「ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書」を読んだ・・・ -2007.11.01〜Up開始 数ヶ月前のことだ。『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』なる文書を偶然にも目にした。 総ページ800ページ以上の膨大な検証記録である。あぁ〜、このような検証記録ができていたのかぁ〜と思い、先ず興味をもった『第五 らい予防法の改廃が遅れた理由』という部分を読み出した。読み出すと止めることができなかった。。。そして、その他の章も読まずにはいられなかった。。。よくぞここまで調べました。あらゆる側面からハンセン病問題を検証していた。見事です。 そして、その中に書かれている驚愕の事実にはただただ驚かされるばかりでした。。。 ヒトは、ここまで残酷で無責任になれるのだという事実が示されていた。この最終報告書は万人が一度は目を通すべきだと思った。中でも、特に政治家、官僚など行政に関わる者、医者、マスコミに携わるまたは携わろうとする人は必ず読むべきだと思った。 なので、ボクは、ここにボクなりに記さねばならないと思った。 この検証会議最終報告書は、以下のページにアクセスすれば全て読むことができます。他にも厚生労働省HPの中にも報告書は載っているが、下記の日弁連法務研究財団の方が読み易い。ここには約100ページの要約版もあるから、先ずはそれから読むのもよい。そして、議事録にも新たな発見があって凄いぞ。。
とにかく読んでもらうことが一番だが、感じたこと・思ったこと ・などなど書いてみたい。あまりにも感ずるところが多くて、とても整理できてないのだが、とにかく書き出すことが重要だと思ったので、以下進めてみたい。読み直してどんどん改訂するつもりだ。 ========================================================== まず最初に記さなければいけない最重要ポイントはこれだ!!
さて、検証報告書だが、最初はちょっとさわりだけでも…と思って読みはじめただけだった。 ところがである。ちょっと…と思って読み出したが、止められません。そこには詳細で緻密な分析が見事に書かれているではないか。『第五』ということはもっとあるはずだと思って探すと、実に850ページにも上る最終報告書が公開されていた。(最初は厚生省HP内の一つのファイルを目にしただけだったので。。。) ボクは、特に、何故この現代において、あのような酷い人権侵害が何十年も継続され続けたのか?という疑問に応えてくれるのかという視点で、関連してそうな章や節から読んでいった。 報告書の全てを完全に読み込んだわけではないが、ほぼ全体を読んだ。(検証会議の議事録もそこそこ読んだ。)そこにはハンセン病問題における誤ったプロセスが見事に分析されて、詳細に記載されていた。この報告書は、ハンセン病患者に対する極めて不当な人権侵害という現実に起こった問題を検証しているものではあるが、その中からは一般論として、「人間社会において、誤ったプロセスが平然とどんどん進行していく複雑な構図」が読み取れると思った。その報告書から読み取れる「理由」なるものは、我々の社会の中で様々に形を変えて身の回りに潜んでいるとも思った。ハンセン病問題は、その具体例として最悪の一例であり、普通はそこまで酷いことにはならないだけだが、「理由」となっている一つ一つの事象は人間社会の必然として常に身近に存在しているということに我々は気付かなければいけない、とも思った。そうした意味で、もっともっと多くの人がこれを読み、何かを感じなければいけないとも思った。 【以前のボクの知識はこんなもん・・】 ちょっと整理してみよう。ハンセン病問題について、最近知ったボクの知識や認識は、なさけないけど以下のレベルだった。
だいたいそれ以前のボクは、ライ病という名は知っていたが、ハンセン病という名前になっていたことすら知らなかった。。。
ボクの知識といえば、以上、こんなもんしか無かった。。。 1990年代に入って、ニュースやTV報道などで、今はハンセン病という名称であり、また現代でも隔離政策が続いていたのだと知った。そして事実の一端を知ると、隔離政策は全く必要が無いことが科学的事実として判明していたにも拘わらず、何十年も隔離政策を継続して患者の人権を踏みにじり、療養所内では多くの犯罪(的)行為が平然と行われてきていたのだった。そして、2002年熊本地裁判決である。
当時、怒りと共にこうした疑問が当然の如く湧いてきた。。。また、熊本地裁の、国に責任があるとした判決の際に、国がその判決を率直に認めて控訴しないと判断し、被害者の方々に謝る姿が報道された時、ボクは、こうした問題で国が素直に悪かったと認めた歴史上初めてのことではないかと思った。過去のいかなる問題においても、国が過ちを「率直に」認めたことは例が無かったと思っている。日本という国(日本に限らないかもしれないが)は、実に冷たい国だとボクは常々思っている。政治家や官僚・公務員という人種は、本当に人間なのだろうか?と思うことがある。 【ハンセン病とは】 ところでハンセン病だが。。。 ハンセン病は、らい菌 (Mycobacterium leprae) が神経細胞内に寄生することによって起こる感染症である。らい菌は、抗酸菌という種類の細菌で、同じ抗酸菌には結核菌(Mycobaterium tuberculosis )がある。らい菌は寄生してホストの機能を利用しなければ増殖できないほどDNAがコンパクトになっていて、現在でもなお人口培養がだきない。結核菌もらい菌も増殖が遅いので、数ヶ月以上の長期間抗生物質の投与が必要である。感染力は極めれ弱く、ある特定の体質の人が、栄養状態の悪いときに、かつ幼児期に継続的にらい菌にさらされて、初めて感染する。また感染と発病は区別される必要があり、自然治癒することもある。 つまり、遺伝病ではなく、極めて感染しにくい感染症なのである。体が元気になれば自然治癒することもあったし、1943年には特効薬も見つかっていた病気である。 【検証会議 最終報告書を読んで・・・】 そんな記憶を頭の片隅に置いておいたものだから、検証会議の報告書には何と書いてあるのだろうと思った。850ページもの内容を簡単に示すことは無理だが、ここにボクの認識したことや強く思ったことなどを記したい。
【光田健輔なる人物】 先ず何といっても言及しなければいけないのは、「光田健輔」なる人物である。一言でいえば、この人物が諸悪の根元的最重要人物であり、いわば張本人である。もちろん、役人、政治家、他の医者、マスコミ、その他諸々の原因があるのだが、この人物が、先頭に立って、積極的かつ確信犯として強制隔離政策を推し進めたものであり、犯罪に例えるなら、犯罪集団の大ボスみたいなものだ。最終報告書には、このような単純な書き方は当然されてないが、ボクにはここまで明快に記載するのかとびっくりするほど、かなりこの人物の責任について思い切った表現されている。 光田健輔は、戦前・戦後を通じて、ハンセン病の専門医でありその道の権威であった。つまり、最もハンセン病に関する情報に精通している人物であった。その彼が、ハンセン病には特効薬もできて治る病気であり隔離は全く必要がないという科学的事実を意図的にねじ曲げて、隔離政策を提言・推進・継続させてきた人物であり、自ら隔離療養所の長島愛誠園の所長として、患者の断種、堕胎、解剖等を実施してきた人物である。この光田健輔は、なんと文化勲章(1951年、らい予防法成立2年前)までもらっており、また山口県防府市と岡山市の名誉市民になっており、銅像まであるという。。。呆れるばかりである。。。 このように記載すると、酷い書きようでかなり誇張しているのではないかと思うかもしれない。しかし、最終報告書を読んでもらいたい。これでもまだ手緩いぐらいの所行であることが分かる。 一通り読み終えて、光田健輔は何を考えていたのだろうか?と考えざるを得なかった。彼は、何を思い、何を目差し、その心の奥底には何を抱いていたのだろうか…?。 大きく分類すれば、先ずは二つの見方に分かれる。単純にいえば、「善」と「悪」である。 ■「善」的見方(ボクは、こうした見方は完璧に間違っていると思うけど・・・):
(以下、まだまだ続く・・・これまでの部分も改訂の可能性大 -2007.11.01) さて、このような解釈で納得できるであろうか。。。一部にはこのような論法で、彼の心は善良であり、患者にとって最良の道を、あえて自ら事実を曲げてでも推進した立派な人である…と見ているかのような方々もいるようだ。。。 しかし、ボクにはそうした解釈は微塵もできない。 ■「悪」的見方
1873 年、ノルウェーのアルマウェル・ハンセンが、ハンセン病の原因はライ菌による感染であることを発見した。その後、ノルウェーではハンセンが実践した「?患者の権利に配慮した緩やかな隔離政策」が進められる。一方、ハワイでは、「?強制隔離政策」が行われるのであるが、1897 年、第1 回国際らい会議(ベルリン)では、両政策の実績から、ノルウェー方式と呼ばれる限定的な隔離が、医学的に正しいハンセン病対策として承認されてる。「ノルウェー方式」は、浮浪患者は絶対隔離とするが、その他は任意で良く、近隣の病院で必要に応じて隔離するという類のものだ。 光田は、こうした事実を知っており、かつノルウェーに視察まで行っている。にもかかわらず、彼は絶対隔離政策を推し進めるのである(当初は緩やかな隔離を主張するが、ゆくゆくは絶対強制隔離が必要との論法であったようだ)。 そして、1907年(明治40年)、法律「癩予防ニ関スル件」が制定されるわけである。この法律では、全患者の強制収容は唱っていないが、退院規定もなく、生涯隔離が当然とされた。 1915年(大正4)以降、全生病院では院長となった光田健輔のもと、男性入所者への断種手術がおこなわれ、これが他の療養所へも広まっていく。さらに、患者は療養するどころか強制労働させられていた。 そして、1916年(大正5)、法律「癩予防ニ関スル件」に「療養所ノ長ハ命令ノ定ムル所ニ依リ被救護者ニ対シ必要ナル懲戒又ハ検束ヲ加フルコトヲ得」という条文を加える改正案が成立する。これにより、療養所はある種の治外法権になり、所長は絶対権力者的な権力を保証されたのである。劣悪環境から逃れようとする患者や反抗する患者には、司法手続き無しに制裁を加えることができるようになったのである。 1931年、「癩予防ニ関スル件」は大幅な改正が行われて「癩予防法」が成立した。これによって、絶対隔離の段階に到達したのである。 戦後、日本国憲法が公布されて基本的人権が保証された。そして1943年、特効薬のプロミンが開発されて、ハンセン病の治療が可能になった。しかし、光田らの強硬な主張により、絶対隔離政策を更に強力にする「らい予防法」が1953年に成立して、ここに絶対強制隔離が完成するのである。そして、この「らい予防法」は、なんと!1996年まで継続したのである。 戦前・戦後を通じて、光田健輔は、隔離政策が科学的にも事実(実績)としても不必要であることを知りながら、ひたすら隔離政策を推し進め、療養所の絶対権力者として君臨したのである。恐ろしいのは、彼は病理学者であり、数多くの人体解剖を行っていることだ。ハンセン病を科学するために行ったのではないことは、そうした解剖に関わる研究成果がほとんど学術論文になっていないことから分かる。 【小笠原登なる人物】 (1888年(明治21年)〜1970年) 京都帝国大学医学部の医者だった小笠原登は、1931年の「癩予防法」の成立後、ハンセン病患者の強制隔離・断種は不要であるとの主張を展開する。その論拠はかなり説得力のある主張であるように思える。しかし、この真実を説いた小笠原の主張は、光田ら療養所の所長らによって、1941年の学会で糾弾されて葬られるのである。 小笠原は愛知県甚目寺町の円周寺という寺の二男として生まれた。祖父は尾張藩の下級武士で、この円周寺を再興し、また寺の施設を使ってハンセン病患者の治療にあたっていたらしい。幼い頃から祖父のハンセン病治療を見てきた小笠原は、ハンセン病が、光田らが宣伝するような恐ろしい病気ではないことを体験的に知っていたのだろう。 1996年の法律改廃に向けて中心人物となったのは大谷藤郎という元厚生省官僚だが、実は、彼は小笠原登医師の弟子である。大谷藤郎氏は、京都大学医学部時代に小笠原医師に師事し、その献身的なハンセン病治療を体験し、ハンセン病の真実を知った人物である。彼は、厚生省時代はハンセン病患者の待遇改善に努めたそうだが、退職後、自分の行動は間違っていたのではないかと反省し、根本的な解決を目指すようになる。彼の努力の結果、1996年に「らい予防法」の改廃が実現するのである。 小笠原登の主張は、約60年後、弟子の大谷藤郎の手によって成し遂げられたのである。 私は、学会で糾弾された後の小笠原がどうなったのかに興味を抱いた。これは、検証記録には載っていない。その後、彼は大学で黙々と診療を続け(ハンセン病は皮膚病として)、大学を退職後は国立豊橋病院で、また晩年は鹿児島県のハンセン病療養所「奄美和光園」でハンセン病治療にあたっている。彼は1970年に亡くなっているので、誤った政策の改廃の機運すら見ることはできなかった筈である。。。 私は、こうした人物ほど世の中で評価されるべき人物であると思う。 【本質を正すことと目前の利益(改善)を目差すこと】 (以下、まだまだ続く・・・これまでの部分も改訂の可能性大 -2007.11.10)
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