佐々木裁き(ささきさばき)

五代目笑福亭松鶴




 エエ一席お邪魔を致します。よく只今と昔と替りがあると申しますが、とりわけ、目に立って変りましたのが、交通風俗、今、一つは公判廷。昔の御奉行所時代とは余程、相違がある様で、江戸は旗本八万騎と申しまして、旗本が沢山おいでになります。中から、八十人怜悧れいりな人を抜き取り、八十人から八人、八人から一人と洗い揚げて、奉行という御職におつきになります。シテみると、頓智のすぐれたお方が、おいでになりましたに違いない様です。その奉行の中で、一番務めにくかったのが、京都。京の奉行は誠に務め難かったそうで、何しろ、宮家どころで御所がお近いので、僅の事でも御所の方または、公卿衆の方から、槍を入れられるので。腕のにぷい、お奉行様は、京都では、往往、泣かされたと申します。只今も残っております、八瀬の里、昔は、御公卿様のお子様が、お育ちがお弱いと、八瀬の里へ預けましたので、無事に育つとか、達者で育つとか申しまして、また、大阪京都辺りでも、大家では、お子様が弱いと、いまだに八瀬の里へお預けになるようで、なんぼか、養育料を出しましていまだに、里子に遣ると、通言が残っております。この八瀬の御亭主が、妙な、習慣で、名前を呼びません所で、自分の生れました故郷、国所を名前の様に呼び伝ます。一寸聞くと、お可笑かしい様で。
○「ヤア、伊勢」
△「何んじゃ美濃」
美「オイ、おのれ、俺の事を美濃やというが」
伊「美濃やないかい」
美「美濃には達いないがなア、俺ら、過日から思うてるのや、何んじゃ伊勢やとか、大和やとか、乞食が、こんな、呼び方をしているぞ、仮にも、御公卿様のお子様を、お預りしてお乳をあげようというのに乞食と同じ様な名前ではお可笑いやないかい、お奉行様へ願をあげて、守名かみなを許して貰おやないかい、伊勢なら、伊勢の守、丹波なら丹波の守、そしたら、大名と同じ様に聞えるやないかい」
伊「こら好かろ」
 ……と願書にしたためて、恐れながらと願を上げました。この時の御奉行様、困ったそうで、見ると守名を許してくれとある。成らぬといって、ポーンと蹴ると、公卿の方へ突込まれる、というように、京の奉行は誠に勤めにくいらしい。というて僅のこれぐらいの事を、江戸伺いという訳にもいかず、追って沙汰を致すると、その日はお下げ渡し。日が過って、お呼出し。
奉行「八瀬の里、一同出ましたか」
八瀬一同「へエ、恐れながら、一同控えましてござります」
奉「願書のおもむき、守名を許してくれとあるが、しかと左様か」
八「へエ、恐れながら、守名を許していただきとう存じます」
奉「願の趣き、たしかに承知致した……が『の』の字を附ける事はならんぞ」
八「イエ、『の』の字も、何にも入りませんので、守名さえ許して貰えばよろしゅうござります」
奉「守名のみならば、許してつかわす、必ず『の』の字は附けるな」
八「有難う存じます」
八「どうや、願うてみんならんもんやろ、下ったがなア」
甲「うれしいなア、俺は今日から、丹波の守やなア」
△「へエ、オット、『の』の字はいかんというてたぞ」
甲「ヘーエそんなら、丹波がみ、オイこら、工合が悪いぞ」
美「オイ、俺は今日から、美濃の守やぞ」
甲「オイ『の』の字はいかんのやぞ」
美「そんなら、美濃がみ」
甲「障子紙みたいなぞ」
 これは、いかんというので御返しをしたといいますから、お奉行様なぞは、頓智の勝れた方がおいでになった様で。その奉行の下を働く手先、俗に岡引、これがある時、願いを上げた。十手、お捕縄だけでは、大賊に出会った時に困るから、両刀を許してくれと願を上げました。昔は町人でも一本差、岡引は、もとより町人、その上十手捕縄が下がりおりますだけ、相手の泥棒は、何に化けて来るやも判りませんから、二本差にさしてほしい。二本差せば士分、武士も同じ、と……この時、お奉行様、交代前で、許してお出発になりました。すると、替りのお奉行様がござりまして御目見得で、与力同心衆ははるか、末座に岡引が長い刀を脇に置いて控えております。
奉「ありや何んじゃ」
与力「恐れながら申上ます、手先にござります」
奉「手先き……(思案顔する)……両刀たばさみおる様じゃが」
手先「恐れながら申上ます、前奉行和泉守様に許して頂きましてござります、何卒大刀お許しの程願わしゅう存じます」
奉「オウ、前奉行、和泉殿許されたか、知らぬじゃった、許せ(思案の態)前奉行許されたとあらは、この方も許そう、もう一本差して呉れ」
 こりゃどうも工合が悪い様で。俗に二本差、二本で形がとれるので、一本増えて三本となると妙な物が出来ます。刀を三本差して威張っているのは「車引」の梅王だけでして、刀が三本だけで済めばよろしいが、お奉行様は度々交代なさる、交代した奉行が、余も一本と来た日にゃ、仕舞には刀で腰の回りを、取巻いて仕舞う事になる。これでは、いかんというのでお返しして、元の一本差になったと申しますから、許してご出発になったお奉行様もお偉いが、次のお奉行様も頓智が偉かったと申します。すべて裁きは大岡に取られ、太閤は秀吉に取られ、宗師は日蓮に取られ、大師は弘法に取られ、月掛の頼母子たのもしは落語家に取られ……イヤ、左様な事はござりませんけれども、大師さんにも伝教大師、見真大師、また達磨大師など、大師も沢山にござります。達磨大師などは、煙草屋の看板に雇われたり、手品の道具に使われます様なお仁がありますが、空海上人、弘法大師ときまっているようなことで、それで太閤と申したら、豊臣殿下に限る様に申します。これもこのお仁にお徳がござりましたからで、裁きは大岡裁判、日本三明智の中の一ツでござります。数多あまた裁判もござりまするが、すべて裁き物は大岡に限りますので、塵芥でも大岡で捌ける……イヤ、それは大川です。この大岡様は、なぜ彼様あのように裁判が巧かったかと申しますると、以前はこの奉行所に与力同心が附いておりまして、この与力というものは、大阪で申しますと、天満与力同心衆、江戸表では八丁堀の与力同心衆。これは何の位の格を取るものかと申しますと、先ず七十石から八十石位の格でござります。が、屋敷の暮しを見ますと、一万石以上の大名よりも宜い暮しを致しておりました。なぜそういうことが出来るであろうかと申しますと、昔は袖の下、賄賂というものが行われました。先ずこの笠の台を飛ばされる者でも、当今で見れば、死刑といえば余程重うござります、が、昔は人の首を斬るのを、菜や大根を切るように思うておったもので、まず只今の十銭、昔の二朱、この金でも封印を切ると、笠の台を飛ばされたもので、憐れなものでござりました。そこでお掛りの与力衆に懇意な者に頼みまして、お菓子の折の下に金を布いて参りまする。当今なら紙幣でござりますけれども、その昔は正金でござりました。で、下に金を敷き、上に金平糖などを入れて、お茶菓子といって持って出ますと、一寸持ってみたら、アア、こりゃ金の重みであるということが分るのです。そこでこの度の事件はこうして下さいと頼み込みますと、直なる者も曲に陥し、曲なる者も直にし、与力同心の腹で以て、天下の政道がげられたもので、誠に不都合な次第でござりました。が、当今は有難いことには、左様な事は毛頭ござりません。昔はこれが宜く流行ったもので、そこで大岡様という仁は、与力同心にその調べを任しません、若しお任せになって、この様な事ですと、天下の政道をげて圧制あっせいを行うようなことになる、そこで小さな事件でも、御自身自らお裁きになったもので、大岡裁判という小説には、畳屋三右衛門の一両損、また姦通猫裁き、白木綿裁きなど申して、これは一々申上げるまでもなく、読者の皆様方御案内の事と存じます。それで大岡さんというお仁は、斯く御熱心であったから、お名が高かったのでござります。大岡様に続いてのお奉行というのは、頭山様と申して、これは吉原の花街くるわ無頼漢風でんぽうはだでお歩きになった仁で、続きまして、根岸九十郎様の御子息肥前守様、この方は芝居で演りますと倶梨迦羅くりからの白太郎と申し、これはこもまで被りなすった仁でございます。維新後でございますと、あの大津の松田様という様な仁は、なかなか面白いお裁きをなすった仁でございます。
 ところが嘉永年間に大阪西町奉行に、お坐りになりました佐々木信濃守。大阪与力同心が、賄賂を取り過ぎて困る。意見の一つもと思うてござる矢先へ、大阪へ交代。来るには来ましたが土地の勝手が判りません。与力同心を意見しに来ながら、その与力同心に土地の案内をさす訳には参りませんので、毎日、町を密行おしのびでお歩きになります。ある時は、百姓又は町人、又は職人。今日も田舎武士という風態こしらえ、小紋のお羽織、家来を一人お連れになりまして、お役宅をお出ましになりまして、直ぐ浜通りを南へ、末吉橋附近まで参りますと、只今の学校帰り、その頃の寺小屋戻り、八刻やつ下りと申しますから只今の午後二時過ぎ、七八歳から十二三の子供が七八人、中で二人が荒縄で手を縛られております。縄の端を持って、竹切れを十手の心持で「ホーホ、ホホ」手先という心持、お奉行様、御覧になり、佐「三造、如何致した。子供を荒縄で結えおる様じゃ」三「一応取調べまして」佐「イヤ、所が変れば遊びも変る。上方では、斯様な遊びが流行るのじゃろう。何にを致すかついて参れ」お奉行様は後から、尾行ついて参ります事を、子供は存じません。末吉橋を渡ると安綿橋、南詰が住友様の浜のとこ、以前は一面、高塀になっておりました。浜に材木が沢山積んであります。その間から茣蓙ござを二枚出して、子「下に居れ」材木の端へ子供が手をつかえ「シイー」と制止の声を掛けますと、うしろから出ましたのが、年は十二三、寺小屋戻りで、顔は墨で真っ黒、さかいき(髪)をのばした、悪戯ざかりの子供。
子△「両名の者、頭を上げ。道路に置いて口論の上、しかのみならず、喧嘩を致す、喧嘩の初まり申上げい、斯く申すは、大阪西町奉行、佐々木信濃守、つぶさに承たまわる」
佐「三造三造聴いたか、あの奉行は、佐々木信濃守じゃと申す、ハハハハハ、予と同姓じゃのウ」
三「子供の戯れとは申しながら、余りの振舞、一応取調べて」
佐「イヤ、何にも子供の戯れ事じゃ捨置け捨置け」
 お奉行様、御覧になっておりますと、竹を持った子供が、
○「コレコレ往来に立っている侍、吟味の邪魔じゃ。脇によって控えておれ」
 ひどい奴がある者で、お奉行さんを竹で追うている。
△「おもてを上げい、何故に口論いたしたか」
□「恐れながら申し上げます、私、町内で物知り物知りと申しますけど、物、知りませぬので、そうするとこの菊松という子供が、物知りなら尋ねるが、一ツから十まで『ツ』があるか、無いかと申します、『ツ』があるか、無いか、そんな事は知らんといいましたら、知らん癖に物知りやなんて言うな、と、申したのが喧嘩の始めだす、お役人のお目に掛りまして斯くの次第、何分御憐憫をもちまして」
△「菊松とやら、尋ねたか」
菊「ヘエ、余り物知り顔して、威張りますさかい、一本突込んで遣ったのだす」
△「今日は差許す。以後、喧嘩致しては相成らんぞ、下役の者、両名の縄を解いてやれ」
□「有難う存じます、お奉行様まで、一寸お尋ね致します、一ツから十までに『ツ』が有るものでございますか、無いものでございますか」
△「一ツから十まで『ツ』が揃うているわい」
菊「それでも十ツとは申しゃ致しません」
△「十ツとは云わぬが、一ツから十までの内一ツ盗んでいるものがあろう……判らぬか、一ツニッ三ツ四ツ五ツツ、五ツツのツを取って、十につければ、十ながら『ツ』が揃うておるわい」
両名「恐れ入りまして御座ります」
△「道路において、口論の上、しかのみならず、喧嘩を致し、かみ、多用のみぎり、手数を掛くる段不屈の致り重き刑にも行うべき処、格別の御憐憫を以て差許す、以後、喧嘩、口論致せば、屹度きっと、究命申附けるなり、其の旨、心得て立ちませい」
 脇でこれを聞いてお出でになりました佐々木様、
佐「コレ、三造三造、他の子供は、かまわぬが、あの奉行役をした子供、親あらは親諸共、尤も町役附き添い、西役所まで、即刻出る様に」
○「ヤアーお奉行さんは四郎やんが一番旨いわ、明日から奉行あんたに極めとくわなア、左様なら」
△「左様なら」
菊「左様なら」
○「左様なら」
 バラバラ左右へ別れて帰りました。佐々木の御家来、見失なわぬ様にと、後をつけて参りますと、子供というものは、其直ぐに帰らぬもので、アッチへ寄ったり、脇見をしたり、佐々木の御家来、ウロウロして「何んじゃ、ここの子供でもないのか。又出たな」漸く帰って参りましたのが、松屋表町、桶星のせがれで親父は一生懸命仕事をしています。
△「只今」
親「早よ、帰れやイ、早よ、遊びに出さんとはいわんに、一旦帰ってから遊びに出い、コレ、遊ぶのもええが、子供らしい遊びをせいよ、御番所などして見たり、盗人などしてみたり一寸、ええ役さして貰わんかい。盗人役ばっかりされたり、表を縛られて歩きやがって、みっともないがなア、その上に竹で、尻をピュウピュウたたかれたり、尻が紫色に腫れ上がっているがなア、親は夜通し、さすってやっているのが判らんのか」
四「イヤ、お親父さん、色々苦労掛けて済まん、けどマア、安心して俺も今日から、奉行とまで出世した」
親「あはなこと、いうない」
四「あれ、皆、東さんで遣るのやけど、東のお奉行さん、大根で、評判が悪るいさかい、俺ら西で遣ってやった、今度、江戸から出て来よった、佐々木信濃守」
親「コレコレ、見世の端でそんなこというてたら、あかん、今度の西のお奉行様は、至って怖い人や」
三造「アハ、許せ」
親「ヒエ……」
三「この子供は、手前方の子供か、身は、西町奉行佐々木信濃守の家来じゃ」
親「それそれ、いわん事やないがな、あの、どんな粗忽を致しましたか存じませんが、対手は子供のことでございますので」
三「イヤ、この町名は何と申す、何に、松屋裏町か、その方は」
親「高田屋綱五郎と申します」
三「せがれは」
親「四郎吉と申します」
三「年齢としは」
親「四十六でございます」
三「白痴たわ、小児の年齢じゃ」
親「十三でございます」
三「其の方附添い、町役附添い、西役所まで、速刻出る様に、町役へはこの方が申し附け置く、ヨイノ」
 町には自身番会所というものがござりました。それへいい置いて立ちになりますと、町内はひっくり返る様な騒ぎ。
番太「旦那様、御苦労さん」
家主「何にかい喜助、この辺の子供は、そんな事して遊ぶのかい」
喜「何んぼ、いうても、聞いてくれやしまへん。ことに、桶屋の息子と来た日にゃ、私等のいう事、馬鹿にして仕舞ます」
四「どなたも、御苦労さん」
菩「フーン旦那、お聞きしたか、あの通りでやすやろう、大きい者が心配してても、肝人の本人はゲラゲラと笑うて、御用の多いとこを御苦労さん、葬式でも頼まれてる様な気でいるのですさかいなア」
家「コレ四郎さん、お前、またお奉行さんごとをしてたのやないかい」
四「へエ、住友さんの浜のとこで」
喜「難儀やなア、子供らしい遊びをしてくれりやええのに、誰も見ていやへなんだか」
四「小紋の羽織を着た武士が見てました」
喜「御武士、その着てた羽織に紋でも、ついてやへんかえ、気が附かなんだか」
四「ヘエ、四ツ目の紋がついてました」
喜「へエ……ヒエ、四ツ目……佐々木さんでやす、イイエ……油断がならんのでおます、近頃町を密行おしのびでお歩きになりますさかい、コレ四郎やん、何んぞ粗忽でもしたのやないか」
四「私は何にも、しやしまへん、けど、木屋の友吉どんが往来に立っている侍、吟味の邪魔じゃ、脇へよっとれちゅうて、竹で追うてました」
喜「それは、何にを、しやがるのや、お奉行さんを竹で追う奴があるかい」
四「あたい、知りまへんがなア、ありや、下役の方の係でやす」
喜「何んの、下役の奴も糞もあるものかい」
家「コリャ、えらい事をしたで、この祟りに違いない。オイ綱やん、コリャ四郎やん無事で戻れんで」
 父親始め町内一同、真青になりました。その儘多勢で参ります。本町橋の東詰、只今の商品陳列所、あれが西の町奉行所、東町奉行所は、只今の衛戌成病院の処、あれが東の町奉行所になっております。シテ……エエ…‥今の商品陳列所は、松屋町通りに表門がありますが、奉行時代には浜通りが表門で、松屋町通りは、只今の官舎同様で、お役宅と申しまして、奉行の住居になっておりました。シテ、エエ商品陳列所の北寄りから、浜通りへ掛けまして、折れ曲って牢屋敷になっておりました。浜の方に溜りがあります。これへ、お呼出しのあるまで、控えております。外の係の者は呼出されて、ズンズン調べを受けて帰りますが、この松屋表町桶屋の者だけがいつまで待ってもお呼出しがない。そうすると、その頃役所の退出は、只今の四時過には天満与力がお帰りになります。巻羽織に黒足袋、雪駄履き、役所の都合で遅くなりますと、仲間に提燈を持たせて、お退出ですが、この時の提燈には「御用」という字が這入っておりません。捕物の他は「御用」提燈は使わなんだものやそうです。シテ、役所退けの時、左巻きの紋の附いた提燈で、その頃、左巻きの提燈を見ると、ソラ、天満与力が来たと、皆、震い上った程、権式のあったものです。与力衆の権力は広大なもので、今だに犬でも、左巻きの奴は強いというくらいで、与力と犬と一諸にしては済みませんが。スルト、この日に限って与力衆が一人も退って参りません。その内、小さい窓からお呼出し。
下役「松屋裏町―高田屋綱五郎、町役一同出ろ出ろ出ろ出ろ」
 ぞろぞろ一同、町役の者は役所の勝手を存じておりますから、こういう事はどこで調べる、こういう事は目安方で調べる、とは判っておりますので、子供の粗忽だから、目安方だと思うてその方へ行き掛けると、
下「オオ……違う違う」
町役「どちらで」
下「お白州じゃ」
町「へエ……お白州」
 お白州と申しますと、お奉行様、直き直きにお調べになる所、子供の粗忽ぐらいで、お白州とは、と思いながらも、そのまま白州へ参ります。
下「コラコラ、待て待て貴様、何んだ、家主か、下げ物はならんぞJ
家「ヘエー化物が出ますか」
下「下げ物はならんのじゃ」
家「化物はならんので」
下「イイや、下げ物は……判らん奴じゃなア。煙草入れはならんと申すのじゃ、貴様は何んじゃ、町役か。袴がふくろべているぞ、貴様は高田屋か、胸を合せ胸を合せ、胸を、胸があいてるぞ貴様、鼻をかめ、よだれを垂らすな」
 この人、怒ってばかりいて、月給を貰っている商売、ええ商売があるもので、そのまま一同白州へ参ります。と、下は一面の砂利、むしろが二枚敷いてあります。それへ控えておりますと、正面が稲妻形のおからかみ、御衝立、与力同心衆が左右へ居揃います。役所へ始めて参りました高田屋、その他の者は、こんなものかと思うておりますが、町役なぞは、オホ―今日は何事や知らん、こないに与力や同心衆が奉行と列ぶ事は有りませんので、びっくりしております。下「シーシー」制止の声諸共、お出ましになりました佐々木様、つむぎの紋服、嘉平次ひらのお袴、赤ら顔の、体の小さいお方で、ピタリとお着座。
佐「松屋表町、高田屋綱五郎、町役出ましたか」
町「恐れながら、控えましてございます」
佐「四郎吉、頭を上げい、ウオ……其の方じゃ、予の顔を見覚えあろうのウ」
四「ヤア……さっき住友さんの浜で、立ってた武士やなア」
佐「ウム―先程は吟味の邪魔を致して済まんのウ」
四「イーエ、どう致しまして、これからも、ある事で、以後気を附けて貰います」
家「そんな事をいうな」
佐「ハハハハ、至らぬ奴が多いので、上に苦労の絶える間がないのう―」
四「へエ―御同様に事務多忙です」
家「そんな事いうない」
佐「道路に於て、口論の上、しかのみならず、喧嘩致し、上、多用のみぎり手数を掛くる段、不屈の致り、重き刑にも行なうべき処、格別の御憐憫を以て差許す。以後、喧嘩口論致せば、屹度きっと究命申附けるものなり、其旨、心得て立ちませ、と申したのが、裁きの終りの様じゃのウ」
四「へエそうだす」
佐「ああいう事は、寺小屋で教えるか」
四「あんな事、寺小屋で教えますもんかいなア」
佐「然らば、本の端くれにでも、書いてあったのか」
四「あほらしい、本にも、何にも書いてあらしまへん、あんな、遊び方見られたら、一遍に怒られます、けどな、昨日まで、盗人ばっかりさしよった、盗人やったら、縛られたり、たたかれたり、痛うて仕様がおまへんさかい、私も一ペンお奉行さん、さしてくれんかいうたらな、奉行さんは頓智がいる、どんな無理な事でも、即座に裁きが出来な、あかんちゅうので、ほんなら一ぺん遣って見よかちゆうて、初めて、今日、あたいが遣りました、今日のはあたいの頓智だす」
佐「即決か、よくあれだけの難題を即座に裁きがとれるのウ」
四「そら何んでもない事だす、高いところへ上って、ポンポンいうて、睨んで威張ってますのや、どんな裁きでも、とれます、高い処から威張っているぽっかりで、裁きの出来んお奉行さんが大阪へ来たら、大阪は暗闇やないか」
 御奉行さんに赤い顔をさしよった。
佐「然らば、予の尋ねる事、如何様な事でも、返答致すか」
四「へエーどんな事でもいいます、けどなア、あんたは、そな所で威張ってなはるし、私は砂利の上で御辞儀してるし、返事しようと思たかて、位負けで、返事がつまってしまいます、あんたと同じ処へ坐らしてお呉なはったら、どんな事でもいいます」
佐「ウムー可愛奴、許す近う進め」
四「ほんなら御免」
綱五郎「一寸、喜助はん、せがれを捕えとくなはれ。倅は気が違うて、お奉行さんのそばへ行きます」
下「許しが出たから、よいのじゃ、捨置け捨置け」
綱「イエー、そやけど、子供の事で、もし粗忽致しましたら申訳けがございません」
下「よいと申すのに、くどい、控えておれ」
 可愛想に親父は、叩かれてお辞儀をしておりまする間に、子供はツカツカと遠慮もなくお奉行さんのそばへ、ピタリと坐りました。ジーイと顔を見た佐々木様、利口そうな子供じゃと、見ておいでになります。
佐「四郎吉、夜に入ると星が出るのう」
四「へエー、お星さんなら、夜やのうても、昼間でも出ます。けど―太陽様のお照しが強いので、吾れ吾れの眼にはいらんのです」
佐「ウムl
 お奉行さん、初めに負けてお仕舞になりました。
佐「あの星の数は幾つあるものか、存じおるか」
四「へエー、フン―このお白州の砂利の数は幾つあるか、知ってなはるか」
佐「白州の砂利の数が、解ろうはずがない」
四「それ、御覧じませ。手に取って見られるものでも解らんのに、手の届かぬ天の星の数、そんな物は判るはずがないやござりまへんか」
佐「フーン(膝を打つ動作する)こら妙じゃ」
四「これが、頓智頓妙で」
佐「然らば其の方、天へ登って星の数を調べて参れ、余はその間に砂利の数を調べて置こう」
四「へエー天へ登りまんのか―畏こまりました、然し初めて参りますとこで、道の勝手を存じまへんさかい、道案内のお方を一人と、往来切手をお下附さげ渡しを願います」
佐「イヤ、こりゃ妙じゃ」
四「これも、頓智頓妙だす」
佐「ウムー頓智々々、申し付けたる品これへ」
 ―と、三宝の上へお饅頭を山の様に盛って御家来が四郎吉の前へ持って参りました。
佐「四郎吉、つかわす、食せ」
四「これあたい、貰いまんのか―ほんなら、よばれます、イヤーこら上等やなア、白餡しろあんやなアお父さんが、いつもなア、虎屋の饅頭買うて帰ってくれます、そやけど―この方が上等や」
佐「ホウー父は饅頭を呉れるか。母は何にを呉れますなア」
四「お母さん、何にも呉れしまへん、時々叱言こごと呉れます」
佐「土産を呉れる父、叱言を申す母、父母の内、どちらがよい、またどちらが好きじゃと思う」
四「こう、二ッに割った饅頭、どっちの方が、おいしいと思いなはる」
佐「イヤーこりゃ妙じゃ」
四「こんな事くらい、なんでもないことや、誰れぞ、茶一ぱい汲んでんか」
佐「茶を取らせ取らせ」
四「ハアーお可笑いなア、お菓子やらは高台たかつきの上え乗せてくるのに三宝の上へ乗せてある」
佐「四方ある物を三宝とは異じゃのう」
四「ほんなら、ここらにいる武士、一人で与力というやないか」
佐「フーン、妙、然らば、与力のついでに尋ぬるが、アア与力の身分はどういうものじゃ、存じておるか」
四「へエー」
 しばらく、考えておりましたが、たもとからお起上りこぼしの達磨を出して、向方へほりました。
四「あの通りでおます」
佐「あの通りとは」
四「身分の軽い物で、お上様の御威光を頭に頂いてピンシャンピンシャンと、はね返っております、そやけど、どれもこれも、腰のない奴ばっかりだす」
 ひどいことをいい出しました。佐々木さん笑いながら、
佐「フンー如何にも、与力の身分は相判ったが、与力の心意気は、どういうものか、存じいるか」
 また、しばらく考えておりましたが、
四「誰れか、天保銭一枚お頼み申します」
 懐中ふところから紙を一枚出して観世撚かんぜよりをこしらえ、達磨の頭へ結えて、ヨイトー向方へなげますと、今度は銭がついてますので達磨さん、立たずに、横にゴロリーと寝ております。
四「イヤーあの通りだす」
佐「あの通りとは」
四「兎角とかく金の有る方へ傾くわ」
 ―えらい事をいうて賄賂、マイナイを抜いて仕舞いました。与力同心衆。えらいことをいいよる、余計な事を喋るなアーと俯向うつむいてござる。一方にはそう怪しい与力衆ばかりでもございません。中には大塩さんの様な与力衆もござります。この小僧、にくにくしい奴じゃと、睨みつけてござる。佐々木様は、それ見ろ、僅か十五歳に足らぬ子供ですらこれくらいのことを申す。なんじら、賄賂、マイナイを取る故に民百姓はどのくらい、困りおろうぞジッと―睨み回される―と与力衆、震え上る様な顔つき。
佐「四郎吉、以後、左様なことを申してはならんぞ」
四「お尋ねになったので、いうただけで、座興だす」
佐「座興座興、コレ四郎吉。あの衝立ついたての仙人、何にかささやき噺を致しておる。何にを申しているか聞いて参れ」
四「へエー聞いて参りました」
佐「何んと申しておった」
四「佐々木信濃守はあほやと申しておりました」
佐「何に」
四「佐々木信濃守はあほやと申しております」
佐「黙れ、恐れ多くも将軍家のお鑑識めがねに適い、大阪西町奉行を相務める佐々木信濃守、馬鹿で奉行が務まるか」
四「あたい、知りまへん、仙人がそないにいいます」
佐「何にが馬鹿じゃ、聞いて参れ」
四「へエ、聞いて来ました」
佐「何故、馬鹿と申した」
四「画に書いた物が、もの言いそうなことがない、それを聞いてこいというのやさかい、佐々木信濃守、阿ー呆ーや」
佐「イヤーこりゃ妙じゃ、高田屋綱五郎。さてさてよいせがれを持ったのウ」
綱「何んじゃ、ッ張り訳が判りまへん」
佐「四郎吉、十五歳にならば、予が近習に取り立て得さす、それ迄四郎吉に学問を勉強させ、心して育て呉れよ、町役一同、四郎吉に目を掛け養育致し呉れよ」
 高田屋始め町役一同、どんなお叱りを受けるかと心配致しておりましたが、一足飛びに士分に出世、死んだ者がよみがえったような喜び。
佐「四郎吉、今日よりほ、余の家来じゃぞ、武士じゃぞよ」
四「イヤー今日から武士やなア、それで名大将の名前が出来ました」
佐「名大将の名前とは」
四「あんたが佐々木さんで、お父さんが高田屋綱五郎で、私が四郎吉、合せて佐々木四郎高綱」
佐「フンー佐々木四郎高綱とは予が先祖じゃ、四郎吉、その方も源家か」
四「イーエ、私は平家(平気)でおます」
(終り)


『佐々木裁き』について
 この話の口演者は、三代目松鶴(本名武田亀太郎)。はじめ二代目立川三光門人光柳といい、桂慶治の門に入り慶枝となり、二代目丹笑の門人松橋となり、木鶴となり、後に三代目松鶴、その後竹山人となる。
 七代目桂文治(本名平野次良兵衛)。はじめ都雀から初代文団治門人順枝、米喬、米団治、文団治、文治となる。
 桂歌之助(本名春井和三郎)。初め二代目文枝門人小枝、文歌といい、後に歌の助となる。
 現在のロ演者には、桂三木助(本名松尾利雄)。桂南光の門人にして手遊おもちゃといい、その後二代目桂三木助となる。(他は略す)
 またこの落語の落に
「何の私が怜悧なことは御座りません、世間の人が馬鹿です」
 右様な落もあります。
(一記者)





底本:上方はなし 第六集
   楽語荘・1936年発行

(復刻版:上方はなし・上 三一書房)

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