芝浜(しばはま) 八代目桂文楽  酒は百薬《ひゃくやく》の長《ちょう》とか申しまして、御酒家《ごしゅか》の方《かた》にいたせばこの位結構なものはない。酒なくてなんの己《おのれ》の桜かな。花を見るにも、月を見るにも、酒がなければ楽しみにならない。喜びにつけ悲しみにつけ、なくてならないものだとしてございますが、しかしそれもいわゆる程度問題で程という処《ところ》が宜《い》いので、余計に過ごせば必ず身体《からだ》を傷《いた》めるとか、喧嘩をするとか、商売を怠けるとか、甚だしいのになると、命を捨てるような大事を惹《ひ》き起こしますから、余り過ごしてはいけないものに違いございません。百薬の長だの、天の美禄《びろく》だの、憂《うれ》いを掃《はら》う玉箒《たまぼうき》などというのは皆その程に召し上がっている方のいうことで、モウ酒飲みとなると、少しで止《よ》すということはなかなか難しい。モウ一杯モウ一杯と、ついには度を過ごして、平常《ふだん》猫のように従順《おとな》しい人が酔うと虎のように気が荒くなる。酒は狂水《きちがいみず》などというのはここでございましょう。散々暴れて酔いが醒《さ》めるとアヽそうだったか、そんな事は些《ちっ》とも知らなかった。以来きっと謹《つつし》むなどというかと思うと直《じき》にまた始める。なかなか断念《あきら》めることは出来ません。余り大酒《たいしゅ》をするので阿母《おふくろ》が心配をして泣いて意見をして、禁酒を勧め、金比羅《こんぴら》様へ連れて行って、倅《せがれ》が今日《きょう》から生涯お酒を断ちますから、どうかお守り下さいますようにと拝んでいると、その後ろへ立って、倅がそれは嘘でございます。今日だけは断ちますが、とても生涯なんて飲まずにはいられません。阿母《おふくろ》の言う事は御採用下さいませんようにと、傍《そば》から取り消しを申し込んだという話があるます。ある人が一口飲んでいる所へ酒好きの友達が来ました。 甲「アヽ丁度一人で始めた所だ。サア一杯おやり」 乙「イヤせっかくだが、俺は少し心願《しんがん》があって今日から三年酒を断った」 甲「ハア、それは偉いな、しかし辛抱ができまいぜ」 乙「ナニ出来ないことはない。断ったからにはきっと飲まない。マア長い目で見ていておくれ」  と広言《こうげん》を払って帰りましたが、その翌晩また二三人で飲んでいる所へやって来た。 甲「アヽ酒を断った人の前で飲むのは気の毒だ。膳を片づけよう」 乙「アヽ片づけるには及ばない。皆《みん》なが飲んでいるようだから、一杯|交際《つきあい》に来たんだ」 甲「何だ、モウ禁酒破りか」 乙「イヤ破りはしないが、全《まる》で飲まないのは不自由だ。三年の処《ところ》を六年にして夜だけ飲むつもりだ」 甲「ハヽヽヽヽヽそれは好《い》い工風《くふう》だ、いっそのこと九年にして朝だけ断って、夜昼《よるひる》飲んだら宜《よ》かろう……」  これじゃ何にもなりません。もっとも身分に依っては差し支えもありませんが、その日稼ぎの者なぞが大酒《たいしゅ》をしたら始末にいけません。何《ど》うしても身体《からだ》が大儀《たいぎ》になり、稼ぐ事が厭《いや》になるから、今日は休みだといって寝てしまう。稼業を休むから従ってお宝の入るのも休みと来るから、忽《たちま》ち懐《ふところ》が空《から》になり、その日が送れなくなる。サア連れ添う女房の心配というものは大変でございます。これではとてもやり切れないから御酒《おさけ》を断って稼いで貰いたいと意見をすると、その時は俺が悪かった。これから酒を断って稼ぐと容易《たやす》く受け合いますが、前《ぜん》申し上げたような酒癖《しゅへき》の人手、時《とき》経つとまた飲みはじめる。飲めば休むというので、実にやり切れません。女房が涙ながらに、 女「ねえ金さん、どうしてもお前さんが御酒《おさけ》をやめられないというなら仕方ない。世帯《しょたい》を畳んでしまわなけりゃァならない。世帯を閉まやァこの先一緒にいられるかどうだか分からない。私のようなものでも可哀想《かわいそう》だと思ったら、どうか少しの間御酒を断って稼いでおくれでないか」  と泣きながら女房に意見をされてみると、亭主も気の毒になって、 金「イヤ俺が悪かった。モウこれから金比羅《こんぴら》様へ断って酒は飲まねえ。明日《あした》から一生懸命稼ぐから安心してくんねえ」 女「そうしてくれゝば私は真正《ほんとう》に嬉しい」  とその晩は寝ましたが、女房はオチ/\眠られません。 女「サア/\金さん、目を覚ましておくれよ」 金「ウム/\……アヽ眠いな」 女「何だい眠いなんて、今日は大事の日じゃァないか。お前さん御酒を断ってこれから一生懸命稼ぐという大事の日だから、他人《ひと》さまより先に買出しに出して上げようと思って私ゃァ昨夜《ゆうべ》オチオチ寝やァしない。早く起きておくんなさいよ」 金「ウーム今起きるよ、目がこう付着《くっつ》いていて明かねえや、アヽ眠い。何だまだ暗えじゃァねえか」 女「暗い中《うち》に出て行かなけりゃァ他人《ひと》さまより先に買出しは出来ないじゃァないか。途中まで行けばスッカリ夜が明けるように私は刻限《こくげん》を計って起こしたんだから、早く顔を洗って目をお覚ましよ」 金「どうも仕方がねえ。じゃァ顔を洗って来よう」  亭主が起きて顔を洗っている中《うち》に馴れておりますから、盤台《ばんだい》や天秤《てんびん》を揃えてそれへ出した女房が、 女「じゃァ行ってお出でなさい」  金さんは天秤を肩に載せて、芝浜へ買出しに参りましたが、途中で夜が明けるどころじゃァない。真っ暗で、問屋だって一軒だって起きた家《うち》はない。 金「何だいこりゃァ、驚いたな、マア何《ど》うしたんだろう。女房め、刻限を間違えやがったに違いねえ、馬鹿々々しい。一軒だって起きてやァしねえ。仕様がねえ、帰ろうかしら。けれども帰る中《うち》にゃァ夜が明ける、夜が明けりゃァまたここへ出て来なけりゃァならねえ。往《い》ったり来たりするのも疲労《くたび》れ儲けでつまらねえ。仕方がねえ、夜の明けるまで待ってよう。浜へ行って漁船《りょうぶね》の来るのでも見ていようと、ブラブラ浜へ出て来たが真っ暗で船も何も来ない。 金「アヽまた何だか眠くなって来た。一つ潮水《しおみず》で顔を洗ってやろう。そうしたら目が覚めるだろう」  と、ザブ/\波打ち際へ入って来て、ザブ/\と水を掬《すく》って顔を洗い、ブク/\をして、 金「オーッ塩《しょ》ッぺえ、ピリ/\しやァがる。アヽやっと目が覚めて来た」  といいながら、ヒョイと見ると浪打ち際の処《ところ》で足に引っ掛かるものがある。只《ただ》の縄ではない。細い紐《ひも》のようだから、何だろうと草鞋《わらじ》の先へ引《ひ》っ絡《から》げたまゝ、グイと引くとズシリと重い。足に力を入れると、ズル/\と砂の中から出たのが皮の財布、オヤと思って見ると中に金が入っている様子、金さん辺りへ目を配ったが人ッ子一人いない。その財布を濡れたまゝ懐《ふところ》へ捻《ね》じ込んで、盤台《ばんだい》を担ぐと、そのままトットと飛ぶが如く帰って来ました。 金「オヽ一寸《ちょっと》開けてくんねえ」 女「オヤお前さん帰って来たのかえ。今開けるよ」  ガラ/\ッと戸を開ける途端、盤台《ばんだい》を担いだまゝ土間へ飛び込み 金「オイ早く閉めねえ」 女「閉めるけれど、マア天秤《てんびん》を下ろしたら宜《い》いだろう。大層息を切ってるが、お前さん喧嘩でもしたのかえ」 金「喧嘩じゃァねえが、お前今|其処《そこ》閉めた時に、後から人が来やしなかったか」 女「イヽエ誰も来やァしないよ」 金「そうか、そんなら宜《い》いが、アヽ驚いた」 女「何《ど》うしたの、マア草鞋《わらじ》を脱《と》ってお上がりな」 金「ウム、上がるけれども、お前も酷《ひで》えじゃァねえか。途中で夜が明けるといったが、まだ夜は明け切らねえぜ」 女「済まなかったねえ。私はお前さんを早く出して上げたいと思って、昨夜《ゆうべ》ウト/\していて、ツイ刻限《こくげん》を間違えて、起こしたのが早すぎたんで、途中でどうかしやァしないかと心配していたんだよ。お前さんゼイ/\いってどうかしたのかえ」 金「マア聞いてくんねえ、早えとは思ったけれども、お前にせがまれて出て行った所が向こうへ行っても真っ暗で一軒だって起きている家《うち》はねえ。何だかまるで狐に魅《つま》まれたような塩梅だから必定《てっきり》お前が刻限を間違えたんだと思ったが、家《うち》へ帰って来りゃァ、直《す》ぐにまた出直さなけりゃァならねえし、何しろ眠くって仕様がねえから、浜へ行って目の覚めるように潮水で顔を洗って浪打ち際を上がろうとすると草鞋《わらじ》の先へ引っ掛かるものがあるんだ。それをたぐって引っ張ってみると、皮の財布だ。大分《だいぶ》金が入《へえ》ってるようだから、そのまま懐《ふところ》へ入れて慌てゝ帰って来たが、何だか後《あと》から人に追っ駆けられるような気がして、俺は伸倒《のめ》るように駈けて来たが、よくいう踵《かかと》が脅かすという奴で、自分の踵に脅かされて駈けて来たんだな」 女「ヘエー、そうかい。シテお前さんその財布は何《ど》うしたい」 金「懐《ふところ》に入《へえ》ってる」 女「マア濡れたまま財布を懐へなんぞ入れて毒だよ」 金「そういやァ腹が冷たくなって来た。ソレ財布はこれだ」 女「中を見たかえ」 金「まだ見やァしねえが、確かに銭《ぜに》に違いねえ、待ちねえよ。今開けるから……」  財布の紐《ひも》を解いて逆さにして振ると、中から出たのは、鳥目《ちょうもく》ではない、二分金《にぶきん》がザラザラ/\。 金「オッこりゃァ金だぜ」 女「マア大層あるね」 金「驚いたな、こりゃァ真正《ほんとう》の金に違いねえ。大したもんだ」 女「どの位あるだろうね」 金「そうよ、何程《いくら》あるかな」 女「一寸《ちょっと》勘定して御覧な」 金「マア待ちねえ、隅の方から勘定するから……宜《い》いか、ヒトよ/\フタよ/\」 女「何をしているんだね、そんなことで勘定が出来るかね。サア私が勘定してみよう」  夫婦共々勘定をしてみると、その頃の金で五十両というのだから、大金でございます。魚金《うおきん》は大喜び、 金「有り難えな。こんなに金を持ってる奴は世の中に沢山はなかろう」 女「マアどうしたんだろう、この御金《おかね》は」 金「そうだなあァ。俺の考えじゃァ金を持って難船《なんせん》か何かした奴があって、死骸は鮫や鯨に食われてしまい、金だけ何《ど》うかして彼処《あそこ》へ打ち上げられたんだな」 女「そうかねえ」 金「何しろこいつァ俺に授かったものだ。本統《ほんとう》にこんな嬉しい事はねえ」 女「だが金さん、この御金をお前|何《ど》うする心算《つもり》だえ」 金「そうよなァ。何《ど》うすると聞かれた日にゃァ俺にも一寸《ちょっと》挨拶が出来ねえが、何しろ嬉しくって、魂が飛び上がってるんだから急に返答が出来ねえが、マアこうしねえ、お前にも今まで貧乏さして気の毒だったから、これから先は何だ。ウンと贅沢をしねえ。長屋の者がよく言ってるじゃァねえか。襟肩《えりかた》の明いた着物を着たことがねえとか何とかいうが、構わねえから、襟肩の明いたものを五十枚でも六十枚でも着てくんねえ。平常着《ふだんぎ》だって吝《けち》なものを着なさんな。縮緬《ちりめん》か羽二重《はぶたえ》、蜀紅《しょくこう》の錦か何か着ねえ。おれも稼業に出るときに縮緬《ちりめん》の鯉口《こいぐち》を着て行くから」 女「マア大変な騒ぎだね」 金「それから友達を聘《よ》んでお目出度《めでて》えお祝いを皆《みん》な一ぺい飲ましてやろうと思うが何《ど》うだろう」 女「しかしこれは拾ったお金だろう」 金「そうよ」 女「それじゃァそんな事をしないで、一応|御上《おかみ》へお届けをしなければなるまいよ」 金「何をいやァがる。下らねえ事をいうな、せっかく俺が拾って来たんだ、何をいやァがる、何ぞてえと汝《てめえ》は高慢の事をいやァがるんで、癪《しゃく》に障らァ。そんな事をいわれると、胸糞《むなくそ》が悪いから、今夜この金を持って飛び出すぜ」 女「じゃァ宜《い》いよ。朋友《ともだち》を呼ぶとも何をするとも勝手におしよ。だがこの金は私が預かっておくよ」 金「ウム、大事に蔵《しま》って置いてくんねえ。俺は友達を迎いに行くから」 女「まだ早いから少しの間横におなりよ」 金「寝られねえよ」 女「でも余《あんま》り早過ぎるから、些《ちっ》と横におなりよ」  と無理に寝かしてしまう。金さんは疲れておりますから横になると、トロリとして、目が覚めてみるとモウ、スッカリ夜が明け放れている。ビックリして表へ飛び出したから、何処《どこ》へ行ったかと思ってると、やがて帰って来ました。 女「お前さん何処《どこ》へ行ったの」 金「何処《どこ》へ行く奴があるものか。友達の所へ触れて来たのよ。序《ついで》に酒や肴《さかな》を誂《あつれ》えて来たから、持って来たら支度《したく》をしておいてくんねえ。皆《みん》な喜んだぜ。割り前なしで今日は御馳走だといったら、有り難え/\ッて、コロ/\していた。今にやって来るからの」 女「だがね金さん、今日は久しぶりで商いに出るという大切の日じゃァないか。家《うち》で飲み潰れちまったら仕様がない。御苦労でもモウ一遍買出しに行ってお出でよ」 金「買出しに……何をいやがるんだ。買出しなんぞに行けるかい、今日は休みだ。お目出度《めでて》え日なんだから、天下晴れて休んで御祝いをしなけりゃァいけねえ、何もグズ/\いう所はねえやな。モウソロ/\皆《みん》ながやって来るだろう、ヤア来た/\。サア此方《こっち》へ上がってくんねえ。今日はお目出度《めでて》えんだから、ウンと飲んでくれ、オヽ女房《おっか》ァ酒が燗《つ》いたら出しねえ、肴《さかな》も来たろう。何しろ目出度《めでて》えんだから遠慮しねえで、ウンとやってくんねえ」  と、これから酒を飲み始めたが、金さんは一人で目出度《めでて》え/\といって喜んでいる。友達は何が何だか分かりませんが、御馳走になるのだから、これも矢鱈《やたら》にお目出度《めでて》え/\といって飲んでおります中《うち》に、金さんはスッカリ好《い》い心持ちになって、とうとう酔い倒れてしまいました。 金「オヤア、何時《いつ》の間にか日が暮れてやァがる。アヽ皆《みん》なを相手に好《い》い心持ちに飲んでる中《うち》に一寸《ちょっと》横になったなァ知ってるが、そのまま寝ちまったんだな。オイ水を一ぺいくれねえか」 女「お前さん目が覚めたかえ。よく眠《ね》たねえ」 金「ウム夢中で眠《ね》ちまった。友達は皆《みん》な何《ど》うした、エー先刻《さっき》帰っちまった。そうか」 女「ねえ金さん、御酒《おさけ》も好《い》い加減《かげん》にしないと身体《からだ》に障るよ。時にね、目が覚めたら聞こうと思ってたんだがね、御友達を大勢呼んでお目出度《めでた》い/\といって、御酒を飲んだのは宜《い》いが、この勘定は何《ど》うするんだい。明日《あした》の朝取りにくるが……」 金「どうもこうもねえや。お前《めえ》の方で払っときねえな」 女「そんなことを言ったって、私ゃァ御金なんぞありゃァしない」 金「無《ね》えことがあるものか。ソレ一件の五十両よ」 女「何だえ五十両てぇのは」 金「恍惚《とぼけ》るない。汝《てめえ》に預けといたじゃァねえか」 女「お巫山戯《ふざけ》でないよ。私ァ五十両なんて御金をお前から預かった覚えはないよ」 金「覚えがねえ奴があるかえ。ソレ芝浜で拾って来た皮財布の金が五十両あるじゃァねえか」 女「アレ、金さん一寸《ちょっと》待っておくれ、どうも先刻《さっき》から変なことをいうと思ったが、それじゃァお前何かい、芝の浜で五十両拾って来たと思って、御友達を呼んで御酒をのんだのかえ」 女「何をいってやがるんだ。拾って来たに違いねえじゃァねえか」 女「マア呆れたねえ。どうも私も変だ/\と思ったが、人てぇものはそういうものかしら。貧乏すると寝ても起きても御金が欲しい/\と思っているんで、そんな変な夢を見るんだよ。道理こそいきなり飛び起きて、御友達を呼んで目出度《めでて》え/\って、御酒を飲んでいるから、何が目出度《めでた》いのかと思ったら、串戯《じょうだん》じゃァないよ御金を拾ったのが夢で、御酒を飲んだのは本当なんだよ。寝惚《ねぼ》けるにも程があらァね。サアお前さんこの勘定はどうするんだよ」 金「何だって、夢を見た。何をいやァがる。夢じゃァねえ。確かに俺が拾って来て汝《てめえ》に預けたじゃねえか」 女「イヽエ私ゃァ預からないよ。真正《ほんとう》に情けない人だね。呆れて物がいわれやァしない。ようく考えて御覧よ」 金「だって今朝拾って来て、確かにお前《めえ》に預けて、それから寝て起きて、飲んでまた寝て起きて……」 女「何をグズ/\いってるんだよ」 金「何だか分からなくなっちまった」 女「お前さん夢を見たのに違いないよ」 金「そうかなァ。夢かしら、こりゃァ驚いたな。マア待ってくんねえ。泣いた所で仕様がねえやな。イヤ俺が悪かった。夢とは気が着かねえ。拾って来たようにも思うんだが、アヽ酒を飲んじゃァいけねえな。何も彼《か》も分からなくなっちまった。分からねえとすると夢に違いねえ。金比羅《こんぴら》様へ酒を断っておきながら飲んだもんだから、こういう罰《ばち》が当ったんだ。アアどうも飛んでもねえことになっちまった。金を拾ったのが夢で、酒を飲んだのが真正《ほんとう》か。馬鹿な話があるもんだ。重々《じゅうじゅう》俺が悪かった。済まねえ、堪忍してくんねえ、全く俺が失策《しくじ》ったのだから、この通り謝《あや》まる。今度ばかりは改心した。今日から改めて生涯酒を断つ……」 女「断つのは宜《い》いけれども、長く断って、またそのうちに何かの動機《はずみ》で飲むようなことがあっては神様の罰《ばち》が当るといけないから、こうおしよ、向こう三年お酒を断って、そうしてミッチリ稼いだら、今までの取り返しは付くだろうと思う」 金「成程《なるほど》、そんならそういう事にして、きっと三年の間酒の匂《にお》いも嗅《か》がねえで、一生懸命稼ぐから安心してくれ」 女「じゃァどうかお願いだからそうしておくんなさい。私は決してお前さんに御酒《おさけ》を飲ませるのが嫌《いや》じゃァないが、飲むと稼業をしないで困るから、ツイ、ガミ/\いったんだよ。心持ちを悪くしないで、どうか今度は辛抱しておくれ。この勘定は伯母《おば》さんの所へでも行って話をして何《ど》うにでもするから……」  と至って気質《きだて》の好《い》い女房でございますから、何《ど》ういう事にしたか、酒肴《さけさかな》の勘定は済ませてしまいました。流石《さすが》呑んべえの金さんも今度という今度はスッカリ改心して、どうも酒というものは心の狂うものだ。人間酒を飲んじゃァ生涯頭が上がらねえと、気が着くと以前とはまるで生まれ変わったようになり、朝も女房に起こされない中《うち》に起きて買出しに行き、怠らず華客《とくい》廻りをするようになりましたから、お華客《とくい》でもマアあの怠け者が何《ど》うしてあんなに精を出すようになったんだろうという位。固《もと》より魚を見ることは確かでございますので、鮮《あたら》しい上に買出しが上手だから値《ね》が安い。こうなると一旦|失策《しくじ》った華客《とくい》も帰ってくれば新規の華客《とくい》が殖《ふ》えるばかり、サア金さん酒のサの字も振り向いて見ない。商いが面白くなって参りまして、益々《ますます》一心不乱に稼ぐから内儀《おかみ》さんもジッとしていない。夫婦共稼ぎで必死に働きます。譬《たと》えにも稼ぐに追い着く貧乏なしで、モウ三年経たない中《うち》にスッカリ世帯《しょたい》の様子が変わって、借金などは一|文《もん》もなくなりまして、この分なら来年は表へ出て立派な店が持てるという勢い、丁度その年の大晦日《おおみそか》、平常《ふだん》と違って御華客《おとくい》廻りをして帰って来た時分には、モウ日が暮れております。その足で直《す》ぐ湯に行って戻って来ると内儀《おかみ》さんがスッカリ掃除をして、神棚に上がっている御燈明《おとうみょう》も、気の故《せい》か一層明るいような心持ち、何だかプン/\匂《にお》いがするから、見ると何時《いつ》の間にか畳の新しいのが敷き込んである。 金「アヽ何だか家《うち》が明るいと思ったら畳が新しくなったが何《ど》うしたんだ」 女「お前さんに無断《だんまり》でして叱言《こごと》をいわれるか知れないが、商いに行った留守に向横丁《むこうよこちょう》の畳屋さんに聞いたら、丁度モウ他《ほか》の仕事がスッカリ上がったというから、急に頼んで取り替えて貰ったんだよ」 金「そうか、有り難え。小言をいうどころじゃァねえ、礼をいうよ。良《い》い匂《にお》いがするな。こんな新しい畳に乗っかったことがねえ、好《い》い心持ちのもんだな。譬《たと》えにもいう通り、畳の新しいのと、女房の……、新しいのはいけねえや。畳は新しいのが宜《い》いけれども、女房は古いのに限る」 女「旨《うま》いことをいってるよ。サアお茶を一杯お喫《あ》がり」 金「これはどうも御馳走様……、オヤ何だか変な味がするぜ、このお茶は」 女「それは福茶《ふくちゃ》だよ」 金「アヽ福茶か、有り難えなァ。大晦日の晩に宵《よい》の内《うち》から家《うち》を片付けて、こうして新しい畳の上で福茶を喫《の》むなんてぇのは、何だか急に御大尽《おだいじん》の隠居さんにでもなったような心持ちがするなァ。三年あとの大晦日には驚いたッけ。借金取りが降るように来やァがって、その中《うち》にもアノ喧《やかま》しいやの家主《おおや》が来たから、俺が戸棚へ潜り込んだのは宜《よか》ったが、生憎《あいにく》唐紙《からかみ》がねえんで風呂敷を被《かぶ》って隅の所にいると家主《おおや》めえ、此方《こっち》へ目を着けて、不思議な事があるものだ。アノ風呂敷が動いてるといやァがった。そんな事も今は笑って話すようになったのも稼いだお蔭《かげ》だ。アノ時分怠けている時にゃァ、汝《てめえ》が買い出しに行けというと癪《しゃく》に触って酒を飲んで寝る気になったが、この頃は何《ど》うだえ、一日骨休めをしたら宜《よか》ろうといわれても御華客《おとくい》が待ってるだろうと思うと、休むことが出来ねえ。妙なものだな。この節は商いに出るのが面白くって仕様がねえ。何でも人間は怠けちゃァいけねえ、辛抱が肝腎《かんじん》だなァ」 女「本統《ほんとう》だねえ、お前さんが稼いでくれたんで、今年の大晦日ばかりはスッカリ安心したよ。時にね金さん」 金「何だ」 女「私が内職をして、少しばかり貯めた御金《おかね》があるがね、お前今夜勘定をして受け取っておくれな」 金「串戯《じょうだん》いうな、お前の内職して貯めた金を俺が何で受け取れるものか。それで好きな物でも買いねえな」 女「だってね、家《うち》のためにと思って一生懸命に貯めたお金で、無益《むだ》に使うのは勿体《もったい》ないから、ともかくもお前さん取っていておくれ」 金「そうか、それじゃァ勘定しよう。何でも大晦日の晩は大蝋《おおろう》を点《つ》けるものだというが、何も大蝋《おおろう》を買うには及ばねえ、有り合せの蝋燭《ろうそく》を点けて、此処《ここ》へその銭《ぜに》を出しねえ」 女「サア、この竹筒の中に入ってるから、開けてみておくれ。沢山もあるまいけれども……」 金「アハヽ内職の銭は竹筒と極《き》まってるなァ。ドレ見せねえ」  と金さんが竹筒を引き寄せてガラリ逆さまにして打《ぶ》ちまけると、穴の開いた銭ばかりと思いの外《ほか》、中から出たのは二分金《にぶきん》ばかり。 金「オイこりゃァ何だ」 女「内職の御金《おかね》さ。沢山もあるまいが、確か五十両ばかりあると思う」 金「エーッ五十両、巫山戯《ふざけ》ちゃァいけねえ。幾らお前《めえ》が働き者だって、女の細腕で、それも亭主の稼業に出た留守の間《ま》にする内職で、五十両なんてぇ纏《まと》まった金が貯まる道理が無《ね》えじゃァねえか」 女「サア、お前さんがそういうなら真正《ほんとう》の事を話をするが、金さん忘れたかえ、丁度今年で足掛け三年前、お前さんが芝の浜で拾って来た御金だよ」 金「ナニ拾って来たァ……。だってお前《めえ》、あれは夢じゃァねえか」 女「夢だといったのは実は嘘だよ」 金「ナニ嘘……畜生《ちくしょう》々々」 女「マア怒らないで私の話を聞いておくれよ。アノ時貧乏の中で五十両というお金を見たのだから、わたしゃァ飛び立つほどに嬉しかったけれども、お前の心が疑われるから、このお金を何《ど》うするえと聞いたら、お前さん良《い》い衣服《きもの》を着るとか、友達を呼んでお酒を飲むとかいったろう。そういう了簡《りょうけん》の人に御金を渡しておいてら、僅かの間に失くしてしまうに違いない。それに拾ったものを黙って使うことは出来ない。其処《そこ》でお前さんを寝かしておいて、家主《おおや》さんへ行って話をして、アノ御金はお上《かみ》へ届けておいたんだよ。スルと一年経って御喚《およ》び出《だ》しになって元々海の中で拾った御金で、落とし主も出ないというので、私が貰って来て、その時|直《す》ぐにお前さんに渡そうと思ったが、イヤ/\そうでない。このお金が入ったらまたお前さん気が緩んで、元のように御酒をのんで怠け癖が付きゃァしないかと思って、今日が日までわたしゃァ黙っていたんだよ、スルト今お前さんが、人間は辛抱が肝腎だ、怠けちゃァならないと言った一言、アヽどうしてこんなに変わってくれたかと、わたしゃァつくづく感心をして、思わず涙が溢《こぼ》れてそれから此処《ここ》へ出したような訳で、モウ公然《おもてむき》御上《おかみ》から戴《いただ》いた御金だから、お前さんが何に使おうと勝手次第、どうか其方《そっち》へ蔵《しま》って下さい。長い間お前さんを欺《だま》して、この御金を私がかくしておいたのは誠に済みませんでした。それは改めてお前さんに詫《あやま》るから勘弁しておくんなさい」 金「マア待ちねえ。お前にそう手を突いて詫《あやま》られちゃァ俺が困るよ。どうか手を上げてくんねえ。アヽどうも恐れ入った。お前《めえ》と比《くら》べッこをすると、どうしても俺の方が馬鹿だな。全くお前《めえ》のいう通り、アノ時ならきっと使っちまう。使うなァ宜《い》いとしてもそれが御上《おかみ》へ知れた日にゃァ、俺は牢《ろう》へ入れられる。そうなったら大変、今時分どうなってたか分からねえ。お前《めえ》が隠しておいてくれたんで、牢も入らずに済んだのだし、あれから一生懸命稼いでこう運が向いて来たんだ。シテみると俺がお前に礼をいわなけりゃァならねえ。真正《ほんとう》に俺はお前《めえ》を只《ただ》の女房とは思わねえ、女房|大明神《だいみょうじん》様々、この通り拝むよ」 女「何だねえ、金さん、手なんぞ合わせてさ。それはそうと久しく好きな御酒も飲まないで、身体《からだ》に障りゃァしないかと思っていたんだが、今夜は大晦日で、お目出度《めでた》く年を送るんだから、お祝いに一口飲んで貰おうと思って、御酒もお肴《さかな》も取っておいたから、サアこれから緩《ゆっ》くりと飲んでおくれ」 金「成程《なるほど》、今夜は大晦日で目出度《めでた》く年を送るんだから、久しぶりで一杯……イヤ止《よ》そう。酒は飲むめえ」 女「ナゼ」 金「飲んでまたこれが、夢になるといけねえ」