■平家物語ってなんだ?■  
                  

■『平家物語』成立の過程■
中世初期の軍記物語。
平清盛を中心とする平家一門の興亡を描いた歴史物語で、古くは「治承物語」という名で、3巻
ないし6巻ほどの規模であったと推測されているが、それが次第に増補されて、13世紀中頃に現存の
12巻の形に整えられたものと思われる。承久の乱(1221)以前に3巻本が成立したとする説があるが、
定かではない。現存史料による限り、遅くとも1240年(仁治1)当時には「治承物語」とも称した6巻本が
成立していたのは確かであり、作者については諸説あり、様々な伝えがあげられている。
吉田兼好が著した『徒然草』(226段)によると、13世紀初頭の後鳥羽院の頃、比叡山延暦寺の座主
慈鎮和尚(慈円)の許に身を寄せていた雅楽の名人で、遁世者の信濃前司行長(しなののぜんじゆき
なが)と、東国出身で芸能に堪能な盲人生仏(しょうぶつ)が協力して作ったものとしている。
後鳥羽院の頃といえば、平家一門が壇ノ浦で滅亡した年(1185)から数十年後ということになるが、
その頃にはこの書の原型がほぼ形づくられていたとみることができる。
この『徒然草』の記事は、たとえば山門(延暦寺)のことや源九郎義経のことを詳しく記している半面、
義経の異腹の兄である蒲冠者範頼(かばのかんじゃのりより)のことは情報に乏しく、殆ど触れていな
いとしているところなど、現存する『平家物語』の内容と符合する所があり、生仏という盲目の芸能者
を介しての「語り」との結び付きなど、この書の成り立ちについては注目に値する点が多い。
注目されるのは、当時の仏教界の中心人物であった慈円のもとで、公家出身の信濃前司行長と東国
の武士社会との関わりが深かった生仏が協力して作ったということに、他の古典作品とは異なる成り
立ちの複雑さと多様さが示されているといってよい。

■作者と擬せられる人々■
『平家物語』の作者として挙げられているのは諸説あるが、以下が主なものといえる。
・藤原時長(葉室時長)・・・生没年不詳。鎌倉前期の文学者。
                時長の叔母は平時忠夫人であり、安徳天皇の乳母でもあった平領子(むねこ)
                で、従兄弟に下野守中山行長を持つ。
                父の時光は安徳天皇の権大進を努めていた関係から、非常に平家の内部
                事情に通じる家に生まれた。なお、中山行長は信濃前司行長と同一人物と
                いう説がある。
・源光行・・・・・・・・・・・・・・源光行は鎌倉幕府の信任が厚く、源氏物語研究や歌人として知られる学者
                だが、もとは後鳥羽上皇の北面を勤めていた武門の出で、承久の乱の際は
                京方として参加し、乱後に生虜として関東に連行されたという経緯がある。
                光行の娘は“美濃局”と称し、建礼門院に仕えていた女房であり、叔父季貞
                は壇之浦の戦の現場に居たところから、葉室時長同様、平家一門の情報に
                通じていた。ゆえに『平家物語』の作者に擬されるのも当然と言えよう。
                なお、光行と葉室時長との合作説もある。
・藤原資経(吉田資経)・・ 日記「吉記(きっき)」の作者である権大納言藤原経房は、後妻に平維盛の
                未亡人を迎えていたが、藤原資経は経房の孫であり、のちに養子になったと
                いう事情があり、「醍醐雑抄(だいござっしょう)」や「鵲談集(じゃくだんしゅう)」
                などの文献からも、資経こそ『平家物語』の作者の一人であるという説は有力
                である。
・菅原為長・・・・・・・・・・・・「臥雲日件録(がうんにっけんろく)」は、菅原為長が12巻本の平家物語を書き、
                性仏(生仏)に伝わったとする琵琶法師・最一の談を載せている。
                為長は土御門・順徳・後堀河・四条・後嵯峨天皇の5代にわたり侍読として仕
                えた文章博士。
・信西入道の子女たち・・・「平家勘文録(へいけかんもんろく)」には、信西入道(藤原通憲)の子女たち、
                即ち高野宰相入道俊憲、俊憲の妹の善恵比丘尼、桜町中納言成範、仁和寺
                の憲耀法印たちが「前平家物語」とも言うべき物語を執筆したという伝承を載
                せている。

■語物(かたりもの)としての流布■
『平家物語』は本来は琵琶(びわ)の弾奏とともに語られた「語物(かたりもの)」で、耳から聞く文芸として、
文字の読めない多くの人々、庶民たちにも喜び迎えられた。
庶民の台頭期である中世において、『平家物語』が幅広い支持を得ることができたのもこの為で、国民
文学といわれるほどに広く流布した所以である。
『平家物語』をこの「かたりもの」という形式と結び付け、中世の新しい文芸として大きく発展させたのは、
盲目の琵琶法師と呼ばれる芸能者たちであったが、古い伝えによると当初は『平家物語』ばかりでなく、
『保元物語』や『平治物語』も語られており、また承久の乱を扱った『承久記』という作品もレパートリー
に加えられていたといい、これらは総称して“四部の合戦状”と呼ばれた。
しかし他の軍記作品は「語物」としてはさほど発展せず、『平家物語』がその中心とされるようになり、
やがて琵琶法師の語りといえば『平家物語』のそれを指すようになって行った。
成立当時のものがたりどのような形態の作品であったかは明らかでないが、遅くとも13世紀末頃には
「保元物語」、「平治物語」ともに、琵琶法師が琵琶に合わせて語っていたのは事実である。
その語りの曲節が天台の声明(しょうみょう)の影響を受けているという事実も「徒然草」の伝える説の
信憑性を証明している。ともあれ、成立後、琵琶法師や寺院の説経師たちの語りが、その原動力とな
って多様な複数の本文を生み出した。
これらすべての人々が物語に関わったといえるかどうかは分からない、このように様々な説があるという
背景には、物語がもともと複数の人々によって合作され、更にそれらに筆を加えて改作が行われたという
事情があるだろう。
その間の消息を示すかのように、6巻の本文や更に2巻の補巻を加えた本のあったことを示す記録があり、
現に6巻本の形態を残す延慶本(応永年間(1394‐1428)転写)が存在するし、各種12巻本の他、長門の
赤間神宮ゆかりの長門本20巻、さらには48巻の「源平盛衰記」など種々の本文が伝わる。
これら諸本の巻数がそのまま記事の量の大小を示すとはいえないが、各編者、伝承者が増補や整理を
行ったものと思われる。
この琵琶法師による『平家物語』の語りのことを「平曲(へいきょく)」というが、この平曲が大きな成熟を見
せるのは鎌倉時代の末で、この時期に一方(いちかた)流と八坂(やさか)流という二つの流派が生まれ、数
多くの名手が輩出した。
これらの琵琶法師たちが平曲の台本として用いたのが、語り本としての『平家物語』で、一方流と八坂流
の二つの系統に大別される。これらに対して、読み物として享受されたのが読み本系の諸本である。

読み物系諸本  「灌頂巻」を立てた語り物系諸本   「灌頂巻」を立てない語り物系諸本 
 延慶本(12巻)
 長門本(20巻)
 源平盛衰記(48巻)
 南都本(12巻)
 源平闘諍録(不明)
 四部合戦状本(12巻)
  覚一本(12巻)
  覚一別本(12巻)
  米沢本・葉子十行本
  下村時房本(12巻)
  京師本(12巻)
  流布本(12巻)  など
 屋代本(12巻)
 中院本(12巻)
 城方本(12巻)
 百二十句本(12巻)
 鎌倉本(12巻)  など

現在伝わる諸本は、琵琶法師が平家琵琶興行の為に寺社を拠点として結成した当道(とうどう)座が、その
語りの本文として定めた“当道系語り本”と、それ以外の“非当道系読み本”とに大別される。
後者の非当道系諸本は、さらに、記事の多い広本系と少ない略本系とに分かれる。
当道座では、南北朝期に琵琶法師の巨匠、明石覚一(あかしかくいち)が登場するに及び、一方流と八坂流
(城方流ともいう)の分派が生じ、それぞれ異なる本文を持つに至った。
一方流の本文は巻十二の後に高倉天皇の中宮・建礼門院の生涯を六道の体験に擬して語る、『平家物語』
の総集編ともいうべき「六道の沙汰」を中心に据え、この女院が安徳天皇をはじめ、滅んだ平家一門の亡魂
を弔うという「灌頂巻」を別巻として立てる。
八坂流の本文は、このような特別な巻を立てず古い構成を伝え、平家の嫡孫六代御前の処刑、「断絶平家」
をもって物語を閉じる。
非当道系の読み本は、東国の資料をとり入れ、伊豆にいた源頼朝の挙兵の経過を詳しく記している。
たとえば「源平闘諍(とうじょう)録」は東国で成立した一異本であるし、「源平盛衰記」ともども、平家の滅亡
のみならず、源氏再興の経過をも詳しく記す。
これら非当道系諸本には、時宗(じしゅう)を含む仏教集団がその成立や伝承に参加したようで、それらが
関与する寺院関係の資料や地方の合戦談を大量にとり込んでいる。
『平家物語』はこのように様々な諸本の総和としてあるわけで、この点、日本文学の古典として他に例が
ない。当道系・非当道系諸本のいずれが成立当初の形態を最も色濃く伝えるかは、説が分かれていてまだ
定説を見るに至っていないが、この両系統が早くから存在し、相互に交流しつつ流伝を重ねたことは確かで
ある。そしてこの物語は鎌倉期を通じ、貪婪に外に向かって諸々の資料や伝承をとり込みつつ変化を重ね、
南北朝期に覚一が当道座の組織を確立するとともに、物語としても定着を見るに至った。
以後、特に当道系の物語は、一方流(語りの曲節・墨譜を付した江戸期の譜本を含む)、八坂流と共に物語
の内部構成や表現を緻密にする方向をたどった。
その一方で、その後も『平家物語』に拠りながら、物語にゆかりのある土地ではさまざまな伝承を生み続け、
その断片的な抜書が現在も伝わるし、能や室町時代の物語などにも『平家物語』の中に見られない伝承や
叙述がある。
しかし現在では、これら種々の諸本や伝承のうち、明石覚一らが定めた語り本系、特に一方流の本文を
『平家物語』と呼ぶのが一般である。
以上のように『平家物語』には多くの伝本があり、テキストによってその内容や構成がかなり違うが、最も
世に流布した一方流の語り本では、1131年(天承1)に清盛の父忠盛が鳥羽院の御願寺「得長寿院」を
造進した功績により昇殿を許された時のエピソードを描いた「殿上闇討」にはじまり、1199年(建久10)に
清盛の曾孫六代が逗子の田越河畔で処刑されて平家の子孫が絶滅する「六代被斬(ろくだいきられ)」迄
5世代70年間(忠盛―清盛―重盛―維盛―六代)に及ぶ平家一門の興亡がその対象とされている。
このうち最も集中的に語られているのは、1167年(仁安2)に清盛が50歳で太政大臣に昇進し、栄華の
絶頂を極めてから、1185年(寿永4)に平家一門が壇ノ浦で滅亡する迄の18年間で、その運命の変転の
目覚ましさを描き出すことが、この物語の大きな眼目となっている。

■ものがたりの流れ■
その粗筋を述べると、
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響(ひびき)あり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」の
冒頭句で知られる序章に始まり、前半部(巻1〜6)では、平家一門の興隆と栄耀栄華、それに反発する
反平家勢力の策謀などが語られる。
刑部卿(ぎょうぶきょう)平忠盛の昇殿によって宮廷社会に地歩を築いた平家は、清盛の世になって大き
な飛躍をみせ、清盛は太政大臣の栄位に上るが、権勢を掌握した清盛はやがて世を世とも思わぬ悪行
の限りを尽くすようになる。
「平家にあらずんば、人にあらず」に代表される平家一門の振る舞いはやがて人々の反発を招き、その
反感がやがて平家打倒の陰謀として結集されて行く。
巻1後半から巻3にかけて展開する鹿ヶ谷(ししがたに)事件の陰謀の物語、巻4の1巻を費やして語られ
る源三位頼政(げんざんみよりまさ)の挙兵譚(たん)がそれで、いずれも事前に発覚して惨めな失敗に終
わるが、頼政の奉じた以仁王(もちひとおう)の令旨が諸国の源氏の決起をうながし、源頼朝、木曽義仲
の挙兵となり、その騒然とした情勢のなかで熱病にかかり清盛が悶死を遂げる。
後半部(巻7〜12)は、源氏勢の進攻と源平合戦、そして平家の滅亡を内容とするが、まず信濃に兵を
挙げた木曽義仲が北陸から都に向かって快進撃を開始、この木曽勢の進攻によって平家はついに都を
捨てて西海へ逃れ去る。
しかし、都入りした義仲はその勢威を維持する事ができず、後白河法皇との確執から東国の源頼朝の
介入を招き、東国勢の猛攻を受けてあえなく滅び去る。
一方、木曽義仲を撃ち破った東国勢は、時を移さず一ノ谷に拠(よ)る平家の攻略に立ち向かう。
ここから本格的な源平の対戦となるが、一ノ谷、屋島と敗北を重ねた平家一門は長門の壇ノ浦に追い
詰められ、幼帝安徳天皇は祖母二位尼(清盛の妻・時子)に抱かれて入水、一門の大半はここで自決
する。物語はこのあと、捕虜となった宗盛や平家の遺児たちの末路を語り、平家の嫡流六代の処刑を
描いて、「それよりしてこそ平家の子孫は永く絶えにけれ」と結ぶが、一方流系統の語り本は戦後洛北
の大原に出家遁世した建礼門院の消息を伝える「灌頂巻」を立て、その求道と鎮魂の祈りを通してこの
悲劇的な物語に仏教文学としての締めくくりを与えている。

■『平家物語』の価値と後代への影響■
以上のように『平家物語』が描き出しているのは、滅亡する平家の悲劇的な運命であったが、その叙述
の基調となっているのは、序章「祇園精舎」に示されているように、「盛者必衰の理(ことわり)」を踏まえ
ての“無常の想い”で、それがこの物語に深い哀感をしみ込ませ、源平の合戦を主題とする勇壮な軍記
物語でありながら、きわめて陰影に富む「あわれの文学」として独自の趣をつくりだすことになっている。
また、語物(かたりもの)として広く流布したことから、後代の文学に影響するところが極めて大きく、中世
の謡曲や御伽草子(おとぎぞうし)、近世の浄瑠璃、歌舞伎、小説などに多く取り入れられ、近代文学にも
この物語を踏まえた多くの作例をみいだすことができる。

■史料としての価値■ 
『平家物語』は、1177年(治承1)〜85年(文治1)の間は特に年代記的叙述が徹底しており、物語が一種
の史書として書かれたことを示している。その年代記的性格が目立たないのは、収められた種々の説話
が膨らんでいるからである。軍記物語の中でも『平家物語』が最も文学的で、しかもこの膨らみが著しい。
したがって『平家物語』は史実を完全に忠実としては記しておらず、虚構や誇張が少なくないから、史料
としての取扱いには慎重でなければならない。
しかし合戦の実状などの記述は、従軍者の談話に基づくと見られ、虚構を含むとはいえ、文書・記録類に
比べて遥かに詳細で内容的にも優れている。また延慶本平家物語などには、他の諸本には見られない
貴重な原史料が収められており(偽文書も含まれるが)、史料的価値が高いものと言わねばならないし、
当時の思想や生活を知る史料として『平家物語』が重要なことはいうまでもない。
厳密な史料批判を行った上で、もっと積極的に史料として活用されるべきものである。

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