たちぎれ線香 五代目笑福亭松鶴  エエ、今回は「たちぎれ線香」という廓はなしを一席申上げます。これは船場の或御大家の若旦那が夜毎日毎にお茶屋遊びを繁くなされますので、ついに足止めの二階住居としてございましたのにそれでも抜けつ隠れつお茶屋へお通いになります。或日の事、一家御親類の方々がお集まりになって若旦那のお身に就き種々と御相談中、若旦那は二階で退屈そうに赤表紙か何かを見てお在《い》ででしたが、 若旦那「コレ、丁稚《こども》」 丁稚「ヘーイ」 若旦那「今、階下でワヤワヤ私語《ささやきはなし》が盛んでるが、どなたかおいでか」 丁稚「へエ、秋田のおいえほんと兵庫の旦那さんがおこしで」 若旦那「フーン、秋田の伯母貴と兵庫の伯父貴が来ているか」 丁稚「ハア、秋田の伯母貴と兵庫の伯父貴が来ております」 若旦那「汝《おのれ》が伯母貴だの伯父貴ということがあるもんか、大方、おれのこっちゃろう」 丁稚「さよう、左様みんなおのれの事で」 若旦那「何をぬかすのや、貴様がわしをおのれというものの言いようがあるもんか」 丁稚「親旦那様があなた様のことをいうてはりましたぜえ、金食う虫や、と、あんさん金食う虫でっか」 若旦那「あほ言え」 丁稚「親旦那様が宅《うち》にもう置いとかん放り出してしまうと仰っしゃってでございます、貴君の伯母さんがマア兎も角もわしの宅へ預かって置こうと仰っしゃいました」 若旦那「フーン、秋田の伯母貴は私を預かって帰《い》のうというてたか、伯母貴は婦女《おなご》やけど胸の広い仁や」 丁稚「イエ、わたしア行水していなさる時に見ましたが胸は通常でございました」 若旦那「何をいうのや、そうやないわい、あの伯母貴は婦女でこそあれ男勝りや、わしを預かって帰のうというのは先方の宅に醜面《ぶきりょう》な娘がある。俗に人三化七というて、人間が三分に化物が七分、ソラ、もう奇妙奇天烈な顔や、嫁入させとうても、誰も貰い人《て》が無いという格別のぶきりょうや、けど、そこが親の情で、やっぱり、それ相応の良人を持たせてやりたいという伯母貴の了見で、わしをつれていんでアノ無細工な娘と夫婦にしようという話やろう、ウン、そうか」 丁稚「何を言うていなさる、そんなウマイことがおますもんか、それやったら、よっぽど、ええのだすけど、こないだ博労した牛が一寸手荒いよって彼をつれていんで畑へ放り出したらええ加減に角で腹部《はら》を破られてゴネルやろうと言うてはりました」 若旦那「伯母貴アまるで鬼みたような了見やなア、いよいよ左様か」 丁稚「そうしたら兵庫の旦那様が仰っしゃいますには、そんなことをすると見る目がいじらしいよって、それよりか私の宅へつれてかえろうと仰っしゃいました」 若旦那「フーン、成程、流石《さすが》は伯父貴は伯父貴だけまた男子《おとこ》の了見はちごうたもんやなア、わしをば兵庫へつれて帰って北風とか何んとか立派なとこへ手代奉公にでも当分いれて置こうという伯父貴の了見や」 丁稚「そんなんならエライよろしゅうございますけど、そうやおまへん」 若旦那「どうしようというてた伯父貴は」 丁稚「和田の明神さんの直ぐ前に一艘《いっそう》つぶれかかった舟がございます、その舟へ貴君を乗せて、一寸、風が荒う吹く日に沖へ指してドウーッと突き出して置けば、その暴風の為に舟がひっくり返ったら鱶《ふか》の餌食でもなるやろうと」 若旦那「まるで三荘太夫《さんしょうだゆう》の親類みたような奴ばっかり寄りよったなア、愈々、それに話がきまったのか」 丁稚「へエすると、番頭さんが仰っしゃるには、そんなことをするのも無益なことじゃによって、それより一層乞食にしておあげなさったら、どうでございますと」 若旦那「ナニッ、乞食とは何んや、誰がいうたッ」 丁稚「番頭さんが」 若旦那「フーム……」 丁稚「ほいで今おもよどんが頭陀袋《づだぶくろ》を縫うております、茶碗の割れたんやら、お椀の欠けたんやら、箸も一ぜん、それから貴君のよごれたお寝間衣、細帯、ちゃあんと今手回していますよって、いよいよ今日から貴君は乞食でございます、一寸、こう見ますと、大分、貴君は乞食顔になってきましたぜえ……マア、お通り」 若旦那「あほぬかせ、そっちへ行きやがれ……」  と若旦那は血相変えて「人間僅か五十年、われギヤッと生れ出た時は裸体でまた死ぬ時も裸体で死ぬのや、宅《うち》の死に損い親爺が頑固な事ばかり吐《ぬ》かしてけつかるさかい、しまいに番頭まで私《わし》を乞食にするなんて生意気なことをぬかしおる」と二階より其赤な顔をして段梯子をトントンと馳け下り階下《した》のお座敷へ飛込むなり其処に居はえた一家御親類の方々のドタマを、いや、頭をかたっはしから乱暴にも殴りに回りはったんだす。この若旦那の勢いに一家御親類のお仁達《ひと》は縁先から庭へころげ落るお方があるやら表へ飛び出す御仁があるやらエライ騒動が持ち上がりました。けど流石は番頭はん驚愕《おどろき》もいたしませず煙草盆を前へ置いてパクリパクリと煙草を吸うております。 若旦那「オイ、番頭ッ、貴様はえらい者《もん》やなア、聞きゃア、私をば乞食にしようというたそうやなア、フン、貴様はどれ程えらいわん、番頭番頭とあがめてりゃア、つけあがりくさって、番頭という者はどのくらい権利のあるもんや、根を調べてみたら、貴様は丁稚の劫《こう》経《へ》たのやろう、私を乞食にするなんて猪呼才《ちょこざい》なこというなッ、たとえ極道の私でも番頭の貴様が私を乞食にしようというそんな権利はあるまい、出来るもんなら、サア、乞食にせえ、サア、せえ、せんかえツ」 番頭「へッへッへ」 若旦那「何んやへッへッへなんて、サア、早くさらさんかえ」 番頭「若旦那、さらさんかなんのって、そんな、どうも不行儀な言葉使いがございますか、さらせ、と仰っしゃらいでも、元より私が親旦那様から御依頼うけて貴君を乞食にします、お急きなさらいでもよろしい、すぐ乞食にしてあげます」 若旦那「サア、せえ、早うせんかい、早うさらせッ」 番頭「なさけない、貴君、さらせの何んのと……今、します、コレ、丁稚」 丁稚「へイ」 番頭「そこに若旦那のお寝間着、麺桶《めんつう》、頭陀袋、お椀、茶碗の欠けたのと種々あるから此処へ持ってこい……よし、よし、そこへ置け、サア、若旦那、一寸そっちお向きやす」 若旦那「番頭ッ、乞食にせんかえ」 番頭「しますからそっちお向きやす」 若旦那「番頭、ど、どうする、私の帯へ手をかけて、アレ、帯をほどいて……」 番頭「どうするて、この帯と仕替て乞食にします」 若旦那「アッ、番頭、ほんまかえ、ほんまに私を乞食にするのんか、番頭、ほんまなら、一寸、待っておくれ」 番頭「そんな卑怯なこと仰っしゃるな、貴君は乞食にしてくれと仰っしゃるし、わたしゃ乞食にしようと思うてるところで、ねがうてもない、サア、ちゃっと着物を早うおぬぎあそばせ」 若旦那「番頭、一寸、待っておくれ、私は乞食は虫が好かん」 番頭「誰かて乞食を虫が好く者がおますかいなア、あんまりパッとした稼業やおまへんぜえ、世間の人がようたとえに言いまんなア、乞食三日すりゃアやめられん、と、―随分、人様のおあまり物をヨバレルというのは、えらい気の軽いもんやそうで、マア、ためしものだす、三日ぐらいやってごろうじろ、サア、サア、ちゃっと着物をおきかえあそばせ」 若旦那「マア、番頭、待っておくれ、今のように、強ういうたのは、実に私がわるかった、これから改心しておとなしゅうするほどにお前からお父つぁんにそう言うて勘忍して貰うておくれ」 番頭「イエ、若旦那、もうそんなことは、わたしゃア、千遍も万遍も聞き飽いて、耳がタコになるくらいだす、マア、兎も角も、たとえ三日でも乞食をなされませ」 若旦那「番頭、どうぞ勘忍しておくれ、そのかわり勘忍してくれとばっかりでは、お前がほんまにすまんよって、どんな無理でも聞く、眼で沢庵《こうこう》を噛めといえば、沢庵でも噛んで見せるさかい、それが何よりの証拠やと思うて乞食にするのを勘忍しておくれ」 番頭「成程、そりゃア、どうも恐れ入りました……コレ、丁稚《こども》」 丁稚「へーイ」 番頭「お台所へ行って沢庵一と切れ貰うて来い」 若旦那「番頭、沢庵一と切れ持ってこさせて何をするのや」 番頭「貴君がお眼で噛みはるのを、わたしゃア見せて頂きます」 若旦那「そんなことを、お前、西洋の手品師《てづまし》でも出来るもんか」 番頭「それでも、貴君今の先、眼で沢庵噛むと仰っしゃったじゃあございませんか、ありゃア虚言《うそ》だしたんか」 若旦那「あらモノの道理をいうたんや」 番頭「そんな道理のあわん道理がありますもんか」 若旦那「今、いうた通り、お前の無理は、どんな事でも聞く、どんな無理なというておくれ」 番頭「成程、スルト私のいうことは何に限らずイヤとは仰っしゃいまへんな」 若旦那「そや、どんなことでもお前の言うことは私やそむきはせん」 番頭「よろしい、長うとは申しまへん、今日より百日間、蔵へおはいりなされませ」 若旦那「誰といなア」 番頭「貴君お一人で」 若旦那「そんな無茶言いな、百日も蔵の中に、たった一人で、さみしうてはいっていられるもんか」 番頭「はいっていられぬと仰っしゃりゃア仕様がおまへん、そんなら、矢っ張り、注文通り乞食に……」 若旦那「そんな無茶ア……」 番頭「そんなら百日はいりなさいますか」 若旦那「それやというて……」 番頭「ほんなら仕様がない、やっぱり乞食に……」 若旦那「百日はエライなア、番頭、せめて五十日にマカらんか」 番頭「私のほうは掛け値が無いので正札だす」 若旦那「まるで大丸の商いみたように……」 番頭「百日がおいやなら矢っ張り乞食にいたします」 若旦那「ヤッ、はいる、はいる、もうお前がそんなにいうてるのなら百日は愚か二百日でもはいります」 番頭「そんなら二百日……」 若旦那「やっぱり百日にマケといて」 番頭「そのかわりに百日の蔵住居《くらずまい》の間は貴君のお好きな物を何不自由ないように私が取寄せてお上げ申します、で、百日だけ御辛抱あそばせ……」  若旦那は承知なされましたから番頭は若旦那をば一番の蔵へさして案内いたし、蔵の戸をガラッガラッガラッ、若旦那を中へお入れしましてピシャと錠前を鎖《おろ》しました。 若旦那「番頭、無茶やなア、こんな湿ッ気臭い処へはり込んで、こんな所に百日もいられるもんか」  とワアワアと若旦那は蔵の中で泣いておられます。番頭は大きな顔をして台所へはいって参りました。一家御親類のお方は簀《す》の子《こ》の下から蜘味の巣だらけになって匍《は》うて出る御仁もあれば前栽の飛び石で頭を打って額口に凸凹をこしらえて出てくる御人もあり種々でございます。 一同「番頭どん、アアこなたなればこそ、あれ程までに意見をいうて下すった、何分、此上ながら番頭どんお頼み申します」 番頭「寄ってタカって番頭どん番頭どんと扇であおいでそないにしておくれなさいますと旦那様、風をひきますわいなア」  親類の御仁はこの番頭に万事たのむと申してそれぞれお帰りになりました。旦那も大きにこれで御安心あそばしましたが、何《な》ん故《ぜ》、この番頭が若旦那をば百日も蔵の中へお入れしましたかという原因《もと》は、一寸、発端で述べましたが、以前は、至っておとなしい若旦那でござりましたが、放蕩《どうらく》にはなり易いもんで、町内に懇親会がありまして、御町内の若旦那様達に誘われて一寸あそんでこようかというので難波新地へ遊びに参られあるお茶屋へあがって数多の芸妓をシラせて散財をなされましたところが、紀の庄の店から出ております小糸という十七八の芸妓がフト若旦那の眼に止まり「アア、奇麗な女子やなア」と思い染めはった。と、小糸のほうでも、美男《ええおとこ》も沢山《たんと》あるが役者にもおさおさ劣らん美男やなア妾《わて》も女子に生れたからには、こんな殿御と添い伏の身は姫御前の果報ぞ、と、二十四孝の八重垣姫みたいな惚れよう。こんな訳で互いに深い仲となりました。この小糸の屋形は中筋でございます。若旦那は小糸の屋形をば我が宅のようにして間がな隙がな入浸りそれでいて、お茶屋へは小糸の花代をつけといて、ほいで小糸の宅で遊んでいはるもんだっさかい誰も苦情をいう者は無し、更に若旦那はお茶屋へ遊びにお越になりますれば散財があざやかやよって廓《しま》の妓輩《おなご》は申すまでもなく、立つ子いざる子までも、若旦那若旦那と槌で庭掃くように申します。その若旦那がフッツリ御入来がないので、 小糸「ナア、おかあはん、若旦那|昨日《きんの》一日《いちにち》おいでやなかったわ、今日もおいでがない、どうおしやしてんやろう」 女将「さいな、なぜやろ、何か若旦那にもお手の抜けん用事が出来たかも知れん」 小糸「けど、今日もお越やない、おかあはん、手紙一本あげたら、どうでっしゃろ」 女将「成程、手紙書きでえ、使を呼びにやるよって、―オ―、早や、もう書きやったんか―ほんなら、コレ、お松、お前、横町の○○の店へ行て、どなたぞ一寸来とくなはれ、と、いうて呼んどいで」 お松「ハイ」  とおちょぼは表へ飛び出しました。入ちがいに、 使の者「へイ只今は……」 女将「オオ、使いノ、この手紙船場の(お前知ってやろう)若旦那のとこへお返事をというて持って行ておくれ」 使の者「へイ、成程、アノ若旦那様まで、へイ、心得まして、お返事を承わって参ります」 女将「早う行てきてや」 使の者「へエ、かしこまりました」  と船場の若旦那の宅へ出て参りました。 番頭は結界《けっかい》のうちらで何か二一天作の算盤をはじいております。ところへ、 使の者「へエ、今日は」 番頭「ハイ、お前は」 使の者「南地《みなみ》の小糸さんのほうから参りました」 番頭「ハイ何か、御用かな」 使の者「このお手紙を若旦那様へお返事を承わって参れとの事で」 番頭「若旦那様は只今お不在《るす》や、お帰りなさったら渡して置きましょう」 使の者「何分よろしゅう左様なら」  番頭はその手紙をば帳箱の抽匣《ひきだし》の錠前のおりるところへ放り込んで錠を鎖《おろ》してしまいました。小糸の方では今に便りがあることかと待っておりますが翌日になっても何の便りがございませんから、また使いの者に手紙を持たせてやりました。 使の者「へエ、今日は、どうぞこのお手紙を若旦那様へ」 番頭「ハイ只今お留守やお帰りなさったら渡しておきます」 使の者「何分よろしゅう左様なら」  番頭は又ぞろ以前の通りしもうて置く。又、翌日になっても便りがございまへんから使の者に手紙を持たせてやる。若旦那はお不在や、お帰りになったら渡して置きます。コリヤあ何遍いうても同じことでおますが、最初《のっけ》の二三日は二本か三本の手紙でしたが十日目あたりになると十四五本の手紙、二十日目ぐらいになりますと三十四五本、三十日目には五十四五本六十本、四十日目には七八十本九十本とダンダン過多《おびただ》しい数になりましたが八十日目の夕方よりどうした事か一本の手紙もこんようになりましたから番頭は、「アア勤《で》ている妓輩《おこ》というもんは実意のあるような者でも無いもんやなア、先方様では百日という限りは御存知あるまいけれども、これまで手紙をよこしたなれば、もう僅かな日限ゆえに続いてよこしそうなもんや、今一つというところが不人情なもんやなア」と申しております中に早や百日の期限になりました。御両親は申すに及ばず家内の者まで一方ならぬ大よろこびでございます。ヤ、小豆御飯をたくやら、ソラお膳や焼物やというので料理人がはいってエライ御馳走の仕度。番頭は蔵の戸前をガラリと開けまして、 番頭「へエ、若旦那、今日は」 若旦那「オオ、番頭か御機嫌さん―わが家にいて御機嫌さんというのは可笑しいけど―久しゅう顔を見せなんだなア」 番頭「へエ、相済みませんでございます、早いもんで、若旦那、今日は百日の満期《あがり》になりました、永の間の蔵住居、さぞかし御窮屈でいらっしゃいましたでしょう、親旦那様も大へんのお喜びでございます、今日は一同お祝いというので、貴君様にも氏神様へ御参詣あそばすよう、もう只今お風呂もわきます、床清も来ております、髪も一遍揃えてお貰い遊ばして、ほいで南地の小糸さんとこへもおいであそばしますよう」 若旦那「番頭、そうすると今日は百日目の満期か」 番頭「御意にございます」 若旦那「アア光陰は矢を射るが如く月日に関守ないとは、よういうたもんや、私が此処へはいった二三日というものは寝るどころの騒ぎではない、夜昼泣いてばっかりいた、アアこれというのも、みんな私がわるいのや、と我が身を悔んでいたが、きょう日になってみると浮世の事はスッカリ忘れてしもうて、結句蔵の中の住居が閑静で至極ええ、番頭、今日から、もう百日ここにいたいよって、どうや、お前百日だけ附合《つきあわ》んか」 番頭「メ、滅層な、それにゃア及びません、併し、若旦那へ、南地のなア、小糸さんの方から貴君へさしてお手紙が来てございますので」 若旦那「アア、番頭、そんなこというて山行け里行けと言わんと置いて、もうスッカリ小糸の事を忘れていたのに彼婦《あいつ》のことをいい出してくれてやと寝てる子供を起すようなもんや、もうそんなことは言わんとおいて、きんじょうさいはい、謹請再拝」 番頭「いや、いや、若旦那、そうやございません、申さんことは解りまへんが、貴君をば蔵へお入れいたしたその翌日小糸さんの方から御手紙が参りました、ところで何分に若旦那はお不在でございます故お帰りになりましたらお渡し申しますというてその日は使の者をかえしました、又、翌日、手紙が参りました、これもお留守やというて帰しました、ところが、きた来た毎日毎日何本来ましたことか、若旦那、八十日目に至りますまで来ました手紙の数が何本とも知れまへん、帳箱の抽匣《ひきだし》が一杯になってはいりかねますから硯箱の引出しへ入れました、また半櫃《はんびつ》にいっぱい詰めました、まだはいらんので空き櫃に一杯―あの半切や状袋だけでも些少《はした》な銭やございまへんぜ、ところが八十日目の夕景限り只の一本も手紙が来まへん、すっかり鼬《いたち》の道切りというやつで、若旦那、勤《で》ているお妓という者は、ほんまに浮気稼業だすなア、先方では百日という期限のあることはそりゃあ知りますまい、けど、もう二十日程の日で百日の期限になるのに一本の手紙もよこさぬというは、実に不実なもんでごわすなア、だから、若旦那へ、あんまり色町へは深はまりを遊ばさんように、月の中、先ず一度か二度、よう行て三度ぐらいにあそばすよう」 若旦那「番頭、私アもう花街へ再び行こうとは思わん、モウモウ眼がさめました」 番頭「イエイエ、そうやございません、色町は気保養に行くところでおます、行くべきところなればこそ、お政府《かみ》も公許《ゆる》してあるところだすが、一二遍やったらお出であそばせ、その節は番頭もお供いたします、若旦那、マア、この手紙を一本ごろうじませ」 若旦那「アア、番頭、もうそんなことはいうてくりやるな……それには及ばん」 番頭「イエ、そうやござりまへん、それじゃ私の念が届きません、あれ程までに番頭へ頼んであるのに若旦那へ一本の手紙も見せてくれんのか、アア、あの番頭は不親切な者やといわれても、いやだっさかい、マア、マア、どうぞ、一本だけでも御覧じませ」 若旦那「いや、いや……」  否という若旦那に番頭ほ無理に一本の手紙を突きつけました。その手紙は数多来た手紙の中でも一ばんしまいの日の終りにきた手紙で、若旦那は開封して御覧になりますと、イヤ、もう婦女の手紙の文句はお定まりでございます。一筆しめし参らせ候、左様候えば、と、書いて中程に、この手紙が貴君のお手にはいって、今晩来て下さらなければ、これが此世の別れになろうかも知れぬ、惜しき筆とめ侯、かしこ、と読む中に若旦那は全身の毛がゾッ粟立《よだ》つようになりました。 若旦那「番頭、髪結いは来ているか」 番頭「参っております」 若旦那「そうか、湯もわいてるか」 番頭「へイ」 若旦那「よし、湯にはいろう」  それから若旦那はお湯にお入浴《はいり》になり、調髪もし、ちゃあんとお身装《みなり》をお扮飾《こしらえ》になりまして、 若旦那「番頭、そんなら氏神様へおまいりしてくる」 番頭「アア、もうし、若旦那、氏神さんへ御参詣ならば、戻りに、どうぞ小泉さんとこへ行てあげて下さいまし、さもない時は、私が小糸さんになんとも申しようがございません故、是非、行てあげて下さいますよう」 若旦那「ウン、よしゃ、行きます」 番頭「それでは若旦那お紙入れにお金が入ってございます……コレ、丁稚《こども》、若旦那のお供をしい」 丁稚「かしこまりました」 若旦那「では、丁稚……」  と若旦那は丁稚をつれて戸外《おもて》へさしてお出ましになりました。併し、なかなか、氏神様へ参詣する様子は更にございません。最早、足は地について居らず、スタスタと一散走り、丁稚は途中から若旦那にハグレましたようなことで、若旦那は南地の行きつけのお茶屋へおいででございましたが、こういう内気な若旦那でございますから「お梅うちかえ」というてズーウッとおはいりあそばさず、庭まではいって片手で暖簾を上げて「お梅」という声に、朝の遅い色町の女、居眠っていましたお梅は「どなた……ハイ、どなただす」 若旦那「わしや、私や」 お梅「オオ、若旦那……コレ、お竹、お春、お富―起きておくれ、船場の若旦那がお越になった……」  下女仲居まで呼び起され船場の若旦那という声を聞いて一時に眼がさめました。 「オオ、若旦那、アレー、クルクルクル」 若旦那「何んじゃい、まるで絞車《くるまき》や」 お梅「マア、マア、若旦那、どうしてはったんだす、あんさんのようなほんまに解らぬ聞こえんお方はありやあしまへん」 若旦那「成程、その腹立ちは道理《もっとも》や、私が無沙汰をして音信《たより》もせなんだのは実にわるかった、これには種々ワケのあること、それは、マア、ボツボツ話すよって、兎に角、小糸はいるか」 お梅「ハイ、一寸、あの妓は……」 若旦那「あの妓が、どうした」 お梅「一寸、そこまで」 若旦那「ムウ、座敷《はな》か」 お梅「イエ」 若旦那「ほんなら金比羅はんへおまいりか」 お梅「イエ」 若旦那「イエイエとばっかり、一体、どこへ行てんなア」 お梅「イエ、あの妓は……」 若旦那「まだいうてる矢っ張、座敷やろ、座敷やったら、行てる先が解ってるやろ、すぐ呼んどいで」 お梅「イエ……ウソついて御免やすや、あの妓はウチにおります」 若旦那「なあんや、うちにいるのかいな、ナア、お梅、気をもまさんと置いてんか、どこぞに隠れていて、背後からワッと吃驚さすような洒落は古いぜ感心せん、あの妓は何処にいるのや」 お梅「ハイ、あの妓は、つい其処に……」 若旦那「つい其処とは何処に」 お梅「若旦那、ここにいます」  と立ち上がるなり彼方の仏壇の扉をスーウと開けますと、中に新しい白木の位牌がございましてお骨人が側に置いてござります。 お梅「アア、若旦那、あの妓はここにいます」 若旦那「お梅、そんなつまらん調伏は止めてんか、如何に仏壇の中やというたかて、位牌やの、お骨入れやの、そんな面白うもない洒落をせんと」 お梅「若旦那、あんさんは何んにも御存知やおまへんなア」  と言いつつお梅はワッと泣き伏しまして、 お梅「若旦那、あの妓ほ、もうとうに死にました」 若旦那「ゲエーッ、死んだッ……お梅、コレッ」  と突然《だしぬけ》に座敷へ飛んで上がってお梅の胸ぐらを取る。 お梅「若旦那、そんな無茶しなはんな……アア、呼吸が詰まる……お離しやして」 若旦那「コリャ、お梅、死ぬなら死ぬと、何んで一遍、私の方へこたえて、死なさんのや」 お梅「よう、そんな無茶なこと仰っしゃる、若旦那、私の方からあんさんの方へさしてお手紙を差上げたのは何本のことだすやろ、あんさんがおいでやないよって、あの妓が案じて、お母あはん、若旦那は昨日も一日おいでがなし今日も又おいでやない、若旦那には他に好きなお情婦《かた》が出来、妾には愛憎を尽かしてやってんやろう、お母あはん、どないしまひょ、お手紙を一本あげて見ましょうか、と、いいまっさかい、兎も角も手紙を書きでと、あの妓に書かせ、○○の使を呼びにやって、渡してやりました、ところが若旦那はお不在やお帰りになったら渡して置こうという帰り返事、また翌日も手紙をば持たせてあげても、矢っ張り、同じ返事、あの妓が書いた手紙だけでも三百八十七本、私の書いた手紙が四百二十六本、お富お松お春お竹は皆一人前三百五六十本ずつ書き、来る人寄る人さわる人のこらず頼んで書いて貰うた手紙は数知れず、なんぼ手紙あげても、いつも乍らお留守やお不在やとばかり、それからウンウンあの妓は気を病んで遂には床に就き骨と皮のようにやせ細り泣いてばっかりいて、お母あはん、わたしゃ若旦那に見捨られた、どうしまひょう、と、私一人をば毎日せめます、ところへ、あんさんが誂《あつら》えておくれあそばした比翼紋の三味線を若村屋から出来たというて持って参りました、それを若旦那あの妓に見せてやりまして、コレ、小糸や、若旦那のお気の変らぬ証拠にはコレ御覧、若村屋から三味線を持っておいでになった、これは若旦那のお気の変らんという何よりの証拠や、と、そう私が気休めにいうてやりますと、見る影もないようにやせた顔を、只うれしそうにニッコリと笑うた、その顔が、若旦那、わたしゃ目の先に見えるようでござります……お母あはん、その三味線を弾いて見たい、どうぞついでおくなはれ、と、申しますさかいに三味を接いで糸をかけ駒をかけてやりましたら、抱き起してほしいというので、背後からシッカリ私が抱えて起してやりました、するとあの妓は調子をば合わせかけましたが……お母あはん……耳がジャンジャンいうて調子がわからん、お母あはん、調子を合わせておくれやす、と、あの妓がいいますよって、私が調子を合わしてやって、背後《うしろ》から抱えていましたが、一つ二つ弾きはじめますと、それが現世《このよ》の別れ、若旦那、そのまま、あの妓は死にましたわいなア……」 若旦那「そうか、そんな事とは夢にも知らなんだ、せめて夢になりとも見そうなもの、それと知ったならば、どないなとしてこように、お梅、私が内を外にしたばかりで番頭が私を恰度《ちょうど》百日の間の蔵住居、それ故に何んぼにか来たその手紙は、みんな番頭が中ではかろうたこと、こういうことと知るならば、たとえ、どうしてでも蔵を押破り、小糸の死に目に逢おうものに、臨終《いまわ》の際に会わなんだのが、わしゃ何よりの心のこり、お梅、わしゃもう帰ります、そのうちにまたくるとして」 お梅「アア、モシ、モシ、若旦那、此儘お帰り遊ばすと、折角、あんさんが来ておくれあそばしたのに、私も何やら心残り、今日は恰度《ちょうど》あの妓の三七日《みなぬか》、精進物だすけど、一口のんで、帰っておくれやす、で、あの妓の朋輩のお妓二三人呼びにやりますよって、一遍、その妓らにも逢うてやっておくなはれ」 若旦那「サア、そんなら、マア、兎も角も」 お梅「では、どうぞ若旦那奥へ」  と奥の座敷へ案内を致しました、 お梅「若旦那え、どうぞあの妓がおりませいでも矢っ張りいるように思召して南地辺方角《みなみへんほうがく》へおいでの節は是非お立ち寄りを」 若旦那「ハイ、よせてもらいます」 お梅「サア、一盞《ひとくち》召上がれ」  と精進物で一盃飲んでるところへ朋輩の芸妓が戸外《おもて》から、 芸○「ねえちゃん、今日は」 芸△「ハイ、今日は」 芸□「ハイ、今日は」 お春「オオ、ちょねやん、ぼてやん、やせ鶴さん」 (註、五代目笑福亭松鶴曰く、私の方は芸妓はんの名前は、怪っ体な名ばっかりでおますが、さし障りのないよう、これに定めてございます)三人の妓がはいって参りまして、 芸○「ねえはん、お淋しおまっしゃろ」 お春「毎度、よう尋ねとくなはる、今日はなア、船場の、ソレ、小糸はんの若旦那が来てはんねんしい」 芸○「へエ、あの若旦那が……ねえはん、ごめんやす」  と三人は奥へさしてヅカヅカとはいって参りました、 芸○「若旦那」 若旦那「オオ、ちょねやんか」 芸△「若旦那」 若旦那「ぼてやんか」 芸○「マア、マア、マア、マア、若旦那、あんさんのような解らんお方あらアしまへんし、小糸はんも、もう、もう、あんさんのことばっかり言いつめて、到頭、ついにはこがれ死に、あんさん、ほんまに解らんやおまへんか」 若旦那「サア、お前はん方も、アア、わからん者《もん》やと思うてやろうが、これに就いては最前からお梅に種々と、マア、長い話をしていた、それは、又、追って、お梅からも聞いてくれてやったら、公明《わか》る事、マア、兎も角も精進物やけども、久し振で、マア、一つ献《い》こう」 芸○「ハイ、頂きます」 お梅「一寸、若旦那」 若旦那「お梅、何んや」 お梅「あんさんが、こうやって来ておくんなはったので、仏も大きに喜びます、そこであんさんから贈っておくれあそばした、あの比翼紋のついた三味線、あれをばあの妓への饗応《ちそう》にお仏っ壇へ手向けてやりまひょう」 若旦那「そりゃあ、よかろう」 お梅「そしたらあの妓も余計よろこびまっしゃろ」 若旦那「ウン、そんなら、そうしてやっておくれ」  とこれからお梅は彼の三味線をば箱から出しましてチャソと三つを一つに接ぎ糸も駒も掛けまして仏壇へ供えました。 お梅「マア、若旦那、一つつぎまほ」 若旦那「ヲットット……こぼれるがな」  と若旦那は盃を手に持って酒を飲もうといたしますと、どこともなく、テーン、テテン、テン、テン、と、三味線の調子を合わす音が聞こえて参ります。傍なる芸妓は、 芸○「お母あはん、どこだっしゃろ、あの三味線の音は……隣家《となり》だすか」 お梅「阿呆らしい、隣家は空き家やしい、それにしても、あの三味線の音は、どこやろ」  と小首を傾けてますと、立った一人の芸妓が真っ青になのて馳け戻って来て、 芸△「おかあちゃん、ありゃお仏っ壇の中やしい」 お梅「エッ、おぶったんの中……アレーッ」 若旦那「シイーッ……」  すると彼方の仏壇の裡から糸よりも細い声で♪ほんに昔の/\ことよ、わが待つ人は、われを待ちけん、と、雪の歌をうたい出しました。胸一杯眼には涙をためながら、 若旦那「コレ、小糸や、わしゃお前のために番頭より意見をされ、百日の間の蔵住居、和女《おまえ》のとこから度々手紙をくれたそうやが、わしの手には一本の手紙もはいらず、今日は百日の満期《あがり》というので、初めてお前の手紙を見て、早速きて見れば斯くの様子、その代り和女への心中立てには、一生、女房は持たぬ程に、どうぞ迷わずにええとこへ行ておくれ……」  泣きいる女将のお梅は 「コレ、小糸や、今、若旦那の仰っしゃったこと、お前の耳に通じたかえ、お前故に心中立て、一生、女房を持たんと仰っしゃるゆえ、これをみやげに、迷わず、成仏、よい仏になっておくれ、南無阿弥陀仏―」  共に居合す皆も泣き入っておりました。と、仏壇の中では♪こほるふすまになくねをとめて……というところでピッタリと三味線の音が止まりました。 若旦那「コレ、お梅、何んで三味線やめてんやろ、三味線の糸が切れたんか、あとひかせ、弾かせ」 芸○「コレ、小糸はんええとこでやめたら不可《いか》んしい、コレ、小糸はん、あとを弾きでえ」 若旦那「大方、糸が切れたんやろう、サア、サア、糸を掛け直して、アトを弾かしい」 お梅「なんで小糸あとを弾いてやないのんや、おひきんかいな」  と仏壇の前へ行て見ますと、 お梅「若旦那、もうこの妓は三味線ひきや致しまへん」 若旦那「お梅、なんでや」 お梅「ちょうど線香が絶ち切れでござります」 純上方はなし「たちぎれ線香」について  例によって、「たちぎれ線香」を、得意に語った、また、語りつつある人人を紹介させて頂くと、過去の人では名人の桂慶治、二代目桂文三、桂小菊丸。わけて桂慶治の「たちぎれ線香」は有名なもので、章中に現われないが、芸妓の小糸が死んで小糸の朋輩芸妓が風呂帰りなどに小糸の屋形へ立ち寄って、「ねえはん、おさびしおまっしゃろ」と、見舞口上を述べるあたりは、聞く人を心から泣かせた。当今の語り人は、桂三木助、桂文治郎。  以上(一記者)