三人兄弟(さんにんきょうだい) 五代目笑福亭松鶴  エエ極くお古いお話を一席伺います。船場で相当な商人《あきんど》家のお宅で、御子息が三人ござります。どこさんでもようあることで、兄さんが極道をなさるのに弟さんが豪う真面目なとか、弟さんが手も附けられぬ放蕩者《やんちゃ》やのに、兄さんがまた至って親孝行の優しい御方や、などという噂を兎角あちこちで聴きますが、このお家はまた御兄弟三人が三人共、揃いも揃うて放蕩者《ごくどう》でござります。一番の上が作治郎さんと申しまして、先ず御遊興《おあそび》も新町なれば九軒の吉田屋、北陽《きた》なら平鹿、南地《みなみ》なら差詰め富田屋という風に極く応容な上品なお遊び方でござります。それに附けましてお服装《みなり》も矢っ張り、チャンと紺博多の角帯を貝の口に結んで、鉄無地袖のお羽織に焦げ茶の紐、白足袋に表附きの堂島下駄という、柔順しい風をしてお歩きになります。次が彦三郎さんと申しまして、これは又どっちかと云いますと、ホンの着流しに雪駄履という好みで、先ず越後町か南なれば中筋辺り、鳥渡《ちょっと》爪弾きで新内でもという、極く垢の抜けた往き方でござります。一番下が吉松さん。上の兄さん方とはガラッと遣り方が違いまして、阿波座の卯之はんという様な遊人の内などへ出這りをいたしますので、自然風態から言葉つき迄変って参ります。まア河内縞でも三宅のジャガという様な物を身幅七五三に仕立てまして、座ると膝が出て胸から腹掛が覗く、この腹掛が又八釜し物でござりまして、仕立屋が自慢の一針技きという奴、一針縫うては小さな槌でトントントン、又一針抜いてはトントントンと打って、充分念が入れてござります。勿論《もっとも》寸法がキチンと合してあるので咽喉にキユッと喰い入ってます。ウッカリ団子でも喰べたら命に係わるという、物騒な代物もあった物で。盲紺《めく》の股引《ぱっち》に盲紺の足袋、股引と足袋の隙《あき》が五分というのが定法やそうで、履物は南部表の五分高、八幡黒の鼻緒をすげた糸柾の神戸下駄で、背丈《せい》が低うて値が高い持つと重とうて履くと軽い、全で切支丹の化物みたいな、其癖新町の西口から這入って東口へ出たらモウ台の打ち替えをせんならん。考えてみると随分不自由な下駄でおます。懐ろには半紙一帖を四ツに折って始終入れて歩きますねが、これは若し喧嘩が出来た時に、水に浸けて額に当てごうた上から、鉢巻をいたしますと刃物が徹《とお》りまへん、頭を割られて血が眼へ這入らん。何や敗ける時の事ばっかり考えたアる。豆絞りの手拭を鷲掴みにして、汁屋へ飛び込むなり、泥鰌《どじょう》を肴に茶碗酒引掛けて、新町の吉原から松島辺りを流して歩こうという、豪い手荒い極道でござります。三人共夜泊り日泊り、お父ッあんが何ぼ御意見をなされましても、馬の耳に風で、一向に応《こた》えまへん処《とこ》からとうとう三人共二階住いという事になりました、御飯だけは下へ降りて喰べますが、済むと直ぐに放《ほう》り上げられます。 「コレ作治郎やないか、俺しの背後《うしろ》をソッと通って庭へ降りようと思うてくさる、油断も隙もありやせん何しに降りるのじゃ」 「鳥渡お手水へ遣って貰いますね」 「そんならそうと云うて往きなさらんかい……コレコレ其処は下《しも》の手水じゃがナ、何故上のへ這入りなさらん」 「ヘエ……アノ何んでおますね……下の手水から、一遍来て呉れと云う伝言《ことづけ》が……」 「阿呆云お……」 「イエあの……実は何んだすね、こない二階に許り居るものだすさかい、一遍下が歩きとうてな、せめて手水へ往く時丈けなと、下駄が履きとうおますね」 「身から出た錆じゃ。チト性根に入れなされ。早う往ってこう」 「ヘエ……アア薩張りワヤや、ソッと出たろと思うたら発見《みつ》けよった、……(便所の扉を開ける)アア臭さ、余り用事の無い時に来る所やないナ……まアせめて此処から世間なと見たろかい……アア横町の白《しろ》犬が通ってよる、何や嬉しそうな顔に見える、……アア向うから来るのは、町内の歩きしてよる市助やナ。オイ市助……オイ市助……」 「ヘエ……(捜す)誰方だすいナ」 「市助、俺《わ》しやがナ、此処や此処や」 「ヘエヘエ……アア気味悪る……声はすれども姿は見えぬか……アア怖わ……ここん処《とこ》ホン嫌いや……昼でも狸が出やがんね……何奴《どいつ》じゃいッ」 「アア吃驚した、何じゃ大きな声で……上を向いて見い、市助此処やがナ」 「オオ兄|坊《ぼん》さんだすか、吃驚しました」 「此方が吃驚したがナ」 「御機嫌さんでおます、此頃暫くお眼に掛りまへんが、どないしてはりました」 「実は此頃二階住いや、一足も外へ出して貰われへんね、……それに就いてなア市助、お前に折入って頼みがあるのやが諾《き》いて呉れへんか」 「ヘエ。そらモウ、他ならん貴所はんのお頼みだすさかい、どんな事でも致しますけども……併し何ういう御用でおます」 「今晩なア、是非共新町へ往かにゃならん約束がしてあるのや、処が今云うた様な訳で出られへんやろ、其処で頼みというのは、今日日が暮れて仕舞うたら、お前梯子を持ってソーと裏へ来ててんか、俺しが様子を見計ろうてエヘンと咳払いをするよって、そしたら屋根へ梯子を掛けて呉れるのや、俺しは梯子で降りて新町へ往く、とまアこういう段取りや」 「滅想な、謝っときます。そんな事が親旦那に知れたら、私がどない云うて叱られるか解らしまへん、このお町内に置いて貰われん様になりますがな、それ丈は勘忍しとくなはれ」 「アア左様か、……イヤ拘《か》めへん拘めへん、豪い無理な事頼んで済まなんだなア……お前が嫌やなら又他の人に頼むさかい、ちょっとも拘めへんで、併しやなア、まアこんな事云うのやないけど、お前がこの前、ショム無い安物買うた罰で、年齢甲斐も無い怪っ態な病気貰うて来て、医者に掛る銭は無し、というて放っといたら鼻が無い様になって仕舞うワ、さればというて町内の人にそんな話も出けへんわなア、難儀してるちウのを聴いて、病いの根の絶えるまで、道修町三界からワザワザ薬を取り寄せて、誰にも知れん様にズッと服《の》まして遣ったん、あら誰やったいな」 「ワア辛いな……イエもう、貴方はんの事なら、どんな事でも諾きはしますねが……ヒョッと知れたら」 「心配しいな、知れる様な不細工な事しやへん、俺しがスッと降りるなり、お前がスッと梯子を持って去ぬのや、知れる筈があるかいナ、俺しや又直きに帰って来るのや、帰りにはお前に知らすわなア、お前が梯子をチョッと掛るワ、俺しがスッと昇るワ、梯子をヒョイと担げんかい、それで仕舞いや。左様やろがナ、何心配してるのや、なア市助、これが旨い事往たらナ、もう先途お前が欲しがってた、あの莨入も遣るで別にお礼が一両、どうや、嫌やなら拘めへん」 「ワア辛いな、……ウーム辛いなア……」 「阿呆やなアお前。こんなボロい事逃がしたらアケへんで、ナ承知しとき、サア手附や、今これ一歩遣る」 「ヤ宜しおます、額の顔拝んだらモウ断れまへんワ……イヨー一歩金でやすかこれが……ピカーと光っておますなア、大きに……あかん。矢っ張り狸や、頂いたら額が無い様になった、ア怖わ」 「何してるのや、余《あんま》り頂き過ぎるさかい背《うし》ろへ落ちたのやがナ」 「ああホンに落ちてました、そやけど頂かんならん物だすな、一歩の額が二つになってます」 「充分《あんじよう》見い、一つは茶碗の破片《かけ》や」 「アア左様か」 「慌て者やなア……そんなら頼むで、……ヘエお父ッあん、少々お通しを」 「コレ少々お通しやない、何時まで手水へ這入てるのじゃいナ、早う昇《あがっ》て寝て仕舞いなされ」 「お寝み」  二階へ昇りましたが、入替って降りて来たのが次男の彦三郎さん。 「何処へ往くのじゃ」・ 「ヘエ、鳥渡お手水へ……」 「早う往て早う寝よ……」 「お寝み」  跡へ降りて来ましたのが弟の吉松さん。 「コラ親爺、チョット退《ど》け」 「コレ。そら何という事を云うのじゃ、親を捉まえてコラ親爺なんて、何処へ往きなさる」 「せんちへ往くのんじゃい、疑うのんなら随いて来い、ヘヘンじゃ……サア往て来たった、昇て寝てこましたるさかい、喜びやがれ、何ちウ顔さらしてんネ阿呆ん陀羅、鼻糞程の金持ちやがって、子が遣えへんかと思うて、ビクビクさらしてケツかる、此世へ金の番に生れて来やがってザマ見され、サア退け退け、テトロシャンシャンの、ナンダメコヒョイヒョイ……(二階へ昇る)……笹屋の佐助さんでサササのサッサで、北国屋の庄やんでキタショウ……イと…オイ兄貴、作兄」 「アア吉やん、お前未だ寝てやへんのか、早う寝んかいナ」 「盛んかいな云うたかて、赤子やあるまいし、アカの宵から眠られるかいナ、併し内の親爺は何とした奴やろ、人生五十年というのに、彼奴は六十を遠《とう》に過ぎてスカ見たいな顔してよる、ヒョッとしたら死ぬのん忘れてよるのと違うか。持って死にも出けん銭を、先繰《せんぐ》り増やして喜んでケツかる、因果な奴やで、チット減らして罪亡ぼしをさしたろという、結構な息子を二階押込めやがって仕舞に罰が当るぞホンマに……、アーア仕様が無いなアアどや、八八一年《はちはち》引こうか」 「俺しゃ、そんな事知らん」 「知らんのか、鈍痴《どじ》やなア、八八位知らなんだら、交際出けへんで、まア知らにゃ仕様が無い、つッこ往こうか」 「知らんなア」 「フン。そんなら札|蔵《なお》しとくわ、これ遣ろ、賽や、丁半どうや……知らんか、仕様の無い奴やなア。お前等見たいな甲斐性の無い奴が居るよってに、こんな二階へ上げられて寝てんならん、ざま見やがれ、お前等に蒲団二帖は勿体無いワイ、一帖宛私いに貸せ」  二人の蒲団を取て、自分が四帖も着て其儘ゴロッと仰向けになるなり、グーッと高鼾で寝て仕舞いましたが、一番上の作治郎さんは、今夜脱けて出るアテがあるので、中々寝まへん。 「吉やん、小坊ん……コレ中坊ん……よう寝てよる」  ソッと蒲団から這い出しまして、物干の出口からゴロゴロを開けて、物干へ上ります、手摺を越えて屋根へ降りましたが瓦が冷え切ってござります、音のせん様にソロソロ歩いて屋根の端まで来た処で、エヘンと咳払の合図を致しますと、下では市助が一両の金儲やというので、宵から待ってよる。ソレ来たちゅうので、梯子をニユッと突き出しましたので、直ぐ降り様と思うた処が、誰しも覚えのあることで、寒い時分に寝間から出て、風にあたりますと急に尿《ちょうず》を催おします。作治郎さんも寒い風に吹かれた処へ冷い瓦を踏んだものでやすさかい、降りる間の辛抱が出けん、屋根へ跼《つく》ばって遣ってる処へ、此方は中坊の彦三郎さん、ウツウツしてると何うやら兄さんが物干から屋根へ降りた様子でおます、可笑い具合じゃワイと、はね起きて自身もソッと物干から屋根へ降りて見ていると、エヘンのニュウで梯子が出ました、ハハア兄貴奴豪い事を仕組んでよる、能し、俺しもこれで降りたろ。狡い人で兄さんより先に降りて来ました。 「誰や、こんな処へ梯子出してるのは、アお前市助やないか」 「アッ、貴所は中坊んさんだすか」 「よう気が利いたナ、大きに憚りさん」 「もし、そら応対が違いまっせ、貴方を降ろすのと違いますがナ」 「八釜しい云いな、帰りに土産持って寄ったる、兄貴はあとから直ぐに降りて来るけど、何も云いなや」  プイと其儘遊びに往て仕舞うた。兄さんは何も知らずにそのあとへ降りて来まして、 「アア市助御苦労はん、サア約束の金と莨入、これ取っとき、早う帰れたら又此梯子で昇るけど、晩うなったら拘めへんさかい、心配しいなや」  プイ。これも往て仕舞いました。そんな事は存じませぬ弟の吉松さん、グッスリ寝込んでおりましたが、物干の出口の戸が少し許り開いていたので、針の穴から棒の風とか申しまして、冷たい奴がヒユーッと当ります、フッと眼を醒ました。 「アッアー(欠伸)……オオ寒む……アアよう寝た……オイ兄貴……コウ中兄《なかて》……よう寝てケツかる……エエイ何じゃ肩が凝ると思うたら、仰山蒲団を被《き》せやがった……怪《け》っ態糞《たくそ》の悪い何しやがんネ……併しもう何刻《なんどき》やろう、未だ夜中までは間があるやろうナ……今頃は花街《いろまち》の宵《よい》や、あの世界は又別やな……ア彼女《あいつ》どないしていよるやろ、アア往きたいなア……同《おな》しうどん屋でも、此辺《ここら》の奴とは声の出る処《とこ》が違うで……【うーどん――やウ、イ。そーウばイヤウーイ……くーじら汁イ、どじょう汁ウーイ】……エエ、あの声聴いた丈けでも、色街へ来たなアちウ気がするで……【河内瓢箪山――恋のウー辻占ア――、……お座敷でのお愛嬌……待人炙り出し……かアわちイ、炙り出しイ】アハハ、河内が炙り出せるかイ……♪赤襟さんでは年期が長い、仇な年増にゃ間夫がある……テトロテンテンのスッチャラチャンのチャンチャン……向うの方で甲走った声出しやがってナ【お竹どん……お竹どん……何処へ往きやんや】【一寸玉水まで三ツ鉢云いに……】……【此間は寅やんと、道者横町の辻でお楽しみ、ピー】てな事云いよって……アア往き度いなア……オイ兄助……中兵衛、よう寝やがったなア……エエ遣手《ばば》めが眠むたそうな声で【末広家はーん……、末広家はーん……】……【ヘエ】……【熱うして二つや】……【うどんだっか】……【イイヤ狐】……アア堪らんなア、オイ兄貴、起きイな一遍、……よう土寝《どぶ》さったなア……♪手枕さし替え顔見合わせて、あの憎らしい鐘の音……チャラチャンのチャンチャンの、オッピコピョイのピョイピョイと……【粋《いき》な兄さんお這入りやす……這入てやったら何やねん】……【オオ御親切に甘えて、一寸見せて貰いまっせ……豪い皆|燻《くす》ぼった顔してるなア、こら五百羅漢の土用干か】……【憎たらしい口やなア貴方は】……【真中にいる娼妓《げんさい》、あれ何ちウ名や】……【良えお妓《こ》やろ、此松さん云うのや】【ハハア、道理で大きな尻《けつ》やと思うたワイ、……此松忽ち大ケツと成り云うさかいナ……此方の妓《おなご》は又、豪う威張《うか》めた顔してるねナ、オイ一遍此方を向いて見せたら何うや……アアそれで此方向いてたんか、アハハこら済まん堪忍してや……俺しに情《いろ》眼と思うていたら、サッパリすかたん薮睨みちウ奴やナ……其隣りは又煙管掃除に能う精が出るやないか、……中々手付きが良えがナ。ハハアお父っあんの商売それやな、……ヘヘヘ鳥渡面白い商売やで。抽出しの仰山附いた荷担げて、鼡色の手拭で頬被りして、……ダオーシカエー……】……【怪っ態な素見し方せんとおきんか、楼《みせ》の恰好が悪うなるがナ】……【何吐しやがんね、此上悪うなれる楼かい、オイ、掃除が出けたら一服つけて出しや】……【阿呆らしい、お前《ま》はん等につける莨はあれへんで】……【自身《おのれ》の喫《くら》う莨も無いのやろ】……【ようあんな事云えるでナ、心配しいな、莨は仰山買うたアるわいナ】……【そやそや、仰山買うたアるなア、皆煙草屋に預けてあるのやろ、要る時は端下銭持て取りに往くのやろ】……【何んでそない憎くたらしい事云うのや、ナア仲直りして一遍揚っといナ】……【揚れ揚れは曳子の慣い、去んで寝しゃんせ末の為ちウわい。……端の妓は何ちウのや】……【八重はんや】……【何、弥兵衛はんか】……【女に弥兵衛はんがあるかいナ】……【弥兵衛は知らんが八兵衛はあるワイ、……向うの二番目は】……【桜はん云うのや、ボッテリとよう肥えてはるやろ】……【肥えてるもんか、ありや腫れてよるのや。桜々とウダ腫れて云うてナ……アハハそれでも活きてるかして動いてるワイ】……【動かいでナ、宅の子供衆は皆米の飯《まま》が喰べさして在ますのや】……【嘘吐け、お粥ばかり喰わしやがって】……【そんな事知ってるのんか】……【こんな稼業《しょうばい》する者はナ、三度三度お粥の方が悪い病が抜けて良えのじゃワイ】……【何でやネ】……【女三カイに梅毒《ひえ》なしと云うワイ】……【もう宜え加減に去になはれ、あとが閊《つか》えるがナ、退《の》いたら何うや】……【狸|魅《つ》きみたいに云うない退けやなんて、云わんかて去ないでかイ、何時までも見てたら眼の恰好が悪るうなるワイ、テトロシャンシャンのスッカラカンのカンじゃ】……オイ二人共どうや……何とよう寝さらしたモンやなア……♪又しても刃物三昧怖くは無いが、今朝の一《ひと》言気に懸る、いトろトはトにトほへとサッサじゃ……【アア吉やんやないか。コレお少婢《ちよ》やん。吉ちゃんが表を素通りするがナ、早う往て留めてえナ、チョッと吉ちゃんー】……庭へ飛んで降りるなり下駄と草履を片ちんばに履いて。ガタボソガタボソガタボソ………【チョッと、吉やんやないか、何で素通りするのやいナ、なア云うたら吉ちゃんいナ云うたら……ええナ云うたら……】……【五月蝿いワイ、吉ちゃんやないかとはどうや、昨日や今日の馴染やなし。大てい嗅《かざ》でも解りそうなもんやろ】……【サア吉ちゃんや思たよってに、吉ちゃん云うたんやないか、なアて……そんな怖い顔するのん嫌やや云うのに、なアて……這入りんかいな吉ちゃん……早う云うたら】……【放してんか、銭が無いので泊りが買えんのや】……【又あんなイケヅ云うて……何時《いつ》でも、銭が無いかて昇ってるやないか、何で今日に限てそんな事云わんならんのや、……お少婢《ちよば》やんこれ持て、横町で按配《あんじょう》しといて……】……締めてた緋扱帯《しごき》をクルクルと丸めてお少婢《ちよば》に渡しよる………【何しててやわ、早う昇りんかいナ】……トントンと昇て部屋へ這入るワ……【オイ一杯飲むで。何でも拘めへん鳥渡そう云うて、一本|酣《つ》けといて】……てなもんや……【マア吉やん、何刻やと思うてるのや】…【サア何刻やろなア】……【モウ八刻《やつ》前やがな】……【そないよう知ってる者が何で知らん者に訊くのや】……【サアいな、もうこない晩いのやよって、また明日でも、ゆっくり朝から飲んでやったら宜えやないか。なア、もう今夜は飲まんと寝なはれいナ】……【フーム、すると何か夜が更けたら酒が飲《の》めんというのか、汝《わ》りや俺れの口を乾絞《ひじ》めるのか】……【何も乾絞めるのやないけども、今頃から飲んで寝たら毒やさかい、辛抱しなはれと云うのやないか、貴方そない妾いの云う事諾かれんか】……【愚図愚図吐す事ないワイ、黙って持て来いッ】……【何んでそんな無理ばっかり云わんならんネ】……【云うたら何うしたんじゃい、ど多福奴】……【お多福は生れ附きや】……【コラ洒落やがって、口答えさらしたナア】……【叩きやがったナ、女を叩くは犬猫を叩くのも同然や、さア何ぼなと叩け】……オオ【何程でも撲ったるワ】……【ヒー、サア殺せ】……【ドタバッタンドスーンと遣ると婆が吃驚して昇て来よる……】コレまア吉やん、何ないしたんやいナ。鳥渡まア待ち云うのに【イヤお婆《ば》はん放っといて、こんな餓鬼なアなア云うてたら癖になるネ】……【お婆ちゃん拘まわんと降りとくなはれ、ど甲斐性のある丈け叩かしたるね】……【コレ何やいなこの妓は女だてら、そんな事云うさかい男を怒らすのや、又吉ちゃんも吉ちゃんや、そんな手荒い事せんと、按配云うて聴かして遣たら良えやないか、全体何ないしたと云うのやいナ】……【お婆はん聴いて、大体人を莫迦にしてケツかんね、俺が酒を飲むよって、その拵らえせえと云うのに、いやモウ晩いの、ヘッチャクレやの、逆らう様な事ばっかり云やがんネ】……【イーエいなお婆はん、飲むなというのやないけどなア、夜が更けてからは毒やさかい、明日の朝にしなはれ云うたら、口答えする云うて、叩くのやがナ】……【そりゃ吉やんが無理や、併し貴女《あんた》も悪いで】……【何んで妾イが悪いのや】……【イヤ悪い、こら今晩飲ましたら不可んなアと思うたら、余計|柔順《すなお》に拵えをするのや、サア何にもないけど辛抱して飲んどくなはれ、併し時刻も晩いしするさかい、身体の為めに良うないよって、前で心配して見てる妾が可哀想なと思うたら、なるべく控えとくなはれやと、女らしゅう云うてみなはれ、男というもんは子供と同じ事や、腹も何もあらへん、自分の云い条さえ通ったらそれで得心するのや、そない心配するのやったら、明日の朝の事にしょうかいとこうなるのや、つまり貴女の云い廻しが悪かったんやさかい、あとでよう詫っとかな不可んし、又吉やんも叩いたりして何やいな、何もこの妓が悪気で止め立てしたのやなし皆|貴所《あんた》の為を思やこそ気に入らん事の一つも云うのやないか、そらこの妓かて他の人と違うて貴所に叩かれたんやさかい、口では彼《あ》ない云うてても、腹では嬉しいのやろ、泣いてたかて嬉し泣きやろけども、矢っ張り未だ奉公してる身体や、親方から苦情が出たりしたら、要らん断りの一言も云わんならん、なア吉やんそうやろがナ、まア御互に余り仲が宜うて、遠慮が無さ過ぎるさかい出来た喧嘩やろけれど、あんまりこの妓を虐めて遣るのは殺生やし、可哀想にこの妓というたら明けても暮れても、貴所の事ばっかり想い通しているのやもんナ、チョッと二日も顔を見なんだら、それこそ大騒ぎや、風邪でも引いたんやないやろか、豪う悪いのと違うやろか云うて、皆が五月蝿がる程八釜しい云うのやかナ、この間も貴方可笑しいのやで、妙見さんへ|午の日《おうま》詣りをするのやさかい、交際うて呉れちウものやよって、まア一処に往たと思いなはれ、途《みち》で堀江の橘通りを通ったらナ、荒物屋の表へジット佇って動けへんねがな、なアお婆ちゃん、二人暮しやったら、どの位の大きさのお櫃やったら宜えのやたら、お膳は抽出しの附いたのが欲しいたら、男のお茶碗は大きい方が値うちがあるたら、何や彼や云うもんやさかい、丁稚《ぼん》さんがジイと顔見るのやがナ、あてテレ臭い、まア他の妓というたら、やれ鮓やの饂飩やの善哉やの店屋物の事より他に考えてやへんのに、この妓はモウ世帯道具ばかり欲しがっている、一日も早う貴方と一緒になるのを楽しみにしているのや、そんな事も鳥渡考えて、もう少し可愛がって遣らな不可へんし、明日でも又この妓の悪い処は、妾がよう云うて聴かしとくさかい、今夜はこの婆に免じて勘忍して遣っとう。コレお前《ま》はんも何時《いつ》まで泣いているのやいナ、早う何なと見繕ろうて、機嫌直して飲んで貰いんか、サア早うしんかと云うのに、妾いが按配《あんばい》してお相伴もし度いのやけど、未だ妓女衆《こどし》さんが二人残てるのやがナ、彼の妓等を仕舞うて貰わにゃ、何ないも出来へん、下へ降りて来るよってに、具合ようして吉やんによう詫っときで、そんなら吉やん、どうぞ宜ろしゅう頼んます】……【イヤ済まんなア、お世話はんだす。……それ見い、ショム無い片意地|吐《ぬか》すさかい、お婆はんの世話にならにゃ成らぬ】……【妾が悪かったんやワ。貴方の気もよう知ってる癖に、何んで妾ィ、こんな阿呆やろ】……【解りさえすりやそれで良えがナ、併し痛かったやろ】……【痛かったか何うや解れへんけどな、先刻《さっき》貴方がコラもっと撲ってやろか云うて手を振り上げたやろ、あの時の男らしい恰好いうたら、下から見上げてアア良え男やなア思たらナ、笑いなや、身体がゾーッとして、いっそ殺して欲しかった】……【怪っ態な事云うない、撲《どつ》いても堪えん奴やさかい仕様が無い、サア何なと云うて来んかい】……【何が宜えやろ、お少婢やんに蒲鉾買いに遣ろか、それ共海苔買うて炙ろうか】……【勘忍して呉れ、講詣りの朝飯やあるまいし、蒲鉾や焼海苔で酒が飲めるかい、鰻の蒲焼でも云うて来い、お婆はんにも一人前取っといたれ、序に居る丈けの妓女《こども》にズーとまむしでも配ったれ】……【まア吉やん、なんでそない無理ばっかり云うのやいナ、今夜の泊りをどないして払うたか知ってる癖に】……【愁嘆な顔してくれな、サアこれで按配《あんじょう》しとけ】……ちウて、懐から財布をポーンと放り出したるね、財布の中と俺の顔をジイと七分三分に見競べやがってナ、……【まアこの人いうたら見んか、こない仰山お金持ってる癖に泊りの銭も無いや云うて、人に心配さすのやワ、憎たらしいなア本真に】……呟《ぼや》いてるものの矢っ張り嬉しそうにして降りて往きよる、暫くすると膳の上へ二鉢程の肴と、銚子一本乗せて上って来るなり、俺の顔を睨みよる……【何やいナ豪らそうな恰好して、鳥渡手を延してお膳位受け取って呉れたら何うや】……【ヘン天竺猿やあるまいし、そんな処まで手が届くかい、此方へ持って来い】……【まアこの人いうたら、女房を使わにゃ損の様にしてるねワ、サアお飲り】……【オイ来た、何じゃこの肴は】……【鰻屋はモウ仕舞いや云うよって、玉水へ遣ったんやけど玉水も山入れた処で何も出来へんネ、煮売屋の物やけどこれで今夜だけ辛抱しといとう】……【ほほウ、豪い物持って来よったナ、何や鰤の煎付《いりつけ》に昆布巻かこっちが慈姑か、こら結構や】……【鳥渡まア貴方、この慈姑喰べるのんか】……【食うて悪い物なら何で持って来たんや】……【頼むさかいそれ丈け食べんと置いとう】……【俺はこれが大好きや】……【それでも慈姑は男の精を落すと云うやないか】……【俺みたいな隙ま筋は、慈姑なと喰わな仕様がないわい】……【まアどう云やこう云うと、ようそない無理が云えたもんや、アアッ喰べたら可かんというのに。吉やんいうたら、キャア、喰べたら嫌やーアん】……フワーイ……アア往き度いなア……貴兄。中兄《なかて》……一遍起きて俺れの惚気も聴てくれ、オイ兄貴、オイ、オイ……」  蒲団を捲ると藻抜の殻。 「アッ居よれへん……オイ中兄、慥かりしんかいナ、兄貴は居やへんがナ」  揺り起そうと思うたらこれも空っぽでやす。 「アアッ。二人共居やがれへん」  不図気が附いてみると、物干の戸が少し開いて、薄明りがさしています。 「ウーム此処から出やがったのやナ」  其儘着物を引掛けて、屋根へ出るなり、今度はエヘンも糞もおまへん。裸足で往来へ飛び降りるなり新町へ走って仕舞いました。夜がガラリと明けますと上の作次郎さん九軒から出て通り筋をブラブラ戻って参りますと、塀《へ》の側《かわ》の角で、中の彦三郎さんとベッタリ。 「オオ兄さん」 「イヨウ中坊んかいナ、何ないして出て来たんや」 「貴方が市助に梯子掛けさして小便してなはる間に先へ降りましたんや」 「無茶するなア、小坊んは何うしたやろ」 「よう寝てました」 「アハハ、帰ったら怒りよるやろ」  話をし乍ら新町橋を渡ろうとすると背後《うしろ》から 「オイ兄貴、オイ中兄」 「アッ小坊んやないか」 「オイオイ腹の悪い事すない、二人腹合して、俺一人放ったらかしやがって」 「イヤ怒りな、左様やないネ、二人共別々に出たんや、まア兎に角一処に帰ろ……親父っあんが店に居にゃ良えがナ、アアもう帰って来た、一遍様子見るワ……ワーッ可かん、お父っあんが坐ってる……怖い顔して煙草吸うてるで……中坊ん、お前一番先に出たのやよって先き這入り」 「阿呆らしい、弟が兄より先へ往けますかいナ、まア兄さんから」 「ショム無い処で遠慮しよる、まア奉公人の居ぬ間に這入る方が増しや……ヘエお父っあん、お早うさんで……」 「何がお早うさんじゃ、コレ作次郎。こなたは二階に居る筈じゃに、何で表から這入って来なきった」 「ヘエ……」 「ヘエじゃありやせん。何処へ往てたんじゃい」 「実はその……夜前は謡の会に参じます約束がしてござりましたので、ソッと抜けて出て解らん様に早う帰る心算でござりましたのやが、ツイツイ夜が更けましたので……」 「コレ嘘も宜い加減にしておきなされ、豪い謡があったもんじゃ、奉公人の手前もあるわ極道奴が、誰にも見られん内に二階へ上りくされ」 「エヘ……」 「中兄、兄貴どないしよった」 「エライ怒られて、今二階へ上らはった」 「そんならお前早う往き」 「フム、……ヘーッ。お早うさんで……」 「彦三郎、お前も二階に居る筈じゃないか、何んで表から這入って来たんじゃ」 「ヘエ……昨夜は宗匠の処で開きがござりましたので、鳥渡内密でやって頂きました処が、マアついその、余りはずみましたので、早う帰る積りのが、思わず夜通し……」 「嘘|吐《つ》けッ」 「イエ本真吐いてます」 「本真吐くちゅう事があるかい、呆れて物が云えんわい、二階へ上ろッ」 「オイ帰ったぞコラ親爺、婆ア、お帰りと吐かさんかイ」 「ギェッ、そ、そ、そりゃ何ちゅう状《ざま》じゃ、裸足で尻捲て、肩へ拳骨突張りくさって、何処へ往てたんじゃ」 「問う丈け野暮じゃい、新町へ遊びに往てたんじゃ、遊びと云うたら女郎買じゃ、姫買の事じゃ解ったか、乃公は二階で寝転でるよって、茶が沸いたら飯食うたるさかい直ぐ知らせ、何なら二階へ持て上れ、宜えか頼むぞ、テトロシャンシャン」 「なア良人《おと》っぁんいナ」 「何じゃ婆どん」 「妾しゃモウ情無うて涙も出やせん、現在の親を捉まえて親爺じゃの、婆アじゃの隠すでもあろう事か、女郎買に往たんやなんて大きな声出して、あんな奴を産んだかと思うと、妾しゃ貴方に面目ない、其処へいくと作次郎は謡の会へ往たとか、又彦三郎は発句の巻開きに出たとか云う丈け、まだしおらしい処があると思いますわいナ」 「併しなア婆どん、この家の相続をさすのは、どうやら吉松より他にないらしいわい」 「何で又撰りに撰って、あんな無茶者を見込みなさるのや」 「それでもなア、彼奴だけが真個《ほんま》の事を云いよった」  この話は初代笑福亭松鶴が得意で演じておりましたのを、二代目松鶴が更に工風した物だそうであります。明治初期桂慶治という人が演りました時は、二枚札と申しまして平常の木戸銭の倍額を頂きましたが、尚満員であったという事を故文我師から度々聴きました。初代桂文団治(塩鯛)が矢張りこの噺を得意に演じておりましたのを、当時未だ若かった艶文事かしく(後二代目桂文之助、京都東山の高台寺で甘酒屋を創めた人)が、楽屋から聴き覚えまして文団治の癖を其儘、文団治の物真似として演りました処が大層評判が宜かったそうであります。私は文之助師より伝えられました物に、筋を壊さぬ範囲で腑に落ちぬ節々を直しました。この噺の最も聴き処である吉松の独白が筆記ではとても充分に表す事が出来ませず、従て随分お読み辛い個所もあろうと存じますが、編集者とも相談し合うて出来る丈け口演の通りを写す事に勉めましたので、ヨタな速記よりは、聊《いささ》か味が出るであろうと、ひそかに自負している次第でございます。(松鶴) 話中に出る方言の注釈 さらしてケツかる(して居やがる)極端なる下等の言葉である ザマ見され(醜態を見ろ)下等な言葉 八八、つッつ(賭奕の種別)説明を避く 中兄《なかて》(三人兄弟の真中に対する卑称)普通叔伯父等が用いる言葉である 怪《け》っ態糞《たくそ》の悪い(「縁起でも無い」と「癪に触る」を併せた意味を含む) 赤襟さん(齢の若い娼妓) 土寝《どぶ》さる(眠むる又は臥る)「とう伏さる」の転訛? 威張《うか》める(ツソとする)上げ面《づら》する事「岡見る」の転訛? すかたん(的違い) お少婢《ちょ》やん(娼楼に居る少女婢)「おちょぼ」と云う名の名を転用して一般にお少婢《ちょば》と云ひ慣はす イケヅ(意地悪る) ど多福(おかめ)お多福を汚く云う場合 要らん断《ことわ》り(詫び言)事|釈《わ》けの転訛 テレ臭い(きまりが悪い) まむし(鰻丼)まぶしの転訛 煎《い》り付け(煮付け) 天竺猿(印度の手長猿) 隙ま筋(女に厚遇《もて》ぬ男)