片袖(かたそで) 三代目三遊亭圓馬  この「片袖」の原作題名は「平野大念仏寺幽霊の片袖」というもので、創作は天保年代の初期である。ちょうどその当時平野在の大念仏寺(大阪市住吉区)に起こった墓|発《あば》きの怪盗が天満与力の手で召し捕られて獄門の刑に処せられたのと、上本町《うえほんまち》、一説に上汐町《うえしおまち》の酒問屋の小町娘おいと(評判の娘で一枚絵になって売られた位の女)が恋人の片袖を抱き締めて死んだ巷説《こうせつ》とを結びけて大体のストーリーとし、その上に当時道頓堀角の芝居で六十五日の大入で打ち続けた狂言「仮名手本忠臣蔵《かなでほんちゅうしんぐら》」六段目の切《きり》の浄瑠璃《じょうるり》文句を取り入れて拵え上げたものである。原作ではシテ、ワキともに大阪方言であるが、本書には演者の仕勝手からシテを江戸ッ児《こ》にし、ワキを大阪|者《もの》として目先きを変えてある。なお時代も明治時代に直して演ぜられている。(花月亭九里丸記)  雑魚《ざこ》の魚《とと》交わりとか申しまして一席申し上げます。聴いて頂くのでなく、本だからマァ、見て頂く方で…。それから私は永らく大阪におりますので、大阪の言葉と東京の言葉とを和洋折衷、いや東西折衷の演方《やりかた》が面白かろうと思いまして一席お喋舌《しゃべり》致します。東京の言葉は速記に致しましても楽ですが、大阪は言葉がまことに書きにくゝ、また読み難いものです。エーまた、喋舌《しゃべ》ります方も喋舌《しゃべ》り難い、それは音《おん》の上げ下げで訛りが出て来ますのです。 「今日《こんにち》は」 「おうー、お這入《はい》り」 「えゝ塩梅《あんばい》にお天気でよろしあんな」 「どこかへ遊びにでも出掛けたのか」 「いゝえ、いま横町《よこまち》の理髪店《とこや》肝へ行ってましてん」 「オウ定《さだ》さんのとこか」 「そうだんねん、仰山《ぎょうさん》な町内の人が集《よ》ってはって、世間話をしてましてん。その中で貴方《あんた》知ってはるか知らんが、西区の警察へ出てはる人で八木様という人を知ってなはるか」 「ウム、八木刑事か、一度顔を見た事がある」 「左様《さよ》か、八木さんがなあ、貴方《あんた》何してはるのやろ、職業《しょうばい》何ヤ判らんし、ぶら/\遊んではるが、一体あの人何|職業《しょうばい》や?誰も知りまへん。そいで八木様が、喜公《きいこう》お前行って聴いて来いやい。よろしあすというて聴きに来ましたんや。貴方《あんた》何|職業《しょうばい》だすねん」 「俺の職業《しょうばい》が聴きたいのか、よっし、聴かしてやろう、…表戸《おもて》締めて来い、…おっと、掛け金かけて。…裏口も締めて来な、…おう、まだ乗ちゃいけねえ、その台所にある出刃《でば》を持って来な」 「怪体《けったい》な職業《しょうばい》やな、裏口《うら》も表戸《おもて》も締めて、出刃庖丁を持って来い」 「さあ、そこへ坐《すわ》れ。今俺の職業《しょうばい》を聞かしてやるが、大きな声を出したり、ちっとでも動くとこの出刃がでおめえの横っ腹へズブ/\と這入《はい》るんだぞ」 「フフ…、もうよろしあす、もう聴きまへんわ」 「いゝや、仕度《したく》をしたんだ、いうなと言っても言うずにおかねエ…喜公《きいこう》、…俺《おら》盗人《ぬすびと》だッ」 「フヘッ!(慄《ふる》える)あゝ怖《こ》わ。さよか、さゝ、さようか、可笑《おか》しい工合《ぐあい》やとおもたんや、こゝこゝに財布の中に十、十八、銭《せん》と市電の片《かた》、片道券の残りがおます、それより他《ほか》に、な…何にもおまへん」 「ウハヽヽヽ、莫迦《ばか》な事を言え、おめえの如《よう》な者の金銭《かね》を盗《と》るような盗人《ぬすっと》じゃねーや」 「金銭《かね》盗る盗人《ぬすっと》と違いますか、金銭《かね》与《や》る方の盗人だすか」 「金銭《かね》を与《や》ったらが盗人《ぬすびと》にならねえや。他人《ひと》の物は盗《と》るが生きた者の懐中《ふところ》は狙わねえんだ」 「ほと、どゝゝどんな事をしやはりまんねん」 「墓返しが俺の職業《しょうばい》だ」 「墓返し?てなんだんねん」 「まあ判らなきァ、いゝや。そこで、てめえに聴くことがあるが、四日程前、立派な葬《とむら》いを送って行ったなあ」 「へえ/\、ありゃ貴方《あんた》、上本町《うえほんまち》の山内清兵衛《やまのうちせいべえ》という大きな酒問屋はんの葬礼だすねん」 「ウム、上本町の男山《おとこやま》のか」 「左様《そう》だす」 「誰か死んだのか」 「あすこの別嬪《べっぴん》な娘はんだすねん」 「幾つだ」 「十、十、十八…かとおもてます」 「何病《なにびょう》で死んだんだ」 「それがな、蛙《かえる》がな」 「なにッ」 「蛙が…庭へ出て来よったんで、そいつが…娘やんの頭部《あたま》の上をばっーと飛び越えよったんや、そいで死にはったんや」 「ウム、それじゃ蛙が魅入《みい》れたのか」 「何や知らんけど、あゝ一生懸命に裁縫《しごと》をさせたらいかん、おんびきが肩越したというてな」 「おんびき?そりゃ違う、痙癖《けんびき》が肩を越したんだろう」 「左様《そう》だす/\」 「嫁にでも遣るのだったか」 「左様《そう》だんねん、何を嫁入り先が立派な家《うち》。彼処《あすこ》にかて何万という資産だんねん、箪笥《たんす》かてな八本とかを五本に縮めとかいうてはりなんねんへ長持《ながもち》が三本、ぎっちり着物が一ぱい詰めてまっせ。そやけどな、婚礼《よめいり》の夜《ばん》に着る袖模様の衣裳《べべ》が手が廻らぬので縫えまへんねん、それでお母様《かあさん》と二人で縫うてはったら肩を越しよったんだ」 「ウム、で何処《どご》の寺へ葬ったんだ」 「天王寺の一心寺」 「土葬か」 「焼かんと埋《う》めはりました」 「死骸の中へ金銭《かね》でも入れて埋めたようだったが、おめえ知らねえのか」 「へえ、入れはる所私、見てました、剃髪《ぼうず》にするとな可愛《かわい》そうなさかい、髪は高髷《たかまげ》(高島田のこと)に結《ゆ》うて、櫛も笄《こうがい》も本鼈甲《ほんべっこう》の上等な物をきっちり皆付けてはりました。で指輪も三本、一つが何やらモンドとかいうてピカピカ光る石の這入《はい》った物で、一つは白い奴でフラチナ、それからもう一つは黄金《きん》の無垢《むく》、無垢というても犬と違いまっせ。それから六連銭が当たり前やけれども小遣銭《こづかい》に困るといかぬというて三百円、金貨で財布へ入れてはりました」 「莫迦《ばか》な真似をしやがるな。左様《そう》か、よしッ、今夜は墓返しだ。てめえ一緒に手伝え」 「どんな事をしますねん」 「死骸を掘り出して衣類はもとより頭部《あたま》に差しているものから、指輪、三百円の金銭《かね》まで、そっくり盗《と》りに行くんだ」 「ハヽーン、ほと幽霊の追い剥ぎだすな」 「おかしな名称《なまえ》を付けるない、…さあ喜公《きいこう》、…寝ろ」 「眠《ね》ぶたい事おまへんワ」 「いゝから寝ちまいねえよ」 「まだ日も暮れぬのに、なんで今から寝まんねん」 「夜仕事をしなくちゃならない、だかう昼間のうち体を休めておけというんだ」 「はゝん盗人《ぬすっと》の昼寝か」 「沈黙《だま》って寝ろ」  愚か者は枕につきましたが、悪人の三隅亘《みすみわたる》は家《いえ》の周囲《まわり》を、もし刑事が張ってやしないかと、八方に気を付けて、夕餉《ゆうげ》の支度《したく》をして、己《おの》れもそのまま、ごろりッと横になりましたが、…チン/\/\(時計の音)時刻はよしッ、とのっそりと起き上がると、七輪《しちりん》に火をおこして鍋を掛けてジワ/\と煮えて来た頃、 「やい、起きろ/\、ヲイッ!起きろ」 「あつッ!怖《こ》わ、…怖わ/\」 「莫迦ッ!大きな声を出すないッ」 「あゝ怖かった、夢かいな、あゝ怖わ」 「どんな夢を見たんだ」 「貴方《あんた》と二人で一心寺へ行きましたんだす。そいで娘やんの着物を、ぬゝ脱がそうとしたんだす、そ、そ、そしたらなァ、…、あほーい顔をナ、…こう上げて、細ーい声で、衣裳《べべ》脱ぐのんいやーや」 「おかしな夢見るない」 「もう見てしもたんだす」 「顔を洗え、…洗ったか、よしッ、飯を食え」 「へえ、大きに頂きまっさ、ウワヽヽ、御馳走だんな。鶏肉《かしわ》やが、あゝ美味《うま》い」 「まあ喋舌《しゃべら》ずに静かに食え」 「いやもう遠慮せんと腹一杯に食べまっせ、あゝ美味い/\」 「酒を飲むか」 「いゝえ、、御飯《ごはん》をよばれまっせ。私《わたい》この鶏肉《かしわ》のすき焼で御飯《ごぜん》を食べて見たい/\と一昨年《おととし》からおもてましたんや」 「じゃ飯を食いねえ」 「大きに、…、フワァヽヽ、えゝ米やな、白いピカ/\光った、猿の牙《きば》見たいな」 「ばらすな」 「ばウ…ばら…ばらなんだんねん」 「ばらすなと言うんだ」 「なんの事だんねん」 「仲間うちではナ、今てめえの言った獣《けだもの》を嫌んだ。だから言うなと言うんだ」 「けだもん? なにもそんな事言えしまへんぜ、えゝ米や白うて艶があって猿、あっ左様《さよ》か、これをいうたらいきまへんねんな」 「言ったら殴るぞ」 「へえ、…、大きに御馳走はんだす、豆腐、えゝ味が付いてるなあ、葱《ねぶか》も、よう焚けて、肉《み》も柔こうおますな、焼き豆腐、あつッ、…、お、熱《あつ》ッ、(フー、フー)、なあ先生、焼き豆腐とかけて、虚夢僧《こむそう》、吹かな食えぬ」 「喋舌《しゃべ》るなッ!黙って食え」  二人は十分に腹を拵えまして、 「さあ、そろ/\出掛けよう、縁の下を覗いて見ろ、鍬《くわ》がある」 「へえ、縁の下か、縁の下には鍬ゆうが(縁の下には九太夫《きゅうだゆう》の洒落)」 「洒落は巧《うま》いなあ」 「縁の下には鍬ゆうが、お猿は二階で」 「こらッ!(ポカッ、喜公《きいこう》の頭を殴る)」 「あっ!痛ッ、…あゝ、そや/\」 「表へ出ろ」 「ヘェ、先生、何してなはんねん」 「静かにしろ。今|掛金《かけがね》を掛けて錠を下している所だ」 「何でだすねん」 「無用心じゃないか」 「フウン、盗人《ぬすっと》が二人出るのに」 「黙っていろ」 「あーあ、寒《さ》む、ぴゅうっと冷たい風が来やがるねん。大寒《おおさ》ぶ、小寒《こさ》ぶ、ざーるの、いや違う、…猫の甚平《じんべ》(袖なしの方言)借って来《こ》う」 「おかしな物を借りろない。少し黙って歩け」 「黙ってると怖わすがな」 「…、おい喜公《きいこう》、こゝが一心寺と違うか」 「あゝ、こゝや/\。そうだす/\」 「どこからか這入《はい》る所はないか」 「扉《と》を叩いて表門《おもて》を開けて貰いまひょうか」 「莫迦《ばか》ッ!表向き這入《はい》れるかい。こっちへ来い」  グルッと茶臼山《ちゃうすやま》の方へ廻りますと、塀を乗り出して松の枝が一本、にゅうっと往来の方へ出ている。三隅亘《みすみわたる》は懐中《ふところ》から古い麻縄《なわ》を出して、麻縄《なわ》の端には分銅が付けてあります。二つ、三つ振りまわして呼吸を計って松の緑へ、…ぶうーん、…くるッ、くるッ、くるッ、三つ程分銅が絡み付いた。…力を一杯に入れて。つうー、つうー、つうーと塀の上へ。 「先生、先生、あゝ怖《こわ》やの、私《わて》一人置いておいて(この重言《じゅうごん》は大阪特有の言葉)どこへ行きなはったんや、…どこへ行たんやろ、…オーイ三隅さあーン」 「しいッ!、…しいッ!、ここだ、…ここだ、…オイ喜公《きいこう》」 「あゝ早《はや》!もうそんな所《とこ》へ上がって」 「大きな声を出すな。その鍬《くわ》をこの綱の先へ結《ゆ》わえ付けろ…いゝか」  綱を手繰《たぐ》ると、つ、つ、つ、と手許へ。 「巧《うま》いなあ、成程こりゃ貴方《あんた》の智恵と違いまんな。動物園で猿が物を貰う時のように」 「またか、ばらすな」 「あっ、しもた、…私《わて》、先生、私どないしまひょう」 「その塀の脇にある大きな石の上へ乗れ、…せのびをしろ、‥‥いゝか/\」  喜公《きいこう》の襟頭《えりがみ》に手がかゝると、ズル/\/\と塀の上。 「こゝどこだすねん」 「一心寺の塀の上だ、待ってろよ」  今度は麻縄《なわ》を内部《なか》の枝へ付け替えて、スル/\と音もなく地上へ。 「さあ、…喜公《きいこう》、降りて来い」 「へえ、あ怖《こ》ッわ、…あっ、しもた!」  ずる/\/\ずっどん。 「(大きな声で)あー痛た、痛い/\」 「莫迦《ばか》ッ!静かにしろい」 「先生!貴方《あんた》私《わて》に、莫迦/\/\と言いなはんな。あゝ痛た、そないに豪《えら》そうに言うたかて、馴れん事やがな。馴れた人かて演《や》り損ないが何ぼでもあるわん。上手《じょうず》の手から水が洩る、弘法も筆の誤まり、猿も木から」 (ポカッ!) 「あっ痛い」 「莫迦《ばか》ッ」 「なんで、そないに莫迦々々言われますのや。莫迦ならこそ、貴方《あんた》と一緒に、夜夜中《よるよなか》こんな所へ来てますねん、賢い者がこんな真似をするかいな。貴方が莫迦や」 「止《しい》ッ!止《しい》ッ!」 「なんじゃい。止《しい》っ!と、猫とちがうわい。人が怪我をしてんのに、痛いかとも言うてくれずに莫迦/\と貴方が悪いか。私《わたい》が悪いか。こゝの坊《ぼん》さんに起きてもろて一遍聴いて貰いまひょう」 「そんな事が出来がるかいおい、喜公《きいこう》、墓はどこだ」 「昼と違《ちご》て、暗いさかい判《わか》れへん。提灯持って来たらよろしおましたなあ」 「泥棒が提灯を持って来る野郎があるか」 「それでも、盗人《ぬすっと》の提灯持ちをした」 「なにを言いやがるんだ」 「あゝ、先生こゝだす/\」 「よし、鍬《くわ》持って来い」  ようやく二人で探り当てゝ新仏《しんぼとけ》の墓を掘り起こし、死骸に着いている物の殆《ほと》んど全部を持って帰りました。その翌朝、 「喜公《きいこう》、さあこゝへ来い」 「お早ようさん、昨晩《ゆんべ》はどうも、ヘェ…、なあ、先生、早う起きなはってんな。大分そこいらも片付けてあるらしい」 「愚図《ぐず》々々言わずにそこへ座れ。…なんだ、…遠慮するな、もそっと側《そば》へ来い。心配せずにここへ来い。…喜公《きいこう》、慄《ふる》えてるな」 「ヘェーい」 「現金が三百円。本当は七三。俺が七分取って、おめえが三分取るのが当たり前だが、そんな吝《けち》な事は言わない百五十円、それから指輪三本売ったのが二百円だ、こいつはお前に百円、さあ両方で二百五十円取って置け。一遍に使うなよ、手前は莫迦《ばか》だから一遍に使うと直《す》ぐ捕まるんだぞ。ちび/\使え」 「ヘェ、大きに。チビ/\使います、日に三銭ずつ」 「どうでも勝手にしろ、お母《ふくろ》を大事にしてやんな」 「先生、怪体《けったい》な事を言いなはるな。どこぞへ行きなはるのか」 「その通りだ。八木刑事が俺に目を付けるようでは長く大阪には足をとめてはいられねへ。高飛びをするんだ。…喜公《きいこう》、お前《めえ》に断っておくがこの着物だ。別染《べつぞめ》らしい、紋が付いでいるから、売るにも売られねえ。それでこの片袖だけ俺が貰って行くぜ」 「ヘェ」  片袖をもぎ取って、残りの衣類は寸々《ずたずた》に。…どう始末を付けたか後《あと》白浪とその日限り。この土地を逐電《ちくでん》致しました。  お話が変わりまして山内清兵衛《やまのうちせいべえ》の宅《たく》では娘が死んで三年、僅かなれども貧民に米一升金二円ずつ施行《せぎょう》を致しております。店先はもう一杯の人の山。その混雑|中《ちゅう》にのっそりと立ちましたのが、鼠色の衣類、鼠色の帯、鼠色の脚絆《きゃはん》、甲掛《こうかけ》、手甲《てっこう》、猫の側《そば》へはちょっと寄れない。負櫃《おいびつ》背後《せな》に草鞋《わらじ》履き六部姿で顕《あらわ》れましたのが、余人にあらずして三年前の三隅|亘《わたる》でありました。 「御免下され」 「ヘェおいでやす」 「男山《おとこやま》、山内清兵衛殿とは御当家かの」 「そうでおます」 「御主人御在宅かな」 「奥におります」 「修行者じゃ、御主人にお目にかゝりたいとお取次ぎを願う」 「ヘェ、ちょっとお待ちやしとくれやす」  番頭は奥へ参りまして、主人の前へ、 「旦那はん」 「なんじゃ」 「旦那はんに遇いたいというて六部さんが表へ来てはりますねん。どないしましょう」 「ヲヽ左様《そう》か、娘の命日、お仏壇へ御火《おあかり》を上げて修行者殿に拝んで貰いなされ。その間《うち》に離座敷《はなれ》を片付けてあすこでお目にかゝるとしよう」 「畏まりました。…お待たせ申しました。サァどうぞこちらへ」  案内《あない》された仏間、立派なお仏壇。数々のお供え物、立ち昇る線香の匂いも弥陀《みだ》の浄土から吹き寄す薫風かとも思われ、蝋燭《ろうそく》に点《とも》る火の光、冥路《よみじ》を点《て》らす慈悲の篝火《かがりび》かと…こゝで約三十分程もいと丁寧に念仏を唱え、経を誦《しょう》じておりましたが、それを済ますと、主人夫妻の案内で離座敷《はなれ》へ通り正座《しょうざ》に着きますと 「ヘェ始めまして、私はお訊《たず》ねに預かりました山内清兵衛。何か御用でございますか」 「ちと秘密《ないみつ》でお話が致したいのじゃが。其方《そちら》にお在《いで》になるのは」 「私の女房《かない》で御座います。店の者誰一人来る気遣いは御座いませぬ」 「あゝ左様か。しからばお話致す。お聴き下され。斯様《かよう》な訳じゃ。…諸国を修行致すこの身の上、時は今年の卯月《うづき》の上旬、雪まだとけやらぬ越中のいとゞ険しき立山《たてやま》へ、八《や》つ乳《ち》の草鞋《わらじ》を履き|〆《し》めて、絶所《ぜっしょ》難所の嫌いなく、登山なしたるその砌《みぎり》、訪れたるは幽霊谷、人の気配は更になく、梢《こずえ》に囀《さえず》る鳥の声、これとて浮世の物とも思えず、昼なお寂しさ物凄《ものすご》さ。鬼気《きき》真《しん》に人に迫るとか、此所《ここ》数多《あまた》の亡者|顕《あらわ》れて、故郷を恋しと慕う者、娑婆《しゃば》の俗人呪う者、…いやお話しするさえ身の毛もよだつばかりにて、修行の身なれば夜陰《やいん》とても厭《いと》わずに、魔の淵《ふち》と申す大地の畔《ほとり》にて、念仏を唱えておりましたる所。魔性の者と見違うばかり、髪は高髷《たかまげ》に結《ゆ》い上げ、派手な色目《いろめ》の裾《すそ》模様、目も醒めるような振り袖に、夜目《よめ》にも光る三つの指輪。齢《とし》は二八と思しきが、片袖をば目に当てて、さめ/″\と泣き入る姿、こは、いぶかしの女よと、お前は何処《いづく》の者で仔細はと、尋ねる声の下からは、大阪上本町の酒問屋|男山《おとこやま》山内清兵衛の一人娘、いとゝ申す者で御座います。十八歳を一期《いちご》とし、冥土の風に誘われて、彼世《あのよ》へ旅立ちました者、なれど両親《ふたおや》の嘆き深くして極楽浄土へ行くにも行けず、何卒《なにとぞ》一時《いちじ》も早く父清兵衛にお遇い下され、紀州高野山へ祠堂金《しどうきん》として三百円、お納めくれますように伝言頼むとの仰せ。かつ両親《りょうしん》への証拠にと己《おのれ》が着ている着物の片袖をもぎ取り、我が手に渡せしと思いしが、南呵《なんか》の夢。…目醒《めざ》めて吾《われ》に帰った時握りおったはこの片袖、なんと御夫婦、お見覚えが御座ろかな」  と差し出しましたるは、可愛《かわい》や娘お糸が死装束《しにしょうぞく》の…片袖。手に取り上げて清兵衛が、 「アッー、これじゃ/\これは確かに、おい婆《ばば》どん、こなた、こゝこなた、この片袖に記憶《おぼえ》があるか」 「記憶《おぼえ》があるかとはあんまりじゃ/\。寝た間《ま》も忘れた事のない可愛い娘のこの片袖 娘が死んだ時に一心寺へ葬る時に後《あと》に心の残らぬようにと着せてやった(泣く)裾模様の片袖やないか」 「確かにそうじゃのう。俺《おりゃ》男ではっきりと模様は記憶《おぼ》えてはいぬが、着物の紋は家の紋、…おゝそうじゃこの裏地《うら》は娘が好きで拵《こしら》えてくれと無理いうて俺に買わしよった裏地《うらじ》じゃ、…そんならまだ娘は浮かんではいぬのじゃなあ(泣く)」 「貴郎《あんた》が、あんまり泣きなさるから(泣く)」 「なんかすぞい(何を言うか、を下品に言う大阪の方言)おゝお前の方が余計に泣いたやないか」  老夫婦はその片袖にひしと縋《すが》り付いて、よゝとばかりに泣き崩れました。横目に見た三隅亘は 「お娘|御《ご》の伝言も終わりました。これにてお暇《いとま》申します」 「あゝ、もし御修行者様には何方《いづく》へおいでゞ御座います」 「御堂《みどう》の縁、農家の軒、宿《やど》を定めぬ雲水の身の上。何《いず》れへと定かには申されませぬか、これより紀《き》の路《じ》高野《こうや》に参り、それより西国第三番の札所《ふだしょ》粉河寺《こかわでら》に詣で和歌山より紀三井寺《きみいでら》に行く所存」 「あの、高野へお出でで御座いますか。ちょうど幸い、一時間も早う届けてやりたい祠堂金《しどうきん》、貴僧《あなた》のお手から高野山へお納めなされて下さりませ」 「その儀、御辞退申そう。他《ほか》のものとは違い、金銭《かね》は間違いの起こり易きもの」 「なんの/\、娘が見込んでお願い申せし修業者様、御迷惑でもこの役目、仏のためにしてやって下さいませ」 「仏のためとあるならば、拙僧《せっしゃ》確かに高野へお納め致そう」 「何分宜しゅうお願い致します」 「ナィ、そこから三百円持っておいで。へい、では三百円」 「確かに受け取り申した」 「あっ、ちょっとお待ちなされて下さりませ。ここに五十円のお金が御座います。これは貴僧《あなた》様にではございませぬが、お参詣《まいり》の途中、難渋《なんぎ》な人がありましたら少しずつでも分けてやって下さいませ」 「おゝこれはまた御奇特な事を、…承知いたしました」 婆「あのう、こゝに五十円ございますが。今度|門跡《もんぜき》様にお参りしたら一遍のお経でも上げて頂こうと貯めて置きましたこのお金、親爺《おやじ》どんの金と一緒に恵んで上げて下さりませ」 「重ね/″\のお志《こころざし》、確かにお預り致します。…御主人、何処《どこ》やらで三味《しゃみ》の音《ね》が致しますな」 「はい隣家《となり》が浄瑠璃《じょうるり》の稽古屋でござります」 「なに浄瑠璃の稽古屋、それはまた結構な、三味線の音《ね》でも聴いていられゝばまた気が晴れるか知れませぬ。あまりくよ/\遊ばしては、お体に障《さわ》ります。この後《のち》はお娘|御《ご》の事を思い出されぬようになさるがよろしい」 と金包みを両方の手に持ち、 「こちらに(右手)五十円、こちらに(左手)五十円。合わして百円百ヶ日《にち》。追善供養(これより浄瑠璃の節《ふし》となる)跡《あと》ねんごろに弔《とむら》われよ。さらば/\おさらばと見送る涙見返る涙なみだの浪の立ちかえる」  と浄瑠璃を口ずさみながら、暖簾《のれん》を潜《くぐ》って融々《ゆうゆう》と草鞋へ片足掛けると、暖簾の脇からにゅーと首を出して、 「先生」  ひょいっと見ると三年前に墓返しを手伝わした愚か者の喜公《きいこう》。――、びくっとしたが、 「莫迦《ばか》じゃないか」 「フウン、巧《うま》い事かたる≠ネァ」