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第3回 小松寅吉・小林和平作品ツアー 6

借宿新地山入り口 白河楽翁の歌碑石柵

石柵
借宿新地山入り口を再訪しました。
石柵の中の狛犬をもう一度しっかり撮っておきたかったのと、なぜこのような不思議な石柵ができあがったのかという疑問に対するヒント──中の歌碑(上の写真では、扉とその上部の飾りの間にほんのちょっとだけ先端部分が見えている)をチェックするためです。
まずは、ここを訪れた人の半分以上は見落としているだろうと思われる、石柵内側、扉の裏側に逆立ちしている狛犬。
とくとご鑑賞ください。
  石柵の中の狛犬   
この狛犬、表にいる狛犬よりずっと個性があり、よくできた狛犬ですが、なにせ見つけにくい。
で、前回は石柵に圧倒されてちゃんとチェックしなかった、本来はこっちが主役であるはずの歌碑を見てみましょう。
狛研の山田さんに言われて初めて知ったのですが、この歌碑、明治30年5月に東京の有名石屋・井亀泉が彫っているのですね。
歌碑の裏側  井亀泉の銘

小松寅吉
井亀泉(せいきせん)とは酒井八右衛門のこと。明治30年だと、名人といわれた二代目八右衛門にあたるようです。それが明治30年にこれを彫っている
わけです。
石柵の一部分

となると、当然、それを囲む石柵は明治30年以降に造られているはずです。最初に石柵があって、後から歌碑をそこに入れるわけがないですから。
外の狛犬には明治26年という銘がありますから、寅吉はすでにこの地に明治26年に狛犬をおさめている。ところが、その後、そのクライアント(同一人物あるいはグループかは分かりませんが)は、地元福島県が誇る名工・寅吉ではなく、東京のブランド石屋に歌碑を発注した。寅吉には歌碑を囲む塀だけを発注したのでしょう。
寅吉としては当然面白くなかった。俺の腕に文句があるのか。そんなに江戸のブランド石工がいいのか。というわけで、主人公であるべき歌碑が見えなくなるくらいものすごい柵を造ってしまった。
……多分、こんな状況だったんじゃないでしょうか。
あの負けん気な顔を思い出してみれば、そういうことも十分ありえるでしょう。そうだとしたら、実に痛快なドラマですね。
明治30年代は、寅吉父子は雲照寺にこもって三十三観音プロジェクトを完成させたり、西郷神社の社殿を彫っていたり、力がピークにあったとき。それにしても、すごいエネルギーですねえ。
上の写真の「亀」は、石柵の透かし模様のひとつ。こんな細工が石柵の周囲にびっしりほどこされているのですから、仕事の細かさは鬼気迫るものがあります。
もし、中の歌碑が井亀泉のものではなかったら、寅吉はここまで燃えたかどうか……。そう思うと、やはり井亀泉ブランドは偉大なのかもしれません。
■Data:新地山入り口 松平定信の歌碑を囲む石柵(福島県白河市借宿): ο建立年月・明治30(1897)年以降。ο石工・銘はなし(寅吉工房「石福貴」総出の作品と思われる
ο撮影年月日・2004年7月24日。


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