一日公方(いちにちくぼう) 三代目三遊亭小圓朝  江戸っ子は皐月《さつき》の鯉の吹流し、口先ばかり腸《はらわた》はなしという事を申します。人間|腸《はらわた》のないものはございませんが、つまり青竹を二つに割ったようなもので、腹の中がサッパリしているという所を申したのでございましょう。昔のお職人でも当今のお職人でも変わりはありません。お職人などの方がかえって親孝行で正直な方が沢山ございます。大昔、麻布という所は山で、名の知れない木が沢山ありました。それが段々開けて屋敷も出来、町も出来て、繁華になりました。この麻布六本木の大工さんで市兵衛《いちべえ》という人、七十三になる阿母《おっか》さんを一人抱えておりますが、誠に孝行者で、その上腕が良くて、江戸っ子気象、何でも人に負けるという事が大嫌い、どんな仕事でも一生懸命にやります。それがために出入りの旦那方に可愛《かわい》がられ、孝行市兵衛という評判を取っております。この市兵衛をとりわけ可愛がってくれますのが、麻布十番にお在《い》でなさる珍斎《ちんさい》というお茶の先生で、其処《そこ》へ毎日のように市兵衛が参ります。別に機嫌聞きに行くという訳でもない。ただお互いに毎日一遍ずつ顔を見ないと心持ちが悪いというくらい気が合っております。ところがこの市兵衛、平常《ふだん》至って丈夫な男ですが、フト悪い風邪をひいて、十日ばかり寝てしまいまして、漸《ようよ》う快《よ》くはなりましたが、まだ仕事に出ずに遊んでおりますから、フラリとまた珍斎先生の所へやって参りました。 市「御免なさい、先生|今日《こんち》は」 珍「オウ市兵衛か、暫く見えなかったな、蒼《あお》い顔をして茫然《ぼんやり》しているではないか」 市「ヘエ、どうも御無沙汰を致しました。少し風邪をひいて十日ばかり寝ちまいました」 珍「そうか、それはいけなかったな。大事にするが宜《い》い。モウ快《い》いのか」 市「ヘエ、モウ大概|快《よ》くなったんで、まだ家《うち》の者は寝ていろと言うんですけれども、なんだか先生の顔を見ねえと心持ちが悪くって仕様がねえから出て来ました」 珍「そうか、それはマアよく来た」 市「こりゃァ御客様、御免なせえよ。先生、このお客様は何処《どこ》の人ですえ」 珍「この方はお医者だ」 市「ヘエ、石屋かえ」 珍「イヤ医者だ」 市「アヽ医者ッぽうか。この通りの疎雑者《ぞんざいもの》だが、何分《なにぶん》お心易くお願い申します」  と頻《しき》りにお客人の顔を見ておりましたが、何思ったか表へ飛び出し、暫《しばら》く経《た》つと、一升《いっしょう》入りの貧乏徳利を提《さ》げ、片手に竹の皮包みを持って帰って来て、 市「アヽ宜《い》い塩梅だった。帰っちまっちゃいけねえと思って、急いで行って来た。茶碗か何か貸しておくんなせえ。徳利は汚えが、中はスッカリ洗《ゆす》いで、一番良いのを買って来たんだ。御免なせえ。私《わし》が御毒見をするから」  と自分で件《くだん》の酒を一つ注《つ》いで飲んで、 市「アヽ良《い》い酒だ。誠に済みませんが、お客様どうか受けておくんなせえ。毒見をして、良《い》い酒だったら、安心して飲んでおくんなせえ」 客「左様か……」 市「アヽ皆《みん》な飲んじまわねえで、少し残しておくんなせえ。私《わし》がお貰《もら》い申すから……」  お客様の飲み掛けの盃《さかずき》を受け取って自分が残りを飲みまして、 市「アヽ好《い》い心持ちだ。是《これ》で死んでも宜《い》い」 客「コレ/\、その方、予《よ》と盃を致して、是《これ》で死んでも宜《よ》いと申すは、一体予をなんと思うておる」 市「ヘエ、実はな公方様《くぼうさま》がお成りの時に、勿体《もったい》ねえがお駕籠《かご》の中を透見《すきみ》をした事があるんで、その公方様がお前《めえ》さんに好《よ》く似ているから、何だか公方様にお盃を戴《いただ》いてるような心持ちがして、モウ私《わし》はこの世に思い残すことはねえ、死んでも構わねえと思うので……」 客「アヽ左様か、面白い男じゃな。其方《そち》、何か望みがあるか」 市「ヘエ」 客「何か望みがあるか」 市「だからモウ何も思い残す事はねえというんで……」 客「しかし人間、叶《かな》う事なら、斯様《かよう》な事を致してみたいという望みがあるものだ。何か望む事はないか」 市「そりゃァ無《ね》え事もねえがとても駄目だ」 客「何が駄目だ」 市「何《なん》と言った所が天道様《てんとうさま》へ石を打《ぶ》つけるようなものだ」 客「それでもまず何《ど》ういう望みであるか、申してみろ」 市「じゃァ言いますが。私《わし》は只《ただ》一日でもいゝから、公方様になってみてえ」 客「ハア、それが其方《そち》の望みか」 市「ヘエ、だから駄目だッてんだ」 客「左様か。何《ど》うじゃな。今の盃でモウ一献《いっこん》くれぬか」 市「アヽ気に入ったら幾らでも飲んでおくんなせえ」  それから又一口召し上がって、珍斎に何やらお申し付けになると珍斎が市兵衛に気の着《つ》かないように酒の中へ睡眠薬《ねむりぐすり》を一寸《ちょっと》入れました。 客「何《ど》うだ市兵衛、予の盃を受けてくれ」 市「エー結構でございます。頂戴《ちょうだい》致します」  とウッカリこれを飲み干したと思うと、市兵衛コクリ/\居眠りをはじめ、果ては正体もなく其処《そこ》へ転《ころ》がって寝てしまいました。ソレッというと乗り物を持って参りまして、市兵衛を乗せ、御城《おしろ》へ担ぎ込んで結構なお褥《しとね》へ寝かしておきました。暫《しばら》くすると薬が覚めたと見えて、ウーンと伸びをして、気が付いてみると驚きました。立派な布団の上に横になってる。 市「ヤッ、是《これ》は驚いたな。誰かいねえかな。大変な所に寝ている」 老「君《きみ》には御目覚めにございまするか」 市「こりゃァお出でなさい。私《わっし》は麻布の市兵衛と申します。何時《いつ》こんな所へ来たんだか、訳が分からねえ、済みませんが、家《うち》へ帰しておくんなせえまし」 老「君《きみ》には何を御意《ぎょい》遊ばします」 市「何も御意遊ばしゃァしねえが、訳が分からねえ。こんな所へ来ちまって私《わっし》ゃァ市兵衛という者で……」 老「ハア市兵衛と申す者の、夢を御覧じましたか」 市「私《わっし》が市兵衛という者なんで」 老「よく御心《おこころ》を落ち着けて御覧じませ。君《きみ》は公方《くぼう》の君《きみ》でございます」 市「エッ私《わっし》が公方様だって、戯談《じょうだん》いっちゃァいけねえ、私《わっし》は麻布の市兵衛という者だよ」 老「イエ公方の君にございます。よく御寝《ぎょしん》になりましたので、事に依《よ》りますと、長い間市兵衛という者の夢を御覧じたのでございましょう」 市「市兵衛の夢、そうかも知れねえ。なにしろ有り難えな。じゃァ私《わっし》は公方様だね。豪儀《ごうぎ》だな、道理で立派な布団の上に寝ていると思った。こりゃァ褥着《ねまき》かえ、勿体《もったい》ねえ物を着ているんだな」  その中《うち》にお召し替えというので当人いよいよ驚いた。暫《しばら》くすると御家来方が登城《とうじょう》、一段高い所に案内された市兵衛さん、其処《そこ》に座《すわ》っている内に、前の御簾《みす》がキリ/\上がると、一同|平伏《へいふく》しております。 老「是《これ》は皆、君様《きみさま》の御家来でございます」 市「是《これ》が皆《みん》な俺の家来か、大勢いるなァ。この大勢を皆《みん》な家《うち》で食わしているのか、随分かゝるだろうな。この内に町奉行がいるなら一寸《ちょっと》前へ出てもらおうじゃねえか。……アヽお前か町奉行は。どうも御苦労様。なかなか忙しいかろうな。一つ早速|訊《しら》べてみてえのは、麻布に市兵衛という者がいる。七十三になる阿母《おふくろ》があるんだが、貧乏で困ってるから金を少しばかり遣《や》ってもらいてえ」 奉「承知|仕《つかまつ》りました。何程《なにほど》遣《つか》わしましょうや」 市「沢山《たくさん》遣《や》らねえでも宜《い》い。沢山やって一時《いちどき》に使っちまうといけねえから、マア、“リャンコ”も遣《や》ったら宜《よ》かろう」  と指を二本出しました。 奉「ハッ、二百金|遣《つか》わしますか」 市「ナニ」 奉「二百金程遣わしますか」 市「二百両、巫山戯《ふざけ》ちゃァいけねえ。そんなにやったら後が困るだろう。エー金は幾らでもある。そうか、そいつァ豪儀《ごうぎ》だなァ。じゃァ済まねえが届けて遣ってくれ。……何だか何時《いつ》までもこうしているなァ極《き》まりが悪いや。御簾《みす》を下ろしてくれ。  そのうちに御簾が下がる。御老女が総《すべ》ての事を指図致して、至《いた》せり尽くせり。御付きの女中が大勢で世話をするので市兵衛は只《ただ》モウ夢心地でございます。やがて御酒《おさけ》が出まして、結構な御料理で飲んでいる中《うち》に何時《いつ》か又|睡眠薬《ねむりぐすり》を用いたとみえて、恍惚《うっとり》として横になったと思うと、そのまま高鼾《たかいびき》で睡《ねむ》ってしまた。たちまち元の汚い衣類《きもの》と着せ替え、駕籠《かご》に乗せて麻布の市兵衛の宅に舁《かつ》ぎ込まれ、汚い煎餅布団の上へ寝かされたのを少しも気が付かない。暫《しばら》く経《た》つと目が覚めた市兵衛、 市「アヽ宜《い》い心持ちだった。公方様てぇ者は大したもんだ。……オヤどうしたんだ、変だぜこりゃァ……」 母「どうしたじゃァない、マアお前に喜ばせようと思って幾ら起こしても起きないんだもの。お前が親孝行というので公方様から御褒美《ごほうび》が届いたよ。しかもお前お金が二百両」 市「エー二百両……ウムそりゃァ阿母《おっかあ》俺が遣《や》ったんだ」 母「何を寝惚《ねぼ》けてるんだよ。お前の親孝行が知れて……」 市「だから俺が遣《や》ったんだよ。俺は公方様だ」 母「何をいってるんだよ、この人は。お前は麻布の市兵衛じゃァないか」 市「戯談《じょうだん》いっちゃァいけねえ、俺は公方様だ。また金に困ったら何時《いつ》でもそういって来ねえ、金は幾らでもあるから」  と突然《いきなり》表へ飛び出し、お城へ参りました。御門を入ろうとすると門番が、 番「コレ/\其方《そのほう》は何だ」 市「何だとは何だ」 番「其方《そのほう》は何者だ」 市「俺は公方様だ」 番「馬鹿な事をいうな。同役、これは狂人《きちがい》だな」 市「オヤこん畜生、公方様を捉《つか》めえて、狂人《きちがい》とは何だ、巫山戯《ふざけ》やがって、汝達《てめえたち》は皆《みん》な暇を出しちまうからそう思え」 番「馬鹿な事をいうな。勿体《もったい》なくも公方様などと申してこれへ参《く》るからには狂人《きちがい》に違いない」  と忽《たちま》ちの間に市兵衛は門番に縛られてしまった。サア暴れ出して仕方がないから牢内《ろうない》へ放り込んでおくと、散々暴れた末に漸《や》っと気が着いて茫然《ぼんやり》して、 市「モシ少々お願い申します。よくよく考えましたが、どうも変で、私は全く麻布の市兵衛という者でございます。どうか家《うち》へ帰しておくんなさい。阿母《おふくろ》が心配していましょうから……」 番「気が付いたか」 市「ヘエ気が付きました。どうも済みません」 ○「アヽ全く気が付いたと見える」  早速牢から出して麻布の宅へ送り届けられ、当人|茫然《ぼんやり》している。 母「どうしたお前、確《しっ》かりおしよ」 市「オヽ阿母《おっかあ》、何だか変だ。俺は何だか訳が分からねえ、とにかく先生の所へ行って来る」 母「先刻《さっき》もお迎いが来たが、お前が居ないからお断り申したんだよ。待って在《いら》っしゃるから行ってお出で、確《しっ》かりおしよ、茫然《ぼんやり》してないで……」  これから珍斎《ちんさい》の所へやって参りました。折柄公方様はお忍びでまた御出でになって在《いら》っしゃる。 市「今日《こんち》は」 公「オヽ市兵衛か。何《ど》うした」 市「ヤアこれはお出でなさい。先日は色々有り難うございました」 公「市兵衛どうか致したか、大分|茫然《ぼんやり》して居るな」 市「ヘエ、何だかどうも訳が分からねえ」 公「其方《そのほう》の望みは叶《かな》ったろうな」 市「何でございます」 公「其方は一日でも宜《よ》いから公方になりたいと申したが、公方になって望みが叶ったろうな」 市「ヘエー私が……」  側《そば》から珍斎が、 珍「コレ/\市兵衛、粗相があってはならんぞ。これに御在《おい》でになさりのは公方の君であらせられるぞ」 市「エー貴郎《あなた》が真正《ほんとう》の公方様で……どうも相済みません。とんだ粗相を致しました。よく似ていると思ったもんだから、お盃を頂戴して、私はこれで殺されても宜《よ》うございます。どうかスッパリとお手打ちになすって下さいまし」 公「痴《たわ》けた事を申すな。其方は面白い男じゃに依《よ》って、望みを叶えさせて遣《つか》わしたのじゃ。其方の親孝行に愛《め》で、其方が只今済んで居るところの一町《いっちょう》四方を其方に遣《つか》わす」 市「エヽ私の住んで居る所の一町四方を下さるえ」  市兵衛、涙を溢《こぼ》して平伏しました。 公「今日《こんにち》より其方の住める町を市兵衛|町《まち》と称《とな》えろ」 市「ヘエ、市兵衛町、有り難う存じます」 公「どうじゃ、市兵衛嬉しいか」 市「ヘエ、何だか考えてみると些《ちっ》とも訳が分かりません」 公「分からぬ事はない。其方が親孝行の徳によって、一日公方になり、望みが叶い、その記念《かたみ》として、其方の住まい居《お》る一町|余《よ》の地面を遣《つか》わし、町名を市兵衛と称《とな》える、親孝行の徳である。分かったであろうな」 市「ヘエ、市兵衛が公方様で、公方様が市兵衛で、どう考えても……」 公「まだ分からんか」 市「こいつァ麻布で気が知れねえ……」