めか馬(めかうま) 六代目春風亭柳橋  女|氏《うじ》なくして玉《たま》の輿《こし》へ乗るとか申しまして、女の出世というものは、一足飛びで、当今《ただいま》の世の中にも随分芸者などが華族や大官《たいかん》の奥さんになっているという例もございます。とりわけ昔はお大名がお妾《めかけ》を沢山《たくさん》に置きましたもので、それは何かというと、先祖の勲功《くんこう》によって、何万石を領《りょう》すという血統が絶えますると、その家《いえ》が断絶する。それがため子供が大切ゆえお妾をお置きになったという訳、しかしこれも長者でなければ出来ない事でございます。丸の内の赤井《あかい》御門守《ごもんのかみ》というお大名、あるお屋敷へお出でのお帰り道、僅《わず》かのお供を従え、御通行の折柄《おりから》、今|裏店《うらだな》から出て参ったのは豆腐でも買いに行きますのか、右の手へ味噌漉《みそこし》を持ち、怪しげな染め返したような着物に、細い帯をグルグルと巻き、前垂《まえだ》れというほどの物でもなく、ただ前へ襤褸《ぼろ》が下《さが》ってるというような塩梅《あんばい》、髪も乱れ、年の頃は十七八、左の手で袂《たもと》を持って、何のためか後ろへ廻してこれをお尻の所へ当て、出掛けようとすると、丁度お大名のお通り、路次口《ろじぐち》へ立ってこれを見ておりますと、お駕籠《かご》の中から殿様がかの娘を御覧になりました。大名は女の鑑定《めきき》がなかなか上手な者と見えまして、化粧もせず、髪を乱しておってあれだけの美人、これを一磨き磨き上げたら大したものだろうとお目に留りました。直《す》ぐお駕籠脇の侍を召され、何か内所話《ないしょばなし》をして、そのまゝお駕籠はスーッと行ってしまました。かの侍が裏へ入ってみると、大長屋《おおながや》、井戸があって少し離れて、掃《は》き溜《だ》めの総雪隠《そうせっちん》というのが昔の裏屋の紋切形《もんきりがた》、素裸体《すっぱだか》になった奴が井戸の中に首を突込んでいるのは、如何様《いかさま》釣瓶《つるべ》を落としてそれを取ろうとしているものか、 侍「コレ/\町人、コレ」 ○「ヘエ、ヘエこれはどうも相済みません。裸体《はだか》でおりまして、どうも誠に……、只今|釣瓶《つるべ》を落としまして、私が月番《つきばん》だもんですから、糊屋《のりや》の婆《ばばあ》がグズ/\言いまして、片ッ方ではどうも釣り悪《にく》くっていかねえの、ヤレどうのというんで、忙しい中で、急いで取ろうと思うと苔《こけ》が付いてるんで、辷《すべ》って落っこッちまうんで錨《いがり》がありゃァ直《じ》きに取れるんですが、家主《おおや》が吝嗇《しみったれ》だもんだから錨がねえんで、仕方がねえから種々《いろいろ》工夫をして中へ首を突っ込んでいたんで、誠にどうも裸体《はだか》で済みません。何か御用でございますか」 侍「イヤこの長屋を守る家守《やもり》はおるか」 ○「ヘエ、井戸|浚《さら》いをチョイ/\いたしますから、イモリはおりません、守宮《やもり》は壁から湧くもんで、晩方《ばんがた》になって下見《したみ》を見ると大抵《たいてい》二三|疋《びき》は這《は》っております」 侍「イヤ虫の守宮《やもり》ではない。この長屋の支配《しはい》をする者をいうのだ、貴様《きさま》か」 ○「イエ私じゃァございません」 侍「長屋の支配をする者はどこだ」 ○「ヘエそれは家主《おおや》さんでございます」 侍「なんだ」 ○「ヘエ家主《おおや》さんなら、旦那御苦労様でも、モウ一遍外へお出なすって、右ッ角に米屋がございます。その隣りが瀬戸物屋で、その隣りで無断を少しばかり売っておりますけれども、自身番へ出て、町《まち》役人とかなんとか言われておりまして、大した役に立つ爺《じじい》でもありませんけれども、でもマア高慢な面《つら》をしております。商いといったところが店子《たなこ》の者とか、町内の者が義理に買いますが、何を買っても高い家で……」 侍「余計な事をいうな、それが支配を致す者か」 ○「左様でございます。角から三軒目、二間半間口《にけんはんまぐち》で草箒《くさぼうき》が外に突っ立ってゝ、たわしだの蝋燭《ろうそく》だの、線香だの、そんな物を売っております。二階の窓の外に三尺ばかりの物干《ものほし》見たような物が出来ています。この爺《じい》さん植木が好きで、好きッたって碌《ろく》な物はございません。縁日へ行って負かして買て来るんで、つまらねえ植木ばかりで、ケチな松の木が擂鉢《あたりばち》の鉢巻《はちまき》をした奴に植《うわ》ってます」 侍「何だ、鉢巻とは」 ○「ナニ擂鉢《はち》が微瑾《ひび》が入《い》ってるんで、箍《たが》が掛かっていますんで、植木棚が腐ってるから危のうございます。この間もそういったんで、買物に来た人の頭にでも落ちると大怪我をするといったんですが、やっぱりその儘《まま》になってます。これを出て右へ曲ると直《す》ぐに知れます」 侍「ウム判《わか》った……。コレ/\この先の米屋の裏長屋を支配するのは其方《そのほう》か」 家「ヘエ、米屋の裏はズッと私が支配しております。何ぞ長屋の者が粗相でも致しましたら、私が成り代わってお詫びを致します。どうも無作法の奴ばかり沢山におります裏長屋の事でどういう粗相を致しましたか、お詫びを……」 侍「イヤ詫《あや》まるには及ばん。アノ長屋に年は十七八、扮装《なり》も粗末なら、髪も乱しておるが、誠に容貌《みめ》美《よ》き女子《おなご》がいるが、あれは何者の娘である」 家「ヘエ、長屋に十七八、ヘエ/\、あれは少し不具者《かたわ》でございまして、十七八には見えますが、まだ年は十三と少しばかりで、誠にどうも相済みませんが、子供の事ゆえ何分《なにぶん》御勘弁を願います。親孝行者でございまして、親父《おやじ》は三年あとに没《なく》なりまして、兄貴《あにき》がありますが、これが破落戸《やくざもの》で仕様がございません。親子三人貧乏暮らしを致しております」 侍「ウーム、ハテ困ったな、十三ではどうもいかんな」 家「ヘエどういう粗相でございますか、誠に親孝行者ゆえ……」 侍「イヤ粗相を致して、それを咎《とが》めに参った訳ではない。身共《みども》は丸の内|赤井《あかい》御門守《ごもんのかみ》の家来|赤熊《あかぐま》軍十郎《ぐんじゅうろう》と申す者である」 家「ヘエ」 軍「実はあの娘が上《かみ》のお目に留まって、妾《めかけ》に欲しいという仰せであるが、十二三ではどう致し方がない」 家「アヽ左様でございますか、それは有り難う存じます。何か粗相を致した事と存じまして、十三と申しましたが、全くギリ/\のところは十八で……」 軍「なんだ十八歳、髪は島田に束ねておるが、町家《ちょうか》の者は夫《おっと》ある者でも島田|髷《まげ》に致しておる。亭主など定まりおるのか」 家「どう致しまして、まだなかなか亭主などは持ちません。兄はあってもなきが如く、阿母《おふくろ》を対手《あいて》にあァやって襤褸《ぼろ》を着て、髪を乱して一生懸命内職をして働いておりますが、実に感心な娘でございます。まだ色気とても丸ッきりございません。もし御縁がございまして、そういう事にでもなれば、阿母《おふくろ》の喜びは一通りではありません。どうも有り難う存じます」 侍「イヤ、お前は有り難いといったところが本人が不承知ではいかず、また破落戸《やくざもの》にもせよ、兄いう者があってみれば、それに相談をしなければなるまい」 家「ナニあなた、兄哥《あにき》だって、アンナ野郎は長屋の厄介者で否応《いやおう》いわせる気遣いございません」 軍「しかし万一不服があってはならん、早速赤井御門守屋敷へ尋ねるよう、其方《そのほう》から申し付けて貰いたい。支度金は望み通り取らせる。また一つ申しておくが、至ってお堅い殿様で、これまで幾らお勧め申しても妾という者をお持ち遊ばさない。ところが、奥様に未だお子様がないによって御家《おいえ》のため、お召し抱えになろうというのだが、あの娘はちょっと身体の様子を見ても誠に丈夫そうであるから、幸いにお世取りでも挙げるようになれば、大層な出世であるから、母や兄にもよく申し付けて、篤《とく》と相談の上早速|否《いなや》を申し出るよう、只今申す通り、支度金は望み通り取らせる」 家「ヘエ、早速明朝伺うように致します」  いい置いて侍は帰ってしまった。 家「婆《ばあ》さんや、婆さんや、大変な事になっちまった。お前も聞いてたろう。裏へ行っておつるの阿母《おふくろ》を呼んで来な。アノ婆《ばあ》さんも聞いたらさぞ喜ぶだろう。正直は者は神様が助けるんだな。支度金は望み通り出すというんだ……。どうした、エー風邪を冒《ひ》いたッて寝ている。そうか、アンな丈夫の婆さんでも風邪を冒《ひ》くか、鬼の霍乱《かくらん》という奴だ。眠り病じゃァあるめえな。病人を呼ぶという訳にもいかねえ。俺が行って話をしてやったら、風邪くらい癒《なお》ってしまうだろう……。オイ婆さんや閉めて寝ているのか。よっぽど悪いと見えるな、婆さんや」 婆「何をいってるんだい。また酒屋の御用だよ、極《きま》ってるよ。人の事を婆さん/\って、用のある時にはヤレお婆さんだの、阿母《おっか》さんだのッて、何を叩くんだ。人の家を遠慮もなく……叩《たた》っ毀《こわ》しちまうよ。店賃《たなちん》も碌々《ろくろく》納めねえで、戸でも毀《こわ》したら家主《おおや》さんに対して済まねえ。御用め、極《きま》ってやがる」 家「何をいってるんだ。酒屋の御用じゃァねえ、俺だよ。明かねえのか、締りはねえッて明かねえぢゃァねえか、ナニ力《ちから》を入れてウンと押せ……、アーなるほどいた、オヽ寝ているな」 婆「オヤこれは家主《おおや》さんでございますか。マアとんだ失礼を致しました。イエ例《いつ》もこの横丁の酒屋の御用が来ましては、私の事をヤレ皺《しわ》くちゃ婆ァだの、百なり婆ァだのと言いますんで、ちょっとお声が似ていたもんでございますから、大きに失礼を致しました。家主《おおや》さん毎度どうも有り難う存じます」 家「どうした、鬼の霍乱《かくらん》という事があるが、平常《ふだん》丈夫のお前が風邪を冒《ひ》くなんて……」 婆「イエナニ仮病なんでございます。明日は晦日《みそか》でございましょう。ソロ/\書き付けや何か持って来ますんで、モウ気になってなりません。マア風邪でも冒《ひ》いているといえば、同じ言訳をするにも仕宜《しよ》うございますから、時々仮病を遣《つか》いますが、実は丈夫なんでございます」 家「それは何より幸せだ。身体の丈夫ぐらい結構な事はない。今お前の所へ来たのは、他《ほか》じゃァないが、マア上がって話そう」 婆「どうぞこちらへ……、モウ御承知の通り、ヤクザ野郎があの通りで、度々《たびたび》小言もいって下さるが、糠《ぬか》に釘で家《うち》にったら些《ちっ》とも寄ッ付きません。今日で五日も帰りません。何にもしないで、ノソノソしておりますので真実《ほんとう》に困り切ります。それでもマアおつる坊《ぼう》が、孝行をしてれまして、一生懸命内職をしましたり、お使いをしてお小遣いを頂いたりして、どうやらこうやら、母子《おやこ》二人《ふたり》は足らないながらも凌《しの》いでおります。只今もちょっとそこまで使いに参りましてございますが、家主《おおや》様にも種々《いろいろ》御厄介になりまして、この間も、お隣りのおかっさんと噂をしたんでございます。ここの家主《おおや》さんくらい結構な方は無い。お察しがよくって、長屋の者を可愛《かわい》がって、店賃《たなちん》の催促もなさらず、五六日前にも、おかっさんがお目に掛かったら体裁《きまり》が悪くって、ツイ良人《やど》が仕事を休んでおりましてといい掛けると、家主《おおや》さんが外《ほか》の話をしてお帰りになった。アンナ御苦労人はないと言いますから、私があなたの事を知ってますから言って聞かしてやりました。苦労人たって、アンナ苦労をした方があるもんじゃァない。立派な身代《しんだい》の家《うち》に生まれた訳ではない、上総《かずさ》の鹿野山《かのうさん》下の根本村という所からお出《いで》になって、番太《ばんた》の所へ奉公して在《いら》しった事を私が知っておりますから話をしてやりました。話をしなければ苦労人という事が分からないと存じましてね、その時分には何とか言いました。葛《くず》の良いのは……、アヽ久助《きゅうすけ》さんといって町内の使いやなにかしてお在《いで》なすった。私どもは表店《おもてだな》にいて、立派というほどじゃありませんけれども、これでもどうにかこうにかして町内の祭りなどというと、どうだろう、こういう風にしようじゃァないか、貧乏町内ではあるけれども、あんまり見《み》ッともない事も出来まい。これはこうしたらよかろうと、死んだ親父に一々相談するような身分でございましたのが、今ではこんな汚ないといっては家主《おおや》さんに済みませんけれども、マア裏へ引っ込んで、その時分|番太郎《ばんたろう》に奉公をしていた方が、今では立派な家主《おおや》さんになって、町《まち》役人をしてお在《いで》なさる。人間という者の浮き沈みは分からないもので。しかしそれだけに苦労をなすったから、何もかもお察しがよくって在《いら》っしゃると、散々おかっさんに話をして聞かしたんでございますよ」 家「マア/\そうノベツに喋舌《しゃべ》んなさんな。俺が一言いう中《うち》にお前が十言《とこと》も喋舌《しゃべ》るから始末にいかねえ。余計な事をいって俺の讒訴《ざんそ》をしちゃァいかねえ」 婆「イエ讒訴《ざんそ》という訳ではございません。自慢話で、人間というものはどうでも貧乏から仕上げたんでなければいけません」 家「マアいいよ、褒《ほ》められるんだが悪くいわれるんだか分からねえ。実はマアあの娘《こ》の事について、お前を喜ばせようと思って来たんだ」 婆「オヤ恐れ入りましたね、モウ私は全然《まるで》歯が役に立ちませんで、固いものは少しも食べられません。お酒は戴きませんし、アンコは結構で……」 家「何をいってるんだ、意地の穢《きた》ねえ婆さんだ。おつる坊《ぼう》の事なんだが、八公《はちこう》はどこへ行ってるんだ」 婆「アノ野郎の居所《いどころ》が分かった例《ためし》はありません」 家「分からねえッツてともかくも名前人《なまえにん》だ、八公に相談しなくっちゃァいかねえ」 婆「デハおつるがどうか致しましたか。真実《ほんとう》に子供という者は油断がならないと、よく申しますが、女の餓鬼《がき》がそれがが一番|嫌《いや》なんで、マア対手《あいて》は誰でございます」 家「何をいってるんだ。対手《あいて》も何もありゃァしない」 婆「なんだか私《わたくし》には些《ちっ》とも訳が分かりません」 家「俺だって訳が分からなくなった」 婆「おつるが情夫《いろおとこ》でも作《こし》らえたんじゃァないんですか」 家「そんな訳じゃァねえ、マア落ち着いて聞なよ」 婆「私《わたくし》は落ち着いています」 家「落ち着いちゃァいないよ。先刻《さっき》この前をお大名がお通りになったんだ」 婆「アヽあいつがお転婆《てんば》でございますから、お供先《ともさき》でも切って、それで自身番《じしんばん》へ……」 家「そうじゃァねえ、お前のようにそう先がけにいっちゃァ話が出来ねえ。その時におつる坊《ぼう》がお目に留ったんだ」 婆「お目に留ったというのは、どういう事で……」 家「どういうッて、大変にお気に入って、奥様はあっても子供|衆《しゅう》が出来ず、お妾《めかけ》を勧めても今まで一人もお妾をお置きなさらなかったところが、おつる坊《ぼう》を是非《ぜひ》お妾にしたいというのだ。幸せの事じゃァねえか、支度金は望み次第下さるが、それともお前不承知か」 婆「不承知どころじゃァございません。この通り三度の食《しょく》にも差し支えるくらいの所、マア私は起きてるでしょうか」 家「起きて口を利《き》いてるじゃァねえか」 婆「真実《ほんとう》に夢のような心持ちが致します。有り難う存じます。これと申すも三年|跡《あと》に亡なりました親父の引き合わせでございましょう。俗名は治兵衛《じへえ》、戒名は安蒙養空信士《あんもうようくうしんじ》、また二つには日頃信ずる高祖《こうそ》日蓮大菩薩様、中山の鬼子母神《きしもじん》様、熊本の清正公《せいしょうこう》様……」 家「オイ/\串戯《じょうだん》じゃァねえ。本当に呆《あき》れ返った婆さんだ。確《しっ》かりしなくちゃァいかねえ」 婆「有り難う存じます、確《しっ》かりしております……」 家「泣いちゃァいかねえ。困ったなァ、それについて八公に是非《ぜひ》会わなくちゃァならねえ」 婆「イエあんな野郎に、こんな話をすれば何をするか知れません」 家「馬鹿な事を言いなさんな。ともかくも名前人《なまえにん》だ。早速居所を捜《さが》して俺の所へ八公を遣《よこ》しな。町内の内にいるだろう」 婆「左様でございますね、アノ野郎町内中あらかた借りがありますから……」 家「借りなんか心配する事はねえ。この話さえ纏《まと》まれば皆《みん》な返せるんだ」 婆「ハイ、そうなりませば、心当たりもありますから、呼びに参りまして、グズ/\していれば首ッ玉へ縄を付けて引っ張って参ります」 家「そんなにしねえでもいいが、何しろ明日《あした》の朝までにお屋敷の方へ御返事をしなけりゃならない。こっちさえよければ先様では御意《ぎょい》に適《かな》ってるんだから、いいかい、いたら直《す》ぐに八公を家《うち》へ遣《よこ》しておくれ」 婆「畏《かしこ》まりました。どうか少々お待ち下さいまし」  と婆さん飛び出したが、なかなか破漢戸《やくざもの》の八公、どこを歩いてるか分らない。 婆「銀さん/\」 銀「オヽ阿母《おっかァ》、何だい」 婆「八の野郎どこにいるか知らないかね」 銀「アヽ新道《しんみち》の建具屋《たてぐや》の二階に素裸《すっぱだか》で、閉《と》じ籠《こも》っていたっけ」 婆「また始めやがって、何でも飲むと打つと、買うんだから仕様《しょう》がない」 銀「隠れてるから、お前が行ってもいねえというだろう。お前用があるなら呼び出してやってもいいが、ともかくもお前|門口《かどぐち》へ行って聞いて見ねえ。いけなかったら、俺が呼んでやるから」 婆「どうか、お頼《たの》う申しますよ。真実《ほんとう》に仕様《しょう》のねえ野郎だ。……内儀《おかみ》さん毎度どうも野郎が御厄介になって済みません。アノ野郎こちらにおりましょうか」 女「そうですねえ。家《うち》は出入りが多いからよく分かりませんが……八さんは来ているかい」 ○「いませんよ」 女「来ていないそうですよ」 婆「オヤそうで……ちょっと銀さん/\」 銀「エー、いねえって、仕様《しょう》がねえな。極《きま》ってやがる。オヽ八や、俺だい」 八「アヽ、銀衆《ぎんしゅう》か、マア昇《あが》んねえ」 銀「昇《あが》んねえぢゃァねえや。阿母《おふくろ》が心配して捜《さが》してるんだ」 婆「アラこン畜生、真実《ほんとう》にいるのにいねえなんつて、呆《あき》れ返った野郎だ」 八「アヽ阿母《おっか》さんか、阿母《おっか》さん仕様《しょう》がねえ」 婆「馬鹿にするな。何が阿母《おっか》さんだ」 八「来ちゃァいかねえよ。何しに来たんだ」 婆「何しにじゃァねえ、少し話があるんだ」 八「極《きま》ってらァ。マアいいよ。判《わか》ってるよ」 婆「判《わか》ってる奴があるかい。仕様《しょう》のねえ奴だ。ここまでちょっと降りて来ねえ」 八「なんだかそこで呶鳴《どな》んねえな」 婆「大きな声じゃァ話せねえ事だよ」 八「どこから催促が来たんだ」 婆「催促じゃァない。モッとこっちへ耳を持ってきねえ」 八「仕様《しょう》がねえなァ……。ナニウム、おつるがフヽヽ。ウンなるほど、支度金は望み次第、占《し》めたな。そうか……」 婆「それについて家主《おおや》さんが心配しているんだ。なにしろお前が名前人《なまえにん》だから、お前の承知のない事は出来ないと、アヽいう堅い人だからそういうんだ。お前、直《す》ぐに家主《おおや》さん所《ところ》へ行かなくっちゃァいけないよ」 八「借りがあるからなァ」 婆「借りがあっても話さえ極《きま》れば返せるんだ。家主《おおや》さんの方がお前より喜んでるから、なにしろ行かなくっちゃァいけねえ」 八「行くったって裸体《はだか》だ。家主《おおや》さんにこういってくんねえ。誠に済みませんけれども、朋友《ともだち》に頼まれて、義理で建具屋《たてぐや》の二階に裸体《はだか》でおりますから、どうか宜《よろ》しきようにお頼《たの》う申しますって……」 婆「朋友《ともだち》の義理で裸体《はだか》ている奴があるか。仕様《しょう》がねえ奴だなァ」  婆さん仕方がないから、家主《おおや》さんへ行って話をして、単物《ひとえもの》を一枚借りて来て、これを引っ掛けさせて連れて来ました。 八「今日《こんち》は、どうも家主《おおや》さん済みません」 家「マア今日《きょう》は小言は言わねえ。こっちへ昇《あが》んな/\」 八「ヘエ、どうも誠に済みません。阿母《おふくろ》から概略《あらまし》話は聞きましたが、なんだか知らねえけれども、おつるの阿魔《あま》が、大名の鼻の先へブラ下がったって……」 家「鼻の先へブラ下がる奴があるか。お目に留《とま》ったんだ」 八「アヽお目に留ったのか、なんでもその見当だと思った。デ、マア支度金とかなんとかを、くんなさるって、どうも有り難う存じます」 家「何をいってるんだ。それについてお前に不承知があるかねえか、それを聞きてえから、阿母《おふくろ》に探しにやったんだ」 八「どう致して、不承知なんかありゃァしません。アンナ者でも売れ口《くち》がありゃァ結構だ」 家「仕様《しょう》のねえ奴だな。支度金の所《ところ》は望み次第取らせるというから、ともかくも着物を造《こし》らえたり何かして、この位|要《い》るだろうという所を言い出しなさい。幾らでもいい」 八「そうですねえ。そういう事は大概《たいがい》相場がありましょうから、どうか宜《よろ》しく……」 家「それはいけねえや。俺はこんな人間で中へ入って一銭一文でも儲けようという考えはねえ」 八「なるほど、桂庵賃《けいあんちん》は先方《むこう》から出るんで」 家「変な事をいうな。お前のためを思うから心配しているようなものゝ、俺の事じゃァねえ。お前は主人《あるじ》じゃァねえか」 八「主人《あるじ》は裸体《はだか》だ」 家「裸体《はだか》でも何でも生きてるから、望みがあるだろう。この位支度に費《かか》って、婆さんの手当も少しは取って、借金を返すぐらいの勘定を立てゝよ」 八「旨《うま》くいってやがる、店賃《たなちん》を取ろうと思って……」 家「何をいやがる。店賃を取ろうという訳じゃァねえ。明日《あした》の朝までに返事をするんだからどうだ」 八「どうも弱ったなァ、こんな事に初めて出《で》っ遭《くわ》したんだから……。あいつを女郎《じょろう》に年《ねん》一ぱい打《ぶ》ち込んだところで大した事はねえ」 家「女郎に売るのたァ違うよ。女郎と一緒にする奴があるか」 八「そりゃァそうだけれども弱ったなァ。……どういうもんでごぜえましょう。エー片手ぐらいの所《ところ》じゃァ」 家「そうさなァ。片手というと、些《ち》っと大仰《おおぎょう》じゃァねえかと思うが……」 八「じゃァ三両ぐらい」 家「エー」 八「三両ぐらい」 家「馬鹿野郎、対手《あいて》はお大名様だ。なんだ三両ばかり、五百両だと思うから少し多いといったんだ。少なくも三百両ぐらいの所は大丈夫だ」 八「三百両、宜《よ》うがす。手を打ちましょう」 家「手を打つ奴があるか、古着屋じゃァあるめえし」 八「どうも有り難え。三百両と来た日にゃァ、スッカリ扮装《なり》も出来て、近所の借金を返すけれども、家主《おおや》さん、店賃《たなちん》は払わねえよ」 家「馬鹿ァいえ、貰う物は貰う」 八「そうかねえ」  なにしろ三百両と聞いたから、二つ返事、どうぞお頼《たの》う申しますというので、家主《おおや》からお屋敷の方へお挨拶をすると、三百両のお支度金が差し支えなく下がり、支度|万端《ばんたん》整っておつるはお妾《めかけ》に上がました。元々|見初《みそ》めたくらいの者ゆえ殿様の御寵愛《ごちょうあい》深く、たちまち御妊娠。オギャアと産み落としたのが玉のようなる男の子、お世襲《よつぎ》をお産み申したから、直《す》ぐに、お鶴《つる》の方《かた》という方号《かたごう》を頂いて、お上《かみ》通りの取扱い。ソコで妹から兄に遭いたいと願ったものか、八五郎を呼べという仰せ。早速、家主《いえぬし》付き添い、お屋敷へ出るようにというお沙汰《さた》が来ましたから、家主《いえぬし》は喜んで八五郎を呼びにやる。 八「今日《こんち》は、どうも有り難う存じます。今聞きましたらなんだか妹が餓鬼《がき》を産《ひ》り出したそうで……」 家「馬鹿ッ、餓鬼《がき》を産《ひ》り出すってえがあるか。それについてお屋敷からお沙汰《さた》があったから、お喜びにお前出なくっちゃァいかねえ」 八「ヘエー、私《わっし》が行くんですかい。弱ったなァどうも。金は大概《たいがい》遣《つか》い失《な》くしてしまったし、些《ちっ》たァ良《い》い衣類も着て行かなけりゃァならず、交際《つきあい》に追い倒されてやり切れねえ。これは断っておくんなさいな。大名|交際《づきあい》と来た日にゃァ骨が折れるからね」 家「馬鹿野郎、交際《つきあ》う気になってやがる」 八「だって只《ただ》も行かれねえ。どんなに吝嗇《しみったれ》にしたって、飴《あめ》でも買ってって、チビ/\お舐《しゃ》ぶんなさいぐらいの事言わなくっちゃならねえ」 家「馬鹿野郎、高貴方《うえつがた》へ対して、何か持ってくなどという事は大変な失礼だ。ただ行きさえすりゃァいい。お前こそ行きゃァ只《ただ》という事はねえや」 八「ヘエー、何かくれますか」 家「お目録《もくろく》頂戴ぐらいある」 八「ヘエー、おもく/\」 家「おもく/\という奴があるか。お目録といって金《かね》を下さる」 八「ヘエー、大名てえ者はなかなかくれたがるもんだねえ。シテみると交際《つきあ》って損はねえ」 家「どうもお前はガサツ者だからいけねえ。口の利《き》きよう、起《た》ち居《い》振る舞い丁寧にしねえと、妹が恥を掻《か》くぜ」 八「ヘエようございます」 家「袴羽織《はかまはおり》はどうしても着《つ》けて往《い》かなけりゃァならねえが、その用意があるか」 八「エーあります」 家「年中|尻切《しりきり》半纏《ばんてん》一枚でいる奴が、よく持ってるな」 八「その古い方の箪笥《たんす》の上から二番目の抽斗《ひきだし》に入《へえ》ってる」 家「こりゃァ俺の所《とこ》の箪笥《たんす》だ」 八「その抽斗《ひきだし》に入《へえ》ってる」 家「気味の悪い奴だな此奴《こいつ》、なるほど上から二番目に袴羽織《はかまはおり》が入ってるが、どうして知ってる」 八「此間《こないだ》来た時に、台所の方に誰もいねえから上がり込んだのを、店番をしていた少女《こども》が知らねえから、ちょっと開けてみたんで」 家「物騒の奴だな」 八「平常《ふだん》高慢なことを言ってるけれども、箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》に、どんな物が入《へえ》ってるかと思って開けてみたんで……」 家「酷《ひど》い奴があったもんだ」  家主《いえぬし》も呆《あき》れましたが、しかし破漢戸《やくざもの》でも根が正直な男だから、腹も立てずに袴羽織《はかまはおり》から衣類スッカリ貸してやって、先方《むこう》でこう言ったらこう言え、成丈《なるたけ》口数を利《き》かねえで、殿様の前へ出たら、総《すべ》て丁寧にしろよと、スッカリ教えて家主《いえぬし》同道《どうどう》でお屋敷へ出ましたが、家主《おおや》さんは御殿へ出られない。控所《ひかえじょ》に控えております。身分の高下《こうげ》は争われない。貴い方の前へ出ますと、御威光に恐れて奴さんガタ/\震え出して、段々|後《あと》の方へ下がって来る。 殿「妹つる、世襲《よつぎ》を挙げ、満足である。これにおるも窮屈らしい。次《つぎ》で酒《しゅ》を取らせろ」  というお声が掛かる。 侍「サアどうぞこちらへ……」  という案内に次《つぎ》へ来て見ると酒肴《さけさかな》が列《なら》んでおります。 八「ヘエ、どうも皆さん種々《いろいろ》御厄介様でございます。有り難う存じます。婆さんも心配してどうだろうどうだろうと、家《うち》で苦労ばかりしています。悪い物でも食《く》って身体《からだ》を悪くしやァしねえか、軽挙《かるはずみ》の真似をして転びでもすると大変だって、そんな事ばかりいって毎日心配しているんで、大丈夫だよ。余計な心配しねえがいいと言っても老人《としより》だもんだから、苦労ばかりしているんで……」 侍「モシ/\余り大声《たいせい》を発《はっ》しないように……」 八「大声《たいせい》って……アヽ大きな声をしちゃァいけねえッてんですかい。どうも済みません。ツイ大《でけ》え声をしつけてるもんだから……ネーモシ旦那、酒てえ奴は一人で飲んでちゃァ旨くねえ。一つどうです。エーそうですか……、なんだか少し痺《しび》れが切れて来て仕様《しょう》がねえが、ここらでトグロを巻いちゃァどうでしょう」 侍「ハア、トグロを巻くといいますと、どういう事で……」 八「胡坐《あぐら》を掻《か》くんだ」 侍「ハア胡坐《あぐら》の事で、どうぞ御遠慮なくトグロをお巻き下さるよう」 八「それにゃァどうも窮屈袋《きゅうくつぶくろ》を穿《は》いてちゃァ、旨《うま》く往《い》かねえ、サアこうなりゃァ何でも、持って来い。手酌《てしゃく》でグン/\やるから、ズン/\酒を燗《つけ》ておくんなせえ」  下《くだ》らない事を言いガブ/\飲み、殊《こと》に妹が出世をしたので、嬉しくって堪《たま》りませんから、十二分《じゅうにぶん》に酔っ払って、 八「ねえ旦那、なにしろ大名なんてえ者は、旦那の前だが、随分骨が折れるね」 侍「どうもそう大声《たいせい》を発しては……」 八「大声《たいせい》たってそうじゃァねえか。驚いたねえ。どうぞこちらへというんで、幾ら歩いても畳の上ばかり、ここで追っ放されたら私ゃァ出口が分からねえ。迷子になるくれえだ。家《うち》が立派で、道具は良《よ》し、食物《くいもの》は旨《うめ》えし、酒は良《い》いし、安くねえね、一合《いちごう》幾らだか知らねえが……」 侍「左様《さよう》な事は言わんで、サアズン/\飲みなさい」 八「ズン/\たってそうのべつに飲める訳のものじゃァねえ。婆さんが喜んでたせ。乃公《おれ》がこれで屋敷へ行く事になったといったら、それはなにしろ結構だ。けれども婆さんが只《たっ》た一言……」 侍「そんな大きな声を……」 八「大きな声たってそうじゃァねえか、身分の違うというものは情ない、おつるの阿魔《あま》が……」 侍「阿魔《あま》とは怪《け》しからん」 八「ヘエおつる様というんでごぜえますか」 侍「おつる様といわんまでも、阿魔《あま》はいかん」 八「マアおつるが生みゃァ初孫《ういまご》だ。こっちが貧乏人で先方《むこう》が大名の殿的《とのてき》だ」 侍「殿的《とのてき》……」 八「アヽ御免《ごめん》なさい。マアお大名だから、孫の貌《かお》を見たいって見る事は出来ねえ。抱きてえって抱く事も出来ねえ。何も楽しみがねえから、お前《めえ》が行ったらその餓鬼《がき》……じゃァねえ、その子供を、二人前《ふたりめえ》だけ見て来てくれと婆さんが言やァがるんだ。撲《なぐ》られたって泣いた事のねえ俺だが、その時にゃァ涙が溢《こぼ》れたねえ。もし抱けるようなら二人前《ふたりめえ》抱いて来てくれと言ゃァがって、ホロ/\婆さんが泣きゃァがるんだ。二人前《ふたりめえ》見るの、三人前《さんにんめえ》見るのッて訝《おか》しいけれども、身分が違うために傍《そば》に寄る事が出来ねえと思うと、婆さんだって可哀想《かわいそう》じゃァねえか、ネーオイ大将……」 侍「コレそんな大きな声をしては困る」  手に取るようにこれが殿様のお耳へ入りまして、思わず御落涙《ごらくるい》。アヽ可哀想《かわいそう》に、身分が違うために初孫《ういまご》が見たいというは道理《もっとも》じゃ。斯様《かよう》な物を知らん奴でも男は男、楠《くすのき》は泣き男を抱えたという例もある。またなんぞの役に立つであろうから、小身《しょうしん》たりとも侍に取り立って遣《つか》わしたら、母も共に屋敷へ引き取り、孫の貌《かお》も見られるであろうと、ソコで改めてお沙汰《さた》になって八五郎、五十|石《こく》の小身《しょうしん》ではあるが侍にお取り立ての上、お小屋《こや》を下さる事になり、親子|共《とも》大喜びで、それに引き移りましたが、名前がなくってはいけない。妹と違ってこれは酷《ひど》い醜男《ぶおとこ》、お側《そば》役人も面白半分、まるで蟹《かに》に似ているから可笑《おかし》な名を付けてやろうと、石垣《いしがき》杢蔵《もくぞう》源《みなもと》の蟹成《かになり》という名を付けました。サア御家来方の玩弄物《おもちゃ》、 ○「石垣|氏《うじ》」 八「エー何だ」  その頓珍漢《とんちんかん》というものは実に可笑《おかし》い。ある日の事 八「阿母《おっかあ》、俺が此間《こないだ》ちょっと話に聞いたけれども、マアこうやってこっちへ引き取られるようになってから、朋友《ともだち》の奴等《やつら》が種々《いろいろ》な事をいってるそうだ。妹の縁でこの頃は大《てえ》した事になったという話をする人もあるそうだが、中にはやり切れなくなって到頭《とうとう》夜逃げをしてしまったといってる奴もあるそうだ。ツイ急いだもんだから、碌《ろく》に暇乞《いとまご》いもして来なかった。それについて俺は此間《こないだ》からそう思ってるが、今日《きょう》は一つ後《うし》ろの綻《ほころ》びたような羽織を着て、朋友《ともだち》の所をズーッと廻って来ようと思う」 婆「けれどもお前が二本差して出たところが、まだ髷《まげ》が小さいからね」 八「そんな事を待っちゃァいられねえ。姿を見たら皆《みん》なも安心するだろうし、家主《おおや》さんの所へも行って来てえ」 婆「じゃァ行って来るがいい」 大小を差し、ぶつ割《さき》羽織を着て、一人|供《とも》を連れて、屋敷を出て町内へ来ると、職人が多いから、余り昼間はおりません。あっちへマゴ/\こっちへマゴ/\していると向こうから来た職人、 ○「オヽ向こうへ来た侍《さむれえ》は、八の野郎にどうも似ているぜ」 △「似ているけれども侍《さむれえ》だ。あいつ夜逃げをしたってえじゃァねえか」 ○「ウム、やり切れなくって逃げちまった」 △「夜逃げをした奴が侍《さむれえ》になる訳がねえ」 ○「だけれども何だか、妹を女郎《じょろう》に売ったとか、妾《めかけ》にしたとかいうぜ」 △「妹が妾になって、彼奴《あいつ》が侍《さむれえ》になる訳がねえ」 ○「しかしあんまりよく似ているなァ。ニコ/\笑って来やがる。声を掛けて見ようじゃァねえか」 △「八公なんて、もし違って、突然《いきなり》引っこ抜いて無礼打ちなんてやられると大変じゃァねえか」 ○「だけれども似ているぜ、段々こっちへ来る。なァオイ、一つ何とか言ってみよう」 △「じゃァ、俺は尻《しり》を端折《はしょ》って逃げる支度をしているから、お前《めえ》声を掛けてみねえ。八公ッつたら俺はパッと逃げ出さァ」 ○「なるほど、そいつァ面白い。ナニ追い掛けたって先方《むこう》はあれだけの物を差してるんだ。こっちゃァ空身《からみ》だから、駈《かけ》っこなら大丈夫だ。いいか、呼ぶぜ、オヽどうした八公、恐しく立派になったじゃァねえか」 八「イヤ、これは/\一別《いちべつ》以来……」 ○「オーイ逃げねえでもいい、真物《ほんもの》だ。一別以来と来やがった。恐しく立派な刀を差してるじゃァねえか」 八「これは殿より拝領《はいりょう》して、貰って、頂いたんだ」 ○「馬鹿に丁寧だな。何にしても旨《うま》くやりやァがった」 八「マア喜んでくれ、今じゃァこういう身分になった」  と朋友《ともだち》の所を触れて歩く。その中に御親戚へそれが知れて、赤井《あかい》御門守《ごもんのかみ》に於《おい》ては、面白い御家来をお抱えになった。どうぞ非番の折などは、徒然《つれづれ》を慰めるため、お遣《つか》し下さいと毎日のように八公|玩弄物《おもちゃ》にお屋敷へ呼ばれ、あるいはイケゾンザイな口を利《き》いたり、変な事をするのが可笑《おかし》く、明日《あす》はお客があるから来てくれというような具合。ある日の事御親戚のお大名から、どうぞ是非《ぜひ》というお頼みがあった。当人も諸所《ほうぼう》へ行っちゃァ恥を掻《か》くので、流石《さすが》に体裁《きまり》が悪く、モウ御免《ごめん》を蒙《こうむ》るというので、態《わざ》とお使者《ししゃ》の役を言い付けた。委細《いさい》の事はこの文箱《ふばこ》の中の書状に認《したた》めてあるから、これを持って参れという申し付けで、文箱《ふばこ》を持って出ようとすると馬の用意がしてある。 八「オイこの馬をどうするんだ」 槍持「ヘエ、あなたがお召しになるので」 八「いけねえ、まだ三日しきゃァ馬の稽古をしねえから、尻《しり》がフハ/\して鞍《くら》に付かねえ」 槍「それでも馬乗《ばじょう》のお使いだから、お召しなさらなくっちゃァいけません」 八「いけねえったって俺にゃァ乗れねえから、お前《めえ》乗ってくれ、俺が槍《やり》を担いで行く」 槍「それはいけません。御主人槍を担いで槍持が馬に乗るという事はありません」 八「弱ったなァ、稽古を三日しきゃァしねえんだからな。……じゃァ乗るよ」  どうかこうか手綱《たづな》を持つぐらいの事は覚えたから仕方がなしに乗り出したが、馬は乗り手を知るといって、悧巧《りこう》なもので、馬の方で馬鹿にしてノソ/\と歩き出して、どうも緩《のろ》い事。丁度《ちょうど》夕方今の小川町《おがわまち》といったような賑やかな所へ来ると、ピタリ立ち停《どま》ってどうしても動きません。 八「オイいけねえや、馬をどうかしてくれ。オイどうかしてくれ。馬も疲労《くたび》れたと見えて、動かなくなっちまった。弱ったなァ、どうも仕様《しょう》がねえ……」  その中に人が集《たか》って見る。槍持は槍を持って往来に突っ立ってもいられない。こっちの番太郎《ばんたろう》の家《うち》へ槍を立て掛けて、縁台がありますから、それへ腰を掛けて、日あたりが好《い》いんで居眠りをしている。 甲「オイ/\、アノ侍《さむれえ》はどうしたんだ」 乙「寝ているんだろう、邪魔《じゃま》の野郎だ。引《ひ》っ敲《ぱた》け」  片っ方が職人で、気が短かい。ボンと一つ鞭《むち》を入れた途端に、馬はヒーンと棹立《さおだ》ちに立ったから、奴さん肝を潰して首っ玉へかじり付いて、 八「助けてくれえー、助けてくれー」  呶鳴《どな》ったが馬はその儘《まま》走り出して品川の方を指《さ》して飛んで行く。この時|丁度《ちょうど》品川の方からお出でになったのが同家中《どうかちゅう》で、岩田|馬之丞《うまのじょう》という馬の先生、飛んで来る馬の前へ立って、ドウといって口を取ると、馬は先生という事を知っているから、たちまちピタリッと四足《しそく》を留《とど》めた。 馬「石垣|氏《うじ》、血相《けっそう》変えていづれへお越しになる。何かお家《いえ》に椿事《ちんじ》出来《しゅったい》、お国表《くにおもて》への早打ちか、いづれへお出《い》でになる」 八「馬が知っておりましょう……」