その時アメリカにいた!(2002.08-09記載 2004.08.22up)
  • 2001年9月11日、あの同時多発テロの時、ボクはアメリカ・ボルチモア市にいました。ボルチモアはテロのあったニューヨークとワシントンDCの間に位置する都市である。その時日本からSBS学会に参加していた仲間とは、無事日本に帰ったらまた是非会いましょう!と言いながら、それぞれいかに帰国するかの模索をしたのだった。
  • 11日ワシントンDC着のANAに乗っていて、ワシントンのダレス国際空港に降りられずにデトロイトに行ってしまい、タクシーで12時間かけてボルチモアに来たA社のTさん、テロ後大陸横断をして西海岸から帰国したB社Sさんなどなど皆それぞれ貴重な体験を余儀なくされました。

  • 他のページに記載済みのものだが、再掲する: 『先ずは、不幸にもこのテロ行為の犠牲になられた方々に慎んで哀悼の意を表わします。私は、この行為は人類に対する挑戦であり、いかなる理由をもってしても断固として絶対に許しがたいものであると思う。』

  • 帰国後時が経ち、翌年の春に皆で集まろうという機運が高まり、SBSサバイバル会の結成に至った。18社28名である。第1回サバイバル会は2002年7月14日に行ったが、この日は台風直撃かという大雨の日で、遅くなったら帰れないかも…という日であった。さすがサバイバル会にふさわしい!。その日、皆できたら「いかにアメリカを脱出したか」などの手記を書きましょう!ということになったのでした。

  • そして、超久々だが昨日つまり8月21日(土)、第2回サバイバル会が開催されたのだった。ボクは、第1回サバイバル会の後、つまり今から約2年前で、911テロの日から約一年経った頃に手記を書いた。今回のサバイバル会で皆から集めてあった手記等を小冊子にして配布した(P社Kさん、どうもありがとう)。下記の記録はそれを少々アレンジしたものである。
    この雑雑雑記に書こうとおもいつつ筆が進まなくて過ぎてしまった「絶対忘れられない記憶」については、こうした経緯で記すこととなった。

  • 尚、今回のサバイバル会では、注文した我々専用ビールサーバーの口が閉まらなくなり、ビールが出っ放しというトラブルが発生した。このメンバーが集まると、やっぱり何かが起こる!
    (以上記載 2004.08.22)


  • その時アメリカにいた! −2001年SBS学会(Sociaty for Biomolecular Screening)にて−

  • 【9月11日】
  • この日のSBSは午後がフリータイムだったので、ちょいと出かけるなら一番良いな、と考えていた。ワシントンのスミソニアン博物館に行ったのは、もう20年以上も前で、その時はアポロ11号の宇宙船を感激して見た記憶があり、また行ってみたいなーと思っていたのだ。ホワイトハウスの部屋も当時の印象とどう変わっているだろうか、議事堂前の広場にはまだリスがいるのだろうか、などと思いつつワシントンに行ってもいいな〜などと。。。。結局、その日ワシントンに行くこともなく真面目に学会参加していたのだが、もし行っていたら帰ってこられたのだろうか?と、ほっと胸をなでおろしたものだった。

  • さて、昼にポリスがやってきて全員退去しろと、学会会場を締め出されてホテルにもどると、ロビーは人でいっぱいで、TVにはあの衝撃的な映像が映し出されていた。ほとんどの人はそう感じたと思うのだが、映画のシーンを見ているようで、あまりの凄さに逆に現実感がなかったような気がした。

  • 街のショッピングモールやレストランなどは既に完全クローズしていて、近くのタワー(これも「貿易センタービル」だった)周辺には警官がいて厳戒態勢という感じだった。たまにTVなどで戒厳令がでたなどとの海外ニュースがあるが、こんな感じなのだろうかと想像した。
    ボルチモア貿易センタービルから見た会場周辺:

    中央がHYATTで、その裏やや右に会場のコンベンションセンターがみえる。

    岸にsea busが見える。去年だったか沈没したとのニュースを見て、ボクのときじゃあなくて良かった!と思った。

    手前はレストランやみやげ屋:hottersという凄いホットパンツのファーストフードの店があったな〜

    この写真左手にある科学館では、タイタニック展をやっていた。

    この周辺一体はテロ後直ちに全てのレストランやお店が完全閉鎖になった。


  • ホテルの部屋に戻ってテレビを見ていると、いつの間にかホテルからの連絡文書がドアの隙間から入っていた。その文書には、「緊急事態で多くの従業員が学校に子供を引き取りに行ったために通常のサービスができないが了承してくれ」というような内容の記載があった。私の中では、それは非常に象徴的な出来事のひとつとして記憶に残っている。

  • 時間も時間なので(その時日本は真夜中)、とにかくメールを家族と会社に入れておくと、夜には返事がきた。とにかく無事の知らせはできたということで、あらためてメールのありがたさを実感した。

  • 【9月12日−13日】
  • SBSは翌日から再開されたのだが、当分飛行機は飛びそうもない。こりゃ、9月中はアメリカかな?などと、その時点で気持ちはいっきに切り替わっていた。ボルチモアは2回目なので概ね見てしまったし、今回も到着日に、行くべきところ(家族からの宿題)は行ってしまったし。。。かといってワシントンやニューヨークへ行くのはちょっとやばいかな??などと、すでに思いは次の構想に入っていたのですが。。。

  • 11日の晩にW社の人達とイタリアレストランで食事をした際、13日帰国予定だったHさん(第一回サバイバル会の事務局長)に、みんなで「13日は絶対駄目だよ、我々の可能性(14日帰国)はわずかに残っているけどね…」などと言っていたのですが、なんとHさんだけが予定通り(とはいえ、ばたばただったようですが)に帰国の途につくという結果になろうとは。。。あとで知ったのだが、石原慎太郎が乗っていたということで、なんだそれで無理繰り飛ばしたのか…、と少々憤りを感じたものでした。全日空も電話しまくって乗客をかき集めたようですが、ニュースで空港閉鎖と当局から報道されていたので、結局は50%程度しか埋まらなかったようです。(翌日飛ばせば満席にできたわけで、つまり石原一人と数百名の一般人を秤にかけて石原を取ったという見方もできる。こういう時に何も疑問を提示しないのもマスコミなのである。)

  • 13日夜はCt社主催(N君)の晩餐会があり、皆で食事をしたが、その時点で明日は飛ばないことが判明しており(13日に日本から飛んで来てないので、米国内に日本の飛行機がない)、明日ボルチモアに残っている人はルネッサンスホテルのロビーで昼に会いましょうと約束をした。
    9/13 N君主催の晩餐会

    レストラン
    Da Mimmo

    皿がきれいでした。

    牡蠣のオードブル

    バローロ、次に飲んだのがナパのコッポラ(ジンファンデル)。右端は私の海外必須アイテムの醤油。

    この肉はすごかった。
    残ったのでテイクアウトしたが、翌日も食べ切れなかった。

    リブステーキとニューヨークステーキ(だったかな)

  • 【9月14日】
  • 早朝、同僚のU君から「実は米国国内に一機残っているのでひょっとすると今日飛ぶかもしれない、との情報が日本から来た」とのことで、それではワシントンまで行ってみようということにした。Su社のYさん(同行することになる)とD社のIさんにその旨連絡を取って、バタバタとチェックアウトしているとC社のN君がきて、とにかくボルチモア空港へ行ってシカゴを目指してみるとのことであった。お互い元気でと、それぞれタクシーに乗り込んで、我々3人はワシントンへと向かった。手違いからロナルドレーガン空港に行ってしまい、そこでタクシーがウロウロしていたらポリスに捕まって尋問を受けたりもしたが、そこからダレス国際空港へはペンタゴンの脇の道を通った。空港についてANAのカウンターに行くと、「今日は飛ばない」とのことであった。(日本からの情報は、結局13日の石原の乗った飛行機(11日にA社のTさんが日本から乗ってきてデトロイトにおりた飛行機)と取り違えた情報だった。)カウンターの女性は、今からの予約だと23日になりますけど切り替えますか?それとも明日以降キャンセル待ちにしますか?とのこと。どっちが良さそうか?と聞いても、それは状況次第でなんともいえません。どうしますか?とくる。こちとら何の情報もないのにそりゃひでーべー、とガタガタしていると、奥から男性(ANAの川崎さん)が出てきて、「明日から毎朝キャンセル待ちを受け付けるが、早い日付の航空券を持っている人を優先して、同じ日付の中では受付順にするので、14日の航空券は貴重です。」とのこと。川崎さんの明快な説明を受けて、では明朝また来ますと十分納得したのでした。

  • その日は、Ci社のSさんが我々みんなのホテルの手配をまとめてしてくれた。Sさんありがとう。ホテルに入ってさっそくメールを見ると、Iさんからのメールがあった。お昼にルネッサンスに集まった人が少なかったこと、N君が見当たらないこと、Aさんが泊まる予定のホテルに入ってないこと(これは翌日にFさんからきいたことだったかも?Aさんはどこへ行ってしまったのだろう??)などが書いてありました。N君の消息についてはIさんに返信して、その日は周辺をふらふらすることに。。。

  • 【9月15日】
  • 早朝、空港へ向かう。既に多くの人がキャンセル待ちでいたが、我々も航空券を預けて待つことにする。
    9/15 空港の様子。けっこうごった返していた。 飛ばなかった飛行機の航空券を持っている人への空席待ちの案内
    すると、W社3人衆(Dさん、Bさん、Kさん)がニューヨークは3000人、シカゴは7000人待ちなので、予定を変えてワシントンに着たとのことであった。全日空は日本行きの切符を持っている人は皆受け入れるとのことであった。また、A社の4名(Tさん、Fさん+2名)も空港に来ていて、多くの日本からのメンバーが集まることとなった。
  • どうせ今日はダメだろうから、午後はゴルフでもやりましょうかとDさんたちと話していた(Bさんは既に靴まで買っていた)のだが、私はゴルフ予定の仲間を残してその日のフライトに乗れることになってしまった。本音を言えば、2・3日ゴルフ三昧も悪くはないな、などとも思ったわけだが、そうした夢ははかなくも消えてしまった。

  • フライトは順調で無事に日本に帰ることができました。

  • 『思ったことなどいろいろ・教訓』
    • 早く帰りたいなら、とにかく空港に行くべし。
    • 仲間の存在は大きい。
    • アメリカの対応はすばやい。
    • インターネットやメールは実に役に立つ。
    • ANAのホームページは明快で分かりやすかった。ANAの対応、特に川崎さんの対応は素晴らしく、ANAの株を上げた。
    • JALのホームページでは、JALは努力しているがどうなるか分からないというような「言い訳とあいまいな情報」でJALの体質がよく出ていた。
    • 近畿日本ツーリストは全く役に立たない。ホント全然ダメ。。。
    • 会社の対応は……。
    • ペンタゴンの発音は「ペナゴン」だった。
    • 歴史を体験した気分で、その意味では貴重な経験をした。一生忘れない出来事だろう。

  • 以上(原文記載2002年8-9月)


雑雑雑記メニューへ

タナさんをまねてちょっとスナップ - jukunight -

 サバイバル会のあとに新宿に消えたメンバーに入ってました。。。ふと、タナさんのスナップ(俺のファインダー)を思い出し、手元にあったカメラでちょっと夜をスナップを…。ちょっとドキドキ。。。なかなかうまく撮れなかったけど、中から2枚ほどちょっと紹介…。

久々に行った夜の新宿、大昔はよく行ったんだけどな〜。。

クリックで大判に。

これだけですけど、折角撮ったので。。。


雑雑雑記メニューへ