「未来の図書館を作るとは」長尾真, LRG(編)、達人出版会(CC BY-NC-SA 4.0)の第一章をプログラムで総ルビ化したもの。(村田真)
第
1章 読書と創造
1.1 思想が形成される過程
人間
は考えていないように見えてもいろんなことを考えている。しかし頭の中で考えていることは不安定であって、考えている本人もなかなか理路整然としているわけではない。考えていることを書くという行為によって外部に出し、客観化することによって他人にも自分にも考えていたことが明確化する。そして、この外在化されたものを土台にすることによって次のさらに深いことを考えることができる。このように内部のものを外部に客観化して出し、それを元にしてまた内部の世界を深くまた広くしてゆくというサイクルが大切である。このサイクルにおいて自分が外部に出したものと共に、他の人が考えて客観化したことも取り込むことによって自分の考えをより豊かにし、また他人にとっても説得力のあるものを作りあげてゆけるのである。そういった意味で他人の書いたものを読んだり、他人と議論をすることは新しい概念や思想の形成にとって必須のことであるといえよう。
思想
といわれるものは、基本的な考え方から出発してその考え方をより深くより精密なものにすると共に、より広くし1つの大きな体系としたものを指すといってよいだろう。先人の考え方の上に立ち、またこれを批判的に受け入れ、自分の物の考え方、おかれた立場、またその時の社会の状況等から新しい考え方を展開してゆくことによって新しい思想が形成されてゆく。したがって先人の思想の現れである著作物を網羅的に集めて自由に利用できるようにすることが大切である。これを社会的な1つの組織体として保証するシステムが図書館、図書館システムであるということが出来るだろう。個人がぼう大な数の書物を集めて自分の思想形成のために使うという場合にくらべて図書館には1つの本質的な違いがある。それは知の共有のシステムであるという所にある。これは考え方の違う人達が知識を共有し、その違いを議論を通じて明らかにすると共に、新しい知識・思想を作り出してゆく場を意味しており、これが図書館の真のあり方だと言えるのではないだろうか。
これを実現したのが、古代アレクサンドリア図書館であった。これは紀元前3世紀半ば頃に作られ徐々に発展して、古代ギリシアやその周辺諸国の書物(主にパピルスに書かれた巻物)がプトレマイオス朝の歴代の王などの力によって当時の国際都市アレクサンドリアに集められた。そしてそれらの国の知識人を集めて居住させ、書物を自由に利用させ、文献学を中心としていろいろと研究させた。これらの人達の間では自由な議論が行われ、大きな成果をあげたのである。
アレクサンドリア図書館は何度か火災を受けたりして紀元後2、3世紀して滅亡してしまったが、その精神は今日の最先端研究を行っている大学の研究室に生き残っていると思われる。たとえばマサチューセッツ工科大学の人工知能やマルチメディアに関係した研究所には世界各国から優秀な研究者が集まり、それぞれの関心のあるテーマの研究をやりながら、お互いに意見を交換し切磋琢磨している。そこには物理的な形での大きな図書館はないが、目に見えないネットワークを通じて世界中の同じ分野の研究者の成果が利用できるようになっており、毎日いろんな機会に関心を共にする人達が議論し、それを栄養としてまた自分の研究を進めている。すなわち今日では目に見えないヴァーチュアルな世界でいわば専門分野の世界図書館が形成されているのである。
今日
ではまだ研究者同士の議論がヴァーチュアルな世界で十分に機能するところまでは行っていないために、図書館機能のもう1つの要素である議論の場は生身の人間が、随時アイディアが浮び上った時に適切な相手と議論するという場が必要となり、研究者が集まることになるのである。思想の形成、新しい創造のための議論というのは言葉の世界だけでなく、それを発信する人の全人格が相手に伝わることが大切で、これは設定された会議の場でない普段のコミュニケーションにおいて最もよく機能するから人が集まるのである。このような環境を図書館に作ることがこれからの図書館の生きてゆく1つのキーとなるだろう。将来ヴァーチュアル世界でほんとうの意味でのヒューマンコミュニケーションができるようになれば、議論の場の提供という図書館機能が達せられ、物理的な形での図書館は無くてもよいということになるかもしれない。
こういった場の萌芽が今日ないとは言えない。これまで参考業務といわれていた機能は人を適切な資料に案内する役目である。これを一歩すすめて一部の公共図書館では人が起業をするため、あるいは職業上の困難を解決するためや、生活上の法律にかかわる問題、医療問題などの参考のために、これらに関する資料を強化し、相談に乗る試みが行われ始めているが、これはその例とみてもよいだろう。そこでは対等の形での議論というところまでは行かないが、資料を基にしたコミュニケーションを密にすることによって利用者が具体的な判断を下し、方向性を見出すところまで案内をすることが目的とされ、これが実行されている。将来は利用者のもつ問題の解決のために対等の立場での議論ができるようにする方向が望まれるが、これを図書館司書が受け持つことには限度がある。そこで近隣の大学の研究者に参加を求め、類似の課題を集めて会合を開き、それらを解決したいという人達と研究者、そして図書館司書のグループが種々の角度から資料をもとに議論し、課題の解決に努力するという、一種のフォーラムを形成することが考えられる。これに類することは米国の幾つかの大学で行われはじめている。図書館にセミナー室をもうけ、学生はそれぞれの課題を解決するために資料を調べるとともに、そのセミナーをリードする教員や支援をする図書館職員と議論しながら、自分の考え方を確かなものとし、課題を解決してゆくというスタイルの演習科目である。
公共
図書館
などではこういった場は毎日、随時というわけにはゆかないので週に1回、あるいは月に1、2回などの頻度で行うようにすれば、社会が一層活性化されてゆくことになるだろう。その場合、単なる議論でなく、過去の知識の上に立った議論をすることが必要であり、そのための図書館資料の活用が大切である。自然科学、工学、医学においては特に学術雑誌が大切となる。こうして図書館のもつ確実な知識にもとづいた議論によって新しい創造活動が行われることが望まれ、図書館は今後そういった方向についても十分な配慮をしてゆくことが期待される。こうして図書館は知識を見つける場であるだけでなく、知識とともに知を共有し新しい物事を創造する場となってゆくだろう。これは古代アレクサンドリア図書館の追求して来たことの現代版である。インターネットの世界ではSNS、ブログ、ツイッター等で既に知識共有の場が作られているが、理想的な意味での深い議論をする場という意味では、やはり人びとが出会う現実のフォーラムが必要であることは明らかであろう。
知識
は共有されるべきである。そうでなければ新しい知識、有用な知識の発展、蓄積はありえない。そこで問題となるのは知識共有の範囲であろう。一子相伝といった秘密の世界から、1企業の1部門、あるいは1国の中だけ(特許などはその例)ということもあるが、世界がますます一体化しつつある今日、その範囲は世界全体ということになるだろう。即ち知識は1つの社会、国、あるいは世界全体における公共財的な位置づけとなる。それを保障するのが、とりあえずは図書館ということになるだろう。知識をかくすという時代はすぎたのであり、新しい良い有用な知識を創造し、それが社会資本となり世界に広く認められ評価されるという面に価値を認める時代になって来ているのである。
1.2 著作とそれを表現する媒体
動物
は全て大なり小なり自己を表現する手法をそれなりに持っているが、人間の持つ言葉はその最も強力なものであろう。昔から人は自分の思うことを言葉にして発話し、また身振りその他の手段で表現して来た。そして多くの人が共感する内容は口承されて来た。古事記がそうであったし、万葉集の多くの歌はそうであったろう。
文字
が発明されるにおよんで、これらの口承は文字化され記録媒体に固定化されるようになった。古く中国では亀の甲羅や鹿の骨などに刻まれた。また時代が下るにつれて石に刻まれたり、竹簡、木簡などに墨で書かれるようになった。古代メソポタミアでは粘土板に刻まれたし、古代エジプトなどではパピルスに描かれた。
中国
で発明された紙は長年の歴史をもって世界に広まり今日に到っている。西欧では羊皮紙が使われていたが、作るのに手間がかかるし量的にも限定されていたから紙が大きな福音であったことは間違いないだろう。
このように表現しようとする内容を定着させる媒体は歴史的に変遷して来た。その概略を表1に示す。記録する媒体に応じてそこに書き込む道具は鋭利な鑿のみや箆へらのようなものから、筆と墨、ペンとインクといったものに変わってきた。安く大量に作れ、書きやすく安定して何年も変わらないもの、読む時に簡単に取り扱うことが出来て、持ち運びも楽であるという条件を満たすものとして紙は断然の強みを発揮する。そして巻物の形態だったものが頁単位の形で綴じられるようになって途中からでも簡単に見ることができるようになった。
今日
電子
媒体
という、言葉を固定させる新しい媒体が出現した。これが長年の歴史を持つ紙媒体に取って替わる媒体になりうるかどうかが今日競われているのである。電子媒体においては書くという動作はキーボードを打つという動作に取って変わられた。昔の日本人はすべて筆で書いていたのが近年ではペンになり鉛筆になった。欧米と違ってタイプライターのキーボードを打つという習慣のなかった日本ではあるが、パソコンが普及し、今日作家を含めて多くの人は手で書くよりキーボードを打って入力する方が良いといっている。ただそれによって昔の書き手の手書き原稿の持つ個性が文字表現の世界から失われてしまうという問題はある。しかし頭の中にあることを表現媒体に固定する過程は複雑なもので、書き手はかならずしもそれを他人に詮索されることを望んでいるわけではないだろう。作者は表現によって勝負しているのであって、原稿の手書き文字の上手下手、味わいによって作品が解釈されることを望んでいるわけではない。
次
は記録されるものを取り出して読む時の便利さの比較ということになる。紙の本は軽くてどの頁も自由にめくって見ることが出来る。電子世界の表示媒体(以下簡単に電子端末と称する)は現在のところ少し重いが、数百頁の本とくらべるとむしろ優位にあるといえるだろう。決定的にちがうのは電子端末の場合は何百冊もの本が同じ重さの電子端末の中に入るという利点があることである。今後電子端末の機能がいろいろと強化されてゆくだろうから、本の途中を開いたり、栞しおりを入れて次の日に続きを読んだり、また好きなところに下線をひいたりできるようになって来ているし、コメントを本の欄外に入れたりすることも出来るようになるだろう。そういったことの詳しいことは次節に述べるが、紙の本で実現できていることはほとんど電子端末で可能となり、電子端末でしか出来なことがいろいろあるという優位性がある。
ただ、電子媒体のもつ決定的な欠点は、永続性の問題である。平安時代の書物が今も安定して残り、見ることが出来るのに対して、電子媒体における記録は電気エネルギーが供給されなくなれば数ケ月ももたない。何百年もの間継続して電気を供給しなければならないし、記憶媒体が進歩してゆくに応じて新しい媒体に書き写してゆかねばならない。したがって保存にぼう大な手間とコストがかかる。エネルギーを供給せずに千年もつ電子記憶媒体の研究開発が必要であるが、それは始まっている。
紙
媒体
には現時点でも文字以外に図や絵、写真といったものを書き込むことができる。人間が表現したいと思うことは言葉だけでなく図や絵、そしてカメラという新しい情報の入力手段が出て来て写真も入れられるようになって来た。現在は表現手段がもっと広がり、動画像、音楽、音声などマルチメディアの世界に拡がり、これらを固定する技術も出来て、これらを電子媒体に書き込み、またそれを電子端末を通じて再現・表現することが出来るようになって来た。これらは紙媒体の世界では表現不可能なものである。人間が表現したいと思うことと、それを実現できる手段・媒体とは相互関係にある。表現手段や媒体が豊富になれば、それに伴って人間が表現したいと思うことが拡大してゆくのである。表1.1はこのような書物についての歴史的発展をまとめたものである。
表
1.1:本の形態の歴史
記録
媒体
に書き込む道具もいろいろと変遷して来ている。グーテンベルグの活字の導入という革命によって、いろんな作品をすばやく版に組むことが出来るようになり、印刷も1枚づつの刷りから、機械的に高速に印刷が出来るようになり、大量の本が安く作られ、社会に広く受け入れられるようになったわけである。今回の電子書籍の革命は紙という媒体から電子という媒体に移るという革命のほかに、表現できるものが文字や図、写真から、音や動画像にまで拡大したという点で、印刷技術の革命とは質の違った革命となっているのである。すなわち表現できる内容が広がったということであり、グーテンベルグの革命よりもっと驚くべき革命であると考えられる。
そして記録媒体に対して読者が電子ペンや音声で働きかけができ、これに対して媒体側が反応するというダイナミックな著作物にもなってゆく。また無線通信回線を経て著者との対話もありうる世界が開けるわけで、これまで想像できなかったことが実現するだろう。さらに後に述べるように読者あるいは利用者が取り出せる対象は書籍1冊の単位ではなく、書籍の中の章や節、あるいはパラグラフの単位など、利用者の望む単位となる可能性が出て来たということにも注目しなければならない。こういったことの詳細を以下に順次述べてゆく。