市助酒(いちすけざけ)

五代目笑福亭松鶴




 エエ、このたびは冬のお話を申し上げます。市助酒というお話は、あまり只今連中が演りませぬ。以前は冬になりますると、町内に下役と申して、時刻の太鼓を打って町内を廻りましたもので、毎夜初夜を過ぎますると、その下役が家別に、「火の用心を大切におたのみ申します」というて廻ったもので、しかしこの家別に廻るのは、船場へ行きましても極上等の町内に限りましたものでございます。家別に廻るのは、たいてい当今の十一時頃までで、後は「火の用心、火の用心」というて、ただ表をいい流しに歩いたものでございます。また夜長の時分でござりますると、御商法家などは、帳合の読み合せなど、夜で事の足ることは、たいてい皆日短でござりますさかい、夜分に廻します。こういう船場のようなお金持ばかりのお住居のところに、ありそものうてあるのは質屋でござります。して見ると船場とはいいじょう、やはり裏長屋もありました。また中には、大きい商法をしてござっても内実左にあらずの家もあるものと見えます。それにこの東京ではそうでもなかったように聞いて居りまするが、大阪では、何商売をしますのでも皆銀目ぎんめでござりました。何百何十何匁何分何厘というような具合で、しかし実地の取引をするには、それは正金しょうきんで致しました。モウすでに堺へ行きますと、岸和田、佐山、その他にもいろいろ銀札というものがありましたが、大阪にはその銀札というものは決してござりませなんだ。取引は正金ばかりでござりました。なおちょっとお断わり申して置きますが、このお話はだいたい非常にお長いお話でござりますから、このお話について抜いてさしつかえにならぬ瑣々しいところは省いて、なるべくおわかりよいように申し上げたいと心得ます。どうかそのおつもりでお聞き取り、否、御覧のほどを願いおきます。
番頭「丁稚、銭の方はすてとけ、銀目ばかりを、先に読め
丁「へ……百六十匁、三百二十五匁、八十匁、五十五匁、一貫五百目……」
番「一貫五百目ッて何じゃ、品物は」
丁「女の袖一枚」
番「それが一貫五百目か」
丁「イエ一貫五百文で」
番「しっかり読め、居眠りばかりしくさって」
下役「火の用心を大切にお頼み申します」
番「アア、また町内の市助奴、酔うてくさる……ハイ、御苦労御苦労……サッ、後読め」
丁「エエ三百三十匁、二十匁……」
下「火の用心を大切にお頼み申します」
番「一遍いうたらわかっているわい、何遍も何遍も糞八釜くそやかましいへ奴執拗どしつこい……汝は居眠らんとしっかり読め」
丁「へエ……六十五匁、三十五……」
主人「エヘン、番頭どん、ひどい今お前さん大きな声を出していなさったが、何じゃったいな」
番「へエ、ツイ常吉が、何じゃろうと居眠りを致します、行燈の火を見たらすぐ居眠りますので、それで叱っておりますので、ツイ大きな声を出して貴方さんのお耳へ入って、大きに恐れ入ります」
主「イヤ、常吉が居眠ったので叱っているのばかりではなかった、何遍も何遍もくそやかましいとかいうていなさった、あれはだれにいうたのじゃ」
番「へエ……」
主「イヤ、だれにいうていなさったのじゃ、エエ―乃公が今聞いておれば市助が火元廻りに来て、それが二度いうたさかいというてお前さんはあのような荒くれない言葉つかいなさったのじゃ、お前が御苦労御苦労というたのも、私に聞えていた、けれども市助もどうやら酒が廻っていた様子じゃよって、味好うよう聞き取らなかったのじゃろが、それを、くそやかましいの、奴執拗いのと、なんていう荒くれない物言いをなさるのじゃ、これが船場のどこそこの店を預っている番頭といわれる仁の言葉か、あの火元廻りは市助が己れ勝手に、酔うた紛れに、すき好んでいうて歩いているのじゃアないぜ、寒い時分になると火事が多いよって、お上から、気をつけるようとお年寄へお達示になって、それでお年寄の旦那が一々廻って下されたら、此方は店に坐っていて、御苦労御苦労というておられるか、入口を開けて、御苦労様でござりますと、一一叮嚀ていねいに御挨拶申さねばならぬ、それゆえ会所へお年寄からいいつけ、会所は下役にいいつける、して見れば、市助がいうておるのかと思えば会所がいうのじゃ、会所の言葉かと思えばお年寄のお言葉じゃ、そのお年寄が承わったのは奉行所からのお達示、その根本はというたらこういうものじゃ、それをば、奴執拗いのくそやかましいの何てことをいうのじゃ、コレ、ついでじゃよって私はいいまするが、チョイチョイ細かい質を持って来やしゃる仁がある、ツイこの間も、乃公は内方で聞いていただけじゃよって、どれくらい値打のあるものや知らんけれども、五百文貸してくれえと先方がいうているのに、イヤ、このようなもので五百文も貸せまするものか三百文より貸せません、それならどうぞ四百文貸しておくんなされ、四百文も何も三百文よりいけません、それで気にいらにゃア持って帰りなされと、そのどうも情ないいい方というものは、相手が貧乏してござる仁じゃからというて、何で見下げなさる、つまり当家の商売は何じゃ、金銭をたくさん持っている人は決してお得意じゃアないわい、よって、なるほど値打のないものであったじゃろけれども、先方さんは僅かな銭に困っておるのじゃろう、そうなら三百五十文貸しましょうと愛想でもいやアいいにと私は思うていましたけれどもマア到頭先方が根負けして、そんなら三百文でよろしいと、どうぞ札を書いておくんなされというたら、三百文やそこらの質の札を書けというのが腹が立つのか、返事もせず、その銭も味好う手に渡すことか、結界の内方から投り出して、札を向うへ吹き散らして、まるでお客様を無心者同様に、お前さん扱うていなさった、この札などはな、先方は黙っていても、こっちから書いて渡さにゃならぬ、大きい質は間違いの出来た時は、却って事がすみやすい、細い質は間違うたりなかなか面倒なものじゃ、その辺のところがわからぬお前でもあるまいと私は思う、するとその仁は引返して受出しに来るのは、何か異ったことがあるのではないか知らんと、私は思うていました、やはり異ったことがあったわい、お前さんその品物だけ渡したら、まだ二品足りませんと先方がいわれる、お前さん持って来たのはこれだけだ、何が足らん、そんなことに間違いがあるものというて、ひどう立派にいうていやしゃった、ところが、この札をば見ておくんなされ、もう一品足りませんぜ、女の布子一枚、ただししらみ二合付と、肩口にお前さんしょうもないてんご書しなさった、サアその一合のうち一匹欠けても承知せぬよってといわれた時は、お前さん詰ってしもうたやろう、幸いその時町内の髪結人が来合せて、マアともかくも今日のところは帰って下され、私がいずれ話に出るさかいというて、マアどうなりこうなりその場は帰りなした、後で聞いて見りやア、髪結人どんが彼方此方彼方此方と何遍もして、何ぼかお金を出して、マアすましてもらうと、いうことを聞いておるのじゃ、またこの常吉は、行燈の火を見ると居眠りをするというのじゃが、此奴もようない、けれどもお前も、居眠らずにここまで大きゅうなって来たものじゃアない、行燈の火どころではない、茶碗と箸を持って居眠っていたわい、頭の白禿がないようになったと思やア、だんだん増長して何と心得ておるのじゃ」
番「まことに私が重々悪うござりました、この後は心得まするゆえ、どうぞこれまでのところはお腹も立ちましょうけれども、どうか御堪忍下されまするよう」
主「ムム、私が悪かった、この後は心得る、ヤッよろしい、その一言で私は何にもいいません、自分のこれまでのことが悪かったというとこへ気がついてくれたら、私は何にもいいません、お前さんは間に合う仁じゃよってに、私はこの商売を任せてあるのじゃ、ついては質屋の亭主が出るというと、何じゃ置く方に気がつかえて具合の悪いものじゃそうな、よってお前さんに任せて置くというて、間に合わぬ仁ならそういうわけには行かぬ、間に合うのじゃ、そやよって万事に気をつけて、マア不都合のないようにしてもらわにゃ何もならぬ、まさか町内の下役にお前さんが悪かったというて詫まるわけにも行くまいけれども、明日でも表を通りよったら、呼び込んで、そこはどうなと味好ういうて置いてやりなされ、ナッ、禍いは下からということがあるさかい、よそへ行って、己れの悪いことを思わず、お前のことを悪ういうて歩いておるてなことが、ツイ耳へでもはいりゃ、あまり面白いものじゃアないさかい、そこはほどよう、ついででよろしい、表を通ったら呼び込んでそういいなさい……コレ常吉、汝は居眠るのじゃないぞ」
常「イエ、別に私は……」
番「コレ、やかましい、へエというたらいいのじゃ」
主「モウしかし時刻も晩いさかい寝やしゃれ」
両人「大きにどうもありがとうござります」
 その晩はお寝みになりました。翌日になると、表を市助が通りやせんかと、番頭は気をつけておりました。市助の方も、酔うてはいたけれども、ここの家で昨晩怒られたということは薄ら覚えています故、表を走って通りました。
番「コレ丁稚、市助があっちへ行った、ちょっと呼べ」
常「へエ…‥市助どん、市助どん……聞えぬ態してあっちへ行きます」
番「コリャ、コレ市助どん、ちょっと、ちょっと」
市「へエ……」
番「ちょっとこっちへはいっておくれ」
市「へエ、どうも夜前はまことに……ちょっと和泉屋さんの方で、こんなのがあるよって、これ持って行って飲めとおっしゃって下すったんで、少しそのべ酔いましたので、どうもまことに相済まぬことでござりました」
番「マアこっちへはいりなされ、お前さんが何にも昨晩酔っていたさかい、それを私があれこれ不足をいおうというので呼び込んだのじゃない、昨晩のことは私からお前さんに断りをいわにゃならぬ。ツイ丁稚が居眠るものじゃさかい、それを叱っておる途端であったのじゃ、かっとして荒い言葉を使うてな、どうぞ気にせんと置いておくれ」
市「イイエ、どうつかまつりまして、気にするのどうのッて、私が悪うござりました、エエ御用事はどこぞへお使いにでも参じまするのでござりますか」
番「イイヤ、そうじゃアない、マア店ではお客さんでもあるといかんさかい、こっちへはいりなさい」
市「エイ……」
番「マアどうぞ掛けておくれ……そんなとこにすわって居ては腰が痛い……イイエ介意ない、掛けなされ」
 この以前の町内の下役などというものは、許してもらわねば、なかなか敷居から内方へははいらなかったくらいなものです。しきりに遠慮をしておりましたが、番頭がたっての勧めに
市「それでは御免蒙りまするでござります」
番「お前さんを呼込んだのはな、何でもないことじゃ、今日は乃公のな、母の祥月命日にあたるのじゃ」
市「へエーそれはどうも、してお寺の方へでも……」
番「イヤ、そうじゃアないのじゃ、ところでそのマア乞食に報謝でもしたいのじゃが、どうも奉公をしている身の上で、御主人の家で報謝するのもはなはださしつかえるどうしたらよいか知らんと思うておる、ところがお前さんは、聞きゃアひどい酒が好きじゃそうな」
市「へィ、ツイ好きなので、御酒が好きでそれが為にチョイチョイと失策がござりまして会所の旦那に不断叱られておりますけれども、マアその自分で酔うほどはなかなか飲むことは出来ません、いつも町内の旦那様方の爛冷がどうやとか何とかいうのをお貰い申した時やら、そういう時はツイ余計飲み過しますんで、それで会所の方でも、ツイ饗ばれた先が饗ばれた先ですさかい、これだけは堪忍してもろうております」
番「そこでな、ひどい失礼な話じゃが、お前さんのような仁に酒を飲んで歓んでもろうたら、幾分か亡者の供養になるか知らんと思う、それでお前さん一口飲んでもらいたい、どうじゃろう」
市「さようでござりますか、夜前の一件でひどうお叱りを受けるかと思うて案じておりました、それは結構でござります、頂戴いたしますでござります」
番「丁稚、ちょっと調えたのを持って来い」
市「エエ御当家さんでお饗ばれ致しますると恐れいります、厚顔しうござります、けれども容器をお借り申して頂戴して帰ります」
番「イヤイヤ、そうじゃない、どうぞここで飲んで行っておくれ、遠慮も何もいりゃアせん、私の方からたのんで飲んでもらうのじゃ、亡者の為に……よし、そこに置いとけ……サッ、どうぞ飲んでおくれ」
市「これはどうも大きに、お言葉にしたがいまして頂戴いたします……常吉どん、大きに障りさんでござります……へエー、こりゃアどうもえらい御馳走で」
番「イヤ、何にもないのでへ万菜ばんざいとな、こっちの方は、これは旦那様が至ってお好きなので、それを少し色取りに、しかしお前さん好きか嫌いかそれはわからぬが」
市「へエーあちゃら、こりゃア私しゃア至って好物でござります」
番「どうじゃ、爛はぬるいことはないか、乃公は酒は一滴も飲まぬさかいわからぬけれども、酒は爛の具合で甘い不味いがあるということを聞いている、ぬるけりゃアもっと熱うさせます」
市「イエ、結構でござります、ごく上等でござります……どうも何ですな、我々が端下銭を持ってちっとずつ買いに参じまするのは、時とすると悪い中にもう一つ品が変ったりします、御当家様あたりは、チャンとなだの銘酒を菰樽でお取り寄せになっていますよって、どうも結構でござります、……酒というものはさア、見付によらぬものでござります、紀伊国屋の旦那様はよう肥えてござって、肉色で、酒の一升もあがりそうな見付に見えてござりますが、それにあのお仁は一滴もあがりません、八幡屋の旦那様は痩形で御酒はお嫌いそうに見えてござりまして、なかなかあがります、どうも見付によらぬものでござりますなア……アーどうも万菜とはいいながら、この同じ菜の煮いたのでも、御当家あたりは醤油が台に違います、ところへ油揚が大きく切っておますこと、味が違います、アー結構でござります、始終お町内で油揚を万菜にお使いなさるのでもこう大きく切っておいでなさるお家はあまりござりませんぜ」
番「イヤ、阿呆らしい、そんなことがあるものか」
市「イイエ、諂言じゃアござりませぬ……こりゃア私は別に昼御飯をどこでお饗ばれしましたという覚えはござりませんが、何ぞ法事ごとでもお勤があれば、そりゃア饗ばれますけれども、知れてあることには、何処さんは御家内が幾人あるというて、豆腐屋へ油揚買いにお出でなさるその割合で大きゅう切るか小そう切るかてなことがわかります、御当家様は御家内のすくないのに、豆腐屋さんで聞きますというと、油揚買いにお出でなさるのが多うござります、それで第一わかってござります……大きいもので、ツイうかうかしゃべりしゃべりいただいておりますと、ちょっとこう酔うて参じました」
番「そりゃア結構じゃ、どうぞたくさん飲んで下され、お前さんに飲ませているのじゃ」
市「ヘエへエ、そうおっしゃって下さるさかいツイ御遠慮なしに頂戴いたします……アッ常吉どん、モシ、アー常吉どん、感心しました、もう爛筒の酒がないようになって、今注ぎましたので、それを貴方さんから、まだ市助酒あるかとおたずね下されたらないにしろ、へエまだござりますとか、もうこれで結構とか、私は御遠慮申さにゃなりません、それを貴方さんがフッと目加あそばしたら、私が注いで下に置く爛筒をばまだ手を離さぬ先に、引奪って持って行きはりました、感心ですどうも、お仕込み方が違いますさかいに、これは、常吉どん大きにはばかりさん、もうよけいいりません、上の段のところまでよろしうござります」
番「その上入れられりゃアせん」
市「へエ、やッ恐れ入りやす、ハハハハ、仕様もないことを申し上げました……へ、こりゃアはばかりさん、御当家あたりはもういつでもお湯が沸いておりますさかい、お爛がじきにつきます、我々がモシ番部屋で勝手に飲む時にほ、火から拵えてかからにゃアなりません、爛するのに暇がいります、アーまことに結構です、この甲州梅、こりゃア『あちゃら』にようあいます、ちょっと酸味があって、酢の酸味とは違います、梅ッてものはモシ、なかなか急に実らぬものと見えます、梅は酸い酸い十三年なんて申しますさかい……アー常吉どんはモシ、ようお使いなさるのに路で遇いますが、常吉どん、ちょっと見ておりまする間にピューと走ってです、お使いで早うござりますやろう、へエーよそさんの悪口いうじゃアございませんが、丁稚衆さんが使いに出ても、始終よそ見してでござりますが、常吉どんに限ってさようなことはござりません、いつでも走ってです、このお子はモシ、行くゆくは出世してです」
番「イヤ、諂言いわいでもよい」
市「イエ、諂言じゃアござりませんけれども、アハハハハ仕様もないことを申して……一遍モシこのようなことがござりました、しかし貴方さん忘れてござるか覚えてござるか知りませんが私よう覚えております、何でも雨が三日四日降り続きました」
番「いつのことじゃい」
市「いつじゃったか、それは忘れましたが、何でも春先でござりました、一日カンカン日和になった時、大和屋さんの表に傘が乾してござりました、すると紙屋の犬です、あれヱ貴方、その傘へ小便しかけております、するとや番頭がそれを見やしゃって、傘でしたか、他の棒であったか知らんが、そいつを振り上げて投げてでした、そんなことをせんでも相手は畜生じゃよって、何にも知りゃアしません、雨天に入用の品物とも、何ともそんなことはわかりゃアしません、だから追うてさえやりゃアいいのでござります。どうも番頭さんに似合はぬことじゃと思うておりました、けれども、我々なかなかそんなことをいえるわけじゃアございませぬ、見ておりますと、ピューとそれを打付けました、するとその棒が貴方、犬に当らんと傘に当って二ヶ所破れました、モシその犬奴がまた御当家の表へ来ました、ところが御当家には消炭が乾してござりました、軒のところに、そこへ来て犬の掛尿、また小便しております、そこが畜生じゃござりませんか、今向うで当らなんだからよかったが、すんでのことに痛い目に遭いますのをようよう助かって此方へ来て、また小便、貴方見てござったよって、アーどうなさるか知らんと私しゃアジッと見ておりました、サア、それを貴方覚えてござるかどうか、私しゃアよう覚えております、どうなさるか知らんとジッと見ておりましたら、小便をスッカリしてしまうまでジッとほっといて、してしまいおってから、シーというて貴方さん追うておやりなさった、まことに感心しました、ナニ犬などは物をよういわぬけれども、それだけのことを知っておりますわいな、それ故彼方へ行き際に、貴方さんの顔を見てお辞儀をしておりました」
番「オイ、しょうもないことをいいなさるな、犬がそんなことをするものか」
市「サア、そうでやすけれども、私しゃア犬の腹の中ではそんなものじゃろうと思います、へエ……ア、常吉どん、ちょっとひど厚顔しゅうござりますけれども、もう一つ頂戴いたします……へエ、こりゃ大きにはばかりさん……一遍モシこんなことがござりましたなア、あれはこうっと、何年程になるか夏のことで、和泉屋さんの丁稚衆さんが表へ水を打っておりました、するとそこへ通りかかった仁へ、出遇い頭にパッと水が掛ったのです、相手は悪い奴で、承知するのせぬのというてひどうゴテつきました、その時に私がそこへ行き合せましたものですさかい、だんだんたのみました。マアどうなりこうなりすみましたのです、丁稚衆さん泣くやら、お店の者は心配なさるやらしました、マアそれ程の御心配やったが、私のような役に立たぬものですけれども、マアだんだんたのんで先方も承知してくれました、そうするとモシ、私への礼というわけじゃアござりませぬけれども、お心付がモシ、天保銭二枚です、エエーィ、そりヤア二枚が一枚でも、また頂かんかて、何もそれをどうこういうのじゃアごわせんけれども、あまり心なさ過ぎると私は思いますのです、イヤ、酔うていろいろのことを申し上げて恐れ入ります」
番「市助どん、アアもっとお前に飲んでもらいたいけれども、私もちょっと他に用もあり、お前さんもまたあまり飲み過ぎて、肝心の用が遅れたりすると、ツイ私の方でも気兼ねをせにゃならぬ、マア今日のところはこれでしまい、ナッ、それだけで納盃とこうして置こう」
市 「へイへイ、モモこれでもう私から申し上げようと思うておりましたところで、貴方さんにそう仰せられましては実に恐れ入ります、もう私は今度おすすめ下されても、もうお断り申そうと思うておりました、貴方から承わりましてどうも恐れ入りました、大きにどうも、この上にもうよう飲みません、酒が好きであって、そんならばというて、もうよけいはよう飲みません、大きに常吉どんはばかりさま、ちょっとかたづけてもらいましょう、アー好い具合に酔うた、エへへへへ……アア、コレコレ、そっちへ去け、何にもありゃアせん、オオ去きよったか、へへへへ、私しゃアここに居ることを知らんで来おった、町内では、さっぱり市助は三文の値打もござりませぬ、どこへ行っても頭が上りませんけれど、もあアいう乞食にかかったら、そりゃア好い顔でござります、私が居ることを知ったらよう立ちゃアしません」
番「しかし足許はどうじゃいなア、常吉にちょっと送らせようか」
市「何をおっしゃる。足許は確かなものです、これぐらいな酒で……イヤ、これはえらいどうも……足は確かで、さよなら、常吉どん、お使い早うしなされや、ナア、賢い賢いアー酔うた、そんなら御免を……」
△「オイ市助」
市「ヘエ」
△「ちょっと若い者が寄って一杯飲んでいるよってお出で」
市「ヤッ、モモもうけません、只今質屋さんでたくさん頂戴しました」
△「マアよいがな、まだ飲めるがな」
市「他に用がござりますよって」
△「マアいい、来て一杯飲め、マアマア」
市「そうですか、そりゃアどうも……」
 前に酔うているところへさしてまた飲まされました。酒を飲むと少し悪うなりますが、平素はまことに町内で可愛がられております。というのは、御大家でも、また御大家へ出入するような仁にでも、ちっとも不同せぬ、物事をたのまれたら、親切にする温順しい男ですから、若い衆にも可愛がられて、酔うている上へ飲まされて、もう今度は正体ないようになってしまいました。
△「オイ、市助はどうしたいな」
○「大変酔うているよって番部屋へほうり込んでやった」
△「もうお前、火元廻りに廻らにゃならぬ、失策りおったら可哀想じゃ、行って起してやろうオイ……市助、市す、早う起きて火元廻りに行かにゃ叱られるぜ、オイ市す」
市「ダダだれややかましい、市す、市すてな名があるか、お上へ出た時に、私は市すですといわれるか」
△「アッ怒ってござる、マアそんなことはどうでもいい、早く火元廻りに行かんと叱られるぜ」
市「ほっとけ叱られようとどうしようと、酒は飲んでも飲まいでも、勤むるところはきっと勤むるというのじゃい」
△「何いいくさる今まで寝ていて、サッ、早う行け」
市「行かいで……火元大切にお頼み申しますぜ」
甲「ハイ、御苦労さん」
市「御苦労でのうて……火元御大切にお頼み申しますぜ」
乙「ハイ御苦労御苦労」
市「御苦労御苦労……紙屋、火元大切にせえよ」
紙「コレ、何てことをいいくさる、また酔うておる、酒癖の悪い奴じゃ……ハイ、御苦労じゃ」
市「御苦労じゃ、吝嗇家奴が……火元大切にお頼み申しますぜ……火元を大切にお頼み申しますぜ……アッ、返事せんな、コリャ、火元を大切にせんといかんぞ」
紙「市助、何いうてるのじゃ、そこは空家じゃ」
市「アッ、空家は応答はせんわい……火元を……」
内「御苦労御苦労」
市「早いわい、大切にお頼み申しますとか、気をつけて下されとかいうてから、御苦労御苦労といへ、何にもいわんうちに御苦労御苦労なんて……火元を大切にせえよう……馬鹿にしてけつかる、酔うておると思うて、大切にせんときかんぞ……」
 もう質屋の家からちょっと二三軒も間があると、あまりいいようが荒いものですよって、番頭はこの声を聞いてえらい心配です。
番「こりゃアえらいことをしたわい、あれ程酔うておるとは思わなんだが、ちっと飲み過ぎたかいなア、あれからまた飲んだのか、市助がに際にはあんなに酔うていなんだがなア……丁稚、マアトントン叩かぬ先にな、潜戸くぐりど開けて、家の表へ来たら、御苦労御苦労というてやれ、ちと酔い過ぎている……コリャ、また居眠ってくさる、もならんなアこいつは……」
 番頭は入口のところへ来てジッと待っています。隣家までドンドンと叩き歩いていた市助が、ここで昼間酒を饗ばれたということがやはり腹にあるものと見えて、ほんのコツコツコツコツと、雨垂落ちみたように叩いております。番頭は潜戸を開けて、
番「市助、私とこは火元は大切にしますぞ」
市「滅相な。御当家はどうでも大事ござりません」


上方はなし「市助酒」について

「市助酒」のロ演者
 桂文左衛門、本名渡辺儀助。はじめ二十五歳の頃、当時有名なる初代桂万光の門人南光と称し京都にて出勤す。その頃の真打立川三木の門に入り三木助となり、明治五年の冬当時の大立物初代桂文枝の門人初代桂文三となり、明治七年四月三日師匠文枝投し二代目文枝となるその後明治三十八年に桂文左衛門となる。初代文枝の四天王の第一人者。「市助酒」は十八番中の十八番物です。
 三代目桂文団治、本名前田七三郎。初め二代目立川三立斎門人三吉という。後に二代目桂文枝門人文朝となり、三代目林家菊枝門に入り菊松となり、二代目桂文団治の門人米朝、順朝といい、二代目米団治となり、その後明治四十一年十一月三代目桂文団治となる。
 四代目桂文吾、本名鈴木幸三郎。はじめ桂錦枝門人錦治という。二代目桂文三門大木松または三鶴となり、後に藤兵衛門に入り藤枝となり藤茂栄となり小文吾となりその後四代目桂文吾となる。この人は酒呑の噺を十八番物とする。当今この噺を演ずる人はない。
 以上





底本:上方はなし 第八集
   楽語荘・1936年発行

(復刻版:上方はなし・上 三一書房)

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