知里幸恵(ちり ゆきえ)という人 -2008.10.28Up

 知里幸恵さんという方のことをTVで知った。

 明治36年、アイヌとして北海道に生まれ、国の民族同化政策の中でアイヌ文化を否定されながら幼少を過ごす。強制された日本文化の中でアイヌ文化は賎しいものと教えられ、理不尽な差別を受けながらも努力する彼女だったが、15歳の時、アイヌ文化の研究のために自宅を訪問した言語学者の金田一京助と出会って目覚めることになる。文字の無いアイヌでは口承(口頭伝承)によって記録されていたが、幸恵は口承で伝えられるアイヌ伝統の物語を文字として記録することを目差すようになる。金田一からは東京に出てくるよう請われていたが、心臓の悪かった彼女は北海道の自宅で祖母の語る物語(カムイユカラ)をノートに記録し続けた。アイヌ語の音(おん)はローマ字で記載し、その日本語訳を併記した。そのノートは金田一の元に送られたが、それは金田一の予想をはるかに越えた素晴らしいものであった。金田一は単行本としての出版を手配して幸恵に知らせる。

 幸恵が「アイヌ神謡集」出版の為に東京に出てきたのは、大正11年5月だった。幸恵は金田一の自宅に身を寄せて「アイヌ神謡集」の仕上げに取りかかる。心臓病と闘いながらも9月18日に最終原稿を完成させるが、なんと!完成させたその夜、幸恵は心臓発作で亡くなってしまう。享年19歳であった。

 翌大正12年、「アイヌ神謡集」(郷土研究社)が出版され、ここに初めてアイヌ文学が世に出て多くの人々の知るところとなったのである。

 ネットで検索をかけると多くの情報がある。アマゾンでも「アイヌ神謡集 (岩波文庫) 」を買える。

 ここに幸恵さんの書いた「アイヌ神謡集の序文」を紹介しよう。

 其の昔此の廣い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天眞爛漫な稚兒の樣に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと樂しく生活してゐた彼等は、眞に自然の寵兒、何と云ふ幸福な人だちであつたでせう。

 冬の陸には林野をおほふ深雪を蹴つて、天地を凍らす寒氣を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には凉風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の樣な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟かな陽の光を浴びて、永久に囀(さえ)づる小鳥と共に歌ひ暮して蕗(ふき)とり蓬(よもぎ)摘み、紅葉の秋は野分に穗揃ふすゝきをわけて、宵まで鮭とる篝(かがり)も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、圓(まど)かな月に夢を結ぶ。嗚呼何といふ樂しい生活でせう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、此の地は急速な變轉をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。

 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて野邊に山邊に嬉々として暮してゐた多くの民の行方も又何處。僅かに殘る私たち同族は、進みゆく世のさまにたゞ驚きの眼をみはるばかり。而も其の眼からは一擧一動宗教的感念に支配されてゐた昔の人の美しい魂の輝きは失はれて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おゝ亡びゆくもの……それは今の私たちの名、何といふ悲しい名前を私たちは持つてゐるのでせう。

 其の昔、幸福な私たちの先祖は、自分の此の郷土が末にかうした慘めなありさまに變らうなどとは、露ほども想像し得なかつたのでありませう。

 時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競爭場裡に敗殘の醜をさらしてゐる今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て來たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては來ませう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮(あけくれ)祈つてゐる事で御座います。

 けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互に意を通ずる爲に用ひた多くの言語、言ひ古し、殘し傳へた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまふのでせうか。おゝそれはあまりにいたましい名殘惜しい事で御座います。

 アイヌに生れアイヌ語の中に生ひたつた私は、雨の宵雪の夜、暇ある毎に打集ふて私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。

 私たちを知つて下さる多くの方に讀んでいたゞく事が出來ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。

  大正十一年三月一日

知里幸惠 

   

 なんと美しく力強い文章だろうか。。。ボクは、これを読んで一気に魅了されてしまった。

 また、最初の物語、梟の神の自ら歌った謡「銀の滴降る降るまわりに」の冒頭の文章、

 『銀の滴(しずく)降る降るまわりに、金の滴(しずく)降る降るまわりに.』
 “Shirokanipe ranran pishkan, konkanipe ranran pishkan.”

 は、イメージ溢れんばかりに大自然と関わる様子が見事に表現されていると思った。これは有名な一節だったらしいが、ボクは全然知りませんでした。。。

 19歳の女性が命を懸けて成し遂げた直後に亡くなるという話だけで、心にグッと来るものがあるが、こうした美しい文章に触れ、またその背景を知るとなんとも心が揺さぶられる思いだった。

 以上、最近知った知里幸恵さんの紹介でした。。

 さて、知里幸恵さんのことを知った過程でいろいろ思ったこと等を以下に記載する。

「以下、記載途中なり!!」

  •  「電池が切れるまで」
  •  大正11年9月といえば、私の父が生まれる一ヶ月前である。なんだか良く分からないが、なんとなくそんな時代に…との思いが発生する。東京に出てきた幸恵さんは、日記に、東京の街は慌ただしくて馴染めない、というような記載があるらしい。現在のボクらからすれば、全て止まっているような気がするのだが、時代なりに都会と田舎の違いがあるのだろうと思った。
  •  出版された翌年の12年は関東大震災の年だ。震災の時は、祖母が父を抱いていたという話を聞いたことがあるが、ボクらにはそんな昔の話のでもある。ところで、ボクの大好きな天麩羅が全国に広まったのは関東大震災が切っ掛けなのである。震災で営業ができなくなった東京の天麩羅料理人が全国に散らばったことによるそうだ。
  •  序文にあるように、幸恵さんは北海道の大自然が壊されていることを嘆いている。しかし、約80年前の話である。これも現代からすれば、はるかに自然が残されていた時代だろう。しかし、序文に記されている内容は、完全に現在でも通用する。自然環境の破壊による地球規模での被害が問題になって、初めて多くの人々が気づきだしたことが記載されている。
  •  金田一京助という名は、ボクが子供の頃の国語辞典にはどれを見ても必ず載っていた。ボクなぞは、「かねだ いっきょうのすけ」などと読んで、変な名前だなぁ〜などと思っていた。

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