樟脳玉(しょうのうだま) 五代目三遊亭圓生 当今では樟脳《しょうのう》が台湾|辺《あた》りからドン/\出来て参りまして、種々《いろいろ》需用の路《みち》も弘《ひろ》くなっておりますが、昔は僅《わず》かにこの粉を紙に包んで箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》へ入れておくとか、たまは雛《ひな》の箱へ入れるとか、五月の武者人形の箱の中へ入れておくとか致すと、虫が付かないなどゝ云って用いたもので、この樟脳を小さく丸めて、これを赤く塗りまして、香具師《やし》が火を点《つ》けて掌《てのひら》へ載せて樟脳玉、一名《いちめい》長太郎玉《ちょうたろうだま》と申して売っておりました。今はあまり見掛けませんが、従前は縁日などで商いまして、子供衆が玩具《おもちゃ》に買ったものでございます。それから思い付いてのお噺《はなし》。いったい人と云うものは、我々のような智恵のない男が窮《きゅう》しますと、ろくな事は考えません。小人《しょうじん》閑居《かんきょ》して不善《ふぜん》をなすとか申して、智恵のない癖に働くのが厭《いや》で、どう美味《うま》い物を食べてブラ/\遊んでいたいなどゝ云ので、種々《いろん》な事を考える。 ○「吉《きっ》さん在宅《うち》かえ」 吉「誰だ、開けねえ」 ○「今日《こんち》は」 吉「オウ八か、どうした、些《ちっ》とも顔を見せねえが、一ツ長屋にいてお前の顔を四五日見ねえと、何だか二三年会わねえような心持ちがする。どうだ何か面白い事があるか」 八「それが些《ちっ》とも面白え事がねえんだ。今年ぐらい悪い年は兄哥《あにい》無《ね》えね。どうにもこうにも方返《ほうがえ》しが付かねえ。何か旨《うめ》え事はねえかと思って考えてるんだが、どうも銭《ぜに》儲けというものはねえものだなァ」 吉「それはお互いだ。俺もこの節《せつ》は遣《や》り切《き》りが付かなくなって、やはり手前《てめえ》と同じで、ただ何か旨《うめ》え事を見付けてえと考えてるんだ。何か手前《てめえ》考え付いたか」 八「じつは三日三晩寝ずに考えた金儲けの事があるんだ。兄哥《あにい》半口乗ってくんねえか」 吉「そいつァ剛義《ごうぎ》だ。金儲けの口といやァ半口どころか全《まる》で乗ってもいい。どういう事だ」 八「人に知れると一大事の話なんだ」 吉「フーン何様《どん》な話だ」 八「そこを閉《たっ》てくんねえ。人に聞かれると大変だ」 吉「サァ早く聞かせねえ」 八「兄哥《あにい》気の毒だが引窓《ひきまど》を一寸《ちょっと》閉めてくれ」 吉「何だって、引窓を閉めるんだ。暗くなっていけねえや」 八「人に覗《のぞ》かれると一大事だ。引窓が開いてると天《てん》が見通しだ。御天道様《おてんとうさま》に見ておられちゃァ気が差して話が出来ねえ」 吉「くだらねえ事を云うな」 八「くだらなかァねえ、後生《ごしょう》だから閉めてくれ」 吉「厄介な奴だな……ホラ閉めた、これでいいだろう」 八「ウム、モウ一ツお願いがある。仏壇を一寸《ちょっと》閉めてくんねえな」 吉「いいじゃァねえか、仏壇が開いてたって」 八「イヤそうでねえ。お前《めえ》のところの御先租様にこの話を聞かれちゃァ大変だ。後生だ一寸《ちょっと》……」 吉「厄介な事を云やァがるな。俺の所の仏壇は風呂敷を掛けりゃァいいんだ。サアこれでよかろう」 八「いけねえ」 吉「何が」 八「側《そば》に猫がいる。猫をどこかへやってくんねえ」 吉「猫がいたっていいじゃァねえか」 八「いけねえよ、猫は魔物だってえから、人間に化けてどこへ行って喋舌《しゃべ》らねえとも限らねえ。お願いだから其奴《そいつ》を逐《お》ってくんねえ」 吉「厄介の事を云やがるな。シーッ畜生、アハヽ猫が驚いて飛び出してきやァがった、サアこれならよかろう、話をしねえ」 八「まだいけねえ」 吉「何だ」 八「ダッテお前《めえ》がそこにいるじゃあねえか」 吉「俺が退《ど》いて手前《てめえ》誰に話をするんだ」 八「アヽそうだなァ、そんなら安心だ。外《ほか》の事じゃァねえがな」 吉「ウム」 八「この長屋の捻兵衛《ねじべえ》な」 吉「ウム、捻兵衛《ねじべえ》がどうした」 八「彼《あれ》ァ捻兵衛《ねじべえ》というじゃァねえんだよ。真正《ほんとう》の名前《なめえ》は喜六《きろく》というんだが、変に捻《ね》じけているから、彼奴《あいつ》の事を皆《みん》なで捻兵衛《ねじべえ》と綽名《あだな》を付けたんだ。ところがお前《めえ》この節は当人も捻兵衛さんというと、ヘエーと返事をするようになったから可笑《おかし》いじゃァねえか」 吉「そんな事はどうでもいいが、金儲けの話てえのは何だ」 八「マア聞きねえって事よ。アノ捻兵衛《ねじべえ》の女房が大したもので、じつに捻兵衛《ねじべえ》って奴は、良い月日《つきひ》の下で生まれやがった奴だと、羨《うらや》ましく思ってるんだ。彼奴《あいつ》の女房なんぞになる女じゃァねえ。あれはお前も知ってるだろう。ある屋敷へ奉公をして、ウンと金を儲けて一生奉公をする心算《つもり》でいたところが、その屋敷が瓦解とか何とかで、暇が出たもんだから急に身を固める事になったが、何でも大事にしてくれて、心質《こころだて》の優しい人をというんで段々諸方を聞いたうえ、捻兵衛《ねじべえ》がいいとこうなって、彼奴《あいつ》の家《うち》へ嫁《かた》づいたんだ。捻兵衛《ねじべえ》喜んで、何でも女房の事というと、嫌《いや》といわずにするんだ」 吉「なんだ手前《てめえ》なにか、その話をしてえために、俺の所へ来て、猫を逐《お》い出したり、引窓を閉めさしたりしたのか」 八「そうよ」 吉「くだらねえ事を云うな。手前《てめえ》から聞かなくっても一ツ長屋にいるんだ。俺の方でよく知ってらァ、何をくだらねえ事を云やァがるんだ」 八「怒っちゃァいけねえ、これから金儲けの話になるんだからマア聞いてくれ。スルとあの女房が、コロリ死んだろう」 吉「ウム」 八「生きてるうちの様子をお前《めえ》見たか知らねえが朝俺が出掛《でが》けに道具箱を担いで彼所《あすこ》の家《うち》の前を通る時に、女房が見てえから俺がお早うございますと声を掛けると、捻兵衛《ねじべえ》がオヤ八さんでございますか、お早うございます。マアお寄んなさいましと云うから、野郎に用はねえが寄って見ると捻兵衛《ねじべえ》が茶を汲んで出したり何かして、女房はまだ寝ているんだ。飯《めし》も捻兵衛《ねじべえ》が自分で焚《た》くんだな。俺が茶を喫《の》んでると、その間に女房を起こすんだがな、その起こし方が大変だ。三度起こしてえんだ」 吉「なんだ三度起こしたァ」 八「枕許《まくらもと》へ行って、サア起きてもいい時分だから起きたらどうだえ、八さんが来ているよ。起きたらいいだろう、モウ起きたらいいだろう……」 吉「なんだい、それは」 八「声を段々にこう、せり上げて来るんだ。初めが小《ちい》せえ声で、次が中くらい、終《しまい》に大《でけ》え声をする それが三段起こし。初めから大きな声を出して起こすと、女房がハッと驚くといけねえというので、段々に大きな声を出すんだ。それほどに思う女房が死んだんだから、捻兵衛《ねじべえ》はまるで狂人《きちげえ》のようだ。家《うち》に閉じ籠《こも》って仏壇の前へ座って、愚痴ばかり溢《こぼ》している。何故《なぜ》お前《めえ》は死んでくれたんだとかなんとか云って位牌と話をしている。そこで俺が考えた。これほどに死んだ女房の事ばかり思ってる男だ。夜中に小便《しょうべん》に行くだろう。丁度いい事に捻兵衛《ねじべえ》のとこの便所を今|修繕《なお》してるんで総雪隠《そうごうか》へ行くんだ。二人《ふたり》で捻兵衛《ねじべえ》の来るのを待って、掃《は》き溜《だ》めの側《わき》から彼奴《あいつ》の女房の幽霊になって出るんだ。ナニこのままじゃァいけねえが、怪談をやる落語家の懇意《こころやす》いのがある。そこへ行って着物と鬘《かつら》を借りて、この面《かお》へ白粉《おしろい》を塗って掃《は》き溜《だ》めの側《そば》からヌーッと出て恨《うら》めしい捻兵衛《ねじべえ》さん、私はお金や衣類《きもの》に気が残ってどうしても浮ばれない。お願いだから着物に御金《おかね》を持って来ておくれというと、彼奴《あいつ》は女房の事といえば何でもするんだから、そうかえ、お前がそんなに気が残ってるなら持って来てあげようと言うのでそこへ雑物《ぞうもつ》を持って来るだろう。持って来た時に、まさか幽霊が包みを背負《しょ》う訳にいかない、ソコで兄哥《あにき》、お前《めえ》が黒衣《くろ》を着て側《そば》に後見《こうけん》をしていて真っ黒に塗った竹の先へ釘かなにか付けた奴をヌッと出して、その包みを引っ掛けて引いてくんねえ。暗い所だから分らねえ。彼奴《あいつ》が驚いて眼を閉《つぶ》って念仏でも唱えてるうちに、掃《は》き溜《だ》めの陰へ引っ込んでしまって、後で雑物《ぞうもつ》を山分けにしようというんだ、素晴らしい良い金儲けけだ、兄哥《あにい》手伝ってくんねえ」 吉「手前《てめえ》の智恵はそんなものだろうな。よく考えて見ねえ、捻兵衛《ねじべえ》という奴は未練な奴で、死んだ女房の事ばかり思ってるんだ。その幽霊を手前《てめえ》と思わねえで女房だと思って、彼奴《あいつ》が驚かねえで、女房かよく出てくれた、懐かしかったとか何とかい云って手前《てめえ》に抱き付いたらどうする」 八「なるほど、そういやァ彼奴《あいつ》の事だからやり兼ねねえ。そんな事をされちゃァ困っちまう。もし抱き付いたら、相撲の手で投《ほう》り出す」 吉「それだから手前《てめえ》の考えなぞは駄目だ。真正《ほんとう》に手前《てめえ》それをやる気か」 八「やる気があるから引窓を閉めて貰ったり、猫を逐《お》い出したりしたんじゃァねえか」 吉「そういう事はもし遣《や》り損なって知れると、二人とも食らい込むぜ」 八「そうだ」 吉「ダカラ迂闊《うかつ》にゃァが出来ねえ、じつは俺もそれに似た考えをしていたんだ。手前《てめえ》がやる気なら俺も一緒にやるけれども、しかしその手じゃァいけねえ。この考えは俺の方が少し上だろうと思う。ここにこういう物がある」  火鉢《ひばち》の抽斗《ひきだし》から出した例の香具師《やし》の売っている長太郎玉《ちょうたろうだま》という樟脳が玉にした奴で、これは附木《つけぎ》で火を付けると、青い火が燃える。それを掌《てのひら》へ載せて転がしているから」 八「何だいそれは、火の玉を掌《てのひら》の上へ載っけて熱くねえか」 吉「ウム、こうして転がしてりゃァ熱くも何ともねえ。こうやると消える、フッ……」 八「なるほどこれは不思議だ」 吉「手前《てめえ》、一寸《ちょっと》、掌《てのひら》の上へ載せてみねえ」 八「火傷《やけど》をしやァしねえか」 吉「大丈夫だ。ホラどうだ」 八「なるほどこりゃァ面白いや」 吉「熱くなかろう、吹き消してみな」 八「フッ……アヽ消えた/\、妙な匂いがするな」 吉「汝《てめえ》知らねえのか、こりゃァ樟脳を丸めた長太郎玉《ちょうたろうだま》ッてんだ」 八「そうか」 吉「こいつを拵《こしら》えて針金の先へ付けて、夜中に捻兵衛《ねじべえ》が念仏を唱えてる時分、屋根へ昇《あが》って、引窓を開けて火を付けた玉を、ブラ下げるんだ。どうせ狭《せめ》え家《うち》だから仏壇の前に座ってるところへ台所で火の玉が燃えりゃァすぐに気が注《つ》くから、必度《きっと》驚くだろう。そいつを二ツ三ツ廻して引き上げて、翌《あく》る朝、手前《てめえ》が肩へ風呂敷を掛けて、お早うございますと、捻兵衛《ねじべえ》の所へ行くんだ」 八「俺が行って何か昨夜《ゆうべ》引窓から火の付いたものが下がりやァしねえかと聞くのか」 吉「そんな事を云っちゃァいけねえ。なんでも真面目|臭《くさ》って、さぞ女房《おかみ》さんが亡くなって、お淋《さび》しいかろうとか何とか悔《くや》みを云うんだ」 八「ウム、俺はまだ捻兵衛《ねじべえ》に染《し》み/″\悔《くや》みを云わねえ、なんだか悔《くや》みの文句が難しいからな。その癖|葬式《ともらい》の時には寺で手伝ってやった。平常《ふだん》は吝嗇《けち》だが、流石《さすが》に女房に惚《ほ》れてたゞけに、思い切って銭《ぜに》を使った。長屋の葬式《ともらい》であのくらい立派なのはマア無《ね》えね。何より赤飯《こわめし》に銭を掛がった。どこへ誂《あつら》えたのか雁擬《がんもどき》が馬鹿に美味《うま》かった。じつは俺は三つ持って来た」 吉「食い物の話なんァどうでもいい。手前《てめえ》まだ悔《くや》みを云わねえというから丁度幸いだ。さて捻兵衛《ねじべえ》さん、この度はお内儀《かみ》さんが飛んだ事でございました。何とも申しうようがございません。御丹精《ごたんせい》甲斐《がい》もなく、さぞ、御力落としでございましょう。けれども貴所《あなた》が後生《ごしょう》をよくなさるので、お内儀《かみ》さんも定めし極楽往生をなさいましょうと二三度繰り返して云って見ねえ、スルと捻兵衛《ねじべえ》が、イエ極楽往生は致しますまい。何か彼《あれ》は心に残る事があると見えて。昨晩《ゆうべ》魂が来たとか火の玉が来たとか云やあ締めたもんだ。その口に乗ってそいつァ驚きましたね。なるほどして見ると何かお内儀《かみ》さんの心に残る事があるんでございましょう。貴所《あなた》はお内儀《かみ》さんの衣類《きもの》やお金をお寺へお納めなすったか。イエ納めませんと云ったら、じゃァそれへ気が残ってるんでございましょう、早速お納めなさいまし。もし何なら私がこれから貴所《あなた》のお寺の近所まで用達《ようた》しに行きますから納めて来てあげましょう。この通り私は風呂敷を持って来ました。大方これは仏様の引き合せでございましょう。この風呂敷へ包んで持って行ってあげましょうと、こう云って、金と雑物《ぞうもつ》を持って来い。それを叩き売って金はもとより手前《てめえ》と山分けにする。この方がよっぽど考えがいいだろう。どうだ」 八「なるほど、こいつァ巧《うめ》えや。そうしてやろう」 吉「じゃァ樟脳を買って来い」  それから買って参りました樟脳を捏《でっ》ちまして、その晩更けるのを待っております。捻兵衛《ねじべえ》は相変わらず夜に入《い》りますると、仏壇へ向かって、 捻「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》。/\/\アヽお前もとう/\紙一枚にお成りだ。私は愚痴を溢《こぼ》すようだが、どうしてお前私を置いて先へ死んで終《しま》ったのだ。私は幾ら諦めようとしても、お前の姿が目先にチラついて、諦める事が出来ない。情ない事になった。私はお前の事は忘れられない。朝も早く起きてお前の笑い貌《がお》を見るのが楽しみで、煮焚《にた》きをして枕許《まくらもと》へ行って私が煙草《たばこ》を付けて出すと、お前が有り難う。とそれを喫《の》んで嬉しそうな貌《かお》をして私を見る。その顔がいまだに目に付いていてどうにも忘れる事が出来ない。お前が死んだからといって、モウ他《ほか》に女房は持たないから安心して、浮んでおくれよ。南無阿弥陀仏、/\/\。私があんまり鈴《りん》を敲《たた》くんで鈴《りん》が損《いた》んでしまった。明日《あした》良い鈴《りん》を買って来て鳴らしてあげるよ。南無阿弥陀仏/\/\」 しきりに愚痴を云っては念仏を唱えております。二人《ふたり》の者は密《そっ》と屋根へ昇《のぼ》って来て、 八「兄哥《あにい》やってるぜ」 吉「叱《し》ッ、声を出すな。引窓を開けなくっちゃァいけねえ。どうだ開いたか、旨《うめ》え/\。静かにしろよ……サア樟脳玉へ火を付けろ。ソレいいか」  スーッと引窓から針金でブラ下げました。捻兵衛《ねじべえ》一生懸命、 捻「南無阿弥陀仏/\/\」  やってる所へ火の玉が下がって参りましたから、 捻「南無阿弥陀仏/\/\/\。お前迷って出たか。浮かんでおくれ/\南無阿弥陀仏/\/\」  云ううちスーッと引き上げて二人は帰って参り、夜《よ》が明けると肩へ風呂敷を掛けて、 八「ヘエお早うございます。捻兵衛《ねじべえ》さんお早うございます」 捻「何方《どなた》でございます。オヽお長屋の八さんでございますか。この度は種々《いろいろ》御世話くださいまして有り難う存じます。一寸《ちょっと》御礼に上がりたいのでございますが何や彼《か》やにかまけまして」 八「どう致《いた》しまして、どうも種々《いろいろ》貴所《あなた》もお骨が折れましてこざいましょう。さてこの度はお内儀《かみ》さんが飛んだ事になりまして、さぞ御力落としでございましょう。どうもじつに立派な御葬式《おともらい》でございましたねえ。雁擬《がんもどき》の塩加減なぞは全く結構で、あんなにお前さんが後々《あとあと》もよくしてあげたら、さぞ内犠《おかみ》さんも行く所へ行かれましょう。極楽往生が出来ましたろう。内儀《おかみ》さんは確かに極楽往生でございましょう」 捻「有り難う存じます。皆さんがそう仰って下さいますが、彼《あ》れは極楽往生をなかなか致しません」 八「戯談《じょうだん》云っちゃァいけません。お前さんがこんなによくしてあげて、これで極楽往生が出来ねえ訳はございません」 捻「イエよくしてやる心得ではございますが。何か気に入《い》らない事があると見えまして、貴所《あなた》だからお話し申しますが、じつは昨晩|彼《あ》れの魂が参りました」 八「エーッ、お内儀《かみ》さんの魂が……驚いたなァ」 捻「何か心の残る事でもあるのでございましょう」 八「怖《おっ》かねえね、来ましたかえ。それは何か心残りが……貴所《あなた》何ですかい。お内儀《かみ》さんの着物なんぞお寺へお納めなすったかね」 捻「イーエ、何も納めません」 八「アーそれだ。そいつァお前さん衣類《きもの》に気が残っているに違いありません。それはお寺へ納めたらようございましょう」 捻「そうでございましょう……。彼《あれ》が着物の事ばかり始終云っておりましたから……」 八「それへ気が残ったに違いありません」 捻「よく仰って下さいました。早速誰か頼みまして、彼《あれ》の物を寺へ納めましょう」 八「モシ/\捻兵衛《ねじべえ》さん、誰も頼む事はありません。ここへ私が来合わしたのが縁でございましょう。丁度御寺の近所へ用があって参りますから、私が行って納めてあげましょう」 捻「そう願えれば結構でございますが、御気の毒様でございますな」 八「ナニ気の毒な事はありません。コレ御覧なさい、幸い私が大きい風呂敷を持っています。この風呂敷へ包んで持って行きましょう」 捻「ヘエ貴所《あなた》風呂敷をお持ちでございますか。全くこれは草場《くさば》の蔭《かげ》で彼《あれ》が引き合わせるのでございましょう」 八「アヽそっちで云われて終《しま》った」 捻「何でございます」 八「ナニこっちの事で……。確かにお内儀《かみ》さんの引き合わせに違いありません」 捻「それではこの箪笥《たんす》の中にあるものを皆な納めましょう」 八「サアお出しなさい」 捻「八さん見てください。この縮緬《ちりめん》は京都から取り寄せたものでございます」 八「ヘエー、良い羽織だね」 捻「これは糸織《いとおり》で」 八「何だか素晴しいものだね」 捻「これは紬《つむぎ》の着物でございます。この紋を見るに付けても思いの種《たね》でございます」 八「ヘエ!、泣くような事があるんでございますか」 捻「マア聞いてくださいまし。御屋敷で彼《あ》れが白紬《しろつむぎ》を戴《いた》だいて参りましたのを、着物にしたいと云うので、色は何に染めたらよかろうと云うと。私はモウ貴所《あなた》を夫《おっと》としたからには、外《ほか》の色には染まらないよう黒にしたいと申しますから、なるほどそれがよかろう。紋は何にしようと云うと、いっその事、貴所《あなた》の紋と私の紋と比翼《ひよく》に付けたいと申します」 八「ウムなるほど」 捻「彼《あれ》の紋は井筒で私の紋が橘《たちばな》 井筒と橘の比翼に染めにやりますと、紺屋《こんや》で間違えまして、この通り井桁《いげた》の中へ橘を付けました。これを着て歩きますと皆さんが、彼《あれ》はお祖師様の御仕着《おしき》せじゃァないかと申しますので……」 八「マア泣いちゃァいけません。なるほどそうでございますか。それじゃァこっちへ重ねます」 捻「それからこれは帯で、唐繻子《とうじゅす》と繻珍《しゅちん》の腹《はら》合わせ、後《あと》は夏物でございます。これは上布《じょうふ》」 八「アヽ良い上布だ」 捻「これは透綾《すきや》、これは明石でございます」 八「皆な上物《じょうもの》ですね」 捻「これは白薩摩《しろさつま》」 八「ヘエー」 捻「この白薩摩……」 八「ヘエー」 八「へエー」 捻「この白薩摩を見るに付けても思いの種《たね》でございます」 八「また始まった。ヘエどうしましたえ」 捻「これが誠に彼《あ》れによく似合いますので、丁度両国の川開きの時でございました」 八「なるほど」 捻「彼《あれ》は今まで御屋敷におりまして、両国の花火を見た事がないと申しますから、それから私が連れてってやろうと申しますと、大層喜んで、夕方から仕度《したく》をさせて、その時にこの白薩摩を着ましてございます」 八「さぞ似合いましたろうね」 捻「エーじつによく似合いました。それに万事に気の着《つ》く事一通りでございません。夜分になって万一寒くなると、風邪でも引いてはいけませんから。貴所《あなた》袷《あわせ》の羽織を持ってってください。雨が降るといけないから合羽《かっぱ》をと申しますから、私が合羽《かっぱ》と羽織を風呂敷に包んで背負《しょ》いました」 八「ヘエーお前さんが背負《しょ》ったんで……」 捻「それから雨が降っても困らないように、足駄《あしだ》も持って行ったらよかろう傘もと申しまして、あんな気の付く女はございません。私が風呂敷を背負《しょ》って傘を二本担ぎ、足駄《あしだ》を二足|紐《ひも》でブラ下げて、彼《あれ》の後《あと》から付いて参りますと、途中で若衆《わかいしゅ》たちが見て、彼所《あすこ》へ行く女を見ろ。アノ年増《としま》は美《い》い女じゃァないかと皆さんが賞《ほ》めてくださるのが私の耳に入って嬉しくって/\。スルト女は大層|美《い》いけれども後《あと》から風呂敷を背負《しょ》って傘を担いで下駄《げた》をぶら下げて行く奴の面《つら》を見ろ。間抜け々々していると皆様が申しました。その時の私の嬉しさというものは、どんなでございましたろう……」 八「ダッテお前さん悪い云われたんじゃァねえか」 捻「デモそれほど彼《あ》れが美《よ》かったと思うと、それが涙の種《たね》でございます」 八「イヤどうも困ったな。泣かないであとをお出しなさい」 捻「これは長襦袢《ながじゅばん》で、これが湯布《ゆもじ》でございます」 八「ようございます。じゃァ私がこういう工合《ぐあい》に包んで、済みませんが中結《なかゆ》わえの紐《ひも》か何か貸しておくんなさい……こう真ん中を結わえて行きゃァ大丈夫」 捻「お気の毒様で」 八「ナニ気の毒の事はございません。じゃァこれからすぐに納めて来ます」 捻「宜しくお願い申します」  風呂敷を背負《しょ》って表へ出て、四辺《あたり》へ気を配り、 八「オウ行って来た」 吉「御苦労々々。早く入って後《うしろ》を閉めねえ/\。風呂敷が閊《つか》えてるじゃァねえか。サア下《おろ》しねえ。俺が後《うしろ》で受けてる……大分《だいぶ》あるな」 八「ウム、こんな貧乏長屋の女房《かみさん》には珍しい物持ちだ」 吾「何様《どん》な様子だった」 八「何様《どん》なって驚いた。彼奴《あいつ》が一々これを見るに付けても、思いの種《たね》でございますと一々泣きやァがるんだもの、真正《ほんとう》に辛かった」 吉「ウム、こりゃァ大したものだな。金はどうした……金はどの位あったよ」 八「金……サア大変だ。金をスッカリ忘れちまった」 吉「間抜けだなァ。金が大専《だいせん》で代物《しろもの》は二の次だ。肝腎《かんじん》の金を忘れる奴があるかい」 八「そう叱言《こごと》を云いなさんな。お前《めえ》は家《うち》に座ってるから何でもねえが、行った者の身になって見ねえ、泣かれるんで随分辛かった。仕方がねえから兄哥《あにき》、また今夜やろうじゃァねえか。今夜、昨夜《ゆうべ》より大きく拵《こしれ》えてやったらど何うだ」 吉「じゃァモウ一晩やろう」  それからまた樟脳玉を拵《こしら》えて真夜中に二人、ミシ/\屋根へ上がって参りました。捻兵衛《ねじべえ》さんは例の如く仏壇へ向かって、鈴《りん》を鳴らし。 捻「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》/\/\。お前が迷ってる事は知らなかった。今日《きょう》はお長屋の八さんを頼んで着物をお寺へ納めたから、あれでどうか浮かんでおくれ。南無阿弥陀仏/\/\」  引窓の所から樟脳玉へ火を付けてスーッと下げると、捻兵衛《ねじべえ》吃驚《びっくり》して、 捻「南無阿弥陀仏/\/\。お前また今夜もお出《い》でか、お前の気の残っている着物は今日八さんに頼んで、お寺へ納めたからモウ迷わずに浮かんでおくれ。南無阿弥陀仏/\/\」  そのまま二人は樟脳玉を引き上げて翌朝《よくちょう》。 八「お早うございます」 捻「オヤ八さんでございますか。サアどうぞこちらへ……」 八「昨日《きのう》お寺へ着物を納めに行ったら、和尚さんが大層|賞《ほ》めて、結構な事だと云って、お経をウンとあげてくれたから、モウお内儀《かみ》さんは迷う気遣いありません。大丈夫ですよ」 捻「八さん、昨日《さくじつ》は御苦労様、貴所《あなた》が御心配をしてくださいましたが、まだ迷っております。また昨夜《ゆうべ》も参りましたよ」 八「エーまた来ましたえ」 捻「来たどころではございません。前の晩より大きくなって……」 八「ヘエーそれは驚きましたねえ。まだ、何か気の残るものがあるかな……何を納めなすったかね。アノ金を」 捻「イーエ」 八「アーそれじゃァ金だ。金に気が残ってるんだ。早速金をお納めなさい」 捻「有り難うございますが、御金と申して別にございません」 八「串戯《じょうだん》云っちゃァいけません。無《ね》え事はねえでしょう。ウンと有りましょう」 捻「イエ八さんの前でございますが、葬式万端なにや彼《か》やで、金は残らず費《つか》いまして只今では少しもございません」 八「ヘエー、こいつァ驚いたなァ魂の遣り損ない……イエナニ、金がなければ外《ほか》に何かありきうなもので」 捻「そうでございますね。そう云えば、彼《あれ》のお雛《ひな》様がございます」 八「お雛《ひな》様……」 捻「大層、彼《あれ》が大事にしておりましたので……」 八「マアお雛《ひな》様でもようございましょう。季節に向かえば幾らかになるから」 捻「エヽ」 八「ナニサ、そんな物でも幾らか気がが残ってるんでしょう。納めてお了《しま》いなさい。持ってってあげるから」 捻「そうでございますか。デワ、どうぞお願い申します」  と戸棚を開けて、葛籠《つづら》を出し。蓋《ふた》を取りまして、中から雛《ひな》の箱を一つく出して、 捻「御覧くださいまし。これは秀月《しゅうげつ》。これは玉山《ぎょくざん》でございます」 八「どうも好《い》い御雛様《おひなさま》ですねえ……オヤ捻兵衛《ねじべえ》さん、またお前さん泣いてなさるがどうしたんで」 捻「ヘエ八さん、彼《あれ》は全くこの雛《ひな》に気が残っていたに違いございません。魂の匂《におい》が致します」