熊野の午王(くまののごおう) 五代目三遊亭圓生  人として悋気《りんき》嫉妬《しっと》のない者はございませんが、とりわけて御婦人はお嫉妬《やきもち》の強いものとしてございます。もっともこのお嫉妬《やきもち》も全然《まるで》ないのはかえって情愛がなようでお宜しくございません。そうかと言ってまた有り過ぎても困ります。 主「久蔵《きゅうぞう》や、久蔵、仕様がないねえ。権助《ごんすけ》や」 権「ハイ、何だね」 妻「可笑いねこの人は、お前久蔵という名じゃァないか」 権「親か命《つ》けた名前だけれども、江戸へ出て来てから、皆なが権助々々ちうもんだから、久蔵てえ名前チョックラ忘れてしまった」 妻「馬鹿々々しいね。モウ百編も呼んだんだよ」 権「百遍なんか嘘だ。久蔵や/\と二度呼んで、直《す》ぐに権助やと言ったんでがす」 妻「そんなに知ってるなら、早く返事をするがいいじゃァないか」 権「私《わし》久蔵と言ったから、私の名前呼んでるようだ返事すべえと思ってる内に、また久蔵やと呼んだから、出そうになった返事呑み込んでしまった。三度目は権助やと呼んだ。これじゃァ馴れてるだから、直《す》ぐに返事が出た」 妻「マァお入り、そこを締めて、立っている奴があるものかね。お坐《すわ》りよ。そんなに遠くでなく話がしにくいから…変な坐りようだね。それというのは外《ほか》じゃァないがね。お前も知っての通り、この頃旦那様が日泊り夜泊り、毎日のようにお出掛けになって、それっきり帰っていらっしゃらない。またお帰りになれば直ぐとお出掛けになる、そこでお前さんに頼むんだけれども、よく旦那のお供をして一緒に行くだろう」 権「へエ参《めえ》りましたが、この頃久しく往かねえ」 妻「この頃はヒョコスカと一人でお出掛けになる。それについてお前に頼みがあるんだけれども、お前、私のいう事を肯《き》いてくれるかえ」 権「ヘエ、これ困っただな。よくねえ事だからね。けれども無理ねえさ。旦那様ァ留守だし、私ちょっと垢抜けてるだからね。だけんどマァ心得違えしねえが方がようがすぞ」 妻「何だい変な事をいうじゃァないか。私がお前に頼みというなァ外《ほか》じゃァないが、私の腹の中をよく考えおくれ。私は嫉妬《やきもち》をやく訳じゃァないけれども、お家《うち》が大切だからいうのだよ。お留守にお屋敷の御用か何かで、お店の者にも分からなければ私にも分からない。旦那様でなければならない御用でもあった時に在《いら》しっている所が分からないと、どんなに困るか知れない。お前はよく旦那のお供をして行ったが、何日《いつ》でも紛《はぐ》れたと言って帰って来たけれども、あれァお前何だろう。旦那様に幾らか貰って先へ帰って来るんだろう。旦那様の在《いら》っしゃっている先を知ってるだろう。真実《ほんとう》の事をお言いよ」 権「私イ知らねえでがす。あの両国ちう処でがすがえらく賑やかの処で彼処《あすこ》まで参《めえ》りますと彼方《あっも》にも此方《こっち》にも人べえゴタ/\しておりますで、そっちへ気を取られているうちにあの野郎」 妻「何だい野郎とは、旦那じゃないか。お妾か何に旦那様だろう」 権「私《わし》知らねえ」 妻「そんな事を言ってお前隠しているんだね。言って迷惑にならないからお言いね。いうとお前の好きな物を買って上げる。お前一番好きな物は何だね」 権「私《わし》かね、私の一番好きな物は饅頭でがす。私の国の饅頭は皮べえ厚くって、餡《あん》が些《ちっ》とべえッか入ってねえ。東京のはどうも皮が薄いくって餡が多いから好きです」 妻「アヽお前はお酒は嫌いで饅頭が好きなんだね。妙なものが好きだね。じゃァそれを買って上げよう。お前の好きな程買って上げるから、家《うち》をお言い。家をそう言えば買って上げるから」 権「ヘエ、そんならそう言います。この先の横丁に…」 妻「エッ、この先の横丁に、何処《どこら》辺だえ、絵の具屋がある、あの隣りの…マァ呆れ返ってしまったね。目と鼻の間へ鉄面皮《あつかま》しいね。そこがお妾の家かえ」 権「ナーニ、饅頭屋よ」 妻「饅頭屋を聞いてるんじゃァないよ」 権「家をさえ言えば買ってやるというから、言ったんでがす」 妻「真正《ほんとう》に呆れ返ってしまうじゃァないか、それじゃァお前は全く知らないのかえ。知らなければこれからお供に行ったら、先を見届けて私に告げて下さい。ここに僅かばかりだが、お金があるから取っとお置きよ」 権「これはどうも気の毒だね。こんな物を貰わなくっても私《わし》はやりますが、出した物を返しちゃァ失礼に当たるから貰って置くべえ…アヽ五十銭あるな」 妻「何故《なぜ》中を見るんだよ」 権「有難うがす。私これを貰ったからいう訳じゃァねえけんど、私やァ内儀《おかみ》さんの―、蔭《かげ》で贔屓《ひいき》ぶってるだ。旦那どんの方が叱言《こごと》が甚《えれ》えだから、今度は紛《はぐ》れねえようにすべえ。どうだね、家《うち》から縄|付着《くっつ》けて、腰縄にして行くべえ」 妻「そんな事は出来ない、どうか頼みますよ」 権「受け合いました」  権助も鼻薬を貰いましたから、手ぐすね引いて待っております。その内に旦那がお帰りになる。翌日またお出掛けになります。 妻「アノ今日はどこまでお出でになります」 主「今日はちょっと本所の方まで行こうと思う」 妻「左様でございますか、お供は」 主「そうさね、もし何なら定吉を連れて行こう」 妻「定吉は私《わたくし》が少し用事がありますが、手透《てすき》でございますから、権助をお連れなすっては」 主「あれは往かない」 妻「でも何時《いつ》も連れていらっしゃるではありませんか」 主「だが彼奴《あいつ》には困る事があるんだ。主従の礼を知らない。俺《おれ》を捉《つか》まえてお前/\なんて赤面する事がある。こないだなぞは後から突然《いきなり》唾《つば》をして、俺の頬《ほ》ッ面《ぺた》を擦《こす》ったじゃァないか。穢《きた》ないというと、こういって平気でいるんだ、そうでごぜえますか、いつもは飛び越すんでございますかって、何ぼ私が構わないからといって、後からポン/\痰《たん》や唾をされて堪《たま》り事があるものか。呆れ返って物が言えない」 妻「エヽお邪魔ならお止《よ》しなすった方がようございましょう」 主「邪魔という訳じゃァない。そうお前のように言われちゃァ困るな。それじゃァようございます。連れて行きましょう。呼んでも直ぐ返事をしない奴だから、彼奴《あいつ》は…権助や」 権「ハイ」 妻「不思議な事があるものだ。今日は大変返事がよかった。供だから支度をしな」 権「ヘエ、そうだんべえと思って、モウ支度が出来てるんだから、行くならかん出すべえ」 主「何だい、かん出すべえという事があるものか。あれだから困る。…じゃァ行って来ます」 妻「ハイ行ってらっしゃいまし。きよや、旦那様のお出掛けだよ」 きよ「畏まりました」 旦「権助履物を出して置きな」 権「モウ出てますよ」 旦「不思議な事があるものだ。履物を出して待ってやがる…オイ/\店から出るんじゃァないよ」 権「だから私《わし》はここに待っています」 旦「何だえこの麻裏《あさうら》草履は」 権「俺のよ」 旦「お前の履物、私のは出してあるか」 権「貴郎《あなた》のはまだ出さねえ」 旦「馬鹿。だから俺の履物を出して置けというのだ。どうも実に呆れ返ってしまうじゃァないか。それだから厭《いや》だというんだ」 妻「権助や、そんな事をしちゃァなりませんよ。よく気を付けてお供をするんだよ…きよやお前旦那様の履物をお出し。では行っていらっしゃいまし、権助や、よくお供をして旦那様を頼むよ」 権「ようがす。心得てます、…サァ行くべえ…旦那どん、家にいるというと気持ちが悪うございますが、表歩く方が何だか知らねえが気が爽々《せいせい》として快《い》い心持ちだね」 旦「あまり大きな声をして話をするな。往来で外見《みっとも》ねえ」 権「旦那どん、今日はどこへ行きますね」 旦「今日は本所の方に用達《ようた》しに行くんだが、お前は先まで行かなくってもいいから両国辺りで帰んな」 権「駄目だ」 旦「何故」 権「何故だって内儀《おかみ》さんが頼むと言ったんだ。俺は先まで供をやって、見届けて帰るべえ」 旦「いいから帰んなよ」 権「駄目だよ、今日はどうでも先まで行くだ」 旦「そんなに供をしたければ、俺は今日東京中歩く心算《つもり》だから供をしろ、手前に楽をさせてやろうというので俺がいいったらいいにして帰れ」 権「駄目だよ。どうも途中で、帰って参りましたと内儀《おかみ》さんに言えねえから、今日はなんでも貴所《あんた》の行く処まで行く。東京中位は愚かだ、俺が足はハァ頑丈なんだから、日に二十五里位の道を歩いても構わねえ、供ぶって行くだ」 権「そうか、大層な勢いだな。権助貴様何か、家《うち》の奴に俺の行く先を見届けて来てくれろと頼まりゃァしねえか」 権「そんな事はねえ」 旦「嘘を吐《つ》け」 権「そんな事を言って、お前様|私《わし》を疑ぐるだね」 旦「疑ぐる訳じゃァねえ。手前今日家の奴に鼻薬の少しも貰って、俺の後《あと》を尾《つ》けろと頼まれたいう事が手前の相に現われているんだ」 権「ヘエー、私《わし》が内儀《おかみ》さんに幾らか貰って貴所《あんた》の後を尾《つ》けろというのが顔で知れたかね」 旦「アヽチャンと出ている。幾ら隠しても駄目だ」 権「それァ魂消《たまげ》た、よく分かるもんだな。それじゃァ隠さねえ、実は内儀《おかみ》さんに五十銭貰って、貴所《あんた》の行く先を見届けて来いと頼まれた」 旦「そうだろう。俺にはチャンと顔で分かるんだ」 権「剛《えれ》えもんだな、魂消《たまげ》た。それじゃァお前さんにこの五十銭返すべい」 旦「そんな物は返さないでもいい。そこで俺のいう事を聞けば、家の奴が五十銭くれたのだから俺は一円やる」 権「ハァ、剛《えれ》え事になっただ、五十銭と一円とは大変違うぞ」 旦「ウム」 権「旨《うめ》えな貴所《あんた》のいう方の事を肯《き》くべえ」 旦「ここで別れるから、家へ帰って旨くいうんだ。よいか、間違えずに覚えていろ。旦那のお供で両国まで行きました。すると彼方《むこう》から田中さんが参りました。お前知ってるだろう。田中さんというのを」 権「家へ来る」 旦「そうよ、お前幾らかあの人に貰った事があるだろう」 権「ある/\、年玉《としだま》をくれた」 旦「ウム」 権「あの人の事を年玉野郎と覚えている」 旦「何だ年玉野郎とは。あの田中さんに逢って、今日は何でも交際《つきあ》ってくれろと言われ、よんどころなくあの方と一緒に網に行った。私にも行けといわれて仕方がないから、お供をして港屋《みなとや》から、船を川上へやって、奥の植半《うえはん》で芸者を聘《あ》げて、引っ繰り返るるような騒ぎをして、これから向こう越しをして廓《なか》へ行こうという事になって、旦那はお交際《つきあい》で吉原へ行ったが私は植半から直ぐに戻って参りましたと、こう言って帰るんだ。そこでお前に一円金をやるから近所でどこでもいい。魚屋へ行って綱で取れたような魚を少しばかり買って、これは内儀《おかみ》さんへお土産だからと言って持って帰るんだ。直ぐ帰ちゃァいけねえから、日足《ひあし》の陰るまでどこかで遊んで別に三十銭やるから、お前の好きな処へ入って日の暮方になって、旨くやればそれでいいんだから、もし聞いたらば、茶屋は山口巴《やまぐちともえ》へ行くと言ってたとこういうのだ」 権「ハァ、偉い難しいなァ。文句が長えから忘れては手に負いねえ。なんだって、両国へ行くと向こうから年玉野郎が来て、そうじゃァなかった、田中様が来たと、その人と一緒に何とか言ったっけ…、そう/\港屋という家から船へ乗っかって網を打ったと、そこで何とか言ったっけ奥の植木鉢屋…」 旦「植木鉢屋じゃァない、植半だ」 権「アヽ植半か、そこ引っ繰り返るような騒ぎをしてそれから遊びに行って、吉原の茶屋は何とか言ったっけね。覚え難い家だね」 旦「山口巴というのだ」 権「山口巴、そこへ旦那は行ったから私《わし》は帰って参りましたと言って網で捕れたような魚を持って行けばいいんだね」 旦「そうだ。じゃァここで別れるから旨くおやりよ」 権「ようがす、どうも偉い事になってしまった。じゃァ左様なら…先ず占《し》めたね、内儀《おかみ》さんから五十銭貰い、旦那から一円貰うと、この三十銭は何か食いながらどこかへ行って遊ぶべい」  これから権助が日暮しをして、ある魚屋へ参りまして、 権「御免なさい」 ○「何だえ」 権「魚を下せえ」 ○「何だね魚というのは、何が欲しいんだね」 権「何でも構わねえ。網で捕れた魚を貰いてえもんだ」 ○「ここにある魚は皆な網で捕れたよ」 権「そうか、これァ何てえものだ」 ○「そりゃァ伊勢蝦《いせえび》という物だ」 権「網で捕れたかね」 ○「網で捕ったんだ」 権「じゃァこれを貰うべえ。そっちにあるのは何だんべえな」 ○「これか、こりゃァ甘塩の干物だ」 権「成程そうか。網で捕れたかね」 ○「そうだ、皆な網で捕れるんだ」 権「じゃァそれを貰うっべえ。そっちに偉く付着《くっつ》いてるのは何だね」 ○「これか、オヽもこりゃァ目差《めざし》だ」 権「ハァこれが目差というものか、網で捕れたかね」 ○「元は網で捕れたのよ」 権「そんならこれを貰うべえ、幾らだ」 ○「皆なで六十銭」 権「ハァそんなら四十銭儲かった」 ○「なんだ」 権「ナニこっちの事で、その籠《かご》へ入れてくだっせえ」  権助それを持って帰って参りました。 権「只今」 奥「オヽお帰りかえ。サァこっちへお入り」 権「只今帰りました」 妻「大層遅かったが、今日は旦那様の後《あと》を尾けて見届けて来てくれたかえ」 権「ハイ、今日は只今まで旦那どんと一緒に歩きました」 妻「旦那はどこへお出でだえ」 権「あれから供ぶって、両国まで参《めえ》りました。すると向こうから来たでがす」 妻「何が来たえ」 権「何って、ソレ、何とか言ったっけな、忘れてしまった。 年玉の、ソレ知らねえかえ」 妻「私は知らないよ」 権「アヽそう/\、田中さんという人」 妻「アヽ田中さん、それでどうしたの、その人が」 権「旦那に遇って、何でもハァ一緒と行けというので、旦那どんも嫌だけれども一緒に行くという事になって、何とか言ったっけね、ソレ港屋という家から船を拵えてそれへ乗って網を打つえべえというので、そりゃァどうも偉い事をやって網打ったの、それから上手の参《めえ》りまして、植木鉢の引っ繰り返った処へ行っただ」 妻「何だえ植木鉢の引っ繰り返ったというのは」 権「ハァ間違ったかな…そう/\植半だ。そこで引っ繰り返るような騒ぎ打《ぶ》つっただ」 妻「植半へ、定めし芸者やなにか上がっただろう」 権「そうとも/\、どれからハァ吉原へ行くような事になった。私はそこから帰る事になったが、茶屋は吉原の何とか言ったっけ、山口屋|花林糖《かりんとう》の家かね」 妻「そんな家があるものかね」 権「間違った。そう/\山口巴という家へ行ったと、お前さんにそう言ってくろッと、そうして網打った魚をば少しばかり持って行けというので、持って参《めえ》りました」 妻「そうかえ、そりゃァどうも御苦労だったね。そう行く先さえへ判っていればいい。そのお魚というのは」 権「今台所へ籠へ入れて持って参りました」 妻「そりゃァマァ御親切に、田中さんが下すった網で捕れたというお魚を一つ拝見しよう…きよ権助の持って来たお魚というのを持って来ておくれ。私は見たいから…」 きよ「ハイ、どうも内儀《おかみ》さん、呆れ返って本当にモウ馬鹿々々しくって、権助さんの持って来たお魚というのはこれでございます」 妻「ちょっとお見せ…権助」 権「ハイ」 妻「こりゃァ何だえ」 権「これがソノ網で捕れただ、この魚が、そりゃァとてもお前さんに見せたかっただね。名ァ知ってるか、これが伊勢蝦《いせえび》というんだ。この魚がマァこの角《つの》うピン/\打ちァがって、向こうへボン/\飛ぶだ。偉え魚だ。旦那どんか網打ってござったから、それが捕まったが、こっちにあるのが甘塩の干物、こいつがまたピン/\游《およ》ぐだ、伊勢蝦と違って徐《のろ》ッくせい。ソレ網打てというと、これが捕まっただ…。こいつが目差《めざし》しと言って仲の好い魚だ。何尾《なんびき》も皆な一つに付着《くっつい》て、揃って来るだ。不思議にマァ仲の好い魚だ。あれを打てというと打ったが、その面白い事一通りでなかっただ、内儀《おかみ》さん」 妻「お前何を馬鹿な事を言ってるんだよ。一体このお魚は両国辺りで捕れるお魚じゃァないよ。こりゃァ皆な海のお魚だよ」 権「それが捕れただから、皆《みんな》そう言っただ。海で捕れる魚がこんなに沢山ここで捕れる訳がねえ。なんでも海に揉め事があったんだろう」 妻「お前それじゃァ、どうしても言わないんだね」 権「アヽ痛《いて》い/\」 妻「どうしたい」 権「腹が痛くって堪《たま》らねえ」 妻「そうかい、それじゃァこれをお服《の》み、よく効く薬だから」 権「ヘエ有難うごぜえます」 妻「けれどもね、腹も痛くなるだろうさ。お前見たような人間はないよ。田舎者は正直だというが的《あて》にならないね。私が先刻《さっき》あれほど涙を溢《こぼ》して頼んだじゃァないか。なぜ真正《ほんとう》の事を言わないんだい。お前が今|服《の》んだ物を何だと思うんだい。あれは熊野の午王《ごおう》だよ。あれを呑んで嘘を吐《つ》くと血を吐いて死んでしまうよ」 権「エヽッ、待って下せえまし。それじゃァ何かね、あれを呑んで嘘を吐くと血を吐いて死にますか…アヽ痛え/\、今度は真正《ほんとう》に痛くなった。言います/\。けれども一円と五十銭だからな」 妻「なんだい」 権「旦那様が人相見だてえ事知らねえもんだから受け合っちまっただが、俺が顔に出ているだってから、隠しても仕方がねえと思って、五十銭貰ってお前さんから頼まれた事を皆な喋舌《しゃべ》っちまった」 妻「なぜそんな事を言っちまうんだね。それからどうしたい」 権「内儀《おかみ》さんが五十銭やったんなら、俺は一円やると言って、一円おくんなすっただ」 妻「そんな事はどうでもいいが、それからどうしたのさ」 権「それから別れただ」 妻「それじゃァ旦那のお差図《さしず》で魚などを買って来たんだね」 権「そうでがすよ。けれども旦那様帰って来たって喧嘩しちゃァ駄目でがすよ」 妻「いいよ、有難う」 権「有難うって、私大丈夫かね、嘘モウ言わねえだが大丈夫かね」 妻「大丈夫だよ」 権「なんだか心持ちが悪いだが死ぬような事ねえかね」 妻「お前今|服《の》んだものを何だと思ってるんだい。ありゃァお前薬の能書きがあったのを破いて丸めたんだよ」 権「アッ、道理で能書きを喋舌《しゃべ》っちまった」