福島原発問題発生の本質 (Ver.0.9) -2011.05.04Up

いまだ福島原発の事故は収拾の目処はたっていない。

世の中では、原子力発電を止めてクリーンエネルギーへの転換を図るべきだと声高に叫ばれている。原子力発電そのものが悪だとの論調も多い。そうした声の中では深い考察が成される事なく、短絡的に原子力は危ないと言い切り、だから止めようとの考えに聞こえる。

今回の原発事故は、想定外と言われる3月11日の大地震と津波によって起こったことは確かだが、この事故の本質は別に存在すると、ボクはそう考察するのである。

1.事故後の対応

 事故後の東電の対応については、必ずしも明らかになっていない。新聞報道等では、当初米国が原発対策に名乗りを挙げたが、直ちに海水注入して治めるとの提案だった為に断ったとある。また、12日未明には圧力が高まったためにベント開放を政府(菅総理?)が東電に指示したが、東電が従わなかった。菅が12日朝視察に行った際には、当然ベントは開けられていると考えていたが、まだ開けていなかったので、現地の所長に指示をして開けさせた。しかし、時すでに遅く、それから数時間後に水素爆発が起こってしまった。

 このあたり、一連の流れは明確になっていないが、今後検証されなければならない。

 その後の東電の対応は、全て後手後手に映る。1号機水素爆発後、3号機、4号機、2号機と次々に拡大して行った。ニュースで知るばかりの我々は、一体全体何をやっているんだ!っという思いだ。

 会見発表は、科学や事実に基づくデーターはほとんどなく、ただその時点での事故状況を言うだけであり、そのこと自体は嘘ではないのだろうが、発表していなかったことが山のように埋もれていたか、能天気に当面の事故対策だけに目が行くだけで、全体の状況把握が全くできなかったかのいずれかと思われる。

 政府も、どこまで責任や指揮を行っていたのか不明だ。ガタガタ東電にものは言うが、政府の責任として事に当たっていたとは思えない。あくまでも東電の責任の下での行動にしか見えなかった。

 事実や詳しい考察は、今後の検証を待たねばならないが、こうした一連の流れをみると、適切な初期対応を取れていなかったと考えざるを得ない。そうした意味で人災であるとみなせる。いわば、原子力発電自体の問題ではなく、事故後対応として、本来やるべきことをしなかった結果である可能性が高い。

2.事故前の対応、リスク管理

 ここでは、既に聞き飽きた「想定外」だったと政府関係者、各種専門家が言ってきた。では、その想定は正しかったのだろうか?予断なく考えて導き出される想定だったのだろうか?

 私は「否」である。

 私のような素人が考えても、また一般の方々が普通に考えても、今回の福島原発の想定はあり得ない。ハッキリ言って、馬鹿じゃないの!っと言いたくなるレベルだ。

 その理由を簡単に述べれば、

  1. 過去50年程度で、5回ほどマグニチュード9.0以上の地震が地球のどこかで起こっている。日本列島自体が地殻変動の結果でできており、複雑にプレートが入り混じっている。その結果、地震大国と言われる日本の近海で、何故、マグニチュード9.0の地震が想定外なのだろうか?
  2. 震源地が連鎖する地震はどうか?これまでなかったということでは無いらしい。スマトラ沖地震も震源が連鎖する地震だったそうだ。
  3. 過去、日本で起こった津波では、明治時代に三陸で20〜30メートル程度の津波も記録されているとのことだ。福島原発の津波想定は、5.5メートルだったらしい。誰もがエッと驚くだろう。発電所の立っている場所が10mだから、15.5mまでは大丈夫とたかををくくっていたはずだ。何故なら、非常用電源は、原子力発電本体建物の海側により安普請の建屋に平置きでそのまま剥き出しで置かれていたとのことだ。水がかかれば動かないのは当たり前。これが、リスク管理の根幹の一つだったとは呆れるばかりだ。
  4. 同じ施設内の装備が同じくダメージを受けることは容易に考えられる。津波でなくとも、同一施設内にあるものは、同様な被害を受けることは当然考えられる。つまり、根幹となる非常用のものが、同一施設内にあるだけでは、原子力の事故になった際のリスクを考えれば、全く危機管理になっていないことも、誰が考えても分かることである。施設内のバックアップ電源が機能しなくなることが、何故想定外なのだろうか?

ということで、どこが想定外なのだろうかと思う。

福島原発で取られていた想定と危機対応で、ホントに大丈夫と思っていたなら、それは、馬鹿か間抜けか阿呆だと言われても致し方ない。

 これをもってしても、原発自体の問題ではなく、人災である。

3.原子力関係原理主義者の世界

 日本の原子力発電の割合は、いまや30%程度だという。電力は、現代の生活の基盤になっている。今回、東電の無計画停電を体験した人は実感しただろう。戦後の高度成長を支えた基盤の一つである。

 私が学生時代だから、もう何十年も昔のことだが、東南アジアの国へ科学関係の援助をよく行っていた。身近にJAICA関係者などいたので、向うの様子などを聞く機会があった。また留学生もやってきて、時に私がお世話することなどもあった。そうした国々には、例えば、NMR(核磁気共鳴装置)やMS(質量分析装置)といった有機化学の研究では欠くことのできない機器があり、日本の援助でそうした機器を先方の大学や研究機関に設置したりなどしていたそうだ。ところが、電力事情が良くないので、しょっちゅう停電が起こるらしい。瞬間停電であっても、こうした機器はそれでダウンする。一度ダウンすると復帰するのにまるまる一日ぐらいはかかるのだ。それだけ精密な機器で安定するのに電気を入れてから一日ぐらいはかかるのである。つまり、毎日のように瞬停が起こるこうした国々では、先端の科学分野で研究はできないのだ。

 幸い日本では電力は安定していた。原子力発電を進めてきたから電力事情が良かったのだというつもりはさらさらないが、日本の高度成長を支えるのは、成長に合わせた電力供給が必要だったことは確かだ。原子力抜きにしてこれが可能だったのかどうか、専門家ではない私は分からないが、その分を水力や火力発電でまかなうことはかなり大変だったのではなかろうか、と思う。

 私は、原子力発電推進主義者でもなければ、反対主義者でもない。様々な側面を考慮して、必要または有効であるならば、そのリスクを考えた上で、万全の体制で進めるべきであると思う。

 世の中には、「原子力」と聞くとなんでもかんでも反対する方々がいる。こういう方々は「原子力=悪」という原理に従って行動をするので、どうすれば安全に使うことができるのかという建設的な議論ができない。

逆に、原子力推進派も、何が何でも原子力だという方々がいる。こう行く方々は、リスクがあることを認めない。とにかく安全だと呪文の如く唱えて、原子力行政を進めるのである。

つまり、原子力推進原理主義者と原子力反対原理主義者との戦いになり、そこには安全管理やリスク管理は二の次にされていく。

今回の福島原発は最も古い原発である。先の項で述べた「想定」では足りないことは、必ず誰かは気づいていたはずである。いやむしろ、多くの方が気づいていたに違いないと思う。日本人はそれほど馬鹿ではないはずだ。

しかし、例えば、非常電源建屋を山側に移転して、非常電源装置を強度の高い建屋の高い位置においたり、防水設備の中に入れるなどの工事を試みようとした場合、どのように説明するだろうか。。「これまでの状態では危なかったから、より安全のために工事を行う」などと言おうものなら、マスコミや反対原理主義者から、安全だと言ってきたのは嘘だったのか?、だから原子力はあってはならないのだ、原子力行政そのものを見直すべきだ!と寄ってたかって叩き出すことだろう。。日本のマスコミなどそんなレベルである。

かたや、原子力推進派または管理側は、安全であると言ってきたのだから今のままで安全なのだ。安全性を疑うなど論外だ、という連中もいるだろう。今のリスクをより低くする為の行動や提言は、こうした連中によって潰されるのである。

 以上は、あくまでも私の推測である。本当のところはしっかり検証しなければならない。しかし、日本の行政関係のものごとの決め方やマスコミの論調などを見てくれば、こうしたことは容易に考えられると、私は思う。かなりの確度をもって、ものごとの本質から目を背けてきたと推論できます。

4.より深い背景と今後の日本(本当の本質)

 前項3.では、原子力発電行政における本質的な議論がなされてこなかっただろうことを述べた。しかhし、これは原子力関係のことだけだろうか?いや、決してそんなことはないと思う。あらゆる場面で原理主義が行われているのだ。

更に、行政サイド、マスコミ、我々一般人、そのどこをとっても、事実に基づいて考えようとする姿勢を失っている。簡単に言えば、思考停止状態になっているのだ。

行政サイドは、都合の良いところだけ発表する。マスコミは、揚げ足取りだけを目指す。科学事実やデーターに基づいた正確な情報が全く出てこない。マスコミはそれを追求しない。例えば、インフルエンザ騒ぎの時もそうだった。新型といわれたインフルエンザに対して、科学的論拠を議論することなく映画のアウトブレイクの世界を演じていた。それを初めにほぼ一年近く、多くの企業では、外来者の入場時に体温を測るなどのとんでもない馬鹿げたことを延々と続けていた。これは一例に過ぎないが、論拠もなく始めたものだから、撤回する論拠も見出せない。よって、ほとぼりが冷めるまで意味のないことを日本の社会全体で行っていた。

また例えば、小沢一郎の政治資金問題もしかりだ。多くの政治家、マスコミ等々、何が問題になっているかのポイントは無視して、「金」というイメージだけで語っている。政治資金規正法とはどのような法律なのか?新聞が書いてきたことがどのくらい正しかったのか、起訴事実とは何なのか?秘書の裁判経緯はどう推移していたのか?、検察審査会の議決文にはどう記載されていたのか?検察審査会の公平性や透明性はどう担保されているのか?等々、そうしたものごとを考える上での基礎的な情報は表に出さずして、断片的にイメージだけが語られている。そして、多くの一般の方々も、そうした具体的事実を全く知ろうともせずに判断している。

こうした思考停止状態を、私は「日本の原理主義」と呼びたい。

どのような事実があったのか?何が確かな事実で、何が特定の人の意見で、どのような背景が存在するだろうか・・・などなどから考察して、現時点での結論を導き出す。
こうした当たり前のことがなされずに、先ず最初に結論を決める。この結論を原理として、都合の良い解釈を作り上げる。こうした思考回路がいかに多いことか。。。

私は、今回の大震災が、こうした日本の悪しき原理主義を見直すきっかけになって欲しいと思う。予断なく議論して、ものごとの本質を見極めて、その時々で最大限の方策を実行していく。私たち日本人が、本質について議論をし、思考した結果としての結論をだす。

大震災で払った大きな犠牲を糧に、日本はいま転換しなければならないのだと思う。

以上 ver0.9 

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