【平忠盛(たいらのただもり )】永長元〜仁平三・一・一五(1096‐1153)
平正盛の子。桓武平氏の流れを引く伊勢平氏の一流に属す。伯耆(ほうき)、越前、備前、美作(みまさか)、
尾張、播磨等の国守を歴任、検非違使左衛門尉(けびいしのさえもんのじょう)を務め、内蔵頭・刑部卿に任じ、
正四位上に叙される。白河・鳥羽・崇徳の三上皇に仕え、鳥羽院の別当となり、長承元年(1132)の鳥羽院
御願の得長寿院造進の功により内昇殿を許された。
また大治四年(1129)及び保延元年(1135)山陽・南海両道の海賊を追捕し、同五年には興福寺衆徒の入京
を阻止するなどの武功を立て、宮廷における平氏の地位を高めた。歌人としても知られ、『金葉集』などに入集、
家集『忠盛集』がある。仁平三年出家し、次いで没。
藤原頼長の日記『宇槐記(うかいき)抄』には、忠盛は多くの国守を歴任して巨万の富を蓄積し、従者は諸国に
満ち、武威も他人に勝っていたが、人柄は慎み深く、いまだかつて奢侈(しゃし)の行いをしたことがない、と評
されている。

【平親宗(たいらのちかむね)】 康治元〜正治元・七・一七/二七(1142‐99)
平安末・鎌倉前期の公卿。時信の子。平時忠(ときただ)の弟、姉妹に平時子(二位の尼)・滋子建春門院)。
寿永二年(1183)参議に進む。文治元年(1185)の廟堂(びょうどう)粛正で後白河上皇の近臣として解官され、
同三年還任(げんにん)。正治元年中納言に進んだ。

【平経俊(たいらのつねとし)】 ?〜元暦元・二・七(?‐1184)
平経盛の子。経正の弟、敦盛の兄に当たる。治承二年(1178)一月、従五位下で伊賀守に任ぜられたが、
翌年11月、平師盛(もろもり)に替わって若狭(わかさ)守に転じた。
武勇の誉れ高い武将であったというが、寿永二年(1183)七月、平氏一門と共に都を落ちて西海に逃れ、摂津
一ノ谷の戦いで源範頼(のりより)の軍と戦い、討死した。『平家物語』の中ではエピソードに乏しく、実像に関
しては殆ど不明の人物であるが、神戸市兵庫区西打出稲荷神社の境内に経俊のものと伝えられる墓があり、
小児の守護神として、民間の信仰を集めているという。

【平経正(たいらのつねまさ)】 ?〜元暦元・二・七(?‐1184)
平経盛の嫡男。幼時、稚児(ちご)として仁和寺の第5代御室覚性(かくしょう)法親王に仕えた。
『平家物語』巻7“経正都落”では、17歳の年、宇佐使(宇佐神宮への奉幣使)に立ったことが見えるが、これ
は1181年(養和1)、安徳天皇即位の年のことであり、年齢は誤りである。(「宇佐神宮参向勅使銘抄」)
左馬権頭、淡路守、左兵衛佐などを経て皇后宮亮となり、丹後守次いで但馬守を兼ね、位は正四位下に至
った。寿永二年(1183)源義仲征討の途中琵琶湖の竹生(ちくぶ)島で琵琶の秘曲を奉納したり、一門都落ちの
際、琵琶の名器「青山」を仁和寺の守覚(しゅかく)法親王に返上したという逸話を持つ。
一ノ谷の戦いで討死。和歌もよくし、「新勅撰集」「新拾遺集」などに入集している。
家集に『経正朝臣(あそん)集』がある。正室は鳥飼中納言藤原伊実の娘と伝えられるが、「大原御幸」に登場
する“鳥飼中納言伊実の娘”とは別人であろう。

【平経盛(たいらのつねもり)】 天治元〜文治元・三・二四(1124‐85)
平忠盛の子、平清盛の異母弟にあたる。母は陸奥守皇后宮亮源信雅の娘。
保元元年(1156)安芸守に任ぜられ、以後、常陸・伊賀・若狭の国守を歴任。嘉応二年(1170)従三位。
治承元年(1177)閑院内裏の守護にあたっていたことが知られる。養和元年(1181)、正三位参議。壇ノ浦の
戦いで敗れ、入水したと伝えられる。詩歌・管絃に長じ、笛の名手であったという。
「新勅撰集」「続後撰集」などの入集歌人。家集『経盛朝臣集』がある。

【平時家(たいらのときいえ)】 ?〜建久四・五・一○(?‐1193)
平時忠の二男。のち信時と改名。蔵人大学助、美作(みまさか)守などを経て、従四位下右近権少将兼
伯耆守に至ったが、治承三年(1179)11月、継母の策動で上総(かずさ)へ追われた。
上総では在庁上総広常に厚遇されて婿(むこ)となり、寿永元年(1182)広常の推挙で源頼朝に見参。
以後、頼朝の側近に侍し、鎌倉で没した。

【平時子(たいらのときこ)】 大治元〜文治元・三・二四(1126‐85)
兵部権大輔平時信の娘。平時忠、同親宗、滋子(建春門院)の姉。平清盛に嫁し、宗盛、知盛、重衡、
徳子(建礼門院)を生む。康治二年(1142)六月、守仁親王(二条天皇)の乳母となる。
滋子・徳子が相次いで国母になったことにより、時子とその所生の子たちは平氏一門の中心となった。
仁安三年(1168)清盛と共に出家、承安元年(1171)従二位に叙され二位尼と呼ばれる。
のち准三宮(じゅさんぐう)の地位を与えられた。
養和元年(1181)夫の死後、宗盛と共に一門を率いたが、壇ノ浦の戦いで安徳天皇と共に入水した。

【平時実(たいらのときざね)】 仁平元〜建保元・一・二八(1151‐1213)
平時忠の長男。寿永二年(1183)正四位下で左近中将に至るが、平氏の都落ちに従い解官(げかん)。
文治元年(1185)壇ノ浦で捕えられ、周防(すおう)へ流罪とされたが配所に赴かず、源頼朝と対立した義経
に与(くみ)して西奔。
再び捕えられて鎌倉に送られ、朝裁により上総(かずさ)に配流。同五年赦免され建暦元年(1211)従三位。

【平時忠(たいらのときただ)】 大治二〜文治五・二・二四(1127‐89)
平時信の子。姉の平時子が平清盛の正室となったため、堂上公家の出身であることを利して清盛と連携。
応保元年(1161)妹の滋子(建春門院)が生んだ憲仁(のりひと)親王を皇太子に立てようと企て解官され、
出雲に配流となる。嘉応元年(1169)にも藤原成親(なりちか)配流事件に関連して再度出雲配流となるが、
憲仁親王が即位して高倉天皇となるや、政界に大きな力を得、検非違使(けびいし)別当に3度任ぜられ、
寿永二年(1183)権大納言。
文治元年壇ノ浦の戦いで生虜(いけどり)となった後、源義経に娘を与えるなどして延命策をはかったが、
能登に配流となり、赦免されることなく没した

【平知章(たいらのともあきら)】
嘉応元〜元暦元・二・七(1169‐84)
平知盛の子、母は治部卿局。従五位下武蔵守。寿永二年(1183)平氏一門の都落ちに従い、翌元暦元年、
摂津(せっつ)一ノ谷の戦いで、監物頼方(けんもつよりかた)と共に父を救おうとして奮戦し、討死した。