5.<泪橋のこと> AKERUさんの御出題
| 「あしたのジョー」の舞台となった泪橋。今行ってもその名の交差点があるだけで橋はありません。泪橋という橋は実在したのでしょうか? |
指針 あしたのジョーの舞台、「ドヤ街の入り口にある泪橋」といえばやはり山谷の泪橋。その今と昔をちょっと調べました。
解法の探求
これが山谷(浅草)方面から見た今の泪橋。まっすぐ進めば南千住。その道が明治通りと交差するところ、泪橋交差点です。
地図で見ると、左の方の赤い点から上の方、南千住に向かって撮ったものです。
今となっては「橋」の痕跡などどこにもありませんが、昔(といっても漠然としていますが、まあ、江戸時代というような感じで良いのだと思います。)ここにはやはり橋が架かっていたのだそうです。
当時、今の白髭橋たもと辺りの隅田川から三ノ輪方面にむけて用水路が掘られていました。明治通りというのがちょうどその用水路の上にできた道のようです。この用水路が、浅草方面から来て南千住、奥州街道に向かう道とぶつかるところには橋が架けられていました。この橋が泪橋、今の泪橋交差点のかつての姿です。
浅草方面から来てこの水路にかけられた橋を渡ると、そこには当時「仕置場」と呼ばれた千住小塚原の処刑場がありました(今の回向院あたり)。処刑場に運ばれる囚人達がもう二度と戻ることのできないこの橋で、皆、泪を流したとも、見送りの人たちとここで泪で別れた、とも言われ、この橋が囚人達が「娑婆」と最期の別れを告げる場所となっていたようでした。このような成り行きで、この橋が「泪橋」と呼ばれるようになったのだそうです。泪橋という命名の裏には、そんなちょっとカナシイ歴史が潜んでいました。
ちなみに明治40年発行の「浅草区全図」と言う地図にはこの用水路が載っておりました。上の図では判りにくいと思いますが、用水路のところがちゃんと水色に塗られていて道路ではないことが判ります。白髭橋もまだできておらず、隅田川を渡るのは渡し船でした。
ところが大正9年の地図になりますとここが道路の表示になっています(白髭橋もかかっています)ので、どうやら、明治の終わりから大正にかけて水路が埋め立てられ明治通りと名付けられる道になった、それとともに橋もなくなり、ただ「泪橋」と言う名の交差点が残ったと、そんな変遷を遂げた場所のようです。
泪橋交差点、明治通り沿いに立って白髭橋、隅田川方面に向かうとこんな風に見えます。
また、「あしたのジョー」との関連でいうと、「夕焼けを見ていた少年(と言う題だったと思いますが)」という原作者の高森朝雄(梶原一騎)氏のことを書いた本の中で、梶原氏は山谷(泪橋)に近い橋場と言う所に住んでいたことがあると書いてあったように記憶しています。この時代の、「泪橋」と言う言葉を含めた界隈の印象が「あしたのジョー」の舞台設定に大きく関わっているということは言えそうですね。(了)