花筏(はないかだ) 八代目春風亭柳枝  ェェご機嫌よろしゅうございます。お馴染みのお笑いを一席、お邪魔を致します。  この頃ではこの、スポーツというものが非常に盛ンでございます。ご承知の通りもう、野球てえとなると皆さん方がお遊《や》りあそばして、大変でございます。なかにゃまた、ゥゥ拳闘ですな、あァどうも大変な騒ぎですな。殴り合ったりなんか致しましてな……ボクシングなどという。またはこの、レスリングなんてえのがございますが、あれは大変ですな、あのレスリングてえのは……。私も拝見を致しましたが、あれ体がよく毀《こわ》れないもんだと思いますな。  お腹の上に乗っかって、どしんどしんやったりなんかして……海老《えび》攻めなんてえのは二つになっちゃったりなんかする。あァどうも酷《ひど》いことをやるもんでございます。あれはこのゥ、両方の肩が下へ着くてえと、負けになるんだそうです。もっとも物事《もの》てえものは、たいてい勝負《かた》〔肩〕が着きゃ負けになっちまうもんなんですがな、こりゃァ……。しかし不思議なもんですなァ、こりゃどうも。  もっとも、なかにこの、お相撲というのがございます。これは日本の国技でございます。はァ結構でございます。ま、お客さまの中にも、好きな方がいらっしゃるでございましょうが……実に、土俵入りなぞは、絵のようでございます。また、このたびは、若乃花関が、横綱昇進でございます。大変な人気でございます。また、三月は、いよいよまた場所が始まりますが、お好きなお方はもう、待ちこがれていらっしゃいます。  ですがこの、『一升袋は一升』てえことをよく申しあげますが、あの物事《もの》てえものはその、度が過ぎるてえやつはいけないもんでな、幾らやろうと思ったって、やはり自分の持って生まれた運でございます。『あの人がああいう商売をして成功したから、俺もやってみょう』―これは旨くいかないもんで、 「いくら焦《あせ》ったって駄目だよ、耳ッ朶《たぶ》だよ」  なんてえことを、昔のお方がよく仰言《おっしゃ》います。なるほど、持って生れた運で、天から備わりました営業を一生懸命にやるのが、これがいちばん無難でございましょうが……なかにこの、器用なんてえのがある。これはいけないんですな、この器用てえのは……。我々の仲間でも器用な方がいます。噺家でいながらなこの、大工さんの真似をするんですが、どッか間抜けですからね。 「寅ちゃん、このあいだ、うちの棚ァ吊ってくれたね」 「ああ」 「あれ落っこっちゃったィ」 「落っこったァ? そんなこたァねえ……おめえ、何か載せやしねえかァ?」  載せねえ棚てえのはないン……末ッ子の器用てえやつで。ですから、やっぱり何でも修業というものをしなくちゃいけないでございましょう。  他人《しと》から旨いことを言われますと、その口に乗りたがる。これは、我人《われひと》ともに人情でございますんで……。 「さ、どうぞこちらへ……(下手、奥へ)おッ、親方がお見えになったよ。そこいら片づけな。布団持っといで布団をな……(座布団をすすめて)さ、どうぞ、お敷《あ》てを。御用がございますれば、手前のほうから参りましたものを……わざわざお出《いで》を願って済ィません」 「じゃあ、邪魔をするで。やァどっこいしょ(と大きな体で坐る様)……いや、お前に少し頼みたいことがあっての……」 「おゥ左様でございますか。あ、ときに、お部屋《たく》の関取、花筏関、お躰が悪いてえことを承りましたが、まだお見舞いにも上りませんが、いかがで?」 「うゥむ、寝たきりじゃ……」 「じゃァご心配でございますな」 「ときに提灯屋。お前の稼ぎはどのくらいある?」 「もう私《あたくし》たちの商売は、もう仕様がございません。朝はやくから夜遅くまで、一生懸命に、貼ったり書いたりして、日に一分、儲かりゃァ精々《せいぜい》でございましょうな」 「うゥむ、一分か。僅かなもんじゃのゥ。どうだ二分、手間賃《てま》を払う、儂《わし》と一緒に七日ほど行ってもらえまいか?」 「二分てえと、倍の手間賃《てま》ですな? じゃあ私を連れてって、別|誂《あつら》えの大きな提灯かなんか貼らせようという……」 「いや、お前に商売してもらうのでない。実はこんどな、水戸の大浜《おおはま》てえところに、七日間の祭り相撲がある。素人とび入り勝手という、ェェああ、うちの部屋は売れた。いざ行こうという段取りになったところが、肝心の花筏が病気じゃ。先方へは延期《のび》を報《う》ってやった。済まんがこの相撲、来月まで延ばしてもらいたい……ところが、先方《むこう》から返事が来た。土俵はできてしまった、若い者はとび入りするんで一生懸命に稽古をしておる、そう言われると力が抜けてしまう、ぜひ来てもらいたい、その代りとしては、まァまァ病気なら致し方がない、相撲は取らんでもよい、見ていてくれればそれでよろしい、こういう返事じゃ。それでもならずと言えば、では金を返してもらおう。取った金は全部《みんな》前相撲に懸《か》けてしまって、一文もない。承知をしましたと請《う》け合ったてえものが、相手は水戸じゃで、あまり花筏の顔を知るまいと思う。そこでもってひとつ替え玉を連れて行きたいと思うんだ。まるっきり取ッ違った人間を連れてくわけにはいかん……ひょいと思いついたのが、提灯屋、お前だ。よく似とるなァ」 「私が……?」 「うゥむ、花筏にそっくりじゃ。割らずそのままじゃ。でっぷりと肥ったところ、肩の怒《いか》ってるところ、げじげじ眉《まみえ》のところ、鼻の胡坐《あぐら》をかいたところ……」 「(驚いて)悪いところが似ましたなァ……」 「いや、冗談はさて置いて、実によく似ておる。どうだ頼みはここじゃ、お前が花筏の替りになって、水戸へ行ってもらいたい」 「(あわてて)それァ親方、ご免蒙りましょう。私は本当の肥りじゃないんです。酒が好きで酒|脹《ぶく》れで、押せばほうぼうから水が出ようという、半分、腐ってる躰でございます。だいいち、相撲なんぞ取ったことはございません。観《み》には参りますがな」 「いや、相撲を取らんでもよいのじゃ。先方《むこう》へ行ったらば病気という触れ込みじゃからして、偉そうな顔をして相撲を観《み》ていてくれればいい。あとの仕事は、儂《わし》が全部します。酒は飲み放題、ご馳走は食べ放題、二分|手間賃《てま》を払う。知らん土地《とこ》を見物がてら、ぜひ行ってもらいたい」 「じゃァ相撲を取らんでも……」 「ああ、いいんじゃとも」 「あ、そうすかい、いやたいして忙しくない商売で……出かけましょうか」 「済まんが行ってもらいたい」  この提灯屋、人間が少しおっちょこちょいですから、前後《あとさき》の考えもなく、一杯飲めるのが楽しみで、花筏の替りになりまして、水戸の大浜へ乗り込ンだ……。ご承知でもございましょうが、水戸の大浜てえところは、漁場でございますから、力の強いお方がどっさりおいでになります。  なかにも千鳥ヶ浜、素人ではありますが、実に強い。六日間、勝ちッ放しです。いよいよ明日は千秋楽。六日目の打出し、少し前でございますんで……。 「(上機嫌で)はい、親方ァいろいろありがとうございます。毎日の大入りで、勧進元も大喜びでございますんで……ところで、いかがでございましょう。待ちこがれている取り組でございます。明日《あした》は千秋楽で、おたくの関取、花筏関と、今日まで全勝の千鳥ヶ浜、ぜひとも明日《あした》は、お顔合せ願いたいもんでございますが……」 「なに? うちの花筏? いや、それはいかん。初日の開《あ》かん先から、お前さん方に断ってある。うちの花筏は病気じゃ」 「いえ、あなたに聞くと病気の一点張り。宿ィ行って聞いてみましたらね、おまんま三人前から食って、お酒二升から飲むッてえんです。そんな病人は見たことも聞いたこともございません。取るに足らない素人ではありますが、手をみせてやる、教えてやるという思《おぼ》し召しで、ぜひともお取り組み願いたいんでございますが……」 「(腕組みして考え込んで)うゥむ、そう言われると俺も返事に困る……よござんす、明日は花筏に相撲を取らせましょう」 「(喜んで、顔を輝かせ)お取り組願えますかァ? ありがとう存じます」  明日《みょうにち》の結び相撲―(行司呼出し口調で)『花筏には千鳥ヶ浜』となりました。見物人は、うわァあッといやが上にも人気沸騰。その日は打出し。 「ご苦労、ご苦労、みな帰って来たか? いやァご苦労じゃった。あのゥ何だ、湯へ行く者は湯へ行って、それから酒を飲む者は飲ンで、飯《めし》ィ食う者は食って、あんまりわァわァ騒ぐでないぞ。ほかの泊りのお客が迷惑するで……もう一日の辛抱じゃ。頼むぞ……(提灯屋を見て)どうした? 提灯屋。ぼんやりしておるな、酒飲むか?」 「(情ない声で)喉を通りません」 「飯を食うか?」 「胸がいっぱいです」 「体が悪いか?」 「丈夫です」 「掛け合いじゃなァ。どうしたんだ?」 「どうしたじゃない、酷《えら》いこと請《う》け合ったね。私とあの千鳥ヶ浜関と相撲を取らせようてんだ、とんでもねえ。強いね、あの千鳥ヶ浜てえのは。商売人にも負かすことができねえてんで、えらい評判ですぜ……それと私や相撲取らされたんじゃ、投げ殺されちゃう。それァあなた約束が違う……」 「(あわてて口を押え)大きな声をされちゃ困る。ほかの者に聞かれては困るんじゃ。お前が心配してえる、済まない済まない。お前に話をしなかったのは、儂《わし》の誤りじゃ。お前より儂《わし》のほうが心配じゃ……お前に相撲を取ってもらおうてんじゃ、のう? ああ、お腹ン中にはちゃァんと算盤《そろばん》が弾《あた》ってある。済まんがな、明日、廻しを締めて土俵へ上っておくれ。お前も相撲が好きじゃ、始終見ておるから、仕切りぐらい分りなさるじゃろう。大関の貫禄、悪びれず、どっしりと、仕切りなさいよ、いいか? 行司が軍配を下げている間《うち》は、構わんぞ、はッけよィと軍配を引いて立ち上ったらば、お前がちからいっぱいに、むこうの千鳥ヶ浜へぶッつかって行く。あるったけの力を出して……いまから断わっとくぞ。間違っても、むこうの廻しを握っちゃならねえ。お前がもしもむこうの廻しを握れば、可哀相だが、この世の別れだ」 「(いよいよ情なく)あ、心細くなってきちゃったな、こりゃどうも……」 「いい、いい、何でも自分の手がな、むこうの躰に触ったなと思ったらば、(手をぽォんと打って)尻餅を搗《つ》け。さ、見物人がどう思う? 『花筏は手取りじゃ、どういう手をして取るだろう』と、一生懸命に見ておる。立ち上ってすぐに尻餅…‥『ああ可哀相に、聞けば花筏は病気ということを聞いたが、可哀相に腰が切れぬ。病気《やまい》てえものは怖いものだ』と、これは病気の所為《せい》になる。花筏という名に傷はつかん。お前は怪我をしないで済む。土地の素人相撲は喜ぶという……どうじゃ?」 「(にわかに安心して)なァるほど(手を叩いて)、じゃ最初《はじめ》から負けちまうン……」 「ああ、どうしたって勝てやしねえ。尻餅を搗《つ》けば、お前の相撲はおしまいじゃ」 「そうですか。じゃァ明日《あした》お相撲を取りましょう」 「そうしてもらいたい。四方八方まるく収まるから……」  と、安心して一杯飲ンで、四方山《よもやま》の話。その晩は寝《やす》ンだ。  夜中に、ひょいと親方が目を覚ますとな、隣りの座敷でどすゥんと異様な音がする。唐紙を開けると、提灯屋、裸になって褌《ふんどし》一本。柱めがけて(ぽォんと手を叩き) 「うッうわァッ(言いざま、うしろへのけぞって)」  どすうン……。 「なんじゃ? その型《かたち》は……?」 「やッはっはっはァ……親方、面目ない、明日《あした》負けるの稽古で……」 「負けるのに稽古が要るかィ……いいから安心して、お寝《やす》み」  と、こちらは済ンだんですが、済まないのは千鳥ヶ浜のご両親。いやァご心配でございます。 「大吉よ、大吉」 「へいッ、お父ッつァん、お呼びで……」 「お呼びではない噂《はなし》を聞いて儂《わし》ゃびっくりした。お前は明日、花筏という関取と、相撲を取るそうじゃな」 「へえ、お父ッつァん、喜ンでおくんなさいまし。明日はいよいよ、大関花筏と、顔が合いますのでございます。へい、相撲なんてものは、商売人も、素人もございませんな。ちからさえ強ければ、必ず勝つもんだてえことが、はじめて判りました。明日《あした》は、見事に勝って、全勝になってごらんに入れます」 「(大声で)馬鹿野郎、むこうは商売人じゃぞ。それでご飯を食べている。素人のお前に負ける理由《わけ》はない。なァ? いままで負けていたのは、人情と八百長じゃ。それも知らんで、自分の力で勝ったと思いやがって……必ず強い大きい者が勝つ、小さい者が負けると決まったらば、誰だって、相撲を観に行きなさるお方がある?……小さい者は、大きな者を倒す、そこに相撲の技というものがあるのじゃ。それも知らず、自分の力で勝ったと思いやがって……。よしんば自分の力で勝ってどうする? お前は相撲が商売ではないぞ。なんでも明日は大変に強い関取だそうだ。自分の弟子が負けている……『口惜《くや》しい』ッ、遺恨を重ねて遺恨相撲じゃ、明日は。土俵の上で貴様、投げ殺されるのじゃ……土俵の間違いてえものは、苦情は言えんてえことは、儂《わし》ァよゥく知ってます。うゥん? たとえば殺されないまでも、手を折られるか、足を折られるか、不具《かたわ》になったらどうするのじゃ?」 「(涙を拭って)これ、大吉よ、いま父ッちゃんの言う通りじゃぞ。お前は一人ッ子じゃ、のう、手を折られるか、足を折られるか、ふぐ〔すぐ〕河豚《ふぐ》のようにお腹が大きくなったら、どうするのじゃ……せめてなるなら鮟鱇《あんこう》にでも……」 「笑い事《ご》ッちゃないよ……お前が出てくると、小言が利かない。引ッ込ンでろ、馬鹿婆ァ……(息子に)いま婆さんが言う通りじゃ。のう、お前は一人ッ子じゃ。がしかし、無い者と諦めれば儂《わし》も諦めがつきます。お前が明日、相撲を取ると言うのなら、今夜限り勘当じゃ。親でもない子でもない。他人が生きようと死のうと、儂《わし》の知ったことでない。お前はどうするつもりじゃ?」 「(深々と頭を垂れて)お父ッつァん、済みません。そういう細《こまか》いところへ気が付きませんでした。いままで自分の力で勝っていたものとばかり、すっかり思っていました……お父ッつァん、明日は相撲は取りません」 「あァあ、それでこそ儂《わし》の倅《せがれ》じゃ。必ず忘れても、土俵へ上るではないぞ」 「へえ……けれども、私が出なければ、必ず替りの者が出ましょう。花筏は手取りで通ってます。どういう手で取りますか、観に行くだけはどうぞ、お許しを願いたいのでございますが……」 「ああ、見物は構わん。しかし忘れても、土俵へ上るではないぞ」 「へえ、ではお父ッつァん、おッ母さん、ご機嫌よう、お寝《やす》み」  と、親孝行な息子さんです。ご両親の意見をよく聞きまして、その晩は寝ンだ。  翌《あくる》朝。夜も明けないうちに、櫓《やぐら》太鼓。いやァ、お好きなお方は、あの太鼓の音が耳に入ると、もう寝ちゃァいられません。夜の明けないうちから太鼓が鳴っていますが、実にあれは遠音《とおね》によゥく聞こえるものでございます。  あの大太鼓てえのは、手前どものほうの、まあ楽屋でもよく使っておりますお芝居でも使いますが、大太鼓はあの、どォ……ォおゥんと五韻《ごいん》を引くんですが、相撲のほうで使いまする櫓太鼓は、そうでございません。あれを甲張《かんば》ると言って、とくに別に張らせます。ですから、ぽォ……ォおんと遠音がするものでございます。これを櫓の上で叩くんですから、実に遠くまでよゥく聞こえます。 「(太鼓の音で)とんすとすととォんとォん、すとすととォんとととん、すととんとォん、とんすととォんとォん、すとすととォんとォん、とんすととォんとォん、すとととすととォんとォん」  天下泰平、国土安穏と打ち込ンで参ります。耳へ入ると好きな道です。寝ちゃァいられません。  着物を着替えて場所へ来てみまするてえと、いっぱいの大入り。勝つもあれば負けるもある。或いは引分け、痛み分け。相撲番数もだんだんと取り進ンで参ります。  いよいよ、結びの一番ということになります。 「(扇子を開いて、口の前に当て、呼び出しの声)ひがァしィ、はァなァいィかァだ、はァなァいィいィかァァだァァ……にィいィしィ、ちどりィがはまァ、ちどォォりィがァァはァまァァ……」  と呼び出しの声でございます。 「おい(ぽォんと叩いて)、大吉ッさん、お前さんの番だぜ、おい、頼む、いいかァ? 今日勝ってくれればな、ええ、全勝じゃ、村の誉れじゃ。さァ、はやく……まごまごして……」 「いや、駄目だ、今日は相撲は取れねえんじゃ」 「なんで相撲が取れん?」 「だ、駄目なんじゃ、相撲取ったら親に勘当じゃ」 「なにィ? 勘当じゃ? なァあに、親父ンとこは俺《おら》たちが行って、なんとか詫びはしてやるで。さァ、はやく廻《まわし》を締めて……村の為じゃから、はやくはやく」  と、友達が承知をしない。みんなで寄って集《たか》って、裸にして廻しを締めて、土俵の上へ押し上げちゃった。  もとして、好きな道ですから、『ええ、どうなることか』と、親の意見も無にいたしまして、ぐいィッと仕切っちゃったんです。  可哀相なのは、相手の提灯屋です。生れて初めて土俵の上へ上ったんですからな。相撲は見てますが、土俵の上なんぞ上ったことァないんですから……我々のほうで、これ板に付かないてえやつです。まるでもって、お盆の上に蛙を載せたようにな……。 「(扇子を右手に半身になって、軍配の構え。左右を見やって)……うッ」  阿吽《あうん》の呼吸を計らうてえんですが、両方とも素人、呼吸が合わない。 「(やる気なく)何をしてやんだなァ、はやく軍配引いてやってくれ。立上って尻餅を搗《つ》けァ、俺の相撲はおしまいだ……けども、相手はどんな顔をして仕切ってやがるだろう?」  止しゃァいいんですが、見ちゃァならないとなると見たくなるのが人情でございます。頭ァひょいと持ち上げやがった。ご承知の通り、仕切ってるあいだてえものは、わずかなもんです。怖い怖いと思うてえと、棕梠箒《しゅろぼうき》も鬼に見えるの誓え。相手の目の玉が二《ふたあ》つな、炭団《たどん》ぐらいの大きさに見えまして、それがぴかぴかぴかぴかぴかッ……。 「(おびえて)これァ怖い顔して睨《にら》ンでますよ。やっぱり俺を投げ殺すよ、こいつァあァあ……、やっぱり一分で提灯張ってたほうがよかった。旨いこと言われて、この水戸の土となるのか。死ぬ俺は構わないが、あとへ残って泣きをみるのは妻子《つまこ》だ。えらいことをした……」  とんでもないことをしたと思うてえと、涙がぱらぱらぱらぱらぱら……冷汗がたらたらたらたらたらたら……そうなると神経ですからな。両足をもって土俵の真ン中へぐッぐッぐッぐッ……吸い込まれるよう。思わず知らず 「(べそをかいて)あァあァあ……南無阿弥陀仏」  と念仏を唱えた。  相手の千鳥ヶ浜が驚いた。 「変な相撲があるもんだな。俺もずいぶん相撲を取って仕切ったが、仕切りに念仏を言うてえのは初めてだ。なァんでこいつは念仏を?……(思い当って)あッ、これァ俺を投げ殺す気だなァ……あァ、えらいことをした。ご両親が涙を流してご意見を言いなすった。それを無にして、この土俵へ上ったばっかりに、こいつに投げ殺される……俺ァ構わない、自業自得。しかしあとへ残って泣きをみるのはご両親。先立つ不孝、こんな親不孝なことはない。えらいことをした……」  とんでもないことをしたと思うてえと、おなじく涙がぼろぼろぼろぼろぼろ……冷汗がだらだらだらだらだら……やはり神経ですから、両足をもって土俵の中へ、ぐッぐッぐッ……と吸い込まれるよう。思わず知らず 「(天を仰いで)あァあ南無阿弥陀仏」  両方で念仏を唱えている……変に湿《しめ》っぽい相撲があるもんですが……。  行司ももう際限がありませんから、いい加減なところでもって 「はッけよゥい」  と、軍配を引きました。  立ち上るッてえと夢中になって提灯屋、むこうの千鳥ヶ浜へ、どォォんとぶッつかって行った。  気の毒なのは千鳥ヶ浜、考えごとをしてましたんで、立ち遅れ、相手の手が顔へきましたから 「うわァあッ」  てえと、ずどォんと倒れちゃった。  尻餅を搗《つ》こうと思って、ひょいと見たら、相手が引っくり返《けえ》っちゃってる。いまさら、あらためて尻餅|搗《つ》くのも変ですからね、頭ァ掻いて土俵のまわりをぐるぐる回りはじめやがった。  いや、見物人はえらい騒ぎ。 「どうだ源兵衛さん、見なすったか。たいしたもんじゃのゥ。さすが大関花筏、相撲にせんなァ、立上って(ぽォんと叩いて)、ちょいと張り手が決ったら、さすがの千鳥ヶ浜、立つことはできない。張るのは上手《うま》いねェ」  上手《うま》いわけだ、提灯屋ですからね。