三味線栗毛(しゃみせんくりげ) 五代目三遊亭圓生  昔、御武家に生れました人は誠に御運の好《よ》かったもので、何故《なぜ》というに当今《とうこん》のように人材登用なぞという社会でなく、千石でも万石でも、失礼でございますが御自分の力でない。御先祖様の戦功またはいろいろ御苦心を遊ばしてそれだけの扶持高をお取りになる。そのお家にお生れになりましたため、殿様|御前《ごぜん》で社会《よのなか》が送られます。ところがそういう御身分《おみぶん》になると、お気の毒な事が一ツございます。というのは、勝手|我儘《わがまま》に寝たい時分に寝、起きたい時分に起き、飲食物《めしあがりもの》も喫《た》べたい時に喫《た》べるという事が出来ません。それにはお附き添いがいて、そういう軽々しい事を遊ばしては相成りません。御身分《ごみぶん》に障《さわ》ります。こう遊ばせ、アー遊ばせと、故意《わざ》と社会《よのなか》の事を知らせないようにしてありました。またその頃は下層の者は上流社会の事は見る事も出来なかったもので、されば上下の間が甚だしく隔たっておりました。その頃申した事に、片仮名のトの字に一の引きようで、上《うえ》になったり下《した》になったり、御承知の通り上という字は下に棒があって、これで下層社会の事は分らない。下々《しもじも》の者は上に一あるので上流社会《うえつがた》の事は分らない。ところが中《なか》という字は上下《じょうげ》突き貫けており上も下もよく分る。町奉行などという役はその中途《ちゅうと》にいて、上下御存じなければ勤まらなかったが、上《じょう》の部に属する御大名方はとかく間《あいだ》を隔たれて下層《しもざま》の事が分りません。しかし人情として、見てはいけない、聞いてはいけないとなると、見たがる聞きたがるもので、御登城《ごとじょう》遊ばす時に、何か町人の話を聞き出した事があれば、殿中《でんちゅう》に行って下層《しもざま》の事に乃公《おれ》は通じているというのを、誇り顔に話したいから御駕《かご》の戸を排《あ》けていらっしゃる。百万石も剣菱《けんびし》も摺《す》れ違うての繁昌《はんじょう》は金《かね》の生《な》る木の植え所。剣菱の菰《こも》を着た乞食《こじき》も御大名も摺れ違うというそこが江戸の豪義なところ、御大名のお通りなどは珍しくないから、エイ寄れッ、という中でも平気で町人が話をしている。 ○「マァ何《なん》だネ、これから大きに生計《くらし》宜《よ》くなるぜ」 □「そうかえ」 ○「今日の米の相場を聞かねえかい」 □「知らねえ」 ○「両に五斗五升だとヨ」 □「有難え。それは楽だ」  お篤《かご》の裡《うち》で洩れ聞いた殿様が、これは良い事を聞いた、米が両に五斗五升で、町人は余程楽と見えるな――殿中へお出でになると、それぞれお詰所に御大名がおります。 〇「これはお早い御登城」 △「イヤ大きに遅刻いたした」 ○「市中の様子は如何《いかが》でござるな」 △「されば、町人はこの頃ズント暮らし宜《よ》うござるな」 ○「左様か」 △「今日の米の相場は両に五斗五升だそうで」 ○「是は恐れ入ったな。米が両に五斗五升……。その両というは何両で」 △「ウム……百両……」  ここらが御大名の了簡で……。中にまたどうかすると恐ろしく下情《かじょう》に通じた殿様が出来あがる事もあります。何時《いつ》自分か年代も分りませんが、酒井雅楽頭《さかいうたのかみ》という御大名の若殿、角太郎《かくたろう》様、これは間に姫様を挟んでお三人目で……ところがどういうものか、大殿とお気質が合いません。最もお部屋腹ではありますが、大殿は前《ぜん》申し上げたような御大名風で、その頃は万事|寛裕《おっとり》とした御気性だが、若様は至って闊達の御気風、ソコで巣鴨|鶏声ヶ窪《けいせいがくぼ》の御下屋敷の方へ遣られ、お賄《まかない》は僅か五十石で、用人の清水吉兵衛という人が忠義者で、よくお守《もり》をして、成るたけ入費の掛からぬようにいたし、御徒然《おとぜん》の時には盛り場所へ御案内をする。その頃盛り場といえば観物《みせもの》や何かあって、最も賑やかなのが両国、或いは芝の久保町《くぼちょう》、下谷《したや》の山下、神田の筋違いの|八辻ヶ原《やつじがはら》、浅草観音の境内、これは今日も誠に賑やかでございますが、そんな所へ御案内をしてお気を慰さめ、夜に入りますと御学問をお仕込み申し上げる。お賄《まかな》いが少ないから吉兵衛夫婦が手内職をして、そのお鳥目《ちょうもく》をつぎ込むというようにしております。若様は至って御壮健で、お一人で日々活発に遊んでお在《いで》なさるが、何《ど》うかすると、吉兵衛が内職にでも気を取られているうちに見えなくなる事がある。驚いて彼方此方《あっちこっち》と尋ねております所へブラリお帰りになります。 吉「お帰り遊ばせ」 若「今戻った」 吉「若様お一人でお出掛けになりましたか」 若「ウム一人で参った」 吉「御大身《ごたいしん》の若君が軽々しく御外出遊ばし、万一御上屋敷へ知れますると、吉兵衛が役目の落度に相成ります。以後は左様軽々しき事は遊ばしませんように」 若「イヤ吉兵衛、免《ゆる》せ、大方|其方《そち》が小言をいうだろうと思ったが、しかし吉兵衛、偶《たま》には一人で歩いて見んと分らんから、ソッと其方《そち》に知れぬように参ったが、以後は謹《つつ》しむから免《ゆる》せ」 吉「恐れ入りました。シテ何方《どちら》へお出でになりました」 若「両国へ参った」 吉「やはり向こう両国へ」 若「向こう両国、何か知らぬが両国へ参った」 吉「アノ長い橋をお渡りになりましたか」 若「渡った/\」 吉「何を御覧遊ばしました」 若「先日|其方《そち》が斯様《かよう》な物を見てはならぬと言った、菰張《こもばり》の観物《みせもの》へ這入《はい》って見た」 吉「怪《け》しからん所へお這入りになりましたな。何を御覧遊ばしました。御意《ぎょい》に適《かな》いましたか」 若「少しも気に入らぬ。水の中で笛を吹く河童の化物を見たが、あれは正真《ほんとう》の物か」 吉「偽物《ぎぶつ》、造り物でございます」 若「ウーム、偽物《ぎぶつ》を似って衆人《しゅうじん》を欺《あざ》むくとは怪しからん奴だな」 吉「アノ刻限にお出でになりまして、さぞ御空腹でございましょう。何《いづ》れでかお昼食《ちゅうじき》を遊ばしましたか」 若「どうも分らんで困った。ソレ先度《せんど》其方《そのほう》が此処《ここ》にあるは皆、料理屋だと教えたな。アノ洒落《しゃれ》た茶屋と申した家《いえ》で昼飯《ちゅうはん》をいたした」 吉「洒落た茶屋、左様なお茶屋はございません」 若「ソレ両国へ参った時に、これは何じゃと尋ねたら、茶屋小屋じゃと申したではないか」 吉「両国の此方《こっち》河岸では、梅川、萬八、柳屋……」 若「そんな家ではない、橋の向こうじゃ」 吉「中村屋、柏屋、青柳」 若「そうでもない」 吉「何《ど》のような構造《つくり》で……」 若「古い家での、縄《なわ》の暖簾《のれん》が掛かっていて、樽が床几《しょうぎ》になっていたが、料理はチト臭いな。半ぺん鍋に蒟蒻《こんにゃく》のプリ/\煮……」 吉「怪しからん所へお這入《はい》りになりました。あれは洒落た茶屋ではございません。洒落に御案内いたしましたので、どうぞお上屋敷へは御内聞に願います」 若「申す気遣いはない、心配するな」 吉「今朝程お肩がお凝り遊ばすように仰せでございましたが、先刻から按摩《あんま》を一人呼び置きましてございます」 若「按摩……」 吉「お肩を撫で擦《さす》りまして御療治《おりょうじ》を致します」 若「これへ通してくれ……茶を一杯くれい。コレ/\向こうに坊主がおるが……アヽあれが按摩か。汚ないな。……コレ坊主、モソット此方《こっち》へ参れ」 按「今晩は、お寒うございます」 若「アー其方《そのほう》按摩と申すか」 按「左様でございます」 若「按摩というは名か」 按「ナニ名じゃァございません。名は錦木《にしきぎ》と申します」 若「錦木、名はその人《にん》の体《たい》を現はすと申すが、余り現わさんな……何《いづ》れに住まいおる」 錦「御通用門の向こうの豆腐屋の裏におります」 若「そうか。顔を上げろ……面白い顔をしておる奴だな。どういう訳で其方《そのほう》は目を閉《ふさ》いでおる」 錦「ヘエ」 若「何故《なぜ》目を開《あ》かん。談話《はなし》をするに目を閉《つぶ》っていては張合いがない。遠慮せずに目を開けよ」 錦「そんな御無理を仰ってはいけません。私は七ツの時にこんなになりましたので」 若「七歳《ななつ》の時に閉《つぶ》ったぎりか。只今何歳じゃ……アヽ左様か、永年じゃの。何か其方、癇《かん》のためにそうなったのか」 錦「ナニ癇のためじゃァございません。七歳《ななつ》の時に疱瘡《ほうそう》にかゝりまして、すでに生命《いのち》の危うい所を助かりました代わりに目がいけなくなりました。それでも命が助かったお蔭でこうして按摩をしております」 若「アー盲人か其方は……ウームしかしそうして目を閉《つぶ》りきりにしておったら夜分も睡《ねむ》い事はなかろうな」 錦「そうは参りません。目は閉《つぶ》っておりましても心までは寝ません」 若「左様か、夜分笛の音《ね》が聞こえたゆえ吉兵衛にあれは何じゃと聞いたら、按摩の笛だと申したが、外を笛を吹いて歩くのは其方か」 錦「左様でございます」 若「毎夜《まいよ》か」 錦「ヘエ」 若「雨降《あめふり》風間《かざま》雪《ゆき》などの夜《よ》は、盲人の身ではさぞ難儀《なんぎ》であろうな」 錦「ナニ子供の時分から慣れておりますから、さのみ難儀とも思いません」 若「異な事を尋ねるようじゃが、そうして其方歩いておって何か望みがあるか」 錦「殿様の前でございますが、大きければ大きい、小さければ小さいなりに人には望みがございますもの」 若「成程、何が其方望みじゃ」 錦「私は金《かね》が欲しいと思っております」 若「ハァ左様か。金を何に致す」 錦「何にすると仰って、金が無ければ官位《かんい》が取れません」 若「白痴《たわけ》たことを言うな。金で官位が自由になるか」 錦「エー成りますとも、よく人が盲人を捉まえて座頭《ざとう》々々と仰いますが、座頭と言われるには大変でございます。座頭の上が勾当《こうとう》、勾当から検校《けんぎょう》、検校となると中将《ちゅうじょう》の位の方と同格でございます」 若「デハ何か盲人の官位は金で得られる。それで金が欲しいと申すのか」 錦「左様でございます」 若「其方は金を貯めて検校になろうというのか」 錦「どう致しまして、検校どころではございません。座頭も覚束のうございます」 若「何故じゃ」 錦「何故じゃと言って、検校になりますには千両要ります。一口に千両といいますが、なかなか大変でございます」 若「しかしゆくゆくは検校になりたいというのが其方の望みじゃな。左様か……、何か他に楽しみがあるか」 錦「楽しみと申しても、見る物は到底いけません。マァ聞く物ですな」 若「聞く物……、小鳥の音《ね》を聞くとか、虫の音《ね》を聞くとか」 錦「そんなものは喧《やかま》しくっていけません」 若「何じゃ」 錦「雨でも降って御療治《ごりょうじ》のございません時には、両国か何かの昼席《ひるせき》へ行って、転《ころ》がっているんでございます」 若「寄席《よせ》……、アー成程、先度《せんど》両国で見た幟《のぼり》などを建てた騒がしいものじゃ。アノ中に何がある」 錦「落語《はなし》があり、講釈があり、義太夫がございます。私は主に落語《はなし》を聞いて笑っております」 若「落語《はなし》とはどんなことをする」 錦「貴所《あなた》御存じございませんか」 若「寄席という所へ参ったことがないから左様な物は知らん」 錦「それでは殿様こう致しましょう。私が御療治《おりょうじ》をしながら、聞き覚えの落語《はなし》を一ツ二ツお聞きに入れましょう」 若「それは一段と面白かろう。肩を揉みながら話してくれ。コレ/\手を取ってやれ」  錦木は背後へ廻りまして、聞き覚えの落語《はなし》を一ツ二ツ申し上げる。初めてお聞きになった若殿、可笑《おかしい》の可笑《おかしく》ないの、大層御意に適《かな》いました。 若「面白い奴じゃ、斯様《かよう》いたせ。明日《あす》から外出をいたさんで、昼のうちに読書して、夕方から其方の来るのを楽しみに待っておる。別段迎いは遣らんが、苦しゅうないから、ズット参れ」 錦「有難うございます。お蔭でお華主《とくい》が一軒|殖《ふ》えました。つきましては、つかん事を伺いますが、貴所様《あなたさま》は御当家の御親戚《おみより》でございますか」 若「違う/\。家中《かちゅう》だよ」 錦「ナニ嘘でございましょう。ヘエ真実《まったく》でげすか……それでは御家中から一足飛びに御大名になれるものでございましょうか」 若「白痴《たわけ》た事を言うな」 錦「なれませんか」 若「イヤあながち成れぬという限りもない。豊太閤《ほうたいこう》も初めは足軽奴僕《あしがるぬぼく》であった。それが後《のち》には太政大臣《だじょうだいじん》の御位《みくらい》に昇ったから成れぬ事もないが、しかしあの頃と今日《こんにち》とは時節が違う。太平の世の中で、家中から大名になるというは、マァ滅多にないな」 錦「エー、変な事を申しますようでございますが、私どもの支配頭《しはいがしら》を惣録《そうろく》と申します。本所《ほんじょ》一ツ目向こう、弁天様の傍《そば》に惣録屋敷というのがございます」 若「ウム」 錦「其処《そこ》に毎月《まいげつ》儒者が出張《でば》りまして、いろいろなお講義がございます。私どもはヘボ按摩でございますが、私の師匠は毎月《まいつき》其処へ詰めます」 若「成程」 錦「ところが先日、私の師匠が、人間の身体《からだ》の御講釈を聞いて帰って来て、私に療治を教えながら言うのには、錦木お前も辛抱しろ、行く末は検校になるかも知れない。お師匠さん、冗談言っちゃァいけません。イヤ冗談じゃァない、惣録屋敷の講釈を聞いて来たが、こういう節々の高い、こういう所がこういう肉付きの体格の者は、大名でなければならないそうだ。お前はマァ盲目《めくら》の事だから辛抱すれば検校になれるかも知れないと、師匠が教えてくれました。それから以来お客様の療治をしながら身体中《からだじゅう》を撫でてみましたが、とんとございません。ところが、今夜初めて上がった貴所様《あなたさま》にお大名の体格がございます。しかし体格ばかりあっても家中から大名にはなれないと言えば、儒者や学者でも、盲目《めくら》ばかり相手にするので、馬鹿にして、好い加減なことを言うのでございましょう」 若「イヤ錦木とやら昔から相《そう》は人にあり、人は相にあり、福相でもその人《にん》の活動が薄いと貧相になる。また貧相の者でもその人《じん》の働きに依っては、福相にも勝るという。マァその様な事はあるまいが、万一、予にその相があって、大名に乗り出した折には、其方を検校に取り立ててやるぞ」 錦「有難いな。貴所様《あなたさま》が御大名になれは、私が検校に……真実《ほんとう》でげすか」 若「武士に二言はない」 錦「貴所《あなた》にはその相があるのですから、おなんなさいますよ。私も蔭ながら一生懸命に信心を致しております」 若「ウム明日《あす》は早く参れ」 錦「有難うございます」  お暇《いとま》をして立ち帰りましたが、これが御縁になって、毎晩のように参ってはいろいろな話をするのを若様が楽しみに思し召しておりますと、バッタリ錦木が来なくなった。実は感冒《かぜ》をしくじらかしてドット床に就いたが、平常《ふだん》が如才ない按摩さんでございますから、長屋の者が見舞いに来る。 ○「どうだえ、気分は」 錦「安兵衛さんですか、マァお上がんなさい」 安「イヤー大将座ってるな」 錦「どうぞお上がんなすっておくんなさい。お蔭様で大変今日は快《よ》うございます。二三日中に月代《さかやき》を剃《そ》ってお華主《とくい》を廻って来ようと思ってます」 安「よしな/\、軽はずみをして再発《ぶりかえ》すといけない。今だから言うが、一時は長屋の者も首を捻《ひね》った位。若いとはいいながら、マァ/\早く癒《なお》って宜《よか》った」 錦「それもこれもお長屋の方が御親切ゆえでございます。とりわけてお宅のお内儀《かみ》さんにはいろいろ頂戴物をいたしまして有難うございます。どうぞ宜しく仰って下さいまし。この御恩は死んでも忘れません」 安「そんな事は言わなくってもいい」 錦「親類がございませんから、長らく病《わづら》いでもすると欝々《くさくさ》しまして、いっそ首でも縊《くく》って死んじまおうかと……ナニやりゃァしませんがね」 安「当然《あたりめえ》だ、やられて堪《たま》るものか。長病《ながわづら》いといっても二十日《はつか》か一月《ひとつき》じゃァねえか、気落ちをしちゃァいけねえ。詰まらぬというは小さな智恵袋てえことがある。人は何時《いつ》何時運が向いて来ねえとも限らねえ、七転び八起きといってな」 錦「七転び八起きといっても私なんざァ生涯転んでばかりいるようで」 安「イヤそうでない。この向こうの酒井様のお下屋敷に角太郎様という若様がある。近所で馬鹿様馬鹿様という悪口をいった」 錦「何故々々」 安「そうムキになって怒らなくってもいい。何とかが鍵に引掛かったように、ダラ/\遊んでばかりいるので、そんな陰口を利《き》いたんだが、どうして馬鹿じゃァねえ」 錦「そうですとも、滅法利発者で、時々冗談なぞを仰る面白い殿様で」 安「マァサ、黙って聞きなよ。あの方は御兄さんが、相続人と極まっているから、他《わき》へ御養子にでた。ところがお前、大殿様が御隠居をなさるについて御兄様が御相続なさろうという間際に俄《にわ》かに御病死をなさった。ソコで二番目のお姫様に御養子をするとなると御親類方が不承知で、今度角太郎様がお乗り出しになって、酒井雅楽頭《さかいうたのかみ》様、どうだえ大したもんじゃァねえか、そうなると今迄の御家来に馴染みがねえ、人は世話をして置くもんだぜ。アノ清水さんという御用人があったろう。それをお上屋敷へ招《よ》んで、何と可笑《おかし》いじゃァねえか、御意見番で三百石、昔を忘れて贅沢な真似をすると、清水吉兵衛さんが意見をする役だ。それだから人間ばかりは行く末は分からねえ。お前もクヨクヨしねえで身体《からだ》を丈夫にしなくちゃァいかねえ、確《しっか》りしなよ」 錦「ヘエー、マァちょっと上がっておくんなさい」 安「上がってるよ」 錦「何かね。アノ若様がお乗り出しになったって、お乗り出しになったら大名だろう」 安「大名だろうどころじゃァねえ。大名も大名、酒井雅楽頭《さかいうたのかみ》じゃァ無えか」 錦「真実《ほんとう》かえ」 安「真実《ほんとう》だよ」 錦「豪《えら》い……、儒者や学者は嘘は吐《つ》かねえ。やっぱり体格に在るんだな……有難い」 安「何が有難い」 錦「ねェ安兵衛さん、お前さんも今言ったが、人は七転び八転びだ」 安「そうじゃァねえ、八起きだ」 錦「ア、そうか。今度お長屋の方《かた》に御厄介になったのは忘れは致しません。七歳《ななつ》の時に目が盲《つぶ》れ師匠の所へ弟子入りをして、年季が明けて見ると両親がございません。師匠の内儀《おかみ》さんが可哀想だと言って、世帯《しょたい》を持たしてくれましたが、盲人《めくら》一人だもんですから長屋の方がいろいろお世話をして下さいました。御恩はたとえ死んでも忘れは致しません。人は出世をすると貧乏時分の事を忘れますが私は決して忘れませんよ。マァ悦《よろこ》んでおくんなさい。今日《きょう》から検校《けんぎょう》でございます」 安「オー確《しっか》りしなよ」 錦「全体お上屋数は何処《どこ》で」 安「お屋敷は大手の前だ」 錦「御用人の清水さんも其方《そっち》へ行ってるんで……」 安「そうだ」 錦「一寸《ちょっと》行って来ます」 安「マァ待ちな……危ないから待ちな」  留めても肯《き》きません。杖に縋《すが》って、大手へ参りますと、赤い御門の御屋敷でございます。 ○「コレ/\何だ盲目《めくら》、堀に落ちるといかない。何処《どこ》へ参るのだ」 錦「少々伺いとうございます。酒井様のお屋敷は此方様《こちらさま》でございますか」 ○「御当家だ」 錦「此方様の殿様に一寸《ちょと》……」 ○「コレ/\何を申す。貴様のやうな者が殿様に御目通りが出来るか、何の用がある」 錦「エーそれでは御用人の清水さんという方がおいでになりますか」 ○「いらっしゃる」 錦「その御用人さんにお目にかゝりたいので」 ○「汝《きさま》は何だ」 錦「ナニ汝《きさま》だ……、大きな事を言うな、汝《きさま》とは何だ、これから検校だ、安く見てくれるな。お前《めえ》なんか三両一人扶持《さんりょういちいんぶち》じゃァ無えか。此方《こっち》ゃァ千両だ。どうだ千両の金を見た事はなかろう。お前の給金を十年貯めたところが千両にゃァならなかろう」 ○「何だ大層威張るな、何しに来た。取り次はしてやるが、お前は何という名前だ」 錦「早くそう言やァいいに……大塚から来ました錦木という者で、御用人様へお目にかゝりたくって来ましたと、憚《はばか》りだがそういっておくれ」 ○「大柄《おおへい》な奴だな」  清水吉兵衛のお小屋にこの事を通じると、苦しゅうない通して下さいと言うので、案内につれて来ました。 清「どうした。何か病気で臥せっておったと、そうか。早く知らせてやりたいと思ったけれども、お移転《ひっこし》や何やかやいろいろ御繁多《ごはんた》でな。いづれ四五日中に、迎いの者を遣わそうと、最前も御前でお話があったが、よく参った」  吉兵衛さん早速御前へ出て申し上げると、 殿「アヽ坊主参ったか、直ぐにこれへ通せ」 清「汚《むさ》い姿《なり》で参りまして、あまり不躾《ぶしつけ》と存じますが」 殿「イヤ苦しゅうない。大塚におった時同様無礼講じゃ」  驚いたのは他《ほか》の御家来、 ×「何だえ近藤」 △「按摩だよ」 ×「どうしたのだ」 △「御主君がお下屋敷においでの時分のお朋友《ともだち》だ」 ×「汚ない者と遊んだのだな。モウちっとサッパリした衣服《きもの》でも着て来るがいいじゃァないか」 △「汚ない姿《なり》で来るのが訳ありだよ」 ×「どういう訳だ」 △「大きな声では言えないが、御主君がお小使銭《こづかい》に困った時に、アノ按摩に借りがあるのだよ」 ×「嘘をお吐《つ》きでない」 殿「オ、錦木よく参ったな。面《おもて》を上げろ。不快じゃと申したが、ウーム大分|痩《や》せたな。しかし早速の全快で芽出度いな」 錦「貴所様《あなたさま》にも御乗り出しで御恐悦申し上げます。少しも存じませんでおりましたところ、只今隣りの安兵衛さんから聞きまして一生懸命で飛んで参りました」 殿「錦木、其方《そのほう》今日《こんにち》参ったは初めて下屋敷で会うた折に、予が大名になる相があると申したな、その節約束致した事か」 錦「ヘエ、検校にしてやると仰いましたを楽しみに飛んで参りました」 殿「吉兵衛、彼を検校に取りたってやれ」  鶴の一声で、お手元金千両下さいまして、たちまち錦木検校と出世を致しました。珍しい出世で……ところがこういう殿様ですから、何から何まで御存じで、折々検校も御前に出ます。 殿「コレ錦木見えたか、吉兵衛の宅へ寄って参ったか」 錦「只今清水様で承って参りましたが、お上には今度御乗馬をお求めになりましたそうで」 殿「ウム南部三春の産で栗毛の良い馬じゃ。今馬場に引き出すから探れ」 錦「何と申しますお馬の名は」 殿「三味線と命名《つけ》た」 錦「何と申します」 殿「三味線」 錦「珍らしい名で……、手前は盲人《もうじん》で、一向左様の事は存じませんが、しかし名馬で昔から聞こえを取りましたのは、唐《もろこし》の関羽《かんう》が乗りました赤兎馬《せきとめ》、我朝《わがちょう》で小栗《おぐり》の乗りました鬼鹿毛《おにかげ》、宇治川に佐々木梶原が先陣を争いましたのが、池月、摺墨《するすみ》、神君様《しんくんさま》長久手合戦の折、召されましたは確か鶴巻」 殿「コレ/\理屈を言うな。大方|異《かわ》った名であるから意見を申せと、吉兵衛にいいつかって参ったろう。けれども、予が乗るのじゃ。雅楽《うた》(唄)が乗るから、三味線でよかろうの」 錦「ヘエ成程」 駿「乗る折には曳かせもする、駒ともいい、止める時には動《どう》(胴)とも申すぞ」 錦「成程、お上《かみ》がお召し遊ばすので三味線、もし御家来方が乗りますると」 殿「ウム、罰《ばち》(撥)が当る……」