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    ローマ人への手紙講話

〈24〉信仰義認の実生活への適用(4)隣人を喜ばせ、人の益になるようにせよ


ローマ人への手紙15:1-13
 1わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。 2わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。 3キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった。 4これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。5どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、 6    こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。   

  7こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。 8わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、 9異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、
 「それゆえ、わたしは、異邦人の中であなたにさんびをささげ、また、御名をほめ歌う」
 と書いてあるとおりである。
  10また、こう言っている、
 「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。
 11また、
 「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。
  12またイザヤは言っている、
 「エッサイの根から芽が出て、異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」。
 
  13どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。



講話

Ⅰ.隣人を喜ばせ、人の益になるようにせよ
 ★1節「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない」。前の14節では、「信仰の弱い人を受け入れなさい」と言って、信仰の強い人と弱い人とを対比していましたが、15:1では力の強い人と弱い人との対比となっています。

 ★この二種類の対比は、同一の二種類の人々のことを言い表しています。すなわち、力のある人とは信仰の強い人で、日の区別や食物の区別に束縛されない人々で、反対に力のない人とは信仰の弱い人々で、日の区別や食物の区別に影響を受けている人々です。束縛されていない信仰の強い人々とは、主に異邦人出身のキリスト者たちです。

 ★信仰の強いキリスト者は、信仰の弱いキリスト者を受け入れ、その弱さを思いやって、寛容であるべきで、弱い者をあなどってはならないことを著者パウロは教えています。

 ★私たちキリスト者は、自分を喜ばせる生き方をするのではなく、隣人を喜ばせ、隣人の益をはかるべきであるとパウロを通して御霊は教えます。

 ★その理由としてパウロは、主イエス・キリストの生き方を思い起こさせます。キリストご自身、神であられるお方が、ご自分を喜ばせる生き方ではなく、ご自身を遣わされた父なる神を喜ばせる生き方を選ばれました。

 ★主イエスは、父なる神と心を一つにして行動されたので、父なる神への罪人のそしりが、自分の身の上に降り掛かってくる体験をされました。

 ★また、罪人を救うためにへりくだって世に来られた主イエスは、罪人・取税人・遊女たちと共に過ごされましたが、それを目撃した高慢なパリサイ人、祭司長たちから罪人の友とさげすまれました。

 ★3節「あなたをそしる人々のそしりは私に降り掛かった」というみ言葉は詩篇69:9のダビデの詩の一節です。ダビデの主の宮の建設への情熱と努力がそしられ、神の箱がダビデの町に戻って来た時、ダビデが喜びの余り、主の箱の前で踊りだした時、サウルの娘でダビデの妻でもあるミカルにさげすまれました(Ⅱサムエル6:12-23)。

 ★ダビデはキリストの雛形、モデルです。ダビデの受難の生涯は、キリストの受難の生涯を物語っています。主イエスは、ユダヤ人に言われました。「あなた方は、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、聖書はわたしについて証するものである」(ヨハネ5:39)。

 ★旧約聖書を含めて聖書全体がイエス・キリストのことを語っています。イエス・キリストの事をよく知るためには、新約聖書だけでなく、旧約聖書もよく読み学ばなければなりません。15:4に書かれている「昔書かれたもの」とは、旧約聖書のことを言っています。旧約聖書はイエス・キリストのことが書かれているだけでなく、「すべて私たちを教えるために書かれています」(15:4)。

 ★聖書は、私たち読者に「キリストに習う者となれ」と教えています。Ⅰヨハネ2:6には、「神のうちに留まっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければならない」、つまり、「キリスト者を自認する者は、キリストが歩まれた様に歩まなければならない」と言っています。

 Ⅰコリント11:1では、パウロはこう言っています。「私がキリストを見習っているように、あなた方も私を見習ってください」。つまりパウロは、自分がキリストを見習って生きている様に、あなた方も私の様に、キリストを手本としてキリストを見習う人生を生きてくださいとコリント教会の人々に勧めています。

 キリストに習うだけでなく、聖書は「神に習う者になれ」と私たちに勧めています。エペソ5:1「ですから、(神に)愛されている子供らしく、神に習う者となりなさい」。このエペソ5:1の前の4:32には、「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなた方を赦してくださった様に、互いに許し合いなさい」とあります。

 この様に、旧新両約聖書が、「神がキリストにおいて私たちの罪を赦してくださったのだから、互いに許し合い、愛し合いなさい」とパウロも聖書も私たちに教えています。

 ★キリストがご自分を喜ばせることをなさらず、父なる神を喜ばせ、人々を救うために世に来られたのだから、私たちも14:19が言うように「私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを求めよう」

 ★キリストの身体である私たちは、お互いに聖なるキリストの手足として、一つ心になって、互いに愛し合い、互いに人を自分より優れた者として尊敬しあって生きて行くために、私たちは召されてキリストの手足となりました。

ですから、信仰の強い者と弱い者、力ある者と力のない者とに分裂して互いに敵対するようなことがあってはならない、とパウロは戒めています。


Ⅱ.キリストは全人類の救い主である
 ★「7こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。 8わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、 9異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである」(ロマ14:7−9)。

 ★主イエスは、ヨハネ18:37でポンテオ・ピラトの尋問「あなたは王なのだな」に対して、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世に来たのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」と答えておられます。

 ★ローマ15:8、9でパウロは、「わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである」 と言っています。

 ★主イエスは真理そのものであられる(ヨハネ14:6)と共に、 真理を表すためにこの世に来られました。それは、神の民イスラエルだけでなく、異邦人もあわれみを受けて、救われ神の民に加えられ、選民イスラエルと共に神を賛美する者となるためなのです。

 ★すなわち、エペソ2:14-16にある通りです。「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」

 ★また、12節「イザヤは言っている、『エッサイの根から芽が出て、・・・』」、これはイザヤ11:1からの引用です。イザヤ11:1−5にはこう書いてあります。「1エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝(筆者解説:若枝は主イエスを指す)が生えて実を結び、 2その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。 3彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、 4正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。 5正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。 」イザヤ11:2-5

 ★木の切り株から若枝が出て、死んだ木が生き返ることについては、ヨブ14:7-9でヨブが語っています。

 「木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、その若枝は絶えることがない。 8たといその根が地の中に老い、その幹が土の中に枯れても、 9なお水の潤いにあえば芽をふき、若木のように枝を出す。

 ★救い主イエス・キリストは、ダビデの子であると共に、そのダビデに主と呼ばれるお方です(マルコ12:35-37)。

イザヤが11:1で語るエッサイの根株から生え出た新芽は、ダビデであると共に、ダビデを影とする本体のイエス・キリストです。

 ★主イエスは、エッサイの切り株の様に人目に付かず、見捨てられた状態の貧しいマリヤとヨセフの家庭に生まれ、「大工のせがれではないか」とさげすまれ、死んだ切り株の様に人々に捨てられ、十字架の死を遂げられましたが、死の中から復活の命の芽を吹き出して、ユダヤ人と異邦人を包括した全人類の救い主となられました。

 ★このエッサイの若枝であり、ダビデの主であられるイエス・キリストはユダヤ人の父祖アブラハムへの約束の成就者であり、私たち異邦人キリスト者の救い主であり、希望の星でもあられます(12節)。

 ★このような訳で、教会の中に、異邦人・ユダヤ人の区別はなく、強い者・弱い者の対立が存在する理由もありません。

聖書
 「あなたがたを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた、すなわち、わたしたちの救主なる唯一の神に、栄光、大能、力、権威が、わたしたちの主イエス・キリストによって、世々の初めにも、今も、また、世々限りなく、あるように、アァメン。 ユダの手紙24-25



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キリスト紀元2019年 11月 2日公開

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