夢金(ゆめきん) 五代目三遊亭圓生  世の中は色気と欲気《よくけ》の二つで保《も》っているので、人間は色気と欲気に離れゝばモウ、裟婆《しゃば》を離れたも同様でございます。けれどもこれが度《ど》に過ぎると、ついには命を失うようなになりますから、何《なん》でも物は程《ほど》にしなければなりません。とは申すものゝ、この程という奴がどの位の所が程なんだか、そこが誠に難しい。殊《こと》に欲の充満した人間は一層お笑いの種を作るようで「欲深き人の心と降る雪は積もるに付けて道を忘るゝ」また諺《ことわざ》に一文銭《いちもんせん》か生爪《なまづめ》かという事がありますが、この銭《ぜに》は大分厚いようだが、二文《にもん》重なってるんじゃァないかと、剥《は》がそうとして、自分の爪《つめ》を剥《は》がすなぞという、こう欲も満ちて来ると始末にいけません。なかには歩きながら幾らか拾いたい/\と思っていると十円の金貨が落ちていた。ヤレ嬉しやと拾おうと思っても取れません。地に凍《こお》り付いてるんだから、小便をしたら温《あっ》たかみで氷が解けて取れるだろうと、小便をすると冷たいンで、眼が覚めて見ると、金貨の落ちていたのは夢で、小便だけは真正《ほんとう》だったという、こんな馬鹿げたお話も随分あります。なかにはまた金が欲しい/\と思い詰めて寝言まで言う奴がある。 ○「アヽ金が欲しいなァ。三十両欲しい、二十両でもいい…」 亭主「オイ女房《おっかあ》、また熊の野郎、寝言を言ってやがる。あんな変な奴もねえもんだ。今二階へ昇《あが》って寝たと思ったら、モウ寝言を言ってやがる」 熊「アヽ二十両欲しい…」 亭「まだ言ってやがる、寝言もいいが、二十両欲しいの、三十両欲しいのッて、欲張った事ばかり言ってやがる。ヤイ静かにしねえか」 熊「十両でもいい」 亭「アレ益々《ますます》烈《はげ》しくなって来た。仕様のねえ奴だ」 女「オヤ/\下では小言、二階では寝言、小言と寝言の掛け合いだ」 亭「なにを言やがる。…アヽ寒い/\と思ったら大分雪が甚《ひど》くなったようだ。しかし雪の晩は雨と違ってなんとなく世間が静かだ。段々更けて来て寂寥《しんしん》としている中で、二十両だ三十両だと、大きな声で呶鳴《どな》りやァがって、泥棒にでも聞かれたら、どんな災難を食うか知れりゃァしねえ、サァサァ寝よう/\」  途端に表の戸をドン/\/\、 △「コレちょっと明《あ》けてくれ」  ドン/\/\ △「ちょっと明けてくれ」 亭「サァ大変だ女房《おっかあ》、言わねえこっちゃァねえ。とう/\野郎、泥棒か何か呼び込みやァがった。マァ待ちねえ、声を出しなさんなよ、静かにしていねえ…」  怖々ながら亭主が戸の節穴からソッと表外《おもて》を覗《のぞ》くと、判然《はっきり》とは分かりませんが、雪明かりに見ると、長刀《ながもの》を差した御武家《おぶけ》が軒下に立っている様子、 亭「こりゃァ大変だ。いよいよ泥棒を呼び込んだに違《ちげ》えねえ。待ちねえよ、俺が断るから…エー御気の毒様でございますが、手前共は見る蔭《かげ》もない船宿《ふなやど》で、蓄えといっては少しもございません。どうか他《ほか》を御当たりを願います」 侍「コレ/\痴《たわ》けた事を申すな。拙者は左様な怪《あや》しい者ではない。汝《てまえ》の所は船宿と知って船を一艘《いっそう》頼みに参ったのだ」 亮「ヘエ御客様でございますか」 侍「左様だ」 亭「真実《まったく》御客様でございますか…、そんなら宜しゅうございますが、戸を開けると光った物を鼻ッ先へ突き付けて、有り金を出せなどゝ仰《おっしゃ》るんじゃァございませんか」 侍「怪《け》しからん事を申すな。拙者は決して胡乱《うろん》な者ではないに依って、早く明けてくれ」 亭「左様でございますか、どうもこれは飛《と》んだ失礼を申し上げて恐れ入ります。怖い/\と思っておるもんでございますから、ツイ失礼を申した。どうか御勘弁下さいまし…、ヘイどうぞこちらへ御|入《はい》りを」 侍「免《ゆる》せ」  と入って来た御武家というのは年の頃三十四五、色の黒い目のギョロッとした、小鼻の開いた口の大きい、あんまり好《い》い男ではない。頭を見ると髷《まげ》は結《い》っておりますが、月代《さかやき》が延びて元結《もとゆい》の色も変わり、髯《ひげ》蓬々《ぼうぼう》と生えております。衣類は絹布《けんぷ》ではありますが襟垢《えりあか》が付き、嘉平次平《かへいじひら》の袴《はかま》の襞《ひだ》の損《いた》んだのを穿《は》いて、破柄《やぶれがら》禿鞘《かぶろざや》の大小《だいしょう》を差し、黒羽二重《くろはぶたえ》というと、体裁がいいが、地《じ》が赤くなって、紋が黒くなっているから、赤羽二重《あかはぶたえ》の黒紋付という羽織を着て、雪の中を駒下駄《こまげた》で歩いて来たので、裾《すそ》の方に跳泥《はね》が上がっております。連れの婦人というのは、年頃十七八でもございましょうか、色白にして鼻筋通り、口許《くちもと》の締まった、眼の涼《すず》やかな、眉毛の優しい、額《ひたい》の生え際の好《い》い、丈《せい》のスラッとした、どこと言って非点《ひてん》の打ち所のない、美くしいお嬢さん、髪は文金《ぶんきん》の高島田《たかしまだ》に結《ゆ》い上げ、扮装《なり》は小紋縮緬《こもんちりめん》の二枚小袖《にまいこそで》、繻珍《しゅちん》の帯を締めて、裳裾《もすそ》をキリッと取り上げ、緋縮緬《ひじりめん》の燃え立つような蹴出《けだ》しで、木履《ぼくり》のまゝ雪の中を歩いたので、これも大分裾に跳泥《はね》が上がっておりますが、武士《さむらい》の姿とは全然《まるで》変わっております。 亭「オヤ/\これは御難儀《おなんぎ》でございましたろう。サァどうぞ御手《おて》をお焙《あふ》り下さいまし」 侍「イヤどうも雪は豊年の貢《みつぎ》とか言うが、こう烈《はげ》しく降られては難儀なものだな」 亭「左様でございます。エーお嬢様、さぞ御冷《おつめ》とたうございましょう。どうぞ御手をお焙り下さいまし」 侍「アヽ夜中気の毒だがな。深川まで屋根船を一艘《いっそう》やって貰いたい。実は妹を連れて今日《きょう》芝居に参った所、俄《にわ》かにこのの雪に遭《あ》い、駕籠《かご》というと二挺《にちょう》になって億劫《おっくう》ゆえ、いっそ船で帰ろうと思ってこれまで雪の中を歩いて参った」 亭「それは/\、エー畏まりましてございますが、ちょっとどうぞ御待ち下さいまし。…おイお前、若《わけ》え者はどうだろうな…、ナニ皆なが出払った。そうか、久次《きゅうじ》の奴がいたと思ったが、…エーあれも先刻《さっき》御客様が…オヤ/\そいつァいかねえな。旦那様どうも誠にお気の毒様でございますが、肝腎の若い者が一人もおりませんので、偶《たま》の雪だもんでございますから、御客様が皆な御船で御出掛けなさいまして、あいにく出払ってしまいました」 侍「ハァそれは困ったな、二階で何か申している者はいかんかえ」 亭「あれはいけません。恐ろしく欲張った野郎でございますから、万一御客様に失礼でもありましてはなりませんから…」 侍「イヤ欲張った奴は欲張ったようにして使ったら、また動かん事もあるまい。ちょっと一つ尋ねて貰いたいな」 亭「ヘエ、しかし失礼でもありますといけませんが宜《よろ》しゅうございますか」 侍「よいよ。こういう場合だから、少々の無礼位は仔細ない。尋ねて貰いたい」 亭「畏まりましたし…オイ熊公/\」 熊「ヘエー…アヽ厭《いや》だ/\、火箱を抱えて一寝入り、暖《あっ》たかく寝たかと思うと、起こされる。これにつけても船頭は辛《つれ》え、早く親方になれば、こういう時には緩《ゆっ》くりと寝られる、それには金が沢山欲しい。世の中はなんでも金がなけりゃァいかねえ、アヽ金が欲しい」 亭「なにをグツグツ言ってやがるんだ。どうだ深川まで御客様があるが、一ぱい往《ゆ》かねえか」 熊「厭《いや》だ/\、深川まで行ったって幾らにもなりゃァしねえ。こいつァ身体《かりだ》が悪いと言って断るに限る、…親方ァ…」 亭「なんだ」 熊「どうもいけませんよ、この雪の故《せい》で、少し疝気《せんき》が起こったと見えて、腰がメリ/\剥《は》がれそうに痛くって、下ッ腹が突っ張って、酷《ひど》く肩が張って艪《ろ》に捉《つか》まっても思うように仕事が出来ねえと思うんで」 亭「ウーム…どうも、御気の毒様でございますが、やはり雪のために身体《からだ》をやられたんでございましょう。どうも病人では御供《おとも》が出来|兼《か》ねます」 侍「困ったな。外《ほか》に船頭はあるまいか、平常《ふだん》と違い、こういう雪の夜《よ》であるから、酒代《さかて》は多分に取らせるがどうだ」 熊「待ちなよ。酒代《さかて》は多分に取らせると言う事を聞くと、迂闊《うかっり》こりゃァ断れねえぞ。…親方ァ…」 亭「なんだ」 熊「アノなんでございますよ。若い者は外《ほか》におりませんか」 亭「いねえから今、気を揉《も》んでるんだ。どうだお客様が御祝儀を沢山下さると仰《おっしゃ》るが、我慢をして行かねえか」 熊「そうですなァ。そりゃァナニ我慢すりゃァ行かれねえ事はありませんが、阿弥陀《あみだ》も金《かね》で光る世の中、魚心《うおごころ》あれば水心《みずごころ》…」 亭「なにを言ってるんだ。失礼なことを言うな、御客様を前に置いて…、そんなら一つ我慢して行ってくんねえ」 熊「宜しゅうございます。行きましょう」  と熊公|梯子《はしご》を降りて来ました。 侍「イヤ若い者、身体《からだ》の悪い所を気の毒だな。酒代《さかて》は多分に遣わすからやってくれ」 熊「エヽ酒代《さかて》という声を聞きまして、腰の痛えのも何も忘れてしまいました。ナーニ造作ありません」 侍「成程正直な男だ。何分頼む」 熊「宜しゅうございます。今|支度《したく》をしますから、少しお待ち下さいまし」  やがて船の支度が出来る。 熊「ヘエどうもお待ち遠様でございました。どうぞお乗んなすって。…じゃァ姐《あね》さん、提灯をお頼み申します。、…お嬢さん、木履《ぼくり》じゃァ歩板《あゆび》が危のうございます。下が凍っているから上辷《うわすべ》りがしていけません。私の後ろからちょっと背負《おぶ》さるように肩へ御手《おて》をお掛けなさいまし。私が、こう前から肩へ手を廻して和女《あなた》の御手を取ってお連れ申せば、大丈夫でございます。大層お軟らかい御手でございますな。白粉《おしろい》だの麝香《じゃこう》だの種々《いろいろ》良い匂いが致しますな」 女房「なにを言ってるんだね熊公、御客様に疎匆《そそう》があるといけないよ」 熊「姐さん小言を言いッこなしだ。済まねえが提灯をモウ些《ちっ》とこっちへ寄せておくんなさい。そう鼻ッ先へ出されちゃァ前ばかり光って足許《あしもと》が利かねえ。モウ、少しこっちへ…ヘエ、宜しゅうございます。サァ中へお入んなさいまし、オットット、お頭《つむり》をお気を着けなさいまし、お髪《ぐし》を打付《ぶっつ》けて結構なお簪《かんざし》を折るといけません。どうもこの御素人衆が屋根船へ御乗んなさるのは容易じゃァございません。堀の芸妓《げいしゃ》衆なぞは屋根船へ巧《うま》く乗れるようにならなけりゃァ一人前とは言われません。股の所へポンと着物を挟んで、屋根の小縁《こべり》へ手を掛けて、足の方からツウーと入《へい》るんでございますが、なかなかそれが馴れねえうちは巧《うま》くいきません。立ってお入んなさるとお頭《つむり》が危のうございますから、御気を着けなさいまし。…ヘエ旦那、お待ち遠様、お召しなさいまし…そこに火箱《ひばち》がございますから、お手をお焙《あぶ》んなすって…姐さん帰って来たら済みませんが、親方に内所《ないしょ》で二合ばかり…」 女「アイヨ。じゃァお気を着け申して…」  纜《もやい》を解く、なんの足しにもなりませんが、女房が舳《みよし》の所へ手を掛けて 女「左様《さよう》なら、御機嫌宜しゅう」  と突き出す奴が船宿の御世辞だそうで船頭が一本張る途端に、チャ/\チャ/\チャ/\、堀を出て隅田川へ掛かり、早緒《はやお》を掛けて艪《ろ》と変わりました。雪は益々《ますます》強く真綿を千切《ちぎ》って投げるよう、恐ろしい吹雪でございます。 熊「アヽ寒い/\。旦那、甚《ひど》い雪でございますな。お寒いじゃァございませんか」 侍「寒いのう。この塩梅《あんばい》ではまだ明日《あす》も降り続くかな」 熊「左様でございますね。恐ろしい大雪になりました。…アヽ厭《いや》だ/\、こんな雪の降る晩に稼業とは言いながら、こうしてマァ、ノソ/\船を漕いで行くなァ気が利ねえ訳だ。もっともこうして漕ぐ奴があるから、乗る客もあるんだ。乗る客があるから漕ぐ奴もあるんだ。箱根山|駕籠《かご》に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋《わらじ》を造《つく》る人、上を見りゃァ方途《ほうと》が無《ね》え、下を見りゃァ際限《さいげん》が無え。エー旦那え、火箱が微温《ぬる》くなりましたら、そこに火箸がございますから、どうかお直しなすって下さいまし、火は十分|埋《い》けてありますから、それは提灯が暗くなりましたら下からトン/\とヤンワリお叩きなさると心が落ちて明るくなります。強く叩くと消えますからお静かにどうぞ…」 侍「手数が掛かるな」 熊「ハテナ、串戯《じょうだん》じゃァねえぜ。知ってるのか知らねえのか。河岸《かし》を離れたら直《す》ぐに酒代《さかて》をくれりゃァ仕事に張り合いがあるが、まだ何《なん》とも言わねえ所を見るとくれねえのかな。くれなけりゃァ疝気が起こるぞ。渡る物が渡らねえうちは何だか気掛かりだ。ちょっと催促をして見ようかしら、女は芝居で疲れたか、スヤ/\寝てしまったが、訝《おか》しいなァ。野郎が長《なげ》え物を差しやァがって、女の顔を穴の明く程、見ていやがる。先刻《さっき》家《うち》へ来た時に妹だと言ったが、妹ならなにも珍しそうに、顔を覗《のぞ》き込んで見ているにも及ぶめえが、こりゃァ妹じゃァねえ。こん畜生、巫山戯《ふざけ》ちゃァいけねえ。そんならそのように渡す物をズン/\渡しゃァ盲目《めくら》にでも聾《つんぼ》にでもなってやるが、くれる物をくれねえで串戯《じょうだん》じゃァねえ…、女が起きてりゃァなんとか言うに違えねえ。貴所《あなた》早く船頭に祝儀をお遣《や》り遊ばせ。こういう雪の晩だから、多分に御遣わし遊ばせと、言うか言わねえか、そりゃァ分からねえが、大方言うだろうと思うんだ。アヽ厭《いや》だ/\。一番船を揺すぶってやれ畜生、ウーン、ドッコイショ、ヨーイトショ、ウーン…」 侍「船頭」 熊「ヘエ」 侍「大分揺れるな」 熊「ヘエ揺れます。出るものが出ねえと、何日《いつ》でもこの位揺れます。これでも出なけりゃァ大廻しに廻します」 侍「痴《たわ》けた事を言うな。マァ疲れたであろうから一ぷくやれ」 熊「ヘエ」 侍「イヤサ、疲れたであろうから一ぷくやれ」 熊「有難う存じます。御催促申す訳じゃァございませんが、出る物が出てしまわないうちは、強勢《ごうせい》仕事が仕憎《しにく》いもんでげすから…」 侍「なにを…」 熊「ヘエ御酒代《おさかて》が出るんでございましょう」 侍「馬鹿を言え。これで煙草を喫《の》めと言ったのだ」 熊「ヘエ!左様でございますか。私は煙草は手銭《てせん》では喫《の》めません。その代わり御先《おさき》煙草なら幾らでも戴《いただ》きます」 侍「ウム、其方《そのほう》は随分欲張った奴だな」 熊「ヘエ、欲の方じゃァ引けは取りません。山谷堀《さんやぼり》から吾妻橋《あずまばし》へ掛けて欲の熊蔵《くまぞう》と言えば、知らねえ者はございません」 侍「ウム、その欲の深い所を見込んで、頼みがあるが承知してくれまいか」 熊「ヘエ、金儲けと来たらどんな事でもやります」 侍「他《ほか》ではないがな。実はこの婦人は私《わし》の妹ではない」 熊「そうでございましょう。どうも貴所《あなた》の御兄弟としては失礼ながらあまり御様子が違い過ぎると思いました。お妹さんでなければ、お楽しみでございましょう」 侍「イヤそうでもない」 熊「それじゃァなんでございます」 侍「この婦人は、ある大家《たいけ》の娘だが、店の者と不義を働き、その男が暇《いとま》になった所から男を慕って親の金を持って家《うち》を出た。その途中|花川戸《はなかわど》で雪のために、癪《しゃく》を起こし、悩んでいる所を介抱して遣わそうと、親切ごかしに懐《ふところ》へ手を入れて様子を見ると、確かに七八十両足らずの金を持っている。途中で殺してしまおうと思ったが、往来の者が妨げになって仕事が出来ん。いささか、その男に当たりがあるから、遇わしてやろうと、実は欺《たば》かってこの船で連れ出した。どうせ親不孝をしたこんな奴は殺して金を取った方がいい。ちょうど疲れて眠っているを幸い、船の中で殺してしまおうと思うんだ。サァ大した金儲けだ。人殺しの手伝いをしろ」 熊「ジョ/\串戯《じょうだん》言っちゃァいけません。ソヽそんな酷《ひで》え事が出来るもんじゃァありません」 侍「それでも汝《きさま》は最前二階で金が欲しい/\と言っていたではないか」 熊「そりゃァ旦那、金は欲しうございますが、人殺しをして取ろうなぞという、そんな太《ふて》え了簡《りょうけん》はございません。どうぞ真《ま》っ平《ぴら》御免なすって」 侍「厭《いや》だと言うのか」 熊「ヘエ」 侍「厭なら厭でいい。しかし武士《さむらい》が大事を打ち明けた以上は、後日の妨げ、是非に及ばん、汝《てまえ》から先へ打《ぶ》った切るから覚悟をしろ」 熊「ジョ/\串戯《じょうだん》言っちゃァいけません。じゃァ手伝わなけりゃァ私が切られるんで…」 侍「如何《いか》にも」 熊「驚いたなァ。こっちが殺される位なら、先方《むこう》が殺されて、こっちは金を貰った方が割り事だ、じゃァ旦那やりましょう。やりますけれどもこういう事は約束が肝腎だから伺いますが、全体幾らおくんなさいます」 侍「ウム流石《さすが》欲深の其方《そのほう》、ガタ/\震えながら値《ね》を極《き》めるのは感心、骨折り酒代《さかて》両様くるんで二両もやろうか」 熊「巫山戯《ふざけ》ちゃァいけません。旦那は言う事は大束《おおたば》だが、する事は吝《しみ》ったれだね。イケッ太くッて図太《ずうずう》しいと言うのはお前さんの事だ。誰が二両ばかりの目腐れ金で笠の台の飛ぶような、そんな危ねえ仕事がやれるものか、面白くもねえ、マゴ/\しやがると川ン中へ飛び込んで、船を顛覆《ひっくりかえ》すからそう思え」 侍「コレ馬鹿な真似をするな。船を顛覆《ひっくりかえ》されて堪《たま》るものか。それでは其方《そのほう》欲しいだけ遣《や》る」 熊「当然《あたりめえ》よ。四分六とか山分けとかいうなら危ねえ仕事もするが、僅かの金なら御免蒙むる」 侍「ウム、成程|其方《そのほう》の言う所も道理《もっとも》だ。しからば斯様《かよう》致そう、百両あったらば五十両遣わす。それならば言い分はあるまい。十分に働け」 熊「ヘエ宜しゅうございます」 侍「どうも其方《そのほう》は随分欲張った奴だな」 熊「私も欲張ってるかァ知らねえが、お前さんの方がよっぽど質《たち》が悪い。…シテ旦那どこでその仕事をするんで…」 侍「高尾の吊るし切り、この船の中でやるつもりだ」 熊「そりゃァ旦那いけません。船を汚されでもしたらどうする事も出来ねえ それよりゃァ両国の橋間《はしま》、一ツ目の中洲の所へ船を着けますから、彼所《あすこ》でおやんなさいまし」 侍「ウム、好《い》いところへ気が着いた。やれ…」 熊「畏まりました。こうなりゃァ欲と二人連れでやっつけます」  と、それからセッセと両国の橋間中洲の所へ船を漕ぎ付けて来る。雪は益々《ますます》烈《はげ》しく、さしもに広い大川も、他《ほか》には一艘《いっそう》も出ておりません。やがてのこと艪《ろ》は水棹《みさお》と変わりまして 熊「旦那、先へ上がってくんなさいまし」 侍「よしッ」  袴《はかま》の股立《ももだち》を取り上げ、船首端《みよしばた》へ立ち上ったから 熊「ヤァ旦那、そこへ立っちゃァ舵《かじ》が取りにくいから、早く上がっておくんなさい」 侍「ウムよしッ」  と言うと、船首《みよし》からポンと向こうへ飛び移ると、泥深い沼の事だから堪《たま》りません。足がズブ/\入ってしまって、抜こうと悶《もが》くとなお深く入る。これはといううちにワーッと河岸の方で人声、何事が始まったかと、侍が向こうを見る間《ま》に熊蔵が水棹《みさお》を突っ張ったから船は忽《たちま》ち十|間《けん》ばかり川中へ出たかと思うと、また艪《ろ》に変わって腕に撚《よ》りを掛け、セッセと漕ぎ出した。漸々《ようよう》の事で中洲へ上がった侍、ヒョイと見ると船は遥か向こうへ行く。 侍「コレ船頭、船をどこへ持って行くのだ」 熊「どこへ持って行こうと、大きに御世話だ。俺の船を俺が漕ぐんだ。態《ざま》ァ見やがれ、間抜けめえ。慌てゝ飛び上がりゃァがって好《い》い気味だ。これから段々|汐《しお》が上がって来るから、浮くとも沈むとも流れるとも勝手にしろ、先刻《さっき》俺が川へ飛び込んで船を顛覆《ひっくりかえ》すと言ったら、顔色を変えて驚きゃァがったのは泳ぎを知らねえんだろう。土左衛門になっちまえ、居残り侍、島流し、好《い》い気味だ、態《ざま》ァ見ろ」 侍「コレ船頭、船を戻せ、不埒《ふらち》な奴だ」  と侍は歯噛《はが》みをして怒ったがどうする事も出来ない。中州へ突っ立っているうちに、頭から雪が降り積もって、忽《たちまち》ち真っ白になってしまった。酷《ひど》い目に遭えば遭うものでございます。こちらは侍を置きッ放しにして、セッセと船を漕いで間部《まなべ》河岸へ着けまして、娘を起こし、お宅《たく》はと聞くと本町《ほんちょう》だと言うから、 熊「親不孝をなすっちゃァいけません。すんでの事に和女《あなた》は、あの侍に殺される所でございました。この雪の中を和女《あなた》一人じゃ帰られません。私《わっち》がお送り申しましょう」  と家《うち》へ連れて来ると、流石《さすが》は御大家《ごたいけ》、一人娘がいなくなったと言うので、親類縁者出入りの者が大勢集まって、八方へ人を出して、行衛《ゆくえ》を探《たず》ねております所へ送り込まれましたので、両親《ふたおや》の喜びはこの上もございません。 父「有難う存じます。番頭どん、このお方が娘を連れて来て下すったのだからよくお礼を申しておくれ、イヤどうも飛んだ御厄介になりまして、有難う存じます。どうも親不孝な奴で」 熊「どうぞ旦那、御小言を仰《おっしゃ》る事もごさいませうが、今晩の所は何も仰らねえで下さいまし。彼是《かれこれ》仰られると、私か骨を折ってお連れ申したのが何にもなりません。またお嬢様が軽挙《かるはずみ》に駈け出すような事があるといけませんから、どうぞ私に免じて何も仰いませんように願います」 父「エーモウ貴郎《あなた》のお顔を立てまして、なんにも申しません。婆さんや、この方が娘を連れて来て下すった。よくお礼を言いなさい」 母「オヤマァどうも有難う存じます。なんという不孝者でございましょうか。ちょっとお前顔をお見せ。オヤ/\厭《いや》だ、二三日|家《いえ》にいない間に、大層お前鼻の頭が赤くなって、頭が禿げたね」 父「婆さん寝耄《ねぼけ》ちゃァいかねえ、そりゃァ番頭だ」 母「オヤ/\そうですか、マァお前なんという心得違いだえ」 熊「どうぞ貴女《あなた》御小言を仰《おっしゃ》いませんで…」 母「イエ小言は申しません。初めてお目に掛かった方に、こんな事を申すじゃァございませんが、一人娘だもんでございますから、ツイ我が侭《まま》に育ちまして、飛んだ事を仕出来《しでか》しました。この娘ではモウ随分苦労を致しました。小さい時分に乳放《ちばな》れが悪うございまして、竹内先生に診《み》て戴《いただ》くと、この娘は乳放しが肝腎だ。それに、少し癆症《ろうしょう》の気《け》があるようだから、気を晴らすことをしなければいけないと申されまして、御師匠《おししょう》さんへ上げて踊りを習わせました所が、大層素性がようございまして、忘れも致しません。八歳《やっつ》の時でございました。両国の中村屋の温習《おさら》いに参りまして、此娘《これ》が山帰《やまがえ》りを踊りました。その時の踊りは、真正《ほんとう》に貴郎《あなた》に御覧に入れとうございましたよ。縮緬《ちりめん》の衣裳を着けて棒を担いでチャ/\チャ/\チャンと踊りました時の可愛《かわい》らしかった事と言ったら真正《ほんとう》にございませんでしたよ。親の口からこう申しては可笑《おか》しゅうございますが、大層評判が好《よ》くって、まるで人形のようだ、こういう娘御《むすめご》を持った親御さんの顔が見たいと申されました時、私はあまり嬉しいので我を忘れてこの娘の母は私でございますと、舞台へ這《は》い上がりまして、どっと笑われましたが、親馬鹿でございますね。やっと育て上げて妙齢《としごろ》になったと思うと、親の言う事を肯《き》かないで、家出などを致して、誠に親不孝の奴でございます。親の罰《ばち》でそういう悪い侍に捕まって、既に危《あや》うい所を日頃信心をする御蔭《おかげ》で貴郎《あなた》見たような御方があって助けて下さいましたので、なんとも御礼の申しようがございません。実に子供は甘やかすも際限の無い者でございます」 父「オイ婆さん、不絶《のべつ》にそうベラ/\喋舌《しゃべ》んなさるな。あまりお前が喋舌《しゃべ》るんで耳がガン/\して来た」 母「私も、こめかめが痛くなりました」 父「箆棒《べらぼう》めえ。こめかめが痛くなるまで喋舌《しゃべ》る奴もねえもんだ。オイちょっと俺の手箱を持って来な…誠に貴郎《あなた》有難う存じました。なんとも御礼の申しようがございません。いずれまた明日《みょうにち》改めて御宅まで御礼に出ますが…」 熊「どう致しまして、飛んでもない事、なにも御礼をお貰い申そうと思って事をしたんじゃァございません。決して御出でには及びません」 父「イエそうでございません。いずれ御礼には出ますが、つきまして、これは誠に失礼ながら、全体ここで一口《ひとくち》差し上げたいのでございますが、この通り取り込みの中で、召し上がるも、かえって御迷惑でございましょうから、どうぞいずれかで一口|飲《や》っていらしって下さいまし」 熊「どうもこれは困りましたな。ヘエ、そうでございますか、それじゃァせっかくでげすから、お貰い申します。番頭さん、明日《あした》旦那が礼に来ると仰《おっしゃ》るが、どうかそれは止《や》めておくんなさいまし。お嬢さんをあの侍が殺した所で下郎《げろう》は口の善悪《さが》なきものと私《わっち》も殺《やら》れてしまえば、それッきり。こうして助かったのはお互い様に僥倖《しあわせ》なんで、改まって、御礼になんぞに来られちゃァ困りますから、どうぞ御止《おや》めなすって…」 番「どうも恐れ入ります」 熊「じゃァこの金は戴《いただ》きます」  と貰った金を押し戴いて懐《ふところ》へ入れ、外へ出て開いて見ると中に百両あった。 熊「アヽ有難え、こりゃァ百両、こいつァ豪儀《ごうぎ》だ、ウーン…」  あまり唸《うな》り声が甚《ひど》いので、自分で目を覚まして見ると、やっぱり船宿の二階に寝ていて、両手を固く握っていました。