、新派俳優川上音次郎氏が、末だ二世曽呂利新左衛門の門人、浮世亭○○といいし頃、寄席にてオッペケペエ節を唄い、その中に「渋谷石原高造で、戸前電気が高くても、市中の害にはならないが、お米の無暗に高いのは、市中の、落語の席にも関するよ、オッペケペエ」と唄うておりました、その時代の作なり。後にこのオッペケペエを、桂梅枝という人が高座で唄うておりました。この菊丸師の作に、「不動坊」、「御家馬子」、いろいろ大物噺あり。またこの人は落語角力の行司が得意にして、ある時、落語角力にて、力士が鳥一疋といいましたら、お客より鳥は一疋といわぬ一羽やと、穴をひらいました。この時行司(菊丸)これは一疋でもかまいませぬ、先代萩の千松が、内の裏のちしゃの木に雀が三疋とまって、と申しましたからと、即座に滑稽で答えまして大きに喝采しました、ということを故人文我師に聞きました。

その後この「吉野狐」の口演者
 故桂南光 後に仁左衛門 本名 深江鶴吉
 故三代目 桂文都 本名 梅川五平
 故六代目 林家正楽 本名 織田徳治郎
 現在 桂三木助 本名 松尾利雄
その他は略す。





底本:上方はなし 第十集
   楽語荘・1937年発行

(復刻版:上方はなし・上 三一書房)

落語はろー("http://www.asahi-net.or.jp/~ee4y-nsn/")